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パンケーキレモン  作者: 紫いろろ
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パンケーキレモン

感想聞かせてください、成長といいあ種を芽生えさせたい

 週に一回ある唯一の休み。俺は大学とバイトで日曜日が僕にとっての最高で至福な日だ。平日は大学が終わってもバイトがあるし、土曜日はサークルとバイト。たまたま日曜日が空いたのが本当に救いだ。

 ただそんな休みも俺はぐうたらで暇と変化させた。明日が休みだと土曜日の夜に夜更かしし、日曜日から日曜日を迎える。朝起きて今日は何をしようかと考える前に寝たはずなのに疲れがどっとくる。疲れなのに体が疲れていないんだよなぁ。

 夜更かしは頭にかなりのダメージを与えるのか、毎回日曜日は頭が動いてなくてしっかり足で立てていない。頭がお酒を飲んで酔っ払っています。そんな状態だった。

 複数所持してるSNSを順序良く見て回って、体内時計に合わない時間をスマホの画面は表示している。

 特に驚くことはない。毎週いつもの事だ。けどせっかくの時間を無駄にしてしまったという罪悪感はあった。けれどもう過ぎてしまったことはどう足掻こうと戻ってこない。後の祭り。今の俺にぴったりのようだ。

 これがいつもの俺のルーティンという日課だ。ただストレスはなかった。この生活に異常な速さで慣れた自分が凄いと思う。

 これで良かったのに……。

 ストレスが無いのは自分が自分をサボっていただけだった。

 ある日の事。

「俺実は結婚したんだ」

 大学に入ってできた友達が発した一言に想像もつかない憎悪を覚えた。大学生活で今まで一番付き合いの長い親友。彼にはいろいろ励まされ、いろいろお世話になった。ある時は勉強を教えてもらったり、ある時は失敗を庇ってくれたり。周りの人達も「仲のいい」「親友のよう」と言われていた。

 置いて行かれた。そう俺は勝手に受け止めたんだろ。

 これだけで良かったのに……、

「俺、就職した」

「検定に受かった」

 みんなみんなが幸せな報告を持っている。そんな俺はどうだろう。

 "日曜日が無駄だ"

 そんな事をふと思いつき出した今日の日曜日。


 散歩がてら近所をふらつく。午前5時、ふと目覚めてしまった。まだ眠かったのに頭は完全に目覚めてしまったようで考えたくないのにいろんな事を考えてしまう。

 それが日曜日なのだ。

 何ができるか、何がしたいか。

 今こうふらついている。これでいい。散歩。何ものよりも手軽でただ歩くだけでいい。準備をする必要も無いし、お金も必要のない。

 なんて便利な趣味なんだ。

 次の週でそれは終わった。

 散歩は俺の体に毒として体を痛みつけていた。日頃の疲れきった体にはそれは悪影響だったらしい。

 場所だ。家にはいないようにしよう。

 散歩道にある一つの喫茶店を思い出してそこに長居することを決めた。

 木のドアを開くとカラカランと客が来たと知らせる音が鳴り響いた。

「お客様一名ですか?」

 こくり、と頷いて席へ案内される。人気の無い店内。店内に音楽が流れていないからなのかしんとしていた。何も調べずに入ったのが失敗だったようだ。

 メニューを見ると特別に秀でたご飯やデザートはない。ただ一つだけ言うならパンケーキが一際メニューで目立っていた。メニューに何か際立たせる細工がしてあるとかじゃないが俺の目はそれを捉えていた。

「ご注文は……」

 店員を呼んだ。先程席を案内してくれた若い女性。黒い長い髪を後ろに一つ束ねて喫茶店ならではの白の服と黒いズボンを着ている。

「パンケーキ」

 やらかしたと思った。声が小さくてボソボソとした声だったかもしれない。自分でもちょっと小さいと話している時思った。自分がどんな声を出したのかは相手の反応を窺うまでわからない。俺はあまり初対面の人との会話が苦手なのは多分これのせいでもあるだろう。

 耳をこちらに向けた。その時の耳にかかった髪をどかす。黒い髪と対照的に手は白い。

「パンケーキ」

 今度は言えた。彼女も耳に入ったのか持っている注文伝票にペンを走らせた。

 無言で厨房に向かったのには少し驚いた。マナーがなかったのに意外さを感じた。ちょっとした礼とか"かしこまりました"の受け答えがあってもいいじゃないか。この場は喫茶店で店内の音楽も無いから静寂で落ち着くには最適のはずなのに、どこか落ち着けない。俺をそんな気持ちにさせた。

 それにしても人気が本当にない。見る限り店内の客は本当に俺だけみたいで、厨房を見ても店員が彼女一人の姿しか見えない。

 一人で経営しているのだろうか、なら彼女は店員じゃなくて店長なのか。そういう事にしておこう。

 約三十分程してパンケーキが出てきた。

 三十分。この時間俺は何もしなかった。ただ窓から見える商店街の街並みをぼんやりと見ていた。ただ飽きる事はなかった。商店街をただただ人が歩いている。けれど一人一人速さや歩幅が違う。改めて見ると面白く感じる。

 こんな些細な事が面白いと感じるなんて、口が少し綻んだ。

 俺の目の前にパンケーキが置かれた。置かれた時軽い会釈をしたものの案の定反応はなかった。愛想の悪い人とそういう位置付けにしておこう。

 パンケーキ。クリームがただ乗っただけのものかと思っていた。だがしかし、輪切りのレモンが小山となったクリームに添えられている。クリーム単体ではなくクリームとレモンの二つで単体と言わんばかりの存在感をパンケーキの上で示し、演じている。

 白い見ただけでわかるふわふわっとしたものがパンケーキに包まれている。これはまたクリームかと机に置かれているフォークを手に取り優しく突いてみると白いものは小さくしぼんでいく。若干ながらしゅわしゅわと弾けでたような音もしたような。

 なんだろうと思いフォークで優しくすくい口に入れる。舌に乗ってそれは優しくほろほろと溶けたり、崩れていく。ただそれはふんわりとした軽い味だった。メレンゲ、これはクリームではなくメレンゲだ。

 手が止まらない。たまたま入った喫茶店で恐ろしいものを見て俺は今頬張っている。もうこれは食べるの次元で説明できない。もしそうしようもんならこのパンケーキからかなりきつめの制裁を受けることになるだろう。しかもおいしさはメレンゲだけではない。この全体にかかった透けて美しい茶色のシロップがちょうど良い甘味なのだ。程よく優しくパンケーキを包み込んでくれている。

「とても良い相性なんだな。しかも三人で」

 このパンケーキのスポンジ、それに包まれたメレンゲ、透き通ったカラメル。この三つを見て視界が悲しみを知らせる液体の影響で濁って見えた。

 

 中学校に進学した俺にはある二人の友達ができた。一人は蓮と言い運動系のクール男子。雰囲気から醸し出ていたが部活はサッカー部に入っているのだそうだ。二人は芳昌と言い蓮とは正反対で地味な男子だ。しかし、彼は学力に優れていて中学入学後に受けたテストで学年一位を叩き出している。お互いダメなところはお互いが支え合い直す。凸凹コンビだが彼ら二人はその凸凹が綺麗に揃っていた。

 ただ、その綺麗な凸凹を俺は壊してしまったみたいだ。俺はごく普通の人と思っていた。何をするにも平凡で何をするにも平均な中学生。だからこの凸凹にうまく吊り合いそしてうまく馴染めると思っていた。

 俺は彼らに見捨てられたようだ。三人で一緒に約束して遊ぶのが日課だった日曜日。だがある日、蓮が日曜日に予定が入ったと遊ぶのを断ったのだ。それに続いて芳昌も"やっぱり遊ぶんなら三人で"と断りの返事を俺に言った。 

 たまにはこんな事もある。絶対に信頼できる二人だからこそ俺は二人を疑わなかった。蓮には用事があって、芳昌は蓮を庇って。

 あの日の日曜日家にいればよかった。決して家から出るんじゃなかった。雨が降ればよかった。そうしたら無駄な外出なんてしなかったのに。いや、あれは無駄なんかじゃない。

 いろんな後悔といろんな憎しみがただただ生まれた。それは鍋が沸騰した時に出てくる泡のように火を切るまで止まる事を知らなかった。

 後悔はやがて憎しみに負けた。体の奥底からふつふつと湧き出てくるゾワゾワと体を揺るがす何かが足のつま先から頭のてっぺんまで登ってくる。しっかりとそれは指の先を経過するのがまた憎しみを増やす要因となっている。

「本屋行ってきます」

 こんな事言うんじゃなかった。本なんて好きになるんじゃなかった。この出来事の種を深く深く追求すると俺は最初から不利なステージに立ち不利な運命を辿っているみたいだ。

 周りは水色単色で描ける空だけだ。雲一つない。太陽が周りを照らしてもう全てが開けて明るかった。けれど暑いとは感じない丁度良い気温で俺にまとわりついてくれる。過ごしやすい。そう言える日だ。

 家から歩いて15分程度で本屋に着いた。ここは市内で一番大きく人気カフェも併用しているからか地域の人が集う憩いの場としても使われている。文房具屋もあるから万能とも言える市自慢の本屋だ。

 今日は最近の人気ランキングで上位にのる単行本を買う予定だ。ちょっと高めなのが玉に瑕だがそのぶんしっかりと感動や物語の緻密な計画さを味わえるのが単行本の強みだ。

 自動ドアが開き本屋に入ると壮大な本の数に圧倒されるのと同時に冷房が効きすぎてて上着が欲しくなる気持ちが生まれる。壁が本棚となっているのを見るたびにこんな壁が欲しいと思ってしまう。

 買う予定の本はすぐに見つかった。店内の一番目立つ位置に十冊ぐらいが山積みに置かれている。

 俺はすぐにその一冊を手に取った。ややずっしりとくるこの重み。今すぐにでも読みなさいと言われているようで欲望が出てくるがしっかりそれを抑える。帰ったら読むから、じっくり読むから、そう自分に言い聞かせて。

 ここで長居したのがダメだったのかもしれない。いつもメリハリを怠けた罰がここに出たんだ。こんな残酷になって返ってくるとは思いもよらなかった。

 目的の本を手に取ってもなかなかレジへと足を運べないこの本屋と空間。そこら中にある単行本と文庫本をじっくり見てみようとそこへと歩を進める。

 速い。日頃の歩くスピードより断然速い。トコトコといつもなる靴がタッタッと短く音を刻んでいる。

 まだ読んでいないのに俺は満足感に浸っていた。この環境は本を読ますために意図して作られた環境と言える。本棚に並べられた本はどれも知らない物ばかり。小説を読み出したのがつい最近だからしょうがなく思うがいつかこの本たちも自分の手に取り読んでみたいと思う。きっと面白い、どんな世界に俺を連れて行ってくれるんだろう。

 そうこうしていると知らぬ間に本屋に一時間近くいたらしい。腕時計の分針が一周している。

 レジへと向かい会計を済ます。"ブックカバー要りますか"の店員さんの質問を"いらない"と答え会計を終えウキウキしながら帰りの出入り口へと向かう。高揚とした気分で今にもスキップをしそうでそんな気分だったのに目の前に考えられない二人の人物を目撃してしまった。

 "なんで、どうして"

 予定があると言った蓮、三人が良いと蓮に気を使った芳昌。彼ら二人がお互いニコニコと白い歯を輝かせ本屋に入ってくる。いや、正確にはカフェ店に入って行った。人間違えなのではと疑ったがそんな似ている人物がしかも二人とも似ているなんて到底考えにくい。

 彼らではなかったら頭が真っ白になっただろう。しかし彼らだった。頭が真っ白になる余裕すらなかった。今俺がこの場にいるのが何か許されないような気がして今にのこの場を離れたい。けれど動かせない。俺の足は石のように固まって、石化して。今すぐに外に出たい、頭を少し冷やしたい。

 こんな思い、生まれて初めてだった……。

 そこで記憶は終わり時間が過ぎた。

 次の日彼らは何事もなかったかのように学校に登校し俺のもとへと来た。昨日本屋で見たあのニコニコな笑顔のままだった。癪に触った。だからニコニコなんかに見えなかった。彼らは肉食動物だ。俺は彼らに狙われている。俺は無論草食動物。だから彼らからは今殺気を浴びされている。だからニコニコなんて言えるほど今の俺は正常ではない。ニコニコは他人なんて決してわからない。わかるのはニコニコな自分だけだ。

