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次の日、わたしは少し早めに家を出た。昨日のあの出来事が、わたしを決定的に変えたことはたしかだ。これからのわたしは、きっとわたしでいられる。他人に同調し、自分を押し殺す人生はもういい。
その日、更にわたしを変える決定的な事件が起きた。
いつも早起きの水川さんが、教室に入ろうとしたわたしに詰め寄ってきた。彼女の表情から、穏やかな話題ではないことは安易に想像できる。
「昨日、笹部と一緒に帰ったって本当?」
そうか。わたしは裏切り者だ。罪人に情けをかけ、彼と仲睦まじく話していたわたしは、じゅうぶんな裏切り者ということだ。
「うん。本当」
わたしには、そう言える力がみなぎっていた。今までのわたしとは明らかに違う。本当のわたしを見つけたのだから。
そうやって高くいられるのも今のうちだった。水川さんの怒りを買ったわたしは、彼女の腕の力に言い負かされ、教室の中へ押し込まれた。机はすべて後ろにさげられ、教室の真ん中には笹部くんが腕と足を縛られていた。
他のクラスの目を気にしたのか、彼らは教室のカーテンを閉めだした。橋田が来る前だったので、担任が逃げ出した4組には教師がいなかった。まさに無法地帯なのだ。
わたしは水川さんにしっかりと腕を掴まれ、身動きが取りづらい状態のまま、笹部くんに近付けられた。
「笹部が佳織を殺した犯人だってことは知ってるよね?」
「うん。でも、そんなのどこに証拠があるの? たしか、水川さんが勝手に言いだしたことだよね?」
笹部くんはぐったりとした表情で、わたしを見つめていた。彼をよく見ると、ぐっしょり濡れて、顔には血が滲んでいた。そのぐったりとした表情を見る限り、わたしが来る前に何度か暴行を受けていたのだろう。彼がびしょびしょなのは、おそらく教室に飾られた花瓶の水をかけられたからだろう。その証拠に、花が乱雑に散らばっている。
朝から元気な連中だ。笹部くんもきっと、わたしと同じようなことを思っているだろう。
水川さんは真っ赤になって、わたしに詰め寄った。ご機嫌伺いが特技のわたしが、こうやって女子のリーダーである自分に盾突いているのが気に食わないらしい。
「片桐さん、自分が何言ってるか分かってる?」
「うん、分かってる。佳織のお母さんがこのクラスに来た日からだよね? 水川さんがジャンヌダルクみたいに旗を掲げて、いじめやすい笹部くんをいじめ始めたのって」
わたしは水川さんに押し倒され、横たわっている笹部くんの隣に追いやられた。昨日までのわたしなら、今こうなっている状態など、到底理解できないと思った。周りを見渡すと、クラスメイト全員がわたしと笹部くんを取り囲み、一点にわたしたちを見つめていた。彼らはまるでショーでも見ているかのようで、その瞳からは好奇や同情にも似た光が放たれている。
このショーを仕掛けたのは、水川さんともう一人。心から楽しそうに笑っている男子。ダンス委員の中心的人物の金村くんだ。2人が仕掛けた「制裁」という名のショー。わたしと笹部くんが、こうして主人公になっている。
「片桐、どうしちゃったの? いつもならこっち側で黙ってるだけなのにさ」
金村くんは嫌な声で笑う。彼も水川さんと同じく、明るく活発な男子だ。クラスのムードメーカーというか、とにかく彼が話すことは必ず盛り上がる。そんな2人が、このショーを仕掛けているというのだからお笑いだ。彼らもきっと、今までかぶり続けてきた仮面を取ったにすぎない。クラスのみんなだってそうだ。こんなこと、今まで経験したことがないはずだろう。誰かを徹底的に糾弾し、自分を優位にすることができる。楽しいと感じて当たり前なのかもしれない。本当に楽しそうだ。
そう、彼らは誰かをいじめずにはいられないのだ。
