後編
アシュレイは王国の第二王子である。
美麗な容姿かつ紳士的であるので、甘い蜜を求める令嬢たちに群がられているのが常であった。
パーティーでは。
長身のアシュレイが花芯のごとく中央となり、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが花びらとなって、ひとつの大きな優美な花を形成していた。
しかし、ある時からアシュレイはロックバード侯爵家のマリアンジェが気になるようになっていた。
きっかけは、
「キャー、アシュレイデンカステキ!」
と言うマリアンジェの薄っぺらい棒読みの褒め言葉だった。
いつもマリアンジェはアシュレイを発見するとイソイソとやってきて花びらの令嬢たちの外側に立つ。
そして、
「キャー、アシュレイデンカステキ!」
とメリハリのない一本調子で叫ぶと離れていくのだ。
毎回毎回、同じ台詞での一撃離脱。
お仕事完了とばかりに未練なく立ち去るマリアンジェにアシュレイは興味を持ったのであった。
調べてみるとロックバード侯爵家に山ほど申し込まれる見合いの断りに「娘は第二王子のアシュレイ殿下に夢中でして」という決まり文句が使われていた。つまりロックバード侯爵家の父娘はアシュレイを陳腐な断り方の定型表現に活用していたのである。
ロックバード侯爵は、猛愛している妻と娘以外には冷酷非情と有名であった。しかもロックバード侯爵家代々の当主の公にされていない趣味は、他家の秘密の収集である。
貴族家ならば切り札の一つや二つはあるものだが、ロックバード家のソレは他家の追随を許さない破滅的な質と量であった。ゆえにロックバード侯爵は、公爵家であろうと王家であろうと意にそぐわない婿を拒絶できるのだった。
アシュレイは爆笑した。笑いすぎて腹が捻れるみたいになってヒーヒーと呻く。
俄然おもしろくなって、さらに調査を進めると断っても断っても諦めない令息がいた。サリステア公爵家のリシャールである。
サリステア公爵家としては見合いが断られた時点でロックバード侯爵家との政略は断念したのだが、リシャール自身がしつこかった。異常といっていいほどに固執してマリアンジェにつきまとっていた。その見苦しい姿は社交界で噂となっており、体面もあってサリステア公爵が諌めているのだがリシャールは聞く耳を持っていなかった。
リシャール曰く。
「自分とマリアンジェの結婚は宿命である。自分には真実の愛を誓う恋人がいるが、マリアンジェのこともロックバード侯爵家ごと受け入れてやるつもりだ。この俺にマリアンジェは尽くしてロックバード侯爵家の全てを譲り渡すことは定められた運命なのだ」
と社交界で公言しているのでサリステア公爵はリシャールの処分を検討中である、とアシュレイの取り巻きの令嬢がこっそりと教えてくれた。
アシュレイの周辺には名花と称えられる令嬢が多く、情報通の令嬢たちはアシュレイの関心をひきたくて色々な情報を囀ってくれるのである。
アシュレイは眉をひそめた。
「キャー、アシュレイデンカステキ!」
と言って去っていくマリアンジェのふわふわした髪の小さな頭。
気になって。
見失わないように。
揺れるふわふわを目で追いかけることが増えていって。
パーティーの壁の花という隅っこ暮らしを堪能するマリアンジェに一度だけ声をかけたことがあるのだが。
隅っこ暮らしの欠点あるあるで後ろにさがっても壁にぶつかるだけで逃げ場のないマリアンジェが困ったように、へにゃと微笑んで。
トスッ。
と何かがアシュレイの胸に刺さって、豪華な美女が好みと思っていたが、実はマリアンジェみたいなタイプが好きだったのかと思ったのだった。
しかし。
数分後に。
マリアンジェが他の令息と挨拶をかわす姿に噴火したかのような燃える嫉妬が心に食い込んで。タイプの問題ではなく。マリアンジェ自身のことが好きなのだと双眸をぎらつかせてアシュレイは自覚をしたのだった。
そう。アシュレイはこの世界の激重の恋愛気質を華々しく開花させたのであった。
しかも告白されたことは数多あれども告白したこともなく成人してからの初恋にして初片想いである。
マリアンジェの視界に入りたくて。
無駄にまわりをウロウロしても、マリアンジェは隅っこ暮らしを満喫中なので目もあわない。