「おはよう」

 今度はなんだ。声を掛けられたら殺気なんかじゃない。脅迫か。なら俺は被害者であんたらは容疑者だ。けれどなんの容疑だ。こいつらが俺に何をした。

 裁判官として立たされた裁判。何をしたかもまともに答えられなければそもそも証拠もない。これは完全に詰みであり単なる自己満で自己中でしかない。

 何も手札がない自分がこの時嫌いになった。

「おはよう」

 大人しく相手にターンを回すことしかできない、ゴミみたいだ俺なんか。

 友達の断捨離をした。二人しかいないが。脳内断捨離リストには

 '田中 蓮'

 '下山 芳昌'

の二人の名前が載っていた。

 この一週間彼らに声を掛けられないよう一人トイレに篭ることにした。その一日目、授業終了のチャイムが鳴るとすぐさま片手に先日買った単行本を手にトイレへと向かう。そして個室へと入り鍵を閉め便器を下ろしてその上に座る。彼らにはこの姿は見られていないだろう。例え見られていたとしてもどこに行ったかはわからずわかったとしても俺がトイレから出てくるのを待つなんて絶対にしないだろう。

 あれからまだ一日だがあれだけで俺への信頼をガクッと下げた。株価の大暴落、なんとなくそんな感じだろう。もう信頼とかなかった。

 「おはよう」から「ばいばい」の二つで一日目は終了した。先週とあからさまに態度が違う俺をなんも庇う様子はない。ここから人の有り様がよく手にとるようにわかる。

 もう少しの声かけは想定していた。まだ自分でもありえないと思うことがあったのだ。短い時間だったけれど彼らは俺に積極的に声を掛けてくれたし、遊びに誘ってくれたし。あの日曜日はたまたまだったんだ。間違えない。きっとそうだ。そうわかっていたのに体はすでに悲鳴をあげていた。

「ただいま」

 下校中、少し頭痛がしてきた。たまにあることなので特に気にすることなく俺は足を進める。だが、歩けば歩くほどに頭痛は痛みが増していく。次第に歩くのがつらくなってきた。足どりがさっきよりも衰えている。俺は死んでしまうのだろうか、そう考えてしまう。

 やっとの思いで家に着いた。けど嬉しくない。そんなことより早く横になりたい。体が熱い。俺はどうなってしまうのか。家のドアに手を掛ける。

 ガッとドアを外側に開いた。


 次の日もその次の日も空席だった。そこの生徒は学校に来なくなった。あれからたまに学校に来るらしいけれど決して俺たちとは顔を合わせなかった。体育祭も文化祭も見に来たらしいが彼を見たという人たちは先生を除いて誰一人いなかった。さらに彼はどこの高校へ行くのかもわからなかった。なんで、どうしていきなり。

「なんでいきなりいなくなるんだよ」

 俺たち二人は泣いた。大粒の涙を目から周りの目を気にすることなく。けれど死んでいなくてよかった。またきっとどこかで会えるよね。

 俺たち二人はそう思うことしかできなかった。あの時渡すはずだった彼への誕生日プレゼントを手に握っている。彼に会いたい。今はその気持ちで精一杯なんだ。

 俺たちは佐藤大智に一体何をしたのだろうか。

 大智に逢いたい……。

 

 俺はこのパンケーキ以下。だからこのパンケーキを頬張る資格なんてない気さえする。

 "俺も君たちみたいになりたかった"

 あの後、家のドアを開けるなり俺の意識は飛んだ。何も覚えていない。気づいたら病院のベッドの上にいた。そして点滴を知らぬ間に打たれ一人ポツンと病室に取り残されていた。

 後に母から聞いた。

「あんた、家に帰って来るなりバタンって倒れるんだもん。驚いたよ。どれだけ名前呼んだり、体揺すっても目を開かないんだし。それにしてもあんたあの時体熱かったよー。よく歩いて帰って来れたわね」

 こんな感じでわかりやすい説明をしてくれた。おばさんみたいな陽気な声の調子でそんなに俺を心配してくれてないんだなと思ったがすぐに救急車を呼んで今この病院にいる事だけでも喜んでおいた。

 心因性発熱と診察された。そう判断され俺は点滴に打たれる生活はすぐに終止符を打った。この頭痛や熱はストレスと判断されたのだ。心療内科を受けた。ストレスは心の病気、だから薬で治すことはできない。

 心理療法を受け、やや万全の体調に戻ったが学校へ戻りたいなんて金輪際思うことはなかった。不登校に俺はなった。けれど体調は万全なので自分で学習を進めた。わからないところは親に聞いた。自慢にはならないがうちの母は勉強はまあまあできたらしい。父も近所で有名な高校を出ており大学も国公立へ進んだ。

 不登校で過ごした受験期間。見事第一志望校へ合格できた。

 本当につまらなかった。でも自分が壊れてしまうぐらいならそれぐらいお安い御用だった。

 三位一体になりたかった。あのメンバーで。

「さっきから一人で何ぶつぶつ言ってるの」

 目を開くと前に店長の女の子が俺の顔を腰を曲げ俺の顔を伺う様子で覗いてきた。白い腕を後ろに置いてその両手を後ろで組んでいる。

 男で思春期真っ只中だからか店長の白い腕に目を留めてしまう。このパンケーキのように柔らかいのだろうかとかこのパンケーキのようにふわふわに近い手触りをしているのだろうか。

「どこ見てるの」

 見ているのがバレた。そんなただ一瞬目を留めただけなのに。腕に汗が出て潤い出すけど化粧品の香水コマーシャルみたいな潤いとは程遠い。

 焦り出した。

「あ、いや。たまたま目が君の腕に……ね……」

 咄嗟に思いついて口にした言い訳のショボさに自分が嘆かわしくさえ思えてくる。

「男ってやつは本当にクズだねー。しかもテキトーに言ったのに自分の過ちを自ら告白してくれるとは」

「俺嵌められたって事だよな」  

「鈍いねー。そうだよ、嵌めたんだよ」

 店長の仕掛けた罠にまんまと引っかかったみたいだが特に負けた、悔しいとは思わない。だって自分が確実に悪いんだから。

「それで、何ぶつぶつと言ってたの」

 向かいの席によいしょと腰を下ろす店長。

「このパンケーキ食べて昔を思い出してた」

 ふむふむと相槌を打つ店長。視線は一直線に俺を差している。

「お母さんが作ったパンケーキに似てたとか」

「あーそっちか」

 昔を思い出してたについて、確かにこれは二つの見方があり、店長は俺とは逆の二つ目の方を選んだようだ。

「ただの甘いもの好きの初心者の意見なんですが、このパンケーキはスポンジとメレンゲ、そしてカラメルの三つが三位一体となって素晴らしい味を引き出しています。おかげで今まで食べたことのない、味わったことのない経験と体験をさせてくれました。ただ、その三位一体なんですが昔の自分の記憶にちょっと引っかかってしまいまして。思い出していたのです」

 味の評価をした時、店長の顔は少し誇らしげに緩んだがその後の話を聞いて察したらしい。表情は瞬く間に緩みを忘れた。

「すみません。味と私事は全く関係はないのですがつい思い出しちゃって。本当申し訳ないです」

 味をやはり追求するだろう飲食店。そしてそこで出される一品は人の事情など知る由もないんだから。俺は店長に深々と頭を下げた。味とか店以外のことをこのパンケーキに、こいつが原因だと幼稚な行いをしたから。

「私事って何」

 深々とした謝罪があっさりスルーされたのに驚きを隠せなかった。しなくてよかったのか、それとも馬鹿にされていると感じたのか。

 こういう時スルーされた側の行動の選択肢は主に二つらしいが俺は一つだけだった。

 一つ、聞かれたことに答える。

 二つ、自分のスルーされた、今で言う謝罪を貫き通す。

 圧倒的前者だった。

「私事って何」

 行動の選択肢とか頭で考えていたら時間が少し経っていたみたいだ。

「私事っていうのは…………」

 俺は先ほどの中学の凸凹コンビの件について店長に全て話した。簡潔に俺は彼らの邪魔者でお払い箱だったというテーマにして話した。

「あなた誕生日はいつか教えてくれる」

 話を全て聞いた店長の顔に変化はなく姿勢も決して崩すことはない。そこが申し訳半分で凄いと思う(顔が可愛いからつい見ていたとか足が綺麗だなとか思いながらの付け足しだったから)。

「七月十四日だけど……」

 想定外の質問に少し戸惑いながら返す。

「じゃあその本屋さん事件はいつ頃の話か覚えてる。明確な日は流石に覚えていないでしょうから、そういえばあの時暑かったなとか、ちょっと肌寒かったとか」

 あの事件は只今より店長によって『本屋さん事件』と名付けられた。あの日の本屋さんは確か…………、

「本屋さんに入った時確か冷房が効き過ぎてた。だから上着が欲しくなった。だから夏なのかな」

「夏ねー」

 店長は考えことを始めて腕を組み始めた。不可解な質問攻め(っても誕生日と事件の日聞かれただけだけど)を受け俺は一体何をしたらいいのかと行動すら考えてしまっているのだから店長の手助けとかはもっての他。そして店長の企んでいることも全くわからない。

 しばらくの沈黙が続いた。店長の考え込んでいる姿をただぼんやりと眺めることができるぐらい時間は止まらずに進む。危うく眠りそうになるのだが店長を見ているとなかなか眠れない。寝てもいいのかというのが原因だ。今の関係上私事に店長を巻き込み考えさせている。人様に迷惑をかけているのに自分はすやすやと眠るなんて俺にはできない芸当だ。

 それにしても店長は本当に姿勢を崩さないなとちろちろ足とか肌を視線を経由しつつ全体に視線を視野として広げる。

「やっぱり一つしか出てこないな。最低な事を考えたら二つになるけど」

 やっと口が開かれ沈黙が終わった。『やっと』 とか待たされたという言葉を使ってしまったのに心から謝っておく。

「店長の意見を聞いてみたい。せっかく考えてくれたんだしなんだか勿体無い」

「ならお言葉に甘えましょうか」

 俺は息を呑んだ。何かよろしくない事を言われるのではないかとか思ってしまった。記憶上俺は彼らに何かした記憶がないが気づかないうちに酷いことをしてしまったのではないのか。そう批判的な考えが頭に浮かんできた。

「彼らはあなたへの誕生日プレゼントを買っていたのではないでしょうか。それが違うのなら……」

 思ってもいない回答に肩をすくめた。

「可能性とかはわからないですがそのような気もしてきて思い浮かびました」

 一つの回答しか聞き取れなかった。衝撃すぎたのだ。耳なんて機能しなかった。

「誕生日プレゼントを彼らは買っていたのか、しかも俺のを」

「おそらくの推測ですが」

 自分の過去にとった行動に後悔をした。穴があったら入りたい、これは今の俺にとても適している。今この場には俺と店長の二人きりだが一人に、いや今の自分が恥ずかしいからいっそのこと今の自分からも逃れたい気分だ。

 これがもし事実ならと考えた結末が怖かった。本当に自分を投げ捨てたいとそんな衝動に駆られた。

 だって………、

 これが本当なら俺は彼らを裏切った。'田中蓮''下山芳昌'をしかももう二度と関わらないようなリストにも登録をして。けれど彼らは俺を友達と見ていた。

 これが本当なら俺は彼らの気持ちを受け止めることができなかった。誕生日プレゼントを渡す人がいなくなったらそれはプレゼントでもなんでもなくただの置物で傍からしたらゴミのしかすぎない。

 いや、だがしかしだ………、 

「けれど彼らは本屋でもなく文房具屋でもないカフェに入って行ったんだ。どうしてカフェなんだ、カフェなんかにプレゼントなんてないだろう」

 必死に抵抗しているのか自分の声はどこか荒っぽかったし、先ほどよりもよく耳に入ってくる。そしてこの抵抗を意とした言葉を一つ一つ並べてみたらいろいろと可能性は出てきた。それらがプレゼントじゃない可能性。いや違う。それがプレゼントの可能性だ。

「カフェでプレゼントを決めていたのではないでしょうか。彼には何がいいのか。意外と友達へのプレゼントは難しいのですよ」

 そうなのだ。カフェに行った後にプレゼントを買いに行く彼らの姿は想像できる。

「で、その調子だとあなたはプレゼントはもらってないのでしょうね。宝の持ち腐れになっているのね」

 俺を蔑むような店長の言動は俺の逆鱗に触れかけた。ただそれは、触れてはいけない事だとしっかり知っていた。悪いのは俺だ。何が信頼を下げただ。

「そしてあなたは彼らの連絡先も知らなそうね」

 心に言葉の雨が降り注ぐ。みんなが知っているあの液体の雨ではなくそれらは石で硬くて痛かった。

「どう、私の推理。あたってそうでしょう」

「あぁ、間違えないと思う。なんだかそんな気がしてきた」

 根拠も証拠もないのに俺は友達を容易く裏切った。酷い罪悪感、いやそんな言葉だけで表せれないぐらいの気持ちに俺は陥った。自分で蒔いた種なのだから仕方ないのはわかっていた。だから、この感情を表に表現することはなかったが……、