「片桐さん、最後のチャンスをあげる」
水川さんはそう言って、無理やりわたしを立ち上がらせた。さっきから可愛らしい顔をして、なかなかの怪力だ。水川さんはわたしの顔を覗き込んで、ある物をわたしに差し出した。コックローチスプレーだ。
「あいつはゴキブリ。このクラスの害虫よ。ほら、退治して」
彼女の目は本気だった。その隣にいる金村くんは、それを面白がるように笑っている。両手足を縛られている笹部くんは、何も言わずにわたしを見つめていた。乞いもせず、わたしに助けを求めるわけでもない。いや、わたしじゃなくて、誰にも助けを求めていないのだ。彼はずっと一人だったのだから。
ショーに興奮した普段は臆病な男子が、気を大きくなったらしく、笹部くんを無作為に攻撃し始める。何も言わない笹部くんをひたすら殴り、蹴り、踏みつける。か細い彼のうめき声が、わたしの頭の中でぐるぐる回った。彼は誰にも助けを求めず、ただひたすらに殴られ、蹴られ、踏みつけられている。たとえ、春本佳織を殺した犯人が彼だとしても、あまりに残酷な仕打ちだ。
「この顔がムカつくんだよ」
金村くんに耳打ちをされた生徒は、カッターナイフを取り出して、口から血を流している笹部くんに近づいた。チチチ、チチチ……。カッターナイフの刃をスライドさせる音が、不気味に静まり返った教室に響く。その生徒は、カッターナイフを笹部くんの顔に弱く押し付けた。
あなたが彼の顔をムカつくと思うのは、きっとあなたが貧相な顔をしているから。笹部くんのきれいな顔を傷つけたくなるのは、あなたの顔が汚いニキビでいっぱいだから。
笹部くんは恐怖におののくこともせず、黙ってその生徒のカッターナイフを受け入れていた。まるで感情がないように、虚ろなまなざしをわたしに向けている。
「なんだ、こいつ……ずっと、片桐のこと見てるよ」
「ホントだ。デキてんじゃないの」
彼の頬からうっすらと、鮮血が流れ出した。彼はやはり何も言わず、うっすらとわたしを見つめている。とっくに、彼の体力は限界なのだろう。意識が朦朧としているのが目に見えた。
「ほら、やるの? やらないの?」
水川さんはコックローチスプレーをわたしに握らせ、抜け殻のような笹部くんを指差した。
「やらなかったら、あなたも共犯だからね」
わたしはまだ、どこかでためらっていた。今ここで、笹部くんにスプレーをかけたら、わたしはまた平凡な毎日に戻ることができるだろう。しかし、わたし自身がそれを望んでいるわけではない。やっと、わたしは変われると思っていた。
共犯……。彼と一緒なら、それも悪くない。
「あは……っはははは。あはははっ……共犯か…」
わたしが大声で笑うと、あれほど賑やかだった教室が、一瞬のうちに静まり返った。
「それも悪くないかも……」
わたしは右手に持っていたコックローチスプレーを水川さんに向けると、ためらいもなくそれを彼女のきれいな顔に噴射した。
「きゃあーっ!!」
彼女の陰惨な悲鳴が教室にこだました。抜け殻のような笹部くんも、わたしの行動に驚愕したらしく、目を大きくしてわたしを見つめていた。
スプレーが目に入ったのか、水川さんは目を押さえてのたうちまわっている。
チャイムが鳴った。惨たらしいショーに終わりを告げる鐘だ。
みんなは目を押さえて痛がっている水川さんを放ったまま、金村くんの指示通り、後ろに下げていた机を前に送り始めた。わたしは邪魔だからといって教室の端に追いやられた笹部くんのもとへ走っていき、彼の両手足を縛っていたロープをほどいてやった。
笹部くんはふらふらしながら立ち上がり、わたしが支えてあげると、小さく笑ってつぶやいた。
「どうすんの? あれ……」
彼が見ているのは、目を真っ赤にしてわたしを睨んでいる水川さんだった。
「さあ? 分からない」