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僕は大学入学と共に、結婚まで望んでいた高校からの彼女に振られたことがある。あんたとの将来は考えられない。元恋人にそう言われてから、僕は結婚を見据えられる相手とだけ付き合おうと思うようになった。けれどそう簡単に人生を預けられる相手など見つからず、渚への告白が最後ものとなった。
すぐに渚はバイトを辞め、次は年上のフリーターが彼女の代わりに入ってきた。僕らは黙々と仕事をこなし、日々を過ごしていった。
次第に、桜川渚の名をあちこちで聞くようになった。それは珈琲研究会のメンバーだったり、バイト先の仲間だったりで、彼らは口々に彼女を褒め称えた。
桜川渚は、有り余る才能を開花させたらしい。二十歳で描いた風景画が大きなコンクールで最優秀賞を受賞し、瞬く間にあちこちで個展が開かれるようになった。一度だけでも行ってみたい。彼女があの繊細な指先でどんな風景を描いているのか、この目で見てみたい。
けれど僕は、一度も桜川渚の名前を検索しなかった。その名をネットニュースで見かけると、ブラウザを閉じた。彼女が魂をかけて描いた絵を、彼女を傷つけた僕が目にするわけにはいかない。
大学四年生になり、無事に就職先も決まったぼくは、四年務めたバイトを円満退職することになっていた。卒業と共に上京する予定だから、このコンビニを訪れることもこの先ないだろう。
最後の夜勤の日、店にやって来たその姿に、僕は目を奪われた。
春の訪れを感じさせる薄桃色のワンピースに、クリーム色のコート。黒いブーツを履き、右耳にはシルバーのピアス。
しかしその瞳は、僕の知る彼女のものと全く同じだった。
「私、頑張ったから」
真っ黒な瞳で、渚は微笑んだ。彼女は大きく変わったが、何一つ変わっていなかった。
「結婚を前提に、お付き合いしてください」
涙で潤むその瞳に声も出せないまま、僕はしっかりと頷いた。