「ハンカチあげるよ」

 俺は泣いていた。後悔とそれ以外の何かに心が満たされていた。店長からもらったクリーム色のハンカチで店長の目を気にすることなく永遠と出てくるのではないかと思わせる涙を拭った。


 涙が止まってまたしばらくこのパンケーキを食べていた。添えてあるレモンには手をつけずにこの三位一体をゆっくりとそして昔のあの残された微かな三人の記憶をしっかり味わいしみじみと思いながら次から次へと味わってお皿の上にはレモンと食べていいのか毎回わからない葉っぱが残っていた。

 セルフィーユという名前らしい。

 食べ終えしばらくは何もしようとは思わなかった。何かしなければと思うけど行動はなんとなく焦っているような気持ちにさせられた。

 おかげで静寂な時間ができた。店長はキッチンでお皿を洗っていたり、料理器具を棚に戻したりしている。ただ飲食店なのに料理を作っている姿は見ていてなかった。お客が俺しかいない閑散としている店内は嫌でも静寂に包まれる。

その静寂が少し揺らぎ出したのはやることを終えた店長が店の奥の方に入ってまた店に出てきた時だ。右手に茶色の紙袋を持っている。本屋さんでよくレジ袋の代わりに買える紐の付いていないあの薄い紙袋。

「本当は私インチキしたから推理でもなんでもないんだよ」

 持ってきた紙袋を俺の座っている席に置く。その紙袋には緑色でもう存在しない本屋さんの名前が印刷されていた。しかもこの本屋は確か……、

「どこから貰ったの。この紙袋」

 俺があの日人生を狂わせ先ほどまで後悔と嘆いていた時にいたの本屋さんで、今は建物の老朽化でその本屋さんは潰れたのだ。代わりにと言わんばかり別の本屋さんが出来たが出来上がった時には俺は引っ越してそこの本屋さんには行ったことがないので縁が無い。

 ただその本屋さんはもうないのだからどこからそれを入手したのかという疑問が俺の頭いっぱいに満たす。

 やっぱり想像もできなかった。店長はやっぱり俺より遥か上をいっている。

「多分その子達来たよ、この店に。そしてこれを私に渡して言ったの。"もしもだけど佐藤大智って人がこの店にきたらこれ渡してくんね"って。"誕生日プレゼントだから"とも付け加えて言ってました」

 俺の頭にはたくさんの疑問があって考える力が鈍っていた。店長の言ったことを単語に分けて一つずつ並べていく。並べる時間より店長の次の発言の方が早かった。

「佐藤大智ですか」

 この返答には考える時間は要らなかった。

「はい、俺は佐藤大智です」

 店長の顔が一瞬明るくなった。店長が紙袋を俺に差し出してきた。           

 この二人のやりとりに会話はなかった。ただ店長もわかっていただろう。俺もわかっているんだから。

 "この場に会話はいらない"


 俺は泣き崩れた。膝が床に付き両手を両目に添えて目を隠すように。手が濡れて湿っぽくなっていく。そして手に収めた彼らからの手紙がほろほろと落ちていくのではないかと思いたくなるぐらいに。

"大智、誕生日おめでとう!俺らより先に先輩になって、誰よりも信頼できる仲間だよお前は。てかさ、お前しかいないんだ。この凸凹の蓮、芳昌を支えられるのは。俺らはな実は小学校の時結構やり合ってたんだ。意見が合うことがほぼ無くて、ずっと喧嘩だったよ。けどさ中学校に入って大智がいたから俺らは今楽しくそして喧嘩の数も減っている。また言うことになるけど俺らは大智がいることによって今がある。だからこれからもよろしくな!"

 目元に涙が溜まって、湿っていて。けれど最後まで読んだら溢れて溢れ出してきた。

"ずっと一緒の三人組 メンバー二人より"

 

「いい子達じゃないの」

 涙が収まって少し間ができたタイミングで店長は声をかけてきた。

「謝りたい、彼らに謝りたいです」

 この気持ちと彼らへの感謝。それらを体中に満たした俺は行動をしなければならない。

「ここで働いてもいいですか」

 それは自分でも驚いた。

「どうしていきなり」

 だが俺の口は止まらずすらすらと単語を並べる。

「ここに来たら、いつか彼らと会えると思ったから」

 店長の顔はまた一瞬明るくなって丸めた手から親指を出し前にだす。

 こうして俺はこの店に働くことになった。


 この店長とは上手くやっていけるのかと思い始めたのはあの後家に帰った後だ。だって、いろいろ変だったし、愛想無いし。

 あの店に最初に入った時の店長の態度は目を疑ったもんだ。

 けど後悔するにはまず彼らに会ってからにしようと俺は考えを改めた。会えたら俺はもう用無しだしこの店を辞めてもいいだろう。うん、そうに違いない。

 その日はカップ麺を食べてお風呂に入って寝た。特に何も考えないようにしたけど彼らのことが何度も頭をよぎる。終いには夢にまで出てきた。

「大智」

 そう呼んだのは蓮だ。舞台は学校の正門で蓮は学校の玄関にいる。距離があるから蓮はだいぶ大きい声で俺を呼んだのだろう。

 蓮の元へ急ごう。そう思って足を一歩踏み出すと肩を叩かれた。正確には肩に手を添えられた。

「大智」

 そう俺の名前を読んだのは芳昌。頬が上がって笑っていて、大福のように思えた。

 俺は芳昌と一緒に蓮の元へと向かう。相変わらず蓮は手を広げたり、飛び跳ねたりして最大限に存在をアピールしていて。子供らしくて、おっかしくって笑ってしまうし、なんだか幸せだなという感情が笑って生まれた。

「遅いよー」

 蓮の元へ走って向かったのに、これ以上どうしろととは一つも思わなかった。なぜなら俺はわかっていたから。蓮のこれは俺と芳昌を笑わせるための冗談なのだと。

「ごめんごめん」

 俺は手を軽く揺らして謝って、背を向けた。そして芳昌の方へと向かう。

「毎回わざわざ来なくていいのに」

 芳昌の元に行くと彼は必ず言うのだ。だが芳昌を置いていくのは申し訳ないし蓮の元へなかなか辿り着かないのもなんか焦ったいし。だから俺はこんな風にしている。確か自主的にしていて蓮には'すごい'と褒められて、芳昌からは'大丈夫'とやや断られている。

 この凸凹に上手く乗るために。

 褒められるというプラスと断りというマイナスを合わせてゼロにするために。

 薄々と昔の自分を思い返した夢だった。だけど見捨てれなかったという思いも少なからずあるのだ。ただやっぱり自分優先だったと思う。

 歯を磨いたり着替えをしてと身支度を整えて昨日のカフェに向かう。制服は向こうにあるので用意するものは大抵いつもの外出セットと変わりない。

 このカフェには裏口がない。変わりに店長の家の玄関はある。

「うちの家の玄関から入ってきて。カフェの裏にあるから」

 これは昨日店長に言われた伝言だ。頭がいい風に落ち着いていて良かったなと思った。ツッコミそうになったがカフェを出て裏に行き見てみると店長の言った通りのことがそこには実在した。

 桜木という表札があった。

「店長は桜木って名字なの」

 それを見て咄嗟に質問をした。

「いや違うよ」

 店長の名前は大月明日奈というらしい。

「なんで、名字違うの」

「言うまでもないよ」

 そこで会話は終了して俺は帰宅したんだ。

「おはようございます」

 一瞬驚いてずっこけそうになった。ドアを開けてたら店長が、いや大月さんが玄関に丁度いたからだ。

「挨拶は」

 いや言える訳ないでしょこのタイミングと心の中でツッコミを入れた。

「はい、おはようございます」

 やや嫌気味な感じで言ったのが即バレた。

「暗い、感じ悪い。もう一回」

 よく学校でお目にかかる嫌われる先生のようなことを大月さんは言った。どうやらこのセリフは誰が言おうとも嫌われる対象に入るらしい。今少し嫌悪感を抱く。

「おはようございます」

 今度は文句なしだろうと体中から溢れる嫌みを強引に押さえつけてはきはきと言った。

「最初からなんでできないのよ」

 嫌みを押さえつける意味がわからなくなりそうだった。

「メニューを覚えて」

 着替えを済まして厨房へ向かうと大月さんにそう言われた。

「それって勤務外にすることなんじゃないの。ありがたいけど」

 正直なことと素直な感想をただ述べた。

「だってこの店客来ないんだもん」

「じゃあなんでこの店の店長してんのよ」

 やっぱツッコミを入れたくなる。別にお笑いが好きとかではないが大月さんの言ってることが矛盾してなさそうでしてるようでと行ったり来たりを繰り返していて。これほどツッコミを入れやすい人なんてそこまでいないだろう。

「うーん」

 なぜか大月さんは腕を組み何かを考え出す。

「何考えてんの」

 少しの沈黙が訪れる。

「言うべきなのか言わないべきなのかを考えている」

「なんでだよ」

 またツッコミを入れてしまう。ここにいたら癖になりそうだ。

「言うけど誰にも言わないでよね」

 大月さんはそれを隠す気はあるのだろうかと思う速さで俺の答えに返した。

「わかった」

 そういうと大月さんは口を開く。小さい穴がだんだんと大きくなっていく

「桜木お……」

 カラカランとお客の訪問を知らせる音が鳴った。それは鈴なんだと今初めて知った。

「いらっしゃいませ」と大月さん。

「いらっしゃいませ」と遅れて俺が言う。

 大月さんはお客を席まで誘導させる。訪れた客は高齢のお爺さん二人組だ。

 大月さんが席まで誘導させるとお爺さんたちはメニューも見る間もなく「パンケーキ二つとコーヒー二つ」と注文を入れた。

「承知しました。いつものパンケーキとコーヒーをお持ちしますね」

 注文を承った大月さんは厨房へ戻ってきた。

「常連の方なの」

 注文をとっている感じあそこには初めてじゃないような親近感溢れる空気があって慣れた手付きで注文をするお爺さん。

「今は仕事だよ」

 俺の質問は突如舞い降りてきた仕事で掻き消された。

「今日は料理を届けるだけでいいから。流石に出来るよね」

  

「こちらコーヒーです」

 コーヒーをお客さんに届けるのはこれで二回目だ。それはなぜか。コーヒーをお盆から落として溢してコップを割って。

「料理を運ぶこともできないのか」と大月さんに雷を落とされた。自分でもなんで落としてこんなミスをしたのかわからなくて、お客さんもいたから肩身が狭い思いを少しの時間体験した。

「ご苦労さん」

 お爺さんたちの机にコーヒーを置くとたくさん顔にあるしわをいっぱい曲げて柔らかい表情で俺に感謝を伝えてくれた。

「ありがとうございます」とこの場を離れようとしたら「ちょっとお兄さん」とお爺さんたちに呼び止められた。何かやらかしたかとかさっきのコーヒーの件への苦情なのかとか身構える。

「はい、なんでしょう」

 怖気つくような気持ちで俺は今立っている。この雰囲気はあれだ。あれに近い。


「お前はどうしてこんなにも出来ない子なんだ」

 夕飯を家族が終わらせた後、俺は親父に部屋に呼び出された。親父の部屋は恐怖でしかない。

「聞こえてるのか、どうしてお前はこんなにも出来ない子なんだ」

 ドンと親父は拳を机に叩きつける。その衝撃と振動で机の上にあった親父の万年筆は転がって床へ落ちた。

 俺は今日いじめられて泥々の制服になったまま家に帰った。

「あんた何またやられてるの」

 そう言うのは姉の栞菜だ。

 俺は背が低いし体重も身長と比例しているかのように軽い。だから小学校の頃はいじめの的に打って付けでいじめっ子に数えることが出来ないほど散々な目に遭わされた。

「すべてこれを防げないお前が悪い」

 こういう姿で帰って来たら俺は毎回栞菜からこう言われるのだ。しかしこの言葉を浴びさられるのはこの場だけではない。

「すべてこれを防げない貴様が悪い」

 これは兄の逸平の言葉だ。これは栞菜よりタチが悪くこれを言った後俺を訓練という名の暴力で何度も殴りつけ蹴ってを毎回テキトーな時間受けることになる。毎回時間が異なるからこれには正当性が一向になくただ逸平の気分が晴れるまでの殴り放題のサンドバッグに俺はなるのだ。

