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園田先生はぼくを見つめて、奥の方の座席を指差した。
「あそこが、春本佳織の席でした。今でも残してあります」
「出席簿にも名前があって、驚きました」
「誰も忘れてなんかいません。生徒はこの教室に入り、あの席を見るたびに思い出します。春本佳織は殺された…と」
ぼくは春本佳織のことを触れないでいようとしていた。それはどこかで、大澤と彼女をだぶらせていたからかもしれない。中学2年生という時期で同級生の死を体験した彼らも、この先なるべく事件に触れずにいようと考えるのだろう。
「春本佳織は、たしかにあまり目立たない生徒でした。1年生のころまでは普通の女の子でしたが、変わったのは2年生に入ってからです。授業での発言も少なくなり、友達も少なくなったようです。何があったのかは知りませんが」
春本佳織はやはり、大澤に似ている。そんな気がしていたから、ぼくは彼女の事件を知ろうとは思わなかった。彼女は大澤の亡霊なのか。中学2年生だったあのころから、大澤はぼくに復讐しようとしているのだろうか。
「橋田先生、あなたに聞いておきたいことがあります」
園田先生ははっきりとした口調でそう言った。最初から、これが言いたかったことのようだ。園田先生は古びた新聞記事をぼくに見せつけた。
「11年前、某有名私立中学校でおきた男子生徒のイジメ自殺事件」
ぼくは愕然とした。その新聞記事は、ちょうど11年前、ぼくの通う中学校に激震が走ったころだった。
「どうして……それを?」
「失礼かもしれませんが、調べさせてもらいました。イジメが原因で自殺したこの大澤という生徒は、あなたのクラスメイトだったそうじゃありませんか」
「園田先生……知っていたんですか?」
園田先生は頷き、新聞記事をしまいこんだ。
「春本佳織が殺され、2年4組の前担任は逃げるように退職しました。公式では産休ということになっていますが、あんなのはウソです。後任の先生を採用する際に、わたしはあなたの過去を知り、校長先生を説得して2年4組の担任に抜擢しました」
「どうしてですか? ぼくは、11年前の事件の当事者で、そもそも教師になるべき人間じゃない」
「あなたにしかできないことです。気づきませんでした? このクラスはすごく普通です。あなたの経験が生かされる場所じゃないですか」
園田先生は皮肉っぽく笑い、それだけを言い残して去って行った。
すごく普通……なんて皮肉な言葉なのだろうと思った。
その夜、ぼくは学校においているパソコンを自宅へ持って帰った。その中には2年4組の生徒の顔と名前がすべて記録されている。ぼくは風呂に入ったあと、昔はこうやって小テスト勉強をしたものだと回想しながら、生徒の顔と名前を覚える勉強を始めた。こうして夜中に勉強をしていると、母がいつも夜食を持ってきてくれたことを思い出す。
事件から数か月後、母は首を吊った。ぼくは学校から帰宅し、第一発見者となった。リビングで父の使っているネクタイで、誰の手を借りることもなく自らの命を絶った。ドラマなどでよくある首つり自殺の死体とはまるで違い、母の死体はとても汚いものだった。口や鼻から液体が出ていて、目はむき出しで飛び出しかけている。汚いものも垂れ流しになっていて、これが人の死ぬ瞬間なのだと、ぼくは気持ち悪くなりトイレの中で吐いた。もともと美人だった彼女も、自分の最期がこのような醜い姿になっているとは想像もしなかったはずだ。美しく、冷たく死にたかったのだろうに、首つり自殺という手法を選んだところが、母の滑稽さをよく表しているような気がした。
ぼくは母の死体を見て、安心した。
事件後、母は外出ができないくらいに追い詰められていた。ぼくのしていたことを知り、精神が崩壊していたそうだ。父は相変わらず学校に出かけ、教鞭を取っていたらしい。事件の報道は実名が載らないせいで、普通に仕事を続けられたという。ぼくの学校も事件を大っぴらにしたくなかったから、イジメ加害者側の処分もとても軽いものだった。
ぼくはこうした事件のあと、いつものように母がぼくを守り、なぐさめてくれるのだろうと思っていた。しかし、それは大きな間違いだった。ぼくの過ちを知った母は、ぼくを恐怖で満ちた目で見つめ、事件前の母とはまるで別人になっていた。
ぼくは自分が母をどう思っていたのか、分からなくなった。憎く感じていたのか。いや、それは違う。ぼくは母のことが好きだったのだ。しかし、彼女の愛情にも似つかない執着が大きすぎて、どうすればいいのか分からなかったのだ。ぼくは自分が母のことを好きだったことを、彼女に突き放されてから初めて思い知った。
もう一度、愛してほしい。執着であってもいい。ぼくはその一心で、彼女がぼくを愛する方法を考えた。