告白の方法がわからなくて。
マリアンジェの方から告白してくれないかなと目の前を行ったり来たりしても、もちろんマリアンジェは告白なんてしてくれない。アシュレイのことなんて眼中にないのだから。
途方に暮れてしまい、アシュレイは思い悩む。
初めての感情に悶えまくって、マリアンジェに恋い焦がれ、薄暗い執着とグツグツと煮詰められた熱が渦巻く。朝も昼も夜もマリアンジェ一色となったアシュレイが、マリアンジェに露骨に執着するリシャールを危険視するのは当然であった。
そんな時に王宮に激震が走った。
精霊の愛し子が誕生した、と。
愛し子の名前はロックバード侯爵家令嬢マリアンジェである、と。
アシュレイは拳を握った。
このことをアシュレイは、マリアンジェを逃さない絶好の好機と捉えたのだ。
国家の慶事である。
すぐさま国王自らが動き、アシュレイとマリアンジェの婚約が結ばれることが決定した。魑魅魍魎が蠢く王宮には他者の弱みを握る者が何処にでも存在する。そんな弱みの特大をアシュレイが所有しており、父親の国王を脅したかも知れない、などと国王本人すら決して認めないことであった。
表面的な美貌に騙されている者が多いが、アシュレイの本質は悪辣である。才色兼備でおだやかな笑顔の下は、王族らしく腹黒で狡猾なのだ。
ガラガラガラ。
ロックバード侯爵家の銀で飾られ彫刻が施された馬車が、車輪を軋ませて王宮へ向かって走っていた。今夜は、マリアンジェとアシュレイの婚約を正式に発表するためのパーティーが王宮で開催されるのだ。
「マリアンジェいいのかい? アシュレイ殿下で? 婚約を断ることもできるんだよ」
と、父親のロックバード侯爵は数々の艶聞が流れるアシュレイとの婚約を心配する。父親の隣には健康をとりもどした母親もいて、やはり憂い顔である。
すでに父親から母親へと寿命は譲渡済みであった。
年単位の譲渡ではなく、産まれた時間から逆算しての膨大な時間単位の譲渡で、ほぼ同時に召される時間を算出した父親の執念は凄まじい粘着力にあふれていた。
「はい。アシュレイ殿下はロックバード侯爵家への婿入りのために数多くいた恋人の令嬢たちとすっぱりと別れてくださいました。私に愛を誓うとの宣誓まで。私に不満はありません」
アシュレイの恋愛気質の開花は、マリアンジェにとって予想外の嬉しさであった。もう何度もロックバード侯爵邸でお茶をしており、どうやらアシュレイは父親と同系統の不屈の粘着質だと感じていたがマリアンジェにとっては些細なことだった。
マリアンジェは悪役令嬢になるはずの未来の娘が最大の気懸かりであったのだ。アシュレイの執着心を瑣末なことだと思うほどに。
精霊に質問をしたところ、神様は女性のお腹の中に産まれた時から卵を入れてあるのだと答えてくれた。この卵が魂なので、マリアンジェには将来的に悪役令嬢になるはずであった娘が生まれることは確定なのだ、と。
父親が予定と異なっても、血筋や容姿や魔力などの諸々が違うだけで娘はちゃんと誕生するのだと言われてマリアンジェは安堵の息を吐いたのだった。
ならば娘の安全のためにもアシュレイは最適であった。
悪役令嬢ではなく、精霊の愛し子の母親から生まれた娘として。
父親が元王族であり、血筋の連なりにより王家に守られた娘として。
神様は寿命は決めても、人生そのものは決めていない世界なのだ。
おそらく娘は悪役令嬢にはならない。
アシュレイという元王族の娘として、誰かからの害が及ぶ立場になることなく健やかに成長できることだろう、とマリアンジェは考えたのである。
そんな下心満載のマリアンジェにとってアシュレイの愛情は幸運な誤算であった。
てっきり王家が精霊の愛し子を囲い込むための結婚だと思っていたのだが。
アシュレイはマリアンジェを愛していると言ってくれた。
夫婦になるのだ。
愛がないよりも、愛がある方がいい。
マリアンジェは幸福になれるかもしれない予感に胸をときめかせたのだった。
「屋敷まで迎えに行けなくてごめんよ。まだ正式発表前だからと禁止されてしまって。幾度も交渉したんだけど」
熱い眼差し。マリアンジェと視線が絡まるとアシュレイの青い目がやわらかに弧を描く。きらきら、きらきらと星が散るような笑顔である。