 これだけ殴られようとも永久歯が飛んで抜けるようなことがなかったのが幸いで、骨も折れることはなく案外丈夫なんだと知らされた。だけど丈夫に良いことはなくて丈夫と分かればまた遠慮なく殴ったり蹴るを繰り返す。

 そうして母は俺を丈夫に産んだのか。それを悔やむのがその時間の時で計画性があって巧妙に練られた計画とか思っていた。

 逸平が一番激しいがそれを軽く超えてくるのが親父だ。

「お前はどうしてこんなにも出来ない子なんだ」

 兄姉とは言葉は違うが受け止め方は一緒で時によってはそれよりも酷く痛めつけられた。

 膝と足の裏が長時間立ち続けてて痛いのだ。

「お前はそこで立ってろ」

 これが始まりを告げる合図で俺はそれからただ立ち続けるのだ。その時はもちろん私語は禁止だし一歩でもそれ未満の範囲でも足を動かそうとするならば俺は親父に本を投げつけられる。それがまた分厚い辞書みたいな本だから痛い。

 やめてと言いたいが言われたら刺激して今よりも酷く暴れ出しそうな親父には太刀打ちできなかった。わざとしなかったと言った方がマシだろう。

 ならその時母はというとこの現場を見るは見るものの目て見ぬふりをして家事に逃げるのだ。我が子を助けることなく母は洗濯物を必死に畳んで箪笥に入れたり、お皿を洗ったりしている。

 何かと母が一番嫌いなのかもしれないが、体育のある月曜日に体育袋を開いた時の母の匂いとそれをきっかけで母のことを思い出すからか嫌いではなくなるのだ。だって母がいなかったらこんな匂いを嗅げないんだし。そう考えれば親父と逸平に殴られることも彼らがいなかったら有り得なくてないんだ。

 そう考えたらまだ我慢できてそれはいつしか我慢のための策となって俺は小学校を卒業した。

「転校するんだね」

 これは小学校最後の担任の言葉だった。頑張っての労いの一つの言葉もなくて事実しか述べられなくなるほど。その時初めて先生が嫌いになった。

「先生いじめられています」

 これを言った時の先生の顔は熱心でとても頼り難い先生のように思えたがこの時約一年思ってきたことが覆され最悪だとも思った。嫌これより最悪なのはまだある。

「卒業証書」

 式団で校長が生徒一人ずつに卒業証書を渡す恒例行事。また一人また一人と終わるにつれて自分の番が近づいてくる。ついに席を立ち次の次の次になる。

 次の次になった。心が踊り出して頭がいっぱいになる。だからもう何も考えれなくなる。

 次になった。手汗が出てきて卒業証書を何かの弾みで落とさないかが心配になるしちゃんと練習した通りの動きをできるだろうか。この時何度も頭で受け取って見せる。手の出し方、足の出し方、お辞儀をするタイミング。

 俺の番が来た。来たんだ。そのはずだった。 

「佐山咲」

 俺の後ろのやつが呼ばれた。この時の校長先生の顔を俺は鮮明に覚えている(校長先生が目の前にいたしそれ以外の選択肢はなかった)。名前と俺の顔を何度も往復して終いには後ろの名前を呼ばれた子が表に立った。

 卒業証書はあったのに俺はその場で受け取る事ができなかったのだ。

「なんであの子出てきたの」 

「あの子どうしたのかしら」

「あの子恥ずかしいわね」

「お兄さん変なの」

 耳を澄ますたびいろんな言葉が聞こえた。在校生、保護者がヒソヒソと口もとを隠して横の人と話して。いや、在校生は盛大に笑っていたな。忘れないわあの大声。

「あの人変な人だ、あははははは」

 そいつは大声で笑って言いやがった。

 机の上にはしっかりと卒業証書が置いてあった。やはり先生の陰謀だ。先生もいじめのグルだったんだ。仲間なんていなかったんだよ俺には。

「さあ行きましょう」

 中学生になって母は父と離婚した。兄姉は父方へ行き取り残された俺は母方への強制送還となった。

「ごめんね、ごめんね」

 俺の両肩に手を添えて泣き崩れる母は見るに耐え難くなるはずなのに。

 俺の心は無心に近かった。その光景を見てなんとも思わなかった。

 今になって母はいろいろ助けてくれる。一番の行いは例の本屋さん事件で俺の不登校とのちの転校を認めてくれたこと。けど今になってはそれが間違いで母は所詮父の時に俺が抱いた時の母への気持ちと変わらない。やっぱ邪魔なだけだったんだ。

 俺は家族のお荷物でしかなかった。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

 お爺さんたちの呼び掛けで我に帰る。

「何も聞いてなかったね」

 ふんわりと俺の心を撫でるような笑みをしたお爺さんたちは、心配をしつつ楽しい場を築こうとしているようにみえる。

 ブラックになっちゃいけなくて、仕事に自分の過去とかを出してはいけない。

 俺はお爺さんたちの座る席の横に座っていた。我がなかったときに座ったのかでは、そうではなくお爺さんたちが快く席に招いてくれたのだ。

「すみません。自分の過去に戻っていました」

 普段話したりすることが苦手なのだからお爺さん二人に囲まれてなんだか恥ずかしい感情で気まづさが忍び寄って出てくる。

「いいのう、若いもんの話も聞いてみるのも。どれ話してみんかい」

 お爺さんたちは俺の過去に興味深々だ。正直言いたくはなかったのだが口と体は感情に素直だった。

「いいですけど暗いですよ、それでもいいなら」

 どうぞどうぞと勧めるお爺さんたちに俺は過去にあった事を話した。涙が出てくるぐらいだったんだ。いつもはそれを思い返すと涙がたまらなく出て心が嫌に揺さぶられるが今回はそうならなかった。

 心が、一つ一つのピースを当てはめるようなパズルのように形を取り戻すような気がした。お爺さんたちは俺が話している時に背中に手を添えて軽く撫でながら「よく堪えた」「もう大丈夫だ」と声を掛けてくれた。上手く例えれないけど今はそんなことを考えることが精神的にも来ていた。過去の一つ一つのシーンを繋げるだけでもだいぶ限界だった。

 だから本当は今すぐにでも口を閉していい。けど今までこんなに親身になって話を聞いてくれる人がいなくて、新しい感覚に出会っている。新しい感覚って体が引き込まれる。地下深くに何かがあるようなそれろ鉱山で採掘する人みたいな気持ちでどんどんと掘っていって。それと同じように俺もどんどん口を開いていって話していく。

 話すってこんなにも楽しいんだって久しぶりに感じた瞬間。それを手放したくないとも体は思っているのだろう。 

 強く強く抱きしめている。

「良い話を聞かせてもらったよ」

 一人のお爺さんがそう言うともう一人のお爺さんはテンポよく頷く。そのテンポは俺の鼓動も上手く乗せてくれている。

「お兄ちゃんはよく耐えたよ、堪えたよ。わしらよりすごい」

 自分の感情に出口はない。死んだらあるじゃん。あるとしても意識がないからそれは出口とはなかなか言い難い。

「そのあとはどうしたんじゃ」

 お爺さんは話を進めてきた。


 いじめは結局解決はせず自然消滅と言える形で消え去った。ただ消え去っただけで本当に解決はされていないし俺を終始いじめてきたやつに天罰が降ることはなかったから、それは俺のイライラを暴騰させてくれた。

 今だに俺は小学校の頃に聴いた曲とか小学校の時に触れた物、場所、食べ物。それらを見て触って懐かしいと感じる傍らいじめのことが頭をよぎって心が縛られきつく苦しくなる。数十秒前の自分とはあからさまに態度、テンションが違っていて周りからは変な異物を見るように見られていただろう。

 高校の時の友人の誕生日会の時にでさえそれは自発的に出てきたのだ。"Happy birthday to you"とみんなが今日の主人公の友達を祝福する中俺は遠慮がちに手を叩く。みんなは口を開き各々揃えて歌うのに俺は口パク。悪いとはわかっていた、だからこれをしている時俺は心の中でただひたすらに謝っていた。

 "ごめん、本当にごめん。君が嫌いとかじゃないんだ、本当に……"

 どうやら泣いていたみたいなんだ俺は。自分では泣いているとはわからなかったが涙を目に溜めて、呼吸を乱す大智の姿があったらしい。

「大丈夫か」

「いきなりどうした」

 友達の心配そうな声はしっかりと耳に届いていたが自分への感覚はなくて「大丈夫」と返すのに「泣くのに大丈夫とかないだろ」ってひつこいぐらいに押し入ってくる。

「昔を思い出して涙が出てきただけだから……ごめんね、なんか水刺しちゃって。さあ、再開だ。一年に一回の日を迎えれたことに祝福だよ」

 本当は泣いていなにのに、自分のせいで流れを絶ってしまったんだからと急ぐ気持ちで盛り上げる。片手にしゅわしゅわと弾ける炭酸のジュースが入った紙コップを天井へ指す。 

 その時の紙コップはなんだか生ぬるく感じた。

 勢いに任せて飲んだジュースも炭酸のあの弾けるしゅわしゅわを舌があまり感じることなくけれど喉につっかえる跡を残しやっとの思いで飲み干した。

 友達も勢いでジュースを飲んでいた。

 その後は楽しく祝福が出来て閉幕となる時間までご飯をいっぱい食べてゲームをしていっぱい話して。この空間はあれから静まることがなかった。

 でもやっぱ俺はやらかした。何か味気ない、何かが足りない。完全なる盛り上げムードを下げなかったらこう感じることはあったのだろうか。

「ごめん、急に泣いたりして」

 友達みんなが帰ったが俺はまだ残っていた。今日の主人公へどうしてでも申し訳ない気持ちが隠せなくて面と向かって言おうと考えていた。

「あーあれね、特になんとも思ってないから大丈夫だよ」

 自分が思っていたほどの反応はなく、真逆の反応という点でも焦った。

「けど、どうして泣いたの、何を思い出したの」

 彼は鋭かった。

 "特に何もないってば"って言い返したかったがやはり出来なかった。口がモゾモゾと芋虫のように歩く。その芋虫が疲れ止まると俺の口は次は蝶の羽になる。

 またこれは昔の話になってしまう。

「お前、俺の誕生日を祝え」

 友紀は俺にそう言うと胸ぐらを掴んで俺を軽々しく持ち上げる。終わりの会という名の終礼が終わって教室は帰りの支度をする生徒とそれを終わらせ颯爽と帰る生徒らがいる。その、しかも俺の席は今教室のど真ん中だから嫌でも教室の真ん中で高々と俺は上げられる。

「な、俺ら友達だろ。もちろん来てくれるよな、祝ってくれるよな」

 俺が物理上見下ろしている位置にいるのに友紀の目線が圧が行動が俺の何よりも勝っていて俺は見下ろされているし見下されている。クラスメイトからの視線が冷たい。だから寒い。小学四年生にもなって軽々しく持ち上げられて恥ずかしい。だから暑い。

 俺は強制とされた選択肢を選び頷く。

「祝ってくれるならプレゼントあるよな。俺にお前の貯金全部くれ」

 俺は絶望だ。こいつはお金に手を出すのか。

「それは嫌だ」

 否定とは間違えなのだと散々こいつから学んだけど反面教師。

 俺の体は教室の壁とぶつかった。友紀は俺を投げ飛ばして壁にぶつけた。背中全体が今までに感じたことのない痛みを帯びている。

「わざわざ物を買わなくていいと言ってるのに、お前最低だな」

 俺は今なんと言われたのだろう。友紀の足が俺の腹へとめり込む。つまりは蹴られている。最悪昼に給食で食べたわかめご飯を口から出してしまいたくなりそうだった。

「なあ、プレゼントで俺の誕生日なんだからく、れ、る、よ、な」

 くれるよなが途切れて聞こえたのはこれを強調するためであった。右手の人差し指を途切れさすリズムに合わせて俺の鼻を押す。

 事を済ませた友紀らはランドセルを担がずに肩にかけ教室を後にする。

 痛みを帯びている背中と軽く蹴られた赤いあざが置いて行かれたと怒っている。

 ここまで無様にやられ俺に寄り添う奴なんて一人もいない。"大丈夫"その一言で俺はどれだけ心を開けただろう。鍵のない扉は開くことがなくただ置いたままの置物の役割を果たす。

