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渚が顔に絵具をこびりつかせたまま出勤し、僕は大笑いした。それは忘れもしない三月の末だった。
日勤だったので、僕らはバイト上がりに二人で居酒屋に入った。未成年への飲酒の取り締まりが厳しさを増す中、こっそり酒を飲ませてくれることで話題の店だった。学生の間で語り継がれる小さな個人店の隅で、いつもの如く馬鹿話に花を咲かせた。
「弘也、すげえ顔赤いな。もう酔ってんのかよ」
「全然平気だし。渚こそ真っ赤じゃんか」
「いや、そっちこそ鏡見ろっての」
幼稚な会話を繰り返しながらようやく深夜に店を出た頃には、前後不覚なほどに酔っていた。目の前がぐるぐる回り、まともに歩けもしない僕が、家まで辿り着けるわけがない。
気が付くと、僕は知らない部屋で仰向けにぶっ倒れていた。顔を動かすと、すぐ傍の炬燵に足を突っ込み、渚がテレビを見ている。
「おまえさあ、自分の限界ぐらい知っとけよ」
赤い顔で呆れた表情をする渚がペットボトルを渡してくれる。ふらふらと起き上がり、キャップをひねるが上手くいかない。まったく、と笑いながらペットボトルを奪いキャップを緩めて渡してくれたので、僕はようやく水にありつけた。酔いどれの身体に染み渡るようで、あっという間に半分を空にした。
「ここ、どこ」
「どこって、俺の部屋だよ」
白い壁の小さな部屋には、炬燵とテレビ、イーゼルと椅子、そして本棚がある。本棚には画集と画材道具が詰まっていて、イーゼルの下には新聞紙が敷いてある。
「家帰っても絵描いてんのか。大変だなあ」
「じろじろ見んなよ、酔っぱらい」
すっかり帰れなくなった僕を引きずり、部屋に上げてくれたらしい。思わぬ展開にまごつくよりも酔ってへろへろの僕は、その場に再びひっくり返ってしまった。
「ったく、朝になったらとっとと帰れよ」
ぶつぶつ言いながら、毛布を放り投げてくれる。顔面に被さるそれを何とか身体に載せ、僕は酔いに任せて目を閉じた。
次に瞼を開くと、まだ部屋は薄暗かった。壁掛け時計を見上げると、午前六時をさしている。カーテンの隙間からほんのり差し込む朝陽のおかげで、目が慣れると家具の輪郭がうっすら見て取れた。
頭を動かすと、すぐ近くに渚の顔があった。炬燵に足を突っ込んだまま、畳んだ座布団を枕にして眠っている。なんとも平和な寝顔を、僕は目を凝らしてじっと見つめた。やっぱり渚は、とても綺麗な人だ。
瞼が震え、ゆっくりと彼女が目を開いた。軽く握ったこぶしで目元を擦り、小さく欠伸をする。僕を見つけると、おはようと薄い唇が言葉をなぞり、僕も同じ言葉を返す。溢れる幸福感で、痛いほどに胸が締め付けられた。
僕らはしばらく、そのままでいた。床に直接横になる僕の上には、毛布と更に羽毛布団が重なっていたので、初春の冷えはあまり感じない。
この時間が永遠に続けばいい。けれど、時間を止める方法がないことは僕だって知っている。
それならば。僕の頭には、一つだけ方法が思い浮かんだ。今まで何度か考えたことはあったが、決して言えるはずのない言葉だった。
「付き合おうよ」
勢いとは恐ろしい。それ以上に、馬鹿とは残酷だ。阿呆、間抜け、考えなし。後からいくら罵倒して反省しても、足りることはない。
渚の目が大きく見開かれるのが見えた。朝の光は少し強くなっていて、彼女の表情の変化をはっきり確認することができた。美しい真っ黒な瞳は、僕の心をしっかりと掴んでいた。
上体を起こした渚は枕にしていた座布団を引っ掴み、僕の顔に思い切り叩きつけた。
「いてえ」
「出てけ!」
それを振り上げ、何度も僕の顔にぶつける。
「馬鹿野郎、とっとと出てけ! おまえなんか泊めるんじゃなかった!」
「ごめん、ちょっと待って……」
