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 放課後、わたしはいつものように、静かに教室を出て行った。廊下ではすでにクラスの枠から外れ、みんなはそれぞれクラブの群れを作っていた。クラブに入っていない人たちもそれぞれ集まって、一緒に帰る準備を始めている。そんな中、帰宅部のわたしは、さっさと1階の昇降口へ足を向かわせていた。わたしはこんなときに、自分には本当の友達と呼べる存在がいないということを思い知らされる。毎日をご機嫌伺いに費やし、誰にでもいい顔をしてきたのだから当然かもしれない。

 通学シューズであるローファーに履きかえたとき、となりでも同じように靴を履きかえている音が聞こえた。笹部くんはひどく落書きされたローファーを持って、彼を見つめたまま固まっているわたしに気づいて顔をあげた。わたしは我に返り、慌てて目をそらした。すると、笹部くんはきれいに整った顔をわたしに近づけて、小さく笑って言った。

「オレ、人殺しだと思う?」

 わたしはドキッとしながら、全力で首を横に振ったが、そんなことよりも自分の顔が赤くなっていないかどうか心配だった。すると、笹部くんはクスクスと無邪気に笑った。彼のこんな顔を初めて見た気がした。

「何がおかしいの?」

「いつもの片桐なら、すぐに頷くと思った。けど、そんなに一生懸命否定したから……なんかおかしくって」

「いくらわたしでも、すぐにあんなこと信じられないよ。笹部くんが、佳織を殺しただなんて」

 笹部くんは手に持っていたローファーを地面に置いて、わたしの手をそっと握った。わたしの心拍数は最大だ。

「ありがとう。オレのこと、信じてくれるんだ」

 彼の笑顔はとても愛らしくて、わたしを一瞬のうちに温かな気持ちにしてくれた。やはりわたしには、彼を制裁し、傷つけることなどできない。しかし、わたしはこのとき初めて、笹部くんを糾弾した水川さんに感謝をした。こうして、笹部くんと話すことができたからだ。


 笹部くんの歩くスピードはとても速くて、わたしはついていくのに必死だった。すると、彼はわたしの息があがっていることに気がついて、歩くスピードを遅くした。

「ごめん、速かった?」

「うん。笹部くん、歩くの速いよ……疲れちゃった」

 わたしは、こうして笹部くんと歩いていることが夢のようで、少しだけ彼に甘えてみた。べつに疲れていたわけではない。疲れたふりだ。こうした小芝居は、わけのわからない劇団のレッスンを受けていたから得意だった。

「オレの部屋でちょっと休む? ここからすぐなんだけど」

「部屋? 笹部くんの家ってこと?」

 彼は首を横に振り、少し表情を曇らせた。

「違う。オレだけの部屋だよ。誰も来ない」

 よく意味が分からなかったけど、わたしはせっかくだから彼のことを知りたいと思って、ついていくことにした。少しでも笹部くんのことを知りたかったし、少しでも多く、彼と一緒にいたかった。家に帰っても軽蔑している両親に挟まれるだけだし、どうせならこうやって笹部くんと一緒にいたい。手を握られたのなんて、幼稚園の遠足以来かもしれない。ドキドキしている自分が、なんだか恥ずかしかった。

 笹部くんの部屋は大きなマンションの一室で、一人で使うにはあまりにも大きすぎる部屋だった。彼の家庭事情をいろいろ探索するつもりはないが、わたしの家庭よりも複雑な事情を抱えているということは安易に理解できた。笹部くんは頑丈そうな部屋の扉を開き、わたしを部屋の中に招き入れてくれた。