 家に帰って親に詰め寄られる。

「なんでそんな服が埃だらけなの」

 居間に出向くと横になりせんべいを食べている母の姿があった。そのかすが床にところどころ落ちている。

「転んだ、学校で思いっきし」

 俺は家族のお荷物。だから学校では置物で家ではお荷物の役割を盛大に果たしている。

 "いじめられて"これは禁句なのだ。逸平、栞菜より俺は圧倒的に衰えていて常に俺は比べられ続けた。逸平はこんなに頭が良くて、栞菜はこんなにスポーツが出来て。三人目はこれらを組み合わせた素晴らしい子を生まれてくるという家族の期待を裏切り生まれた俺。

 そして上二人はいじめに遭ったことはない。からかい、ふざけなどには遭ったがそれをされた後にはそれの何倍もの仕返しを行いそいつらを散々な目にしたそうだ。

 自分で蒔いた種なのだから自分自らが対処をしろ。明確に言われたことはないが家はそういう法律があるのだろう。

「失敗作」

「お前はなぜこんなのを産んだのだ」

「俺の息子と名乗られたくない」

 逸平、栞菜、親父の順に言われた言葉。全部バラバラの時期に言われた、言われた場所も、時間も違うのにこれらを言われたシーン、状況は本当に鮮明に覚えていてなかなか忘れられなかった。

 憎悪、侮辱で心に残るのとはまた違った感覚だ。

 母からの言葉は無い。母は俺の味方、というわけでもない。むしろ状況を悪化させ、俺を常に下に置こうとする。俺を上手く使いこなす魔術師なのだ。

「私は悪くない。どうもこうも生まれた後の行動一つ一つで変わるのだから」

 栞菜が言ったという状況には母も居合わせていた。そしてそれは母に栞菜が言ったことだ。そう、つまりお前は母。

 あくまで私は悪く無いと言っている。間違いでは無いのだけれど実の息子を庇う様子もなく逃げていく

のには変わりない。

 母は親父たちの支配下。だから、いじめのことを言おうものならどれだけの速さで親父たちの耳に入るだろうか。自分なりに何かは仕返した。ただ当たり前のようにやり返され結局仕返しをする前よりも関係は悪くなった。

 自分が何か手を加えるとそれはダメな方向へと向かう。美味しいカレーにさらに美味しくしようと自分なりに調味料を入れて結果美味しくなくなる。この時の戦犯としてカレーを楽しみにしていた人、カレーを食べた人から向けられる人らからの視線を感じてしまう。

 今この部屋に自分一人しかいなくてもそう感じてしまう。

 ある意味一人になれないのだ。泣こうなんか思えば誰かに見られている気さえして泣けない。泣いたら負けの感情、思い込みがなかなか頭を離れない。

「あらそう」

 母が会話を終わらすとどこか安心する。

 こんな俺でも一応自分の部屋があるから階段を登り突き当たりにある自室へと入る。でもやっぱり一人になんかなれないし、いちいち学校の時の自分を演じていてただ椅子に座ってただいるわけでもないしあるわけでもない人の視線を浴びつつ時間が経つのを待つ。そんな日々だ。

 思い出したくないことは頭から本当に離れない。"誕生日プレゼント、誕生日プレゼント"。通過してくるはずのない電車がまた前を通って、行ったなと思ったらまた前を通って。うるさい、圧といった存在感がなかなか拭えなかった。どこに行こうともお前がそこにいて、何をしていてもお前が言った言葉が俺の頭を電車の如く通過して。 

 "お前"と呼んでしまった。俺はどうなるの、だってそこに友紀がいる。友紀の友達もいる。みんな俺を見ている。俺はこれからどうなるの。また投げられるのか、蹴られるのか。

 今から俺はどう調理されるの……


「いつまで寝てんだ」

 逸平の姿が目に映る。閉じていた目を開こうと精一杯の気持ちで目に力を入れて目の周りの筋肉を伸ばそうとする。

 そうこうしていたら俺は床に尻をついた。肩が誰かしらに触られて感色があって、周りには逸平しかいなくて。

「鈍いんだよ、早くしろよ」

 俺の体は彼らに何もされなかったみたいで、逸平のやった行動なんてこれぐらいしか記憶されなかった。この時間帯は夕ご飯の時間。俺は下へと向かう。

 ご飯、お風呂を済まして自室に向かうと引き出しの中から貯金箱を取り出す。家族に取られるかもしれないから一度開けたら終わりの貯金箱にしてある。

 ガサゴソと散らかっている引き出しの中を右手をあちらこちらに動かしながら探し出す。大きいから見つけるのには苦労しない。それに小銭特有のぶつかり合う音が聞こえるはずだから今まで取り出すのに手間取ったことがない。

 一瞬、心臓に冷たい冷気が吹いた。

 "まさか"という感情が生まれて吹いたであろう。

 右手だけに頼っていたが頭を引き出しに入れた。少し暗かったが明るい色の貯金箱はおそらく目立つであろう。

 オレンジ色だしある程度のサイズである。ただ目的としているそれはこの中になかった。

 足を動かした。階段を一段一段とガサツに降りていく。

「俺の貯金箱知らない」

 居間のドアを開いて家族全員の顔を伺いながら聞いた。声は全員に行き渡っていた。絶対そうだ、そのはずだ。耳につっかかることなく入ってきた自分の声。十分だと思える声量だ。

 だが家族の耳には届いていない。聞こえなかったではなくこれは無視なんだとすぐに理解できた。

 ならもう一度と吐き出そうとする声。しかしそれはわざと躊躇った。終わりがわかっていた。だから俺は家のゴミ箱を知る限り探し出した。台所、母の部屋、親父の部屋、逸平の部屋、栞菜の部屋と。二箇所目の所にあった。母の部屋。

 貯金箱が壊され、そのかけらがゴミ箱の中に散りばめられている。それらを全部目に入る限り拾い集めた。食べ物欲しさにゴミ箱を漁る猫より可愛くない絵面を描いている。

 右手が赤く染まっていた、と分かれば右手が痛かった、と感じれば無数の細かな傷が出来ていた。

 お腹の空気が荒れ始めた。今までにない振動で揺れ始めてきて、自分の呼吸もそれに合わせて揺れ始めお腹の空気のように荒れ始めた。

 "邪魔だ"と耳に入った。

 "邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ"

 声の主はいつもどこか聞き馴染みのある声をしていて、この部屋の持ち主の母と栞菜ではない。女の声ではない。家にいても聞く声。なら友紀ということでもない。でも学校でも聞く声。親父でも逸平でもない。

 "邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ"

 そう耳に入ってくる。これには主語がない。一体何が邪魔なのかと思う。

 大きくなった。耳の鼓膜が大きく震え出す。思わず両手を使って耳を覆った。左耳は無傷だったから左手の温度が耳を包んだ。けれど、傷もついてそこから溢れ流れ出てきた血は全く水を含んでいない絵の具のように耳にのしかかった。

 手と鼻の距離が縮まったから鉄の匂いがした。

 耳と頬を繋ぐ骨が出たり引っ込んだりを繰り返す。

 俺の頭は何かと何かを結びつけた。肩の力が抜け手は重力に任せて無気力となり床につくと無気力な手はやっと止まった。

 声の主は自分なんだとわかると頭の中が熱くなった。

 邪魔としていたものがなくなった。止まった両手を交互にしながら両目を拭う。

 鉄の匂いと口に飛び込んだ水の酸っぱい味を体は堪能した。


「はいこれ」

 俺の全財産を誕生日会当日友紀にプレゼントとして渡した。お金は無くなったから渡さなくてもいいと思ったが母の財布から盗んだ五百円玉をせめてものプレゼントとして渡した。

 盗んだお金は自分に需要がなくなんの気持ちも抱かずに他人に譲渡することができる。

 友紀の手に一枚の五百円玉を乗せた。喜ぶ事もありがとうと言葉をかける事もない。これはもうすでに知っている事だったから今更何か嫌気を指すことはなかった。もちろん次の事も予期していた。

「お前、舐めてんのか」

「これが俺の全財産だよ」

 目が吊り上がっている。親父のように拳を机にぶつける。机の上にあるこの場にいる人数引く一のコップは姿勢を崩して音を立てながら体勢を立て直す。

「お前もっと持っているだろう。一万円とか二万円とか。俺はそれぐらい持っているぞ」

「そうだ、そうだ」

「舐めてるのかー」

「五百円なんてお小遣いだ」

 友紀の発言を火蓋に他の野次馬はお得意のヤジを飛ばす。これは間違えなく俺の全財産なのにと誤解を呟かれた時のなぜだか恥ずかしく足場をなくした気持ちと元あった本当の自分の全財産が恋しく感じる。

「何か言えよ、嘘つき」

 冤罪の生まれ方を学ぶ。確かな証拠もなく人は誰かを犯人扱いにする。一人が不適切な誤解をある一人に向けるとそれはやがて広まりみんなはその一人を悪い奴と考える。確かな証拠がないにも関わらず面白そうや楽しそうという娯楽に、自分は正義かもしくは正義に味方する心優しい観衆を演じる。

 振り回された不確かな情報を片手に一人の人物にただただ負荷をかける。やがてその一人の言い分は信じれないと彼は嘘つき、つまりは容疑を否認していると。

「なら俺はどうすればいいんだよ」

 またあれだ。今度は友紀の家で発作は発生した。

 貯金箱の件であったお腹の空気が荒れた時の症状を調べたら過呼吸、発作と出た。

 "お、おい"

 多分こう聞こえた。多分、正確には聞き取れなかったからわからない。

 自分の声が勝っていた。友紀の声よりも遥か上に俺の声は君臨していた。

「うるせー、何が嘘つきだ。取られたんだ、あのババァに。そうさ二万近くあった。けど全部取られた。だからどうしろと。何を渡せと」

 畳の床は草の生い茂ってげっそりとした感触と共に悲鳴を上げる。俺の拳も悲鳴をあげているのだろうか。

 びっくりした。友紀らも居間の俺を見て驚いただろうが自分自身もかなり驚いている。この場にいる人全員はおそらく一緒なことで驚いているのかな。だって俺がこうなって彼らはこうなっている。

 目をまんまると開き俺をじっと凝視する視線はなかなかに耐えれるものではない。ただ今の俺はそれをなんとも思わず耐えている。

 また拳が痛くなる。例の音と一緒に痛く叩かれる。

「落ち着けって」

 誰か一人の声が聞こえた。そしてその声の主は俺を抑えようと拳と俺を繋ぐ腕を取り押さえる。その勢いに乗ってか俺は彼らによって体全体を取り押さえられた。

「なんで、俺なんだよ。他にいるだろ。どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ」

 一文字一文字ははっきりと聞こえない、おどおどとした口調と滑舌で俺は言ったらしい。

 俺は犯人だ。そして凶暴者だ。どこかしらから持ってきた縄やガムテープで俺の手、腕、足は縛られ部屋の片隅に放置された。その無様な姿をさっきまでの驚いた顔を捨てたとても喜ばしい英雄がするかのような笑顔を浮かべて写真を撮る。

 俺は完全に身動きが取れなかった。この家を支える支柱に俺の体を縛る縄がそこにくくりつけられていた。動ける範囲はとても限られていた。口はガムテープでモゴモゴと何を言っても決して言葉にすらならない。

「じゃあ悪を倒した祝いに俺を祝ってくれ」

 そう言ったのは友紀だ。机の上に乗り片手にコップを持って乾杯の合図を出す。乾杯の表紙でジュースが多少溢れる気配があったが彼らは気にする事なく続ける。 

 溢れたジュースは畳に一つの印となって染みていく。コップから出されて彼らはしっかりと人間に飲まれて自分の役目を果たすのに自分は床にこぼれて染みて終わり。自分は取り残されました。

 俺と同じだ。いつも感じたりしたことがなかったが今俺は溢れたこのジュースの気持ちがわかった。彼はジュースで生まれてきた以上人間に飲まれるという役割がありそれを達成しないといけない。今の俺はここに来た以上彼を祝わなければいけない。ただどうかと考えると、彼は溢れて床に落ちもうあそこには戻れず、俺も騒ぎを起こし彼らに存在する輪を壊してしまった。

 染み込んだジュースは周りの畳へと広がっていく。今の俺にはこれはジュースの涙に見える。右往左往から出す涙は俺に"君も泣いていいんだよ"と囁いているようだった。

 "Happy birthday to you"

 彼らは乾杯を終えた後歌い始めた。今の俺は溢れたジュースを見ているから上を向けないし向きたくも思わない。今はこのジュースが俺の心をなんとかしてくれるはず。そう勝手に期待はしてみたものの自分は変わるわけがない。

