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ぼくが区立A中学校への赴任が決まったのは、世間を震撼させたあの事件のあとのことだ。9月4日の午前7時ごろ、朝練習をしていた陸上部の女子生徒2名が体育倉庫に陸上器具を取りに行ったところ、圧迫により窒息死した女子生徒、春本佳織の遺体を発見した。事件は殺人事件へと発展。たちまち、区立A中学校は日本中が注目する学校になったのだ。
そして、殺された春本佳織という生徒は、ぼくが担任を任された2年4組の生徒だったということも、ぼくの悩みの種のひとつであった。しかし、ぼくの心配とは裏腹に、2年4組の生徒は先ほどのような様子である。拍子抜けした思いだった。
結局、犯人は未だ逮捕されることもなく、事件は捜査中である。事件当初は侵入者による犯行という説が主であったが、捜査を進めるうちに、学校内部の犯行という説も疑われ始めた。事件の担当刑事が何度も学校に足を運び、教師や生徒、学校職員に至るまで聞き込みをしたが、結局犯人は見つからないまま。事件は迷走を極めているそうだ。
学校内で起きた殺人事件というショッキングなニュースは、連日のように流れていた。世間に投げかけた波紋は大きかった。学校の管理責任や、教師と学校の教育体勢までもが批判の対象となり、閑静な住宅街に臨むA中学校では、毎日のように嫌がらせの電話やマナーを知らない取材陣の大群が押し寄せたらしい。
今でもようやく落ち着きを取り戻したようだが、誰一人として事件を忘れたわけではない。何しろ、犯人がまだ捕まっていないから当然である。ぼくは赴任したばかりの新任教師だが、あの事件がこの学校に遺した傷跡は、計り知れないほど大きいということは分かる。しかし、分からないのは生徒たちだ。あれはから元気なのか。それとも、本当にクラスメイトの死を受け流しているだけなのか。彼らの表情から、真実が読み取れない。
しかし、なぜ中学2年生の女の子が、誰かの手によって殺められるという悲劇が起こってしまったのか。怨恨による殺人とは考えにくい。彼女が殺される理由というのが、まったく見当たらないのだ。誰もが真っ先につまずき、疑問に思ったことだろう。どうして、中学2年生の女の子が殺されなければならなかったのか。いくら正当そうな答えを探しても、ろくな答えは見つからない。猟奇的な殺人鬼に殺されたと言えばそれまでだが、この事件の闇に誰もが気付いているからこそ、その説が否定されるのだ。
2年4組の担任になると知ってから、ぼくはそんなことばかりを考えていた。
2年4組の教室の電気をつけた。すると、案外この教室が狭いことに気がついた。教室の後方にある黒板には、学年通信が貼られていたり、委員会からの連絡などが書き込まれている。1か月後に控えた文化祭の準備のため、文化委員会が盛んに行われているらしい。2年4組の出し物は創作ダンス。もう練習は始まっているようだ。創作ダンスの中心となっている生徒は、先ほどのホームルームでも目立っている生徒だった。
文化祭と言えば、リーダーの資質が問われる一番の行事だ。その行事に乗れた生徒は、その後のクラスでの立ち位置が素晴らしくいいものになる。しかし、その逆ならば、その生徒の立場はどんどん狭く、苦しいものになっていくのだ。よく生徒たちは、文化祭をきっかけにクラスが楽しくなったという。およそ過半数はそうだろう。しかし、文化祭がきっかけでクラスの雰囲気が一変してしまうこともあるのだ。
生徒たちにとって文化祭は、ボロボロのつり橋を渡るようなものだ。向こう側へ行くために、必ず渡らなければならない。ごく少数は、そのつり橋を渡りそこね、真っ逆さまに転落していくのだ。このクラスにはリーダーの資質を持った生徒が、すでに華を咲かせているようだ。とりあえず安心はできるが、14歳という微妙な年齢であるから何が起こるかは分からない。教師という立場になり、文化祭という行事がただ楽しい娯楽ではないということを改めて痛感した。2学期の中ごろ、ちょうど1年間の中間にあたる大きな行事だ。多かれ少なかれ、クラスに影響を与えることは確実である。
薄暗い教室に立ち、教師になりたての自分が何を考えているのかと、ふとおかしく思えた。重大な事件の後、この学校は必死に再生しようとしている。来月に開かれる歴代最高予算の文化祭は、それを最も象徴としているのだろう。ぼくはこのクラスを任され、このクラスとともにある。この教室にいる36人とともに。その覚悟はできているつもりだ。
「何をしているのですか?」
突然聞こえてきた声に驚き、振り返るとそこには園田先生がいた。
「あ……園田先生」
「生徒たちはもう下校しているか、クラブ活動に行っています。生徒をお探しなら、放送をお使いください」
「いいえ、別に違うんです。少し不安でしたけど、いい雰囲気のクラスでよかったと思いまして……」
「あら……そうだったんですか?」
「ホームルームもすごく賑やかで、あの事件のことなんてもう忘れたみたいでした」
園田先生は小さく笑う。ぼくと同じように教室をぐるりと見渡して、口元に笑みを浮かべたままぼくを一直線に見つめた。
「本当にそんなこと思っているんですか?」
「えっ?」
「あの事件を忘れる? そんなことあり得ません。自分と同じ教室にいたクラスメイトが、ある日学校で殺されたんです。彼らがどう思って、なにを考えているのか、私たち教師には計り知れませんよ」
彼女の言うことはまっとうで、ぼくには反論の余地がなかった。ぼくの考えが甘いのだろうか。やはり生徒たちは、未だに事件をショックに思って……。
「園田先生、殺された春本佳織についてきいてもよろしいですか?」
ぼくの言葉に園田先生は小さく笑う。今度のこの笑みは、先ほどの嘲りではなく、喜びに近い。
「やっと、きいてくれましたね。ずっと待っていました、あなたがあの事件について尋ねてくるのを」
「でも……あの事件は、この学校の大きな傷です。それをほじくり返すようなこと……」
「そうだとしても、春本佳織について何も尋ねてこないあなたに、わたしは少々失望していました。腫れ物にでも触るようで、まるで現実から逃げている臆病者……そう思っていました」
臆病者。ぼくは今まで、その言葉をよく耳にした。振り返ればぼくの辿ってきた道のりは、歩きやすいアスファルトの道だったように思える。両親に囲まれ、一人っ子だから大事に扱われ、エスカレート式の私立小学校から大学まで。受験勉強というものも経験したことがなく、挫折もなければ涙もなかった。自分を大切にし、傷つかないように生きてきたのだ。
傷つかないように生きるがために、傷つけたものも多い。