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そろそろ、わたしと母の自己紹介は終わりにして、本題に入りたいと思う。
あの事件から、もうすぐで3週間になるだろうか。この3週間はいろいろな意味で、とても速く感じられた。事件当日が、昨日のことのように回想される。あの日からわたしは、大きな嘘をついたまま、こうしてのうのうとした顔で生きてきたのだ。
まったくお腹が大きくないのに、産休と言って学校から逃げ出した担任教師がいなくなってから数日後、2年4組に激震が走った。事件のあとから騒々しい雰囲気が続いていたが、その日は何かが違っていて、わたしたちもそれを敏感に感じ取っていた。
春本佳織の母親が、学校に乗りこんできたのだ。彼女は真実を知りたいと言い張り、先生たちを無視して学校に乗りこんできた。しかし、彼女が被害者と言う立場上、先生たちも邪険に扱えず、彼女を学校に招き入れてしまったのだ。それは、学校管理の責任に負い目を感じていたからかもしれない。
佳織の母親は強引ではあったが、ひどく落ちいついていたらしい。叫びだしたり、いきなりヒステリックな声をあげたりすることもなかったらしい。その精神の落ち着きが、逆に不気味だったそうだが。
彼女はすでに、真実を知っていた。わたしはそう、確信している。そうでなければ、クラス全員に向かってあのようなことを言うはずがない。
「このクラスの中に、殺人犯がいます。わたしの娘を殺した殺人犯です。さあ、みなさん。犯人捜しを始めましょう」
佳織の母親は、この言葉に渾身の憎悪をこめたに違いない。この言葉は、彼女が仕掛けた復讐の始まりだ。
こうして、わたしのクラスで犯人捜しが始まった。春本佳織を殺した犯人を捜し出し、彼女の母親のためにわたしたちが制裁を下す。そう言ったのは、4組のクラス会長である水川さんだった。
彼女が犯人と決めたのは、わたしが淡い恋心を抱いている、笹部くん。
わたしの平凡な毎日は、こうして音を立てて崩れていく。
ある日、連絡網の中心となっている水川さんからメールが来た。彼女はクラスメイト全員に一斉送信していたようだ。
『犯人分かった!! 春本佳織を殺したのは笹部だ!!』
どうして彼女が、笹部くんを犯人として糾弾したのかは分からない。絵文字だらけのメールの文面からは、彼女の真意がまるで読み取れなかった。もともと、わたしと水川さんにはそれほど接点はなかったのだが、彼女の噂はよく耳にしていた。成績は常にトップ。クラス会長だし、明るくて活発。いつもみんなの中心にいる、わたしとは正反対の存在。したがって、わたしと彼女が交わることなどあり得なかった。
しかし、わたしは水川さんのことが分かるような気がしたのだ。いつもみんなの中心で、スポットライトは自分が占領していたい。会話の中心にいなければ気が済まず、プライドもやけに高い。まるで、わたしの母親を鏡に映したような存在だ。
だからわたしは、水川さんが好きじゃなかった。おそらく、母がそうであるように、彼女もわたしのことをよく思っていなかっただろう。すべて均等に気を遣い、嫌われまいと必死になっている自分が、急にバカらしくなってきた。リーダー格の女の子に嫌われれば、それはもう終わりだ。わたしはそんな不安定なことにこだわり続け、今でもその思いに縛られている。
明日からはきっと、水川さんを中心にしてクラスが動き始めるのだろう。笹部くんを糾弾するという、そんな恐ろしいゲームだ。わたしはいつものように、そんな中で自我を押し殺し、同調するという道を選ぶのか。わたしは、恋焦がれているあの人を、みんなと一緒になって糾弾するのか。笹部くんがわたしのことを何とも思っていないということは分かっている。彼はクラスの誰とも群れることなく、いつもひとりでいるのだから。そもそも人間に興味がないのかもしれない。笹部くんと付き合えたり、キスしたり、手を繋ぐなんてことはわたしの中の妄想にすぎない。もしかしたら、わたしは笹部くんの一匹狼な態度に憧れていたのかもしれない。誰かがいなければ不安で、誰にも嫌われたくなくて、そのために地味に生きていく。そんなわたしの生き方に嫌気が差していたから、わたしと正反対を貫き通している彼に惹かれたのかもしれない。
わたしには、やっぱりできない。
教室に入ると、真っ先に黒板に目がいった。
『殺人犯、笹部龍!!!』
そうやって大きく殴り書きされ、笹部くんへの制裁の準備はとっくに整っているらしい。彼の机は派手に散らかされ、机の中に入れていた教科書には黒板と同じようなことが書かれていた。
水川さんは満足そうに笑って、笹部くんの登校を心待ちにしているようだ。彼女だけじゃない、わたし以外の全員がそんな風に見えて仕方なかった。わたしの体は、みんなと同調しようとしている。みんなの色に染まり、一緒になって笹部くんに制裁を与えようとしているのだ。けど、心がそれに追いつかない。わたしにはどうしても、みんなのように彼を傷つけることができない。体と心がバラバラになる、そんなかんじだった。
「片桐さん、聞いてる?」
わたしの名前を呼んだのは、水川さんだった。ひとりだけ上の空だったわたしを、みんなが不審な目で見つめていた。
「どうしたの? もしかして、ためらってる?」
ためらうって……笹部くんをいじめること?
制裁という行為にためらいを感じないこの人とは、わたしは一生分かり合えない、そう思った。彼女はまったくとして、当事者としての意識がない。ジャンヌダルクにでもなったように、笹部くんを晒し者にして糾弾するのだ。そうやって、自分を常に中心にしておきたい。わたしは母親を見ているようで、気持ち悪くなってきた。
「べ……べつに」
「そっか、それならいいいの。ただ、いつものご機嫌伺いがないなあって思っただけだから」
ご機嫌伺い。水川さんらしい、ストレートな発言だった。彼女からすれば、わたしのやっていることなど、ただのご機嫌伺いだろう。だからって、彼女にわたしの何が分かるっていうのか。PTA会長のお母さんから惜しげもない愛情を与えられて、成績も優秀で友達も豊富。そんなあなたは、わたしとは違う。わたしみたいに、必死になってご機嫌伺いをする気持ちなんて、あなたには一生わからない。わたしとあなたは、生まれた環境から本質そのものまでまったく違うの。何がご機嫌伺いよ。頭がよくて、少し美人だからって、なにいい気になってんのよ。
そんなとき、わたしの目の前にあった教室の扉が開いた。8時15分に教室に入るわたしから遅れを取って8時20分。笹部くんはいつも通りの時間に教室へ入った。水川さんを中心にするみんなは、クスクスと笑いながら笹部くんの表情をうかがっている。しかし、笹部くんは黒板の殴り書きに気付いていないのか、いつもと変わらずに無愛想な表情で散らかった自分の席に座る。なんの反応を見せない彼に、水川さんは少し驚いたような顔をして拍子抜けしていた。
笹部くんはめちゃめちゃにされた教科書や机の落書きを見ても、何も反応を示さない。
「なによ、あいつ」
そんな彼を見つめて、水川さんは不気味そうにつぶやいた。わたしはまた、笹部くんに惹かれていた。制裁を受けていることにすら、何も興味を示さない。彼は、わたしには持っていない何かを持っている。