 わたしが中に入ることをためらっていると、笹部くんは不思議そうな顔をして首をかしげた。

「どうしたの? 親なんていないから大丈夫だって」

「わたしが入っていいの?」

「何言ってんだよ。片桐ともっと話したかったから、こうやってオレの部屋に誘ったんだけど……嫌だった?」

「違うの。どうして、わたしなのかなって思って……」

 すると、笹部くんはうっすらと笑った。

「片桐が何考えてるのか、知りたくなったんだ」

 笹部くんがわたしに興味を持った。そんなことがあり得るのだろうか。わたしが思うに、彼がもっとも嫌いとする人間がわたしだった。誰にでもいい顔をして、誰にも嫌われたくない。わたしのように脆弱で卑怯な人間、彼が興味を持つはずもない。そう思っていた。

 けど、今目の前にいる彼は、たしかにわたしに興味を持っているように見えた。

「わたしを……知りたい?」

 そんなことをまさか、笹部くんから言われるなんて。

 今日はどうかしてる。


 笹部くんの部屋は、驚くほど何もなかった。テレビすらなくて、あるのはパソコンとオーディオコンポだけ。もちろん、来客用のソファや、豪華なテーブルなどもない。物が無さすぎて、逆に足の踏み場に困る部屋だった。

 笹部くんはオーディオコンポの電源を入れて、再生ボタンを押した。彼が普段、どんな曲を聞くのか想像もつかなかった。スピーカーから流れてきたのは、静かなヴァイオリンの音。何かのクラシック音楽だ。音楽の成績が2のわたしには、まったく分からないことだった。

「片桐はクラシックとか聞かないよな?」

 わたしの考えていることがすべて見透かされているような気がして、少し怖くなった。笹部くんには、わたしのすべてが見えているのか。いや、見えていないからこうして一緒の空間を共有しているのだ。

「わたし、そういうのには疎いんだ」

「オレも、べつに好きってわけじゃないんだ。この曲、母親がずっと聞いてた曲だから、なんか耳につくっていうか……」

 モーリス・ラヴェル作曲、マ・メール・ロワ第五楽章「妖精の園」という曲。笹部くんが何も分からないわたしに教えてくれた。眠れる森の美女をモチーフにした曲で、美女が目を覚ます場面を表現しているらしい。

「母親に読んでもらった絵本で一番覚えてる。王子にキスされた美女が、100年の眠りの魔法から覚める。子どものころから変な話だなあって、ずっと思ってた」

「変な話?」

「そう。だって、その前後の話を知らない美女からしたら、目覚めたらいきなり王子にキスされてるって状況だよ。いくら王子がイケメンだったとしても、叫び声の一つや二つ上げたくなると思わない?」

 もともと変な人だと思っていたけど、笹部くんはわたしが思っている以上に掴みどころがなく、そんな奇妙な魅力にわたしは惹かれていることに気がつかなかった。

「たしかに……言われてみたらそうかも」

 誰も思いもしないようなことを、彼は当然のように思いつくらしい。やっぱり、この人はわたしとは違う。彼はきっと、選ばれた人間なのだ。だから、凡人のわたしたちと群れることを嫌い、いつもひとりで考え事をしているのだ。

「だいたい、絵本では王子がイケメンだってことも書かれてなかった。美女が好きになったのが王子で、勝手にイケメンだって想像してるだけ。もし、美女の趣味が悪くて、王子がとんでもなく醜かったら、この話はロマンチックのかけらもない、ただの変態の話だよ」

 この人、すごい。笹部くんの考えていることがおもしろくて、わたしは思わず笑ってしまった。

「え? オレ、なんか変なこと言った?」

 わたしは笑いながら、真剣な目をしている彼に返事を送る。

「違うの。笹部くんの考えてることがおもしろくて……すごいね、笹部くん」

 そう言ったわたしも、彼と同じようなことを考えたことはあった。周りの女の子が泣けるといって貸してくれた映画を見ても、主人公が美男美女だから感動できるだけ、と余計な冷めた感覚が邪魔をして、映画に感動することができなかった。結局、美しい話には、美しい役者が必要なのである。わたしのように平凡で、とくに美人でもない女は、そういった美しい物語に参加することはできず、ましてや主人公になどなれるわけがないのだ。