「出てけって言ってんだろ、裏切り者!」
彼女の攻撃が止まり、僕は顔をかばう腕を解き、その顔を見てはっとした。
渚の真っ黒な瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。カーテンの隙間から漏れる光で、透明な粒は残酷にも美しく輝いている。
僕は渚を裏切ってしまった。彼女の台詞が頭の中を駆け抜け、僕は急いで半身を起こす。謝ろうとする肩を渚に思い切り両腕で押され、後ろによろける。
「だから嫌なんだ、だから人間ってのは嫌なんだ! 女は顔で判断する、男までそういう目で俺を見る。弘也だけは違うと思ってたのに!」
必死で僕を遠ざけようとする渚の力は、悲しいほどに女の子のものだった。
「ごめん。ごめん、渚!」
付き合おうよ。たった六文字が、彼女の心を激しく抉ったのだと思い知る。渚は他人からの好意を信じることができない。それでも僅かに心を許せる相手がいるとすれば、それは僕だったんだ。
「傷つけてごめん。裏切るつもりなんてなかった」
僕の両肩を掴む彼女の腕を握り、情けない言葉を口にする。すぐ目の前、吐息のかかる距離にある彼女の顔は、涙でひどく濡れている。
「僕は渚が男でも女でも変わらない。ずっと近くにいたいだけなんだ」
「うるさい馬鹿野郎! おまえは男だ、俺が女だからそんなことを言ってるだけだ! 俺が本当に男なら、付き合おうなんて言わなかっただろ!」
ぐっと言葉を呑み込んだ、彼女の言葉は図星だった。渚が男だと信じていれば、付き合ってくれとは言わなかった。永遠に友達でいたいと心の中で思うだけだったはずだ。
「……それは、ある、かもしれない」
「クソ、ふざけんな、ふざけんなよ! 二度と顔見せんな!」
「渚が女の子だったら、結婚したいと思ったんだ」
風船から空気が抜けるように、彼女の身体から力が抜けるのを感じた。泣き腫らした目が、ぽかんと僕を見つめている。
「正直、渚が女の子でよかったと思った。それなら結婚して一緒にいられると思ったから」
「は、おまえ、なに馬鹿なこと言ってんだよ。俺が弘也と結婚する?」
「渚は身体が女の子でも、心が男ってやつだろ。だから諦めようとしてたんだ。将来性別を変えたりしたら、俺には永遠にチャンスは来ない。けど、そう思ったらつい口から出て……」
渚の戸籍上の性別が女性であるうちに付き合うことができれば、これからもずっと一緒にいられるかもしれない。今後、渚が性別を変えてしまえば、結婚することはより困難になる。男女の恋なのか、男同士の友情なのかも判別できないけど、僕は渚と一緒にいたい。
「だれが、心が男だって?」
渚が笑うように表情を歪ませるのに、僕は意味を理解できなかった。彼女は泣き笑いのような顔で、僕を思い切り突き飛ばした。油断していた僕はそのまま後ろに倒れ込む。
「おまえら男が俺に手を出したから、女でいられなくなったんだ! 俺は病気なんかじゃない、おまえらのせいでこうなったんだ……!」
渚は涙で濡れた顔で叫んだ。僕はその告白に愕然とし、自分が大きな勘違いをしていたことを知った。彼女は、女性でいることを苦痛に思う経験を経て、女を捨てたのだ。しかし女性として育った彼女は、男に変わることもできなかった。だから結子の告白にも全く耳を貸さなかった。かといって、自分を女として見る好意にも耐えられないのだ。
彼女の嘆きは、僕の心をひどく揺さぶる。下手な謝罪の文句など、僕に口にする権利などない。
「……ごめんなさい、渚」
けれど僕は跪き、尚も彼女に謝った。代表などとは呼べないが、男の僕が彼女に聞かせるべき言葉だった。
「けど、これだけは忘れないでほしい。僕が渚とずっと一緒にいたいと思った理由に、性別なんて関係ないんだって」
彼女は唇を噛み、顔を逸らした。背を向ける頑なな身体は、何よりの拒絶だった。