「ああ、マリアンジェ綺麗だね。僕が贈ったサファイアのネックレスも似合っているね。とても素敵だ」
マリアンジェが正装の麗しいアシュレイを見つめて頬を染める。
「アシュレイ殿下も凄く素敵です」
棒読みの「ステキ」ではなく、心をともなったマリアンジェの「素敵」という言葉にアシュレイは喜びを噛み締める。口の中で繰り返すと、天上の甘露のごとき甘さが口内に広がった。脳内で伝説の天使がハレルヤを歌う。歓喜と感動で涙が滲みそうになったが歯を食い縛り、優雅な所作でマリアンジェをエスコートする。
「さぁ、行こう」
パーティー会場に入ると、波立つように人々の注目が集まった。
誰もがソワソワしていた。
果報なことに自分たちの世代での精霊の愛し子の誕生である。恩恵をさずかれる可能性に、パートナーと手を握りあって期待を高めていた。
アシュレイとマリアンジェは国王に挨拶をするべく、王座まで一直線に敷かれた深紅の絨毯の上を蝶道を辿る蝶のように優雅に進む。その後、王族席にてアシュレイとマリアンジェの婚約の発表の手筈が整えられていた。
邪魔する者はいない。はずであった。
けれども。
リシャールが平民の恋人を伴って現れたのである。
「おい、マリアンジェ!」
リシャールがマリアンジェを呼び捨てる。
その一言で、アシュレイの幸福な気分が地の果てまで吹き飛んだ。ギラリ、とアシュレイの青い目が研磨された宝石のごとく物騒に光る。氷点下の眼差し。すぅぅぅと殺気を帯びてアシュレイの目が細まった。
そんな殺伐とした雰囲気を醸し出すアシュレイに気付きもしないリシャールは、傲慢にもマリアンジェを指差して言葉を続けた。
「どういうことだよ!? おまえと婚約をするのは俺だろ! ここは『愛こそすべて』の世界なんだから、おまえは俺に従うべきなのに!」
「そうよ、リシャールの言う通りよ! あんたなんか踏み台のモブなのに! どんな境遇にも耐えて大人しく忍従してればいいのよ!」
ひゅっ、マリアンジェは息を呑む。
『愛こそすべて』、モブ、リシャールと恋人はそう言った。すなわちリシャールと恋人は転生者なのだ。
それなのにリシャールはマリアンジェに言い寄っていたのである。マリアンジェと娘が不幸になると知っているのに。
執拗に婚約をゴリ押しして、自分と恋人が裕福で安楽な暮らしをするために画策していたのだ。
リシャールは、貴族として育ったはずなのにマリアンジェをただの便利な小説の駒と考えているから呼び捨てをして。『愛こそすべて』の世界のストーリーが変更なく進むと思っているから、ロックバード侯爵家の入り婿になって贅沢ができると信じているのだ。
どん底に落ちるマリアンジェと娘への配慮なんて欠片もなく。
マリアンジェは、腹がムカムカと煮えくり返った。
小説のリシャールは唾棄すべき夫でありロックバード侯爵家の富に寄生する愛人は害虫だった。どうやら現実のリシャールと恋人も軽蔑に値する人間のようである。
「それに何故おまえの母親は生きているんだ!?」
言ってはならぬ言葉だった。
ロックバード侯爵が魔王の如き形相となる。全身から思わず平伏したくなるような禍々しい覇気が放出された。近くにいた人々が飛び退くようにロックバード侯爵から距離をとった。
「黙れ。無礼である。マリアンジェは第二王子である僕の婚約者であるぞ。すでに婚約は結ばれているのだ、マリアンジェは準王族の身分であるとわからぬのか!」
と、アシュレイが青い目を鈍く硬く光らせて地の底を這うような声で言った。
「黙ってくださいな。私はリシャール様と親しい間柄ではなく顔見知り程度ですのに呼び捨てとは……。リシャール様は公爵家で貴族教育をお受けになっておられぬのですか?」
と、マリアンジェの口調はいっそ清々しい。
「口を閉じろ。サリステア公爵ごと永遠に沈黙させてやってもいいのだぞ」
と、ロックバード侯爵は笑顔だが目の奥がまったく笑っていない。瞳孔が全開である。獲物に照準をあわせたかのように不吉な気配があった。
指名されたサリステア公爵は真っ青になった。ロックバード侯爵に冷たく睥睨されて動けない。
爵位は関係ない。
社交界においてロックバード侯爵の恐ろしさを知らない者はいなかった。
言葉は異なるが、アシュレイ、マリアンジェ、ロックバード侯爵の3人から「愚物は黙れ」と言われたリシャールは、屈辱感でブルブルと震えた。呼吸が浅くなり、身体が強張り、吠えるように激昂する。