 代わりにと言わんばかりに彼らの歌が心を動かす。あぁまただ。

 ある日心は大事な式を壊しました。

 心はその式の主人公とその部下たちに捕まりました。

 その続きが俺とそっくりだ。

 心も俺と同じで縄で縛られている。手を後ろに組まされ足もしっかりと締め付けられている。一人の男が心を見下ろしている。足を心に乗せて何かを言っている。最悪心には手や足があっても耳がなかった。たまたま目とはあった。

 必死に足掻く。最悪この場に身を留められているわけではないから右左と心は動けた。

 蹴られた。下は海だ。暗い暗い海。底はあるのだろうか。

 心全体が海の表面にぶつかった。足が奥底に眠るかのように沈んでいく。よく見たらボーリングの球ぐらいの錘が心の足に付いていた。

 心は……

 俺の心は沈んでいく。それこそ海底の底の見えない暗く黒い場所に。

 上が白で下が黒という印象は俺の頭から離れない。だから上が黒で下が白いのはとてつもない違和感を感じるし今すぐに上下か白黒を取り替えたくなる。

 心は黒いところにどんどん沈む。止まらない。

 心はハートの化身か何かなのでピンク色です。

 だけどピンクは黒に一瞬で染まった。周りに呑まれて彼は変わった。だけど黒くなる前に彼は周りに水を出した。ここは海底だから水なんて見えないはずだがそれらは光を宿らせていた。

 それは心が流した涙なのだろうか……

 俺は心と同じだ。涙が出ていた。畳が黒く滲むのが見える。そして楽しそうな表情を浮かべた友紀らが俺に詰め寄るのも確認できた。"泣き止め"と唱える呪文も無視してそれは止まらなかった。

「だから俺はこうなってしまいます。本当ごめんなさい」

 これで俺は周りからの評価等を下げたよ。小学校にいじめられていたことは今まで誰にも言って来なかった。だから"こいつはいじめていい人種なんだ、過去に何かしでかしたんだ"とこう思われても仕方がない状況だ。

 またバカにされる時期が始まるんだ。

「言ってくれてありがとう」

 そういってくれたのは鉄真だ。俺に深く詰め寄りこれらを思い出させた。何度忘れようと試みたか、決して忘れることができなかったみたいだ。これで結論が出た。

「誰かに相談したのか」

「いや誰にも」

「おい」 

 鉄真がいきなり怒り出した。さっきまで優しかった表情は鬼のような形相へと変わっている。

「どうしたのいきなり」

「どうしたのじゃねえよ」

 俺には鉄真がなぜいきなり怒り出したのか検討もつかなかった。鉄真はいきなり態度を急変させたり今みたいに怒ったりすることもない。

 怒られたのに涙は出なかったし、さっきまで出ていた涙は不思議と止まった。

「なんでそれを言わなかった」

「なんでって、言いたくなかったから」

「俺らが信用ならなかったのか」

 周りの友達も俺と鉄真に集まり出した。なんだなんだといった表情なのは無理もないだろう。

「普通言いたくない、自分が聞いて嫌なことを友達なんかに聞かせれるわけがない」

 優斗が俺ら二人の間に入ってきた。

「何があったの大智。なんで鉄真は怒ってるの」

 状況が読めていない。空気が読めていない。他に何か言えたはずだ。そんな言葉は一文字たりとも浮かばなかった。多分それが相手を友達を痛みつけてしまいそうな言葉だったから。

「俺のせいなんだよ、きっと」

 俺は下がる。それで鉄真は少し心を解き放ってくれるだろう。

 予想は見事に外れた。

「いや俺らのせいだ。殴れ。友達の過去を知れず、気付けづに今まで一緒にいてしまったこの代表の俺を思う存分殴ってくれ」

 外れがまた外れを引いた。

「殴れない、どうして殴らなきゃいけないのだ」

「大智のことをよく知れなかった無知の俺が悪い」

 何がなんなのか一つもわからないまま言われた通りに俺は右手に拳を作り始めた。

 懐かしい感じがしたのに顔が綻ぶことがなかった。憎しみとが入り混じった表情ができているに違いない。

「落ち着けお前ら。まず説明してからだ」

 大きく振りかぶった。本当はやりたくない。けれどやるしかないんだ。早く誕生日会を再開させなければならないのだ。ここと鉄真は頬を叩く。叩く音は弾力があってあまり痛そうとは思わず気持ちよさそうとさえ思えてくる。

 スピードを早めた。俺の拳は迷いなく鉄真の頬へと真っ直ぐに向かっていく。

 やがてそれは鉄真の頬に辿り着くはずだった。的を外した。痩せ細った鉄真らしくない頬に当たる。拳を出す直前目を瞑っていた。

 "殴れ"といった鉄真も実はというと目を瞑っていた。だから俺も思わず目を瞑っていた。

 間違えて誰かを殴ったという問題が頭に浮かび上がってきた。

 ゆっくりと瞼を上げる。そこにはやっぱり鉄真とは違う顔の形をした人が立っていた。

 優斗だった。さっき俺らの間に入って喧嘩を止めようとした優斗だった。

「いってえええええ」

 しっかりと聞こえる声量と聞き間違えるはずのない一文字一文字のはっきりとした言葉はこの誕生日会場全体に広がった。優斗には申し訳ないけれど俺は笑っていた。

 腹を抱え今さっき優斗を殴ったことも忘れて思いっきり笑った。笑っていたら視界がだんだんと元に戻ってくる。鉄真の姿は低い位置にあった。結翔と颯大に庇えられ二人の下敷きになっていた。

 俺の笑い声は一つじゃなかった。この声は鉄真の笑い声だ。俺らは笑う。さっきまでのあの空気を俺らは忘れてただ笑う。

 笑い声が五つ聞こえるようになってまた笑った。

 

「なんだか若い話じゃのう」

「だって若いからね」

 この話をしてまたお爺さんたちは俺の背中を揺すってまた声を掛けてくれた。相変わらず言葉は同じ。けれど想いというか気持ちというか、それらはさっきよりも重く重大な何かを背負っている気がした。

「そのあとはどうなったんだい」

 俺の横に座るお爺さんは俺に問いかける。

 

 あのあと、俺は鉄真を殴りかけたことと狙いを外したその腕の無さ、鉄真はいきなりこんな問題になり"殴れ"と友達に暴力を勧めたことを優斗に怒られた。

 優斗はその日が誕生日の子で要するにその日の主人公だった。それにこの五人グループのリーダー的役割を担っていてとても頼れるやつだ。けれど俺の過去を言わなかったんだから俺は'頼れる'とか'信頼'とかを使ってはいけない気がした。

「ごめん。友達なのになんか信用されていないことと大智を救えなかった自分が憎たらしかった」

 いきなり怒った理由として鉄真はこう語った。この会話でわかるだろうが鉄真はとても友達思いの良いやつだ。決して自分の誤ちを他人に押し付けない。"ごめん、俺のせいだ"と友達との関係に絶対自分を入れる。この喧嘩だってそう。

 俺と友紀との関係に彼は突っ込んできた。小学校のトラブルで鉄真とはもちろん会えていないし存在すら知らない。"自分がその場にいなかったのが悪い"と最終的にいったがそれはなんだか面白おかしくて馬鹿馬鹿しくて怒られているのにまた五人で笑う。

「で、大智の気持ちもわからなくはないな。俺は大智側」

 これは結翔だ。彼は思ったことはズバッと言って何事もストイックで。けれどそんな彼は頼もしかった。けどやっぱりそう思ってはいけない。'頼'なんてここでは本当に使ってはいけない。

「けど言ってくれたら良かったのに」

 最後に颯大がそう言う。彼はとても人望が厚い。クラスで結構人気があり顔はイケメン、性格も前向きで一緒にいると心が晴れる。

「だよな、本当にごめん」

「だから謝るな」

 そう言ってくれたのは鉄真であり、優斗であり、結翔であり、颯大であり、つまりは四人全員だった。

「今すぐ言え。鉄真に言ったことを一言も溢さず。もし溢したら大智、貴様を○す」

 そう結翔は言った。最後の方は笑いながら言っていたから流石に冗談だろう。そうであって欲しい。

 やはりもっと早く言っておけば良かったなと俺の全細胞は俺に訴えかける。全否定を喰らって居場所がなくなるかと思ったが居場所はさっきまでと同じ位置にあった。

「俺らは何もできなかったのか」

「大智を救えなかった」

「大智に気づいてやれなかった」

「大智のことをよく知らなかった」

 鉄真はまた怒りを覚えたようで今座っているソファの背もたれに強く頭を打ちつけ始めた。"おいおい俺の家のソファ"と優斗がなだめるも優斗も同じくソファに頭を打ちつけた。

 さっきの怒り方とか鉄真がそれをしているのはなんだか想像できたが優斗は真面目なやつだから意外だなと思った。なんだろう人の意外な一面を見るとまた笑って。

「あははは」 

 鉄真と同様、また腹を抱えて笑った。ソファ組に取り残された結翔と颯大も俺に釣られて笑い出した。そして気づかないうちにまた五人で笑っていた。

「もう五人がここに揃ったんだ」

 誕生日会の時についていた席に各々それぞれがついて再度、今日の主人公の優斗がこの場を収めるために言葉を放った。

「そうだな、この五人がいれば最強なんじゃないか」

 鉄真が机に肘をついて顔をその腕につながる手で支えてそう言った。

「鉄真、間違えない」

 これは結翔だ。鉄真を指差して言う。

「大智、もういじめられることはないんだから安心しろよな」

 最後に颯大が締めくくるようなかっこいい口調で言った。抱きしめらるシチュエーションなんだろうが男同士でその一線を越えてはならない。

「みんな、ありがとう」

 みんなはどんな風にこの言葉を捉えたのだろう。

 俺は他人の嬉しい情報とかは残念ながら乗れない。友達が言葉と体と顔を懸命に使って自分にあった嬉しいことを俺に表現している。それなのに俺はその友達に乗れない。

 あの畳のジュースのことが浮かんできた。乗れないんじゃなくて俺が友達を見捨てたと言うような気分さえした。初の友紀側の視点を見て勝ち誇ったプライドを得た感じがした。人に危害を加えるのはこんなに生々しいものなのか。

 意図としていないだけマシだなと心から感じてしまうがそれを感じてしまうことに耐えきれない罪悪感があった。心臓を酷く締め付けられてるといった痛みもあって居心地が悪い。

 今回はその逆だ。

 今俺はとても嬉しい気持ちでいっぱいだ。心に十分と満たされたものの表現するのはやはり罪悪感へと変わった。今までの前科となった事柄が流れる。わざとじゃないのに、俺は盛大にそれを祝福したいのに。そんな想いも感情も相手には届いていない。

 流れる、友達の笑顔。あの後がどうなったのかはすごく簡単で和やかな友達の出来事を祝福するのに対する出来事が切り離されて付けられて沈黙の静寂になる。

 こんな気持ちになっているのか、俺と同じなのかは人間である以上わからないがそうに違いないと断言してしまう。悲しい、嬉しいとかはたとえ人間でも分けて感じることができる。そう考えるとやっぱ俺が感じることとかは友達も一緒な感じ方をするんだろうなって思うから何をされた訳でもなく一人寂しく孤独の空へと追いやられる気持ちになる。

 あぁ友達も今までこんな気持ちだったんだな。

 五人は笑っていた。 

 俺は後に遅れて笑い出した。


 お爺さんたちはすやすやと机に突っ伏して眠っていた。

「だいぶお疲れなのよ」

 机に知らない間に昨日食べたパンケーキであろうお皿があった。レモンの皮がそばに移してあったからなんとなくそうだろうと思った。

「お爺さんたちさ若者にすごい嫌悪感があったんだ」

「え……なんで……」

「一人のあなたの横に座っているお爺さんは過去に自分の息子を不良のせいで亡くしたんだ。不良からいじめられてそれに耐えられなくて。家に帰ったら首を吊っていたって」

 視界は変わらないのにテレビのあの怖さを覚える砂嵐が吹いた。

 頭の中でそれが鳴る。

「心を置いてきてしまうような気持ちになるよね。詳しく話すからカウンター来て」

 そう言って大月さんは手を招き猫の手のように丸め俺をカウンター席へ誘う。

 お爺さんたちのプライバシーとか考えて日頃気を使ってそういった話は聞かない主義だが心にそれが宿っておりさらに大月さんが言うように俺は今心を置いて行っているからそれはないんだ。

 誘われるがままに俺はカウンター席を座る。そして横には大月さんが体の正面を俺に向けた状態で座る。カウンター席は体の向きを簡単に変えれるようになっていて体を捻るとその捻った方に正面が向く。だからか座ってすぐに体を捻って正面を直ちに俺の方へと向ける。

