波に乗り損ねた悪役令嬢
(しくじってるじゃございませんの初動から……)
ヴェロニカ・マッキャンバー侯爵令嬢は自室のベッドにうずくまり頭を抱えていた。
彼女は十七歳。
癖のないプラチナブロンドのストレートヘアも艶やかで言動も振る舞いも気品に溢れる、社交界デビューからその美貌を謳われる名家のご令嬢である。
十六歳の時に第一王子との婚約も整っており、これは未来の国母が約束されたいわば貴族女性として望める最高の到達点であり、幸運である。
──と本人も昨日までは思っていた。
だがハンカチに刺繍をしていた際うっかり指に針を刺してしまい、それがきっかけでヴェロニカは前世の記憶を思い出してしまったのである。
彼女は前世では日本人であり、高校二年の修学旅行で飛行機が墜落するという悲しい事故で短い生涯を閉じた人間だった。
とりたててお金持ちでもない一般家庭で、年の離れた弟が一人。
家族仲は悪くなく、アニメやゲームで一緒に盛り上がれるほど気の合う弟がいた、ごくごく平凡な一般的な高校生だった。
その頃彼女がハマっていたのは異世界に転生して美青年てんこ盛りの学園で、教師や先輩後輩同級生のイケメンたちと邪魔者をかいくぐりモテモテ逆ハーレムを楽しむ恋愛ゲームであった。
どうやら自分はそのゲームと同じ世界に転生してしまったようなのである。
百歩譲ってそれはまあいい。
一番の問題は自分がヒロインの邪魔者である王子の婚約者、悪役令嬢ヴェロニカだったことである。
ゲームでは学園の一つ上の先輩だった第一王子と課外活動を通して仲良くなるヒロインだったが、王子の幼馴染みであり婚約者だったヴェロニカの嫉妬で執拗ないじめに遭う。
そこを王子に見られて……というのが親密度上げのルートだったので、自分がヒロインでゲームしていた時は、ほれほれもっといじめてよ破滅フラグ乙、などと楽しんでいた。
その後貴族として卑劣な振る舞いの数々が露見し、王子とは婚約破棄され父親の貢献度から家名断絶こそ免れたものの国外追放を受けたご令嬢。
それがヴェロニカ、つまり彼女なのである。
(……今さら思い出させられても困りましてよ)
頭を抱えている彼女の正直は気持ちはこれなのである。
もっと幼い頃に前世の記憶が蘇っていたならば、己の身の振り方をいくらでも考えられたし、家族のために最適な方法を考える時間もあった。
国外追放なんて御免だし、愛する家族と離れるのも嫌だから、王子との婚約回避に全力を尽くしただろう。
でもあと半年後。
十八歳になったら王子との結婚式が待っているという、こんなギリギリの時期になってはどうしようもない。
「しかも……」
そう、しかもである。
ヒロインであるエルリナ・ワーズワース伯爵令嬢とはすでに『ズッ友』と言ってもいいぐらいの大親友になってしまっているのである。
落ち着いて、落ち着くのよヴェロニカ。
昨夜から大混乱のまままともに眠れなかった彼女は、体調不良だから休むという名目でメイドすらも自室に入れていなかった。
ふと鏡台に寝間着姿で乱れた髪の自身が目に映り、慌てて普段着に着替えると髪にブラシを通す。
前世がどうあれ、上流階級の貴族として生まれ育ったヴェロニカにとって、だらしない格好のままでいるのはマナー違反であり、貴族令嬢としてあるまじき行為である。
「──とは言え困りましたわね。どうしたらよろしいのかしら」
少し良くなったからとメイドに紅茶とクッキーを運ばせ下がらせると、ため息を吐いた。
日本人だった記憶が蘇ったところで彼女は貴族として生まれこの年まで生きている。
言動や振る舞いに心痛は出さず、あくまでも上品かつ首を傾げる仕草も手入れの行き届いた指先も美しい。
子供の頃にお菓子を食べまくってお肉を沢山つけておけば王子との婚約はなかったのでは。
あの学園に入学していなければ良かったのでは。
そもそも指に針を刺さなければ思い出さない記憶などなくても良かったのでは。
顔立ちが地味で目立たないものであれば何事もなかったのでは。
母親譲りの細面の美貌を手鏡で眺めてまたため息がこぼれるが、美しいと言われる顔になってしまっているものは仕方がない。
彼女は自分の顔が嫌いではなかった。
この顔で十七年生きているので愛着もある。
今になって殿下と婚約回避したいなどと申し上げればそれこそ大ごとですわ。
いったい何と説明すればいいの。
もともと家名を傷つけ婚約破棄され追放の予定だったので、早めて追放を回避したいなどと両親に言えば、国外追放はなくても生涯檻のついた病院で幽閉になってしまうであろう。
「そんな嘘までついて婚約破棄してでも添いたい相手がいるのか」
と父に疑われるかもしれないが、間違ってもそれはない。
実はアルフレッド殿下は彼女の初恋の相手でもある。
見目麗しく頭も良い。剣術もかなりの腕前だ。
他国の姫からも第一王子でなければと嘆かれるほど惚れ惚れするほどの後継者なのだが、ヴェロニカがアルフレッド殿下を好きになったのは、彼が言葉遣いも変わるほどの猫好きなことと、小春日和のようなほんわかした穏やかな性格である。
見た目こそきりっとした整った顔立ちなのに、ふにゃあっとした笑顔で、
「おやつが食べたいのかい? よしよしいい子だね」
などとご機嫌で飼い猫と戯れている姿は微笑ましく、穏やかな話し方も好ましい。
殿下の妻として彼を支えられるなら、未来の国母としての重責も全力で背負おう。
そこまで思っていた相手なので、本音を言えば婚約破棄など考えたくもない。
(けれど、家族と離れて一人きりで異国で隠れ暮らすのも恐ろしい)
恋と家族との絶縁。究極の選択である。
ヴェロニカの憂いは深まるばかりである。
──ただヴェロニカは気づいていない。
ヒロインと大親友になるまで仲良しになっていることで、すでに悪役令嬢の波に乗り損なっており、当然ながらいじめ抜くことで起きる断罪もゼロになっていることを。
何も記憶がないまま本来の穏やかで争いごとの嫌いな性格で育っているので、使用人からも周囲の友人からも絶大な人気があることを。
アルフレッド王子もそんな彼女を溺愛していることを。
先に全てを知ることが正解ではないこともままあるのである。