「黙るのはおまえたちだ! よく聞け! いずれ俺の娘は精霊の愛し子となって敬われるんだぞ! マリアンジェが精霊の愛し子だなんて間違いだ、俺の娘こそが精霊の愛し子なんだぞ!!」
小説の世界ではリシャールの言葉は正しい。
しかし、ここは現実の世界である。
「何を言っているんだ!?」
「正気なのか? サリステア公爵家の令息は?」
「妄想が酷い。マリアンジェ様に求愛して拒否されて、それでも取り憑くみたいに言い寄っているらしいぞ」
「振られた腹いせか?」
「サリステア公爵は何をしているんだ。家の恥じゃないか」
「111年ぶりの精霊の愛し子を貶める者がいるなんて信じられない」
人々が詰るように非難する。目が冷え冷えと冷たい。王座の国王も眉根を寄せて不快感を顕にしていた。
ジリジリと近衛騎士たちがリシャールと恋人に近づく。
もうサリステア公爵の顔色は、青も白も通り越して土気色である。
「聞くに耐えん。耳が腐りそうな妄想だ。その者たちを捕らえ」
国王の命令の語尾が終わらぬうちに、リシャールに襲いかかるものがあった。
姿を消してついてきていた精霊たちと愛猫である。
「マリアンジェは僕たちの愛し子だぞ」
「臭いわよ! あなたの魔力はドブの匂いがする、そっちの女は腐敗臭よ。精霊は臭い魔力が大嫌いなのよ!」
「神様が、せっかく生まれた時には真っ白で綺麗な魔力を与えているのに! 寿命は神様が決めても、生き方は人間の自由だからって。濁りすぎて汚いわ。しかもマリアンジェを虐めるなんて!」
「クレオパトラ、やっちゃえ〜」
猫界で一番との評価の美猫にあるまじき雄叫びを上げて、マリアンジェの愛猫のクレオパトラが飛びかかる。ザシュ、グシャ。リシャールの肉が抉れる。精霊によって百倍の強化をかけられたクレオパトラの爪は鋭い。
「ギャアアアァ゙ッ!!」
精霊たちも攻撃に加わる。
水礫で火矢で鎌鼬でリシャールを切り刻む。火文字で焼いて「精霊の敵」とリシャールと恋人の額に書き炙る。やりたい放題であった。
「ヒィィイイィ゙ィ゙ッ!!」
「イヤアァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ッ!!」
リシャールと恋人の悲鳴が連続する。
「私も!」
混乱に乗じてマリアンジェが前世からの念願を叶える。
「他人に利用されるなんて真っ平よ!」
完璧な角度で拳を放つ。
スパーン!
「あ、こら。バッチイよ。あんな奴に触れたらダメだよ。マリアンジェの可愛い手が汚れてしまうよ」
あわててアシュレイが引き離す。
「汚れるよりも痛いです。手が痛い……」
ぴぇ、と半泣きのマリアンジェをアシュレイが可哀想にと撫でさする。
「手? 診せて?」
「治癒魔法をかけてあげるわ」
「私の方が上手よ」
「えい〜〜」
一斉に喋って精霊たちが我先に治癒魔法をマリアンジェに注ぐ。
「ありがとうございます、精霊様。でも、いつの間に馬車に……?」
マリアンジェが首を傾げると、精霊たちが花びらのようにひらひらと飛びまわった。
「クレオパトラに乗ってきたんだよ」
「姿消しと強化と体力回復魔法をかけたの」
「来てよかった! あの男と女、許さない!」
「マリアンジェ〜、お腹が減ったの〜」
その間にボロボロになったリシャールと顔面蒼白の恋人が近衛騎士に捕縛されて連行されていく。
ロックバード侯爵の視線が後ろ姿を追う。極寒の眼差し。毒蛇のように執念深いロックバード侯爵は、定めた獲物を諦めることはない。
パーティー会場の人々は突然の出来事に唖然呆然としていたが、初めて見る精霊の神々しさ(一応光っているので)に感涙している者が大勢いた。跪いて拝んでいる者もいる。
「お腹すいたの? そろそろプリンが冷えた頃じゃないか?」
「プリン! おっきいプリンをマリアンジェが作ってくれたものね」
「プリン大好き!」
「プリン〜、プリン〜。クレオパトラ、帰ろ〜」
「にゃあん」
颯爽と精霊たちはクレオパトラに乗って姿を消す。どこまでも我が道しか進まない精霊たちである。
パッ、と消えた精霊たちに、再び人々が唖然呆然となった。
誰かが呟く。
「プリンって何…………?」
パン、パン!