「大智の横に座っていたお爺さんはね長治お爺ちゃんって言うんだ。さっきも言った通り長治お爺ちゃんは息子を不良のせいで亡くしたんだ」

「早く聞きたい。お爺さんたちが起きる前に」

 俺は急いでいた。急ぐ必要は一切ないがこの話を会って一日も満たない人なんかが知っていいのかと何か法を軽く犯してしまったような気持ちにされる。だからかお爺さんたちの席を一度、二度と視線を移したりしながら警戒する。なんなら聞かなければいい、だが今の俺にはそれは無理な要求でしかない。

 "せっかち"と大月さんに煽られた後、大月さんは本題に戻った。

「息子は確か和治って言うんだけど中学校の時に……」

 大月さんの言っていることが次第に頭で映像として繋がる。

  

 俺は中学生になれた。けれどほとんどの友達は中学受験をして私立に行った。小学校の時にずっと話して盛り上がったあのムードメーカーや、将来の夢を芸人と謳いただ面白い事をするだけだけどしっかりと笑いを届けるひょうきん者。頭が良くてテストではいつも百点をとる漫画で出てくるような真面目くん。他にもまだまだ仲の良かった友達はいる。けど私立へ行ってしまった。

「和治も来なよ」

 彼らがそう言ってくれるたびに嬉しさと悲しみが同時に同じくらいの量で溢れ出る。

 俺の家は貧乏だ。兄弟がいっぱいいる訳でも、親が低賃金の職業をしているからという理由ではない。

 けれど犯人は父だった。

 父はとても酒豪で仕事が終わると同僚といった仕事仲間とすぐ居酒屋やキャバクラ、ホストといったところへ寄り道をして居酒屋では仲間と酒を飲んで呑気に笑い、キャバクラ、ホストでは女と戯れおまけに口に酒豪と言わんばかりの大量の酒を含む。

「かーさん」

 夜遅くの二時頃か。玄関の戸を開き酔った時にだす無防備なようでいつ武力を施すかわからない声を上げる。それは周りを考えない酷く荒げていて家内によく響く。そして寝ている時の音に敏感な俺はそれにて目を覚ます。

 覚ましたくないのに覚ましてしまう。絶対に起きてはいけない。

「お金ちょうだいよ、ね、ね」

 手を合わせながら母に祈る父の姿が安易に想像できる。"ね"のところの調子がバネのような躍動感を持っているから耳に障る。

「いくら使ったのよ」

 この後意地を張っても寝れないと知っていたから襖を少し用心深く見なきゃ気づかれない程度に開いてその様子を見る。想像していた光景で笑えた。これだけならまだ親しい夫婦のような感じだがそんな容易く夫婦は務まらないらしい。

「だから、なんだ。俺の金だ、いくら使うが勝手だ」

 無防備が武力を施す瞬間はカメラのシャッターを切るよりも早い。気づいたら、知らない間にと父は父ではなくなる。いや違う視点から見たらこれが父なのかもしれない。

 また違う父。制御の効いていない父。

 これが出現したらこの家はこうなる。

 父と母の言い争いという名の喧嘩、火や兵器を使わない代わりに棘が無限ではないけれど生えていて鋭く見ているだけでそれは最も簡単に人の腕、体を貫くかもしれないという恐怖を覚える単語の投げ合い。戦場は焼け野原とはならないものの家具のタンス、机、テレビは元の位置から遠いところへと移っていた。

 誰がやったのかとかに考える力は本当に必要ないぐらいの簡単な問題で、誰が悪いのかとかも考える必要は本当になかった。

「すべてあなたの父がやったのよ……」

 それがあった日の朝、母は膝から崩れ落ちて手を顔に当て涙を隠している姿が茶の間だったであろう部屋にある。机もテレビもそこにはないからいつもとは違う空間と錯覚してしまう。

「自分勝手に自由に遊んできて、私には自由がない……」

 まるで腹話術人形のように口を動かしている。そこには生命が宿っていなくて無理やり話せようとしている。けれどわかるんだ。この行動をさせているのは母本人。ただ母は過去に父と結婚したことを悔やんでいるだけ。

 母は泣いているのに泣かない。

 指と指の間から堪えられず溢れる涙が見えて、光で反射するだろうに今日は、この涙はしなかった。

 俺はこんな家庭である以上私立なんて夢のまた夢で考えることも友達が口にしなければ知ることもなかった。父が違ったら俺はどんな俺だったのだろう。

 嫌々学校に今日も通う。一歩一歩の足取りが重く感じれるのもすべては父のせいとしか感じれない。そういうポスターが俺の頭の掲示板に常時掲載されている。

 "一人の少年に夢を与えれなかった男(父)"

 (父)と書かれている。それを強調させずにはいられない。こんなやつらと会うこともなかっただろうから。

 机がない、靴がない。悪口を言われた、笑われた。

 いずれも違うのだ。

 右から左から、右下から左下から。なんなら横から。

 "四面楚歌を習いました"

 この言葉は忘れない。意味が自分ですっぽりと当てはまる。

 周りは敵で囲まれた。

 囲まれています。

 両手にはトマトジュースか絵の具って思いたい赤いものが付いていた。

 耐えられないし、終わらないし。終わらそう。

 だから俺はある日首を吊った。快感だった。もう一度したいけどもうできない。こんな快感をもう感じれない。この時に自分の命を絶ったことに酷く後悔した。いやもっとあった。

 俺が暗い空を彷徨って父の姿が目に入った。俺が死んでいるとも知らずに呑気な人だ。

 家に入った。部屋を一つ一つ跨ぐたびにもう無くなった心が妙に騒ぐ。

 心がないはずなのに心が無くなったところに隙間で何かが細かく強く震えた。出したいものは死んでお化けになったから出なかった。

 "泣かないでよ父さん"


「えっと、和治さんは不良にいじめられていたから自殺したんだよね」

「そうだよ。不良にいじめられるというよりはサンドバックだけど」

「その例えは今どうでもいいけどね」

 大月さんは一応空気を読める方なのだろう。おそらく。

「父は、長治お爺ちゃんは息子を自分のせいで亡くしたって思ってるんだよね」

「そうだよ。不良にやられてそしてその元凶を作った父をすごく恨んでいるんだよ」

 何かがひっかかるのだ。吃音のように言いたいことを喉に引っ掛けて出せないけど、どこかがおかしい。

「そして和治さんは自分が自殺したことをとても悔やんでいます。どうしてでしょう」

 こんがらがっていた糸が綺麗にほどけたぐらいの気持ちになった。それはなぜおかしいのか理解できたから。

「どうして大月さんは和治さんの気持ちがわかるの」

 彼女の顔に変化がなかったのが妙に気持ち悪いし、自分が恥ずかしくなる。もしも、何もこれが普通のアレなら現実なら俺はこの場においていきなり夢みたいで幼稚の考えをする男子大学生となる。これは避けたいとか何も考えずに言った自分の無鉄砲さになぜ昔からこの性格を治さなかったのかと後悔する。

 お互いしばらく口を開かない時間が続く。やがて彼女が口を開く。

「長治さんのその話をした日の夜に和治と名乗るお兄さんが店に来たの」

「それは夢?」

 彼女も俺と同じ生き物なんだろうか、そうだったら仲間が増えて嬉しく思う、というのは真っ赤な嘘で馬鹿に馬鹿が群がるだけ無意味で肩を落とす気持ちになりかねる。

「夢かわからないんだよそれが」

「それはどうして」

 いつの間にか風が吹き始めせっかく解けた糸が絡み始める。

「寝ていたかもしいれないし寝ていないかもしれないってことなの?」

「そうそう、学校の授業で良くなかった?夢の世界と授業を行ったり来たりしているあの境目」

 俺も中学、高校と授業中居眠りをときどきしていた身だ。逆にそれをしてこなかった人には人間かと問いたくなる。たとえその人が俺よりも頭が悪くてもそれは当時の俺でも今の俺でもなかなかできない芸当とみなし心の底から押さえ気味に手を叩き「凄い」の一言二言褒めている。

「閉店前だったしその日もお爺ちゃんと他にも珍しくお客様が来たから完全に疲れてて」

 "だからどっちかはわからない"と彼女はきっぱり言った。

「もしかしたら夢で、もしかしたらお化けか霊なんだね」

「ちょっとやめてよ。私そういう怪奇現象とか苦手なんだからね」 

 少し不貞腐れた調子で頬も膨らまして彼女は言う。なんだか可愛いという表現が今一番似合うと思うしそれ以外に見当たらない。

「もしもだよもしも」 

 あいにく自分は考えとかがたまに幼稚かして今だにお化けとか信じちゃうタイプだから、からかったとかの認識はなくただこう話していて楽しいと思う会話の幅と深さを広げ深めもっと楽しくしようとしたのだ。

 そうだ、楽しく……

 もっと、楽しく……

 この会話を俺は今気づくまで楽しいと言葉にできていなかったようだ。

 そんな時だった。お爺ちゃん(長治さんの方)がいきなり泣いたのだ。赤子の産声ぐらいの大きな声量でいきなり泣き出した。流石に産声の単純な言葉ではなかった。ただそれは単語が繋がっていてしっかりと言葉だった。

「明日奈ちゃん……ひさ…久しぶり……だね…………」

 それは高齢者が普段使う言語にして違和感がありすぎて、けれど声はしっかりとお爺ちゃんで口調も長治お爺ちゃんではないが自分のお爺ちゃんの寝起きに似ていた。久しぶりに自分のお爺ちゃんのことを思い出したのに懐かしいとかは今思える状況ではなかった。

 彼は続ける。

「そ……れにして……も…………大きくなって…………お兄さんは嬉しいよ…………」

 違和感は増幅するばかりだった。彼はお爺ちゃんのはずなのに"お兄ちゃん"と言った。それを聞いたとき思わず間違いかと思って思わず明日奈さんと顔をお互い合わせたくらいだ。

「パ……パンケーキ食べたいな…………僕はまだ……食べれてない…………」

 続ける。

「僕はまだ……明日奈ちゃんの……大人になった……育った明日奈ちゃんの……パンケーキを……食べれていない…………だから……作って…………」

 お願い、願望。あの"作って"からそんな生ぬるい意味には感じようとも感じれなかった。声と口調はお爺ちゃんだからすべての言葉は弱々しく聞こえるのにそこだけ強くはっきりと聞こえたのだ。

 俺はまた明日奈さんと顔を見合わせた。さっきもそうだったんだが俺が顔を合わせる前に明日奈さんの顔は既に俺の方にあったと考えられる。顔が合わせることによってできるブレを明日奈さんは持っていなかったから。気のせいかもだけどそんな気がした。

 明日奈さんは、いや、明日奈は力強く頷いた。これで何を伝えたいのかも少しわかった気がした。だから俺もしっかりと頷き返した。

「お客様一人様ですか?ならばカウンター席へのご案内になりますが」

「は……い…………」

 お兄さんは一歩また一歩と歩みを進める。これでやっと確信したんだろうが彼はもちろんお爺ちゃんなんかではないがしっかりとお爺ちゃんだ。寄生虫、いやそれなんかより随分優しいとあの短いやり取りでなんとなくだが感じる。

 怖くて明日奈を怖がらすことになるから信じたくはないがお爺ちゃんはおそらくどこかの霊に取り憑かれている。お爺ちゃん言語の言語がおかしい、さっき食べたはずのパンケーキをまた食べようとしている。

 一体誰がお爺ちゃんにこう取り憑いているのか。

「それにしても……久し……ぶりだ…………この店も……このパンケーキも…………」

 こちらの今綱渡りをするぐらい落ち着かない気持ちを少しは考えて欲しいと思うが自分の考えている言葉はテレパシーとかじゃないんだから口で言うか紙等に書き留めるかしなければ伝えることはできない。

 誰かに気づいて欲しいと机に座って学生時代を過ごした俺の体験談でありそう気づかされた。

「昔……父が連れて来てくれた……随分と前の……記憶……だな…………」

 明日奈の方をチラッと一瞬だけ見るが即座にお爺ちゃんの方へ顔を移すと同時にある推理を導く。

 どうやら彼は本当にお兄さんなのかもしれない。"父が連れて来てくれた"と言うから取り憑いている人はまだ俺らが思っているより幼いのかもしれない。幼いと言っても中学生ぐらいのような。幼稚園児や小学生が日頃使わなそうな言葉を使うから幼稚園とか小学生とは考えにくいのと高校生ではないのは単なる直感。この直感は当たるも外れるもわからないから当てになったりならなかったり。