そしてぼくは、ある行動に出たのだ。ぼくは自分の母親がどういう人間なのかを、マスコミにあてて匿名で告発した。とんでもなく息子を溺愛していて、異常な母親なのだと。その後、母の精神はさらに壊れた。
おそらくぼくの行動が、母を死に追いやった原因なのだろう。母の固まった姿を見て、はじめて母がぼくだけのものになったような気がした。それに安堵感を覚えたぼくは、しばらく警察に通報せず、宙に浮く彼女を眺め続けていた。
ぼくは2年4組の教室の前で、息を整えた。大丈夫、昨日の勉強の成果が表れるはずだ。だいたい、生徒の顔と名前は一致するようになった。
教室に入ると、委員長の女の子が号令をかけた。水川理恵。成績優秀で友達も多い。来年度の生徒会長の候補に名前が挙がっているらしい。
「おはようございます。座ってください」
素直に起立、礼をする生徒。やはり、普通のクラスだ。
「今日は1時間目から、文化祭の出し物についての話し合いになっています。このクラスは創作ダンスなんだよね?」
「そうだけど……もうほとんど決まってるし、今さら話し合うこともないよな?」
みんなに同意を要求したのは金村春人。彼は創作ダンスの中心となっている生徒だ。水川と同様に活発で、行事では積極的にクラスを引っ張る存在だ。
「そうか……それじゃあ、どうしようか?」
「ダンスの練習でいいんじゃない? ちょっとうるさくなるから、他のクラスには迷惑かもしれないけど」
「準備は揃ってる?」
「うん、完璧。オレがリーダーだから」
金村の発言でクラスが沸く。ひょうきんでお調子者。彼なら、ぼくが心配するまでもなく、このクラスは文化祭を乗り切れるだろう。
「それじゃあ、1時間目はダンスの練習でいいね。ぼくも、ちょっと見せてもらいたいし」
チャイムが鳴ると、金村を中心にして行動が始まった。教室の机をすべて後ろに下げ、クラスメイト全員がダンスの体勢に並ぶ。
「それじゃあ、先生もいるから、一回通しでやってみよう」
金村の掛け声と同時に、大きな返事が返ってくる。金村はラジカセをセットして、ぼくに音楽をかけてくれと頼んだ。
「それじゃあ始めるよ」
ぼくは彼らにそう言うと、ラジカセの再生ボタンを押した。マイケルジャクソンの「スリラー」だった。
音楽が始まると同時に、教室の空気が少し緊張した。36人がいっせいにリズムよく動きだし、波のように押しては返す。ウエストサイド物語のように脚を大きく上げたり、肩をリズムに乗せてゆすったり、創作ダンスにしてはかなり完成度が高いし、限りなく原本のダンスに近い。「スリラー」のポロモーションビデオが思い出された。
曲が終わり、リズムがやんだ。ほぼ間違いもなく、完璧だった。しかし、彼らは不服なのか、それぞれに曖昧な表情を浮かべていた。ぼくは感動し、立ち上がって拍手を送った。
「すごい、すごいよ、みんな!! 自分たちで作ったんだよね?」
金村は息を荒げながら、小さく笑った。
「うん。すごいでしょ?」
「本当に金村のおかげだ。よく頑張ってるよ」
すると、彼は意外そうな表情を浮かべた。金村だけじゃなく、よく見れば生徒たち全員、同じような表情を浮かべていた。
「どうしたの? 先生、何か悪いこと言ったかな?」
探り探り尋ねてみると、金村は大きく首を振った。
「違う……驚いただけ。先生、もうオレたちの顔と名前を覚えてるんだ」
「え……?」
「すごいよ!! まだ2日目なのに、先生すごいよ!!」
意外な答えで嬉しかった。小テスト10点満点を取ったような、そんな気分だ。ぼくは気分が高揚し、気がつけば彼らの中央にいた。
「きみたちのダンス、本当に感動したよ。これだけできてたら、きっと文化祭もうまくいく。油断しないように、これからも練習がんばろう!!」
生徒たちは拍手でぼくを歓迎する。それもまた、気分がいい。
「ぼくは、きみたちを応援したいと思う。何かあったら、何でもぼくに話してほしい。ぼくを37人目のクラスメイトだと思って、きみたちと一緒にがんばります!!」
彼らの気分も最高潮のようだ。ぼくへの歓迎は盛大だった。
イエーイ、と大きな声で騒いだり、大きな拍手を送ったりする。彼らの輪の中心にいると、何でもできるような気がした。
「先生サイコー!!」
気分が高まっているぼくは、彼らの異常な歓迎を快く受け入れていた。
生徒の中に、ブレザーの制服とは明らかに違う、詰襟の真っ黒な制服が浮かび上がってきた。ぼくの通っていた中学校の制服だ。ぼくはその姿を見た瞬間、高揚していた体が一瞬にして凍りついた。
大澤だ。
大澤は生徒に囲まれたぼくをじっと見つめて、何かを呟いている。
ぼくを追い回す亡霊は、ぼくに何を伝えようとしているのか。彼の言いたいこととは何だ。
大澤が死んだあと、かつてのぼくらのクラスは36人になった。ちょうど、春本佳織が殺されたあとの2年4組と一緒だった。