「美しい物語には、美しい役者が必要なんだ」

 彼の言葉に、わたしはドキッとした。わたしが笹部くんと同じことを考えていたのだ。なんだか少し、彼と近付けたような気がした。

「わたしも、そう思う」

「よかった、分かってくれて」

 分かってくれて……そう言った彼を、わたしは不思議に思った。あなたは違う。わたしとは違う。わたしと違って、あなたはきれいな顔をしているから。あなたが美男でも、わたしは美女ではない。だから、わたしとあなたの間では美しい物語は生まれない。わたしが主人公だなんて、おこがましい。

「わたしは……絵本が嫌い。『眠れる森の美女』も、『シンデレラも』も、『白雪姫』も嫌い。あんなのに憧れても、きっと後悔するだけだもん。主人公になれないわたしが、バカみたいな夢を見るだけなの」

 今日初めて話したのに、笹部くんには何でも言えそうな気がした。わたしの心の中の膿を、あますことなくさらけ出せるような、そんな気分だ。

「だって、わたしには……わたしがいないから」

「片桐……?」

 笹部くんは心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。わたしは自分の顔を見られたくなくて、彼から顔を反らせた。

「いつも、みんなの話を聞くだけ。わたしから話すことなんてなかった。お昼休みも、10分休みも、みんなの輪の中で笑ってあいづちを打ってるだけなの。わたしは、誰とも話せてなかった。みんなに嫌われたくないし、わたしには何の才能もないから、下手に出しゃばらないで静かにいようって、そう決めてるの。水川さんの言うとおり、わたしはいつも、誰かのご機嫌伺いに必死。あんな母親だけど、母親に似ればもうちょっとだけ自分に自信が持てたんだろうけど、それも無理」

 一番聞かれたくないことを、一番聞かれたくない相手に言ってしまっている自分がとても滑稽だった。あれだけ憧れて、いつも見つめているだけだった笹部くん。わたしの本音を聞いて、どう考えているのだろう。彼は本当に無表情で、黙ってわたしのことを見つめている。くっきりとした二重まぶたの瞳。それが放つ光がわたしを映し出して、彼はわたしをどう思っているのか、まったく想像もできなかった。

「こんなこと言うの初めてだし、もし笹部くんがわたしのこと嫌いになったらって思うと……たまらなく恐い」

 ふと、今までの短い人生がよみがえり、頭の中を凱旋した。他人と同調して、自ら自分を殺してきた今までの人生。悲しくとも何ともないのに、目から涙がこぼれ落ちた。

「あれ? なんで……? やだ、ごめんね」

 その瞬間、わたしは何かの物語の主人公になれた気がした。

 笹部くんは黙ったまま、わたしの肩を掴み、力強く抱きしめてくれたのだ。そして、有無を言わせず、わたしにキスをした。

 何が起こったのか分からない。今、必死にそのときの状況を思い出し、こうやって文章にしようとしているのだが、その情景は霧がかかったかのように鮮明にならない。

「思ったとおり。その話聞いて、オレ、片桐のこと好きになった」

 小さい頃、一度だけこんな夢を見た。その夜は母が『シンデレラ』を読んでくれて、物語がそのまま、わたしを主人公にして夢に現れたのだ。真っ白なドレスにガラスの靴。鏡を見ると、わたしの嫌いだったそばかすがきれいに無くなっていて、透き通るような白い肌で、わたしじゃないみたいに美しかった。そして、王子様。王子様は今までに見たことがないくらいカッコよくて、美しくなったわたしと一緒にワルツのリズムで踊ってくれた。最後は、みんなが幸せそうな顔で、わたしと王子様の結婚を祝福してくれる。

 夢。そう、ただの夢だ。

 その夢には程遠いかもしれないが、わたしが主人公になれた。彼に抱きしめられ、キスされたそのとき、わたしはそう感じた。

 わたしを主人公にした物語が始まる。わたしがわたしを取り戻した、その瞬間に。

 美しい物語? まさか。恐ろしい物語の始まりだ。



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