国王が手を叩き、人々の注意を王座に向ける。
「夜会を始めよ。慶事の発表のある喜ばしい夜であるぞ。音楽を奏でよ」
力強い国王の声が響く。国王は権力の使い方を理解していた。リシャールと精霊たちによって騒然としていた空気を一瞬で変える。
音楽が流れ、演奏された音が調和して重なり華やかなパーティー会場に波紋のように幾重にも輪を描いて広かった。
人々が胸を躍らせる。
「マリアンジェ様は、本物の精霊の愛し子だった!」
「素晴らしい! まさか精霊様のお姿を拝見できるなんて……!」
「帰宅して家族に話してやらねば! 王国の未来は明るいぞ!」
「精霊様は、プリンというものがお好きなのだな。お供えはプリンで決定だ」
「だが、プリンとは何だ…………?」
ざわざわと木々の葉擦れのように人々がざわめく。どの声も朗らかだった。
アシュレイとマリアンジェはバルコニーに出た。
人々にすり寄られ囲まれそうになったのだ。
霞のように薄く雲が広がり、水で編まれた繊細なレースのように夜空を覆っていたが、月は満開となって花開いていた。
冴え冴えとした美しい満月である。
さやかな月影と星影がアシュレイとマリアンジェを包む。庭園からは花の香りが夜気を従えて漂ってきた。室内からは音楽がバルコニーに届く。
月の光、星の雫、花の香り、音の旋律。
甘美な状況にマリアンジェは、ひんやりとした夜の空気を呼吸して籠もった熱を吐き出した。
「ハプニングがいっぱいでしたね」
マリアンジェの緑の瞳に、芸術の至宝のようなアシュレイの姿が映る。
「大事なマリアンジェに危害をくわえられそうで危なかったからリシャールを排除できたことはよかったけど。もう二度と危険なことはしないでおくれ、僕の心臓が止まってしまいそうだった。それに愛しいマリアンジェを守るのは僕の役目だよ」
「はい。もう二度と人を叩きたくありません」
しゅん、と項垂れるマリアンジェの頬をアシュレイの指先が触れる。なめらかな頬から貝殻のような耳に、アシュレイのお気に入りのふわふわの髪へと指先が進んでいく。
「僕の寿命は98歳なんだ。呪いのようだと思ったよ。家族も妻も僕を置いて逝く。だが、神様の祝福だと今は思うよ。僕の長い寿命をマリアンジェに分けてあげられるからね」
「私の寿命は60歳です。私とアシュレイ殿下は、子や孫と遊べますね」
「子や孫、ひ孫、もしかしたら来孫まで会えるかもね。貴族の結婚は早いことがほとんどだから」
「うふふ、楽しみです」
「マリアンジェは皺々になっても可愛いだろうね」
アシュレイが優しく笑う。
「アシュレイ殿下は皺々になっても素敵だと思います」
マリアンジェの言葉にアシュレイの笑みが深くなる。通り一遍の棒読みの「ステキ」ではない「素敵」は、何度聞いてもアシュレイを蕩けるような幸福な気持ちにさせてくれる。
アシュレイの輝くような笑顔にマリアンジェの心臓が、トクン、と高鳴る。
ポポポ、と赤い花のように染まったマリアンジェの愛らしさにアシュレイは思わず本音を言ってしまった。
「愛しているよ、愛している。マリアンジェは僕の心臓だ。マリアンジェが僕を生かしているんだ。いっしょに生きて、いっしょに旅立とう。永遠に永久に、ずっと二人で。マリアンジェだけを愛し続けるよ」
まるで呪いをかけるように綴る言葉だが、アシュレイが真摯な態度であったからマリアンジェも裏切ることない気持ちを織って言った。
「私もアシュレイ殿下を愛しています。離れません、ずっといっしょにいます」
未来は不確定だけれども。
前世に目覚め、頑張って精霊の愛し子になったことは最高の選択であった、とマリアンジェは心から思ったのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。
【お知らせ】
リブリオン様から電子書籍化。大幅加筆して配信中。
「ララティーナの婚約」
表紙絵は、逆木ルミヲ先生です。
「悪役令嬢からの離脱前24時間」
表紙絵は、おだやか先生です
どうぞよろしくお願いいたします。