「そうなんですね。きっとこのお店が好きなのでしょう」

 お兄ちゃん(もう彼はお爺ちゃんではないと判断したし、"お爺ちゃん"と言うと調子が狂う)はコクッと頷く動作を見せた。けれど中身はお兄ちゃんでも外見はお爺ちゃんだから頷いた勢いで頭を打たないか、首の筋肉の衰退で無意識に落ちたのか。ただそれはのちに"はい"と言うから意識があっての頷きなんだとわかった。

 明日奈は奥の方でパンケーキを作っている。さっき見た時は一瞬だったからなんの変哲もなくパンケーキを作っているように思える。とは言いつつも俺はまだ明日奈がパンケーキを作る姿を見たことはない。だからこれが初なのだ。

 だが、明日奈は慣れた手つきで調理を行なっている。その慣れた手つきには少々わかるものがある。だってあのパンケーキは一日や一ヶ月や一年と経っても決して作れるものではないと口に入れ舌で存分に味わった時にわかった。なんとなくの推定と予想だが三年は作っているのだろうか。

 "大丈夫"

 そう心の中で呟いてみた。なんなら明日奈にも届いて欲しいなとも思った。これは明日奈へと送った言葉、そしてエールに違いないのだから。

 そう俺は応援していた。

 明日奈の足元に黄色いものが広げられた。限界を知らないようにそれはみるみると広がっていく。これは卵だ。ところどころに小さい泡や大きい泡が見られて鼻に卵の臭いがついたから。

「大丈夫か」

 そう大きい声でけれど小さいようでハリがあるけれどないようで言った時、俺の目の前には明日奈の後ろ姿があった。口よりも足が先に動いた。きっとそうだ、間違えない。足が崩れる前のあの不安定な状態だ。一体どんなふうに俺は進んだ。さっき俺が言った"大丈夫か"が遠く昔に言った言葉のように思えてくる。

 進んだ理由はわかっていた。おそらく明日奈は気づいている。それはさっき俺が判断した彼はお爺ちゃんではなく他人と、お兄ちゃんと名乗っていた。お爺ちゃんがお兄ちゃんに取り憑かれた。

 魂がお爺ちゃんに取り憑いた。

 こんな想像をしたら、こんなことを目の前で目撃したら。俺にとっては今日会ったばかりの長治お爺ちゃんだが明日奈からしたら常連の何年か前から会ってきた昔からの知り合いで身近な存在。

 あぁ、そうか。身近の人に何かしらの何かがあるとこんな状態に陥ってしまうのか。心配、不安。こんな思いが込み上げてくるのにどれも恐怖というものには勝らない。だからもし、家族か友達か知り合いが病気、自然災害、事件で命を絶ったとしても"今までありがとう"とか"なんで彼が"みたいなことを思う前に人はきっと自分じゃなくて良かったと思ってしまうのだろう。そしてそれは月日が経つと"次は自分の番なのではないか"、"自分ももうそんな年代になった"と変わって。それは恐怖と呼べよう。

 でもそれに明日奈は加わることはない。だって明日奈はそんな誰かのやらかし失敗を恐怖へと繋がるとは思っていない。あの笑顔と明るさがすべて物語っている。

 じゃあなんなのか、明日奈はきっとそれらをすべて最高に位置付けてそしてそれらの感情を出すのだろう。だから今足元に卵が落ちている。

「手が震えるの……さっきから、手が……」

 お爺ちゃんが何者かに取り憑かれた心配、不安はもちろんある。ただすべてと言ったのだから恐怖はなんなのだ。

 霊だ。

 取り憑くと言う単語が魂になって、なんとなく人魂が頭に思い浮かんでといった感じだろう。まだ明日奈に会って二日にも満たないから知り尽くしたとは言えないがそうだと思う。

 俺は苦手なものには敏感だ。実は俺は野菜が嫌いだ。だから牛丼に乗っている玉ねぎや茶碗蒸しの中に入っているしいたけなんかも苦手でお皿の片隅によせいつも残す。回転寿司のいくらに申し訳なさそうに添えられているきゅうりももちろん食えない。"この分までいくらを入れたらどうなんだ"と回転寿司に文句を口に出さずシヅカに唱えながらきゅうりをどかして食べる。

 こんな感じで苦手なものには敏感だ。

 だからおそらく明日奈も俺と同じで苦手なその霊に反応して今こうなっているんだ。

 明日奈が位置付けるはずのない恐怖の正体は間違えなくそれだ。

「怖いの、なんで、どうして長治お爺ちゃんが……」 

 最後の方になると崩れ、泣き出して。

「お店、閉めようか」

 お店は静かになった。


「明日奈ちゃん、元気?」

 俺は何を見ているのだろう。これは誰の声だ。

「ヒッ…………ク…………」

 聞き馴染みのあるようでないようなこの鳴き声は一体誰だ。

「俺のこと覚えている?」

「もちろん……覚えている……」 

 さっきまでの明日奈が嘘のよう。明日奈が泣いているのに私が泣いてしまっているみたい。

「昔たくさん遊んであげたんだけど、あの時は小さかったからたぶん覚えていないよね」

「そんな……わけない……」

涙を拭うついでにそれを否定するといった意味なのだろう。明日奈の顔が左右に揺れる。

「ごめん、こんな会い方で。父の体を借りるなんて」

「やっぱり……そうだったんだ……」

 俺は唖然としたまま二人の会話を聞いていた。

 散り散りに散らばっている塊をやっとの思いで一つに集めまとめることができた。そしてその時にやっと今の現状が大まか把握できた。"まさか、ありえない"と思わず口に出しそうになったがぐっと堪えた。

「ずるいよ……」

 こう呟いたのは明日奈。あぁそうだ。ずるいよ。自分よりも小さな子に未来を絶やすことを教え、そして逃げて。

「和治さん。たとえ、何があろうと死んではダメです」

 二人だけの空間なのに俺は土足であがって間に入った。失礼極まりない行動、俺はそんなことも考えずこれを悪い行動とみなしていない。けれど良い行動ともみなしていない。

「たくさんの嫌な想い、それを受けた和治さんの心の痛さ、傷の痛みはしっかりと理解しています。いやつもりかもしれません。惜しくも俺にはそんな経験がないから。だから、理解したとか断定はできない」

 俺のいきなりの反論のような口調、言葉に和治さんは一瞬戸惑った様子が見られた。ただそんな戸惑った様子をしているが和治さんの視線は俺を捉えていた。口を開くと俺が和治さんを責めた様なことを自分に言われたんだと理解できる。

「ならば俺はあの時何をしていれば良かったんだ。"困ったことや悩みがあったら相談してね"って言う奴らは最初は聞いてくれたものの、次第にそれが面倒だとわかってくると俺と距離をとり出した。てか、一番最初に声をかけた先生は何もしてくれなかった。俺は何者にも見放されているのにどうすれば良かったんだよ」

 反論を言い出した身だからか、和治さんの言葉一つ一つに苛立ちを覚える。最初は身構えていてなんとなくという気持ちで耐えられていたのだが、これはまるで新品の服に墨汁やら絵の具を付けられ汚された時の感情になる。だから相手、和治さんに新品の服の弁償代を求めたいところ。

 何か反論をしよう、言い返そう。

 頭に異変があったのはその時だ。

 頭の思考回路がピタリと止まったのがわかった。思考回路という名の機械。それの電源を切られたわけではない。"材料が無くなった"。これが一番しっくりくる例えである。衣服を作る機械なら布がなくてはならない、といった現状。

 和治さんのことはやっぱり理解ができていなかった。理解しようにもそれは高度な技であるということは俺に雷が落ちた時ぐらいの心の振動と衝撃を与えた。

「君は経験したことがない。これまで追い詰められ、助け札を一枚も持ち合わせていないという経験体験を」

 俺に不足している材料はどうやらその経験体験。間違えないと思う反面、俺も似たような状況にあったことがあると口に出したくなったが、和治さんを刺激するかもしれなかったから口を閉じることにした。

「結局人は何も分かってはいない。わかったふりだけをしてその相手との関係に変化をかけないようにする。ただそれがマイナスの方向に変化しても捨てれば良いと考え関係を切る手段にもでる。誰もかもが精一杯なんだ」

 ただわかってしまうのだ。布はないものの機械を動かす燃料はある。俺が今、和治さんの話を聞けているのはその燃料は和治さんの話から生み出しているからに違いない。

 俺にもそんな経験が頭の片隅に申し訳なさそうにあった。

 口にあのパンケーキの味がした。ただそれはレモンの酸味が効きすぎていた。

 

 教室にはたくさんの人がいて、当然のように彼らは彼ら同士で誰かと話し、笑い、騒ぎを共に行う。なのに俺の周りはどことなく静かだった。それもそのはずで俺の周りに人はいなかった。来たとしてもそれは授業の始まりで席に着いたり、教室の移動の際にという人がほとんどで絶対だ。

 "なぜそんなに人の移動を把握しているのか"

 "誰かに気づいてもらいたいのか"

 そんな風に思われているのか思われていないのかとかはやはり人であるから理解はできない。だが一人教室に佇んでいると少なくてもそういう考えを持ってしまう。

 そんな俺にピッタリな言葉を俺に仲の良いとは言えないしむしろ今初めて話した人が教えてくれた。それは怒りがあるようでふざけて言っているようなぎこちない口調だった。

「おい、ボッチ」

 この言葉の意味を理解したのはそれから数日後のことだ。穴だらけのパズルが完成した瞬間だった。

 つまり俺はボッチという部類の奴なんだ。あの時言われた言葉は呼びかけでも怒りをぶつけてきたわけでもない。俺を面白おかしく遊んだのだ。

 こんな区別される現実が現代の在り方と俺はこの時知らされ受け止めさせられと体に大きな衝動が生じたがそんな環境すぐに飲み込むことができた。俺は慣れていたのだ。兄弟もいない家庭だから家でも一人なのは昔からの習慣のようなもので逆に言えばこの方が良い。 

 中一で転校して中二になる。新しい学年と同時に新しい地、新しい友達とか中二なのに何もかもが新しかった。新しいものには慣れしたしまなければならない。そう、だから俺は俺の知る者、知らない者のいるところからの始まりであるのだ。

「転校生を紹介します」

 先生は口癖のような感じでサラッと言い上げた。そして"あなたの番です"というような視線、素ぶりをした。

 自己紹介って何を話したらいいんだろう。名前、好きな教科、嫌いな教科、趣味。いろいろなパターンがあるけどいざそれを並べると手が震えるし、それを発表として見せるとなると心に異常が発生する。心と体が繋がっているのだと改めて感じる。俺の体は人を前にするとこうなってしまう。多勢、少人数、個人関係ない。声を出せない。こんな俺はいろいろパターンを持ち合わせていたにもかかわらず名前しか使わなかった。

 転校生という称号を俺は見事に台無しにした。アニメなら物語ならその転校生は今頃誰かに声を掛けられ「面白いやつ」「気合うな」とか言われてそれから友情を育んでいく。そして友達と呼べるパートナーが出来て知らない間にたくさんの友達となる人を引き寄せ正真正銘と言えるような友達になる。

「潰したんだな」

 そう俺は呟く。自己紹介を名前で終わらしたことが今、最大の後悔として残っていた。これが俺の人生をどう狂わせたのかはわからないが良い方向には向かわなかっただろう。

 そう決めつける感覚に近いのがボッチなんだ。そう呼ばれて何も言い返さなかった。それが彼のうちに眠るスイッチを稼働させたのだろう。 

 ある日物がなくなった。

 なくなったものは教科書で以前の学校で使っていたやつ。使った年相応の古ぼけた雰囲気を教科書の端が折り曲がっているところや表紙が黒ずんでいるところから醸し出している。ちなみになくなったのは地理の教科書でまだ良かったと思う。地理は先生が事前に用意するワークシートを使うからほとんど使ったことがない。だから特別困ったわけではない。 

 ただやっぱり気がかりだった。怖かった。どうしてこんなことをしたのか、どうして自分なのかと。どうして……、が頭の中をいっぱいに満たす。満たされたくない。だって、これらがいっぱい満たされれば満たされるほど怖くなる。頭と心も繋がっているんだ。それが今だけは切られて欲しい。絶えて欲しい。背中にひんやりとした汗がゆっくりと落ち滑る。滑るというよりナメクジの速さを甦らせるから歩いているの表現が適切なのだろうか。とりわけその速さを感じているだけなのになぜかまた再びと怖くなる。その怖さのせいであってほしい。後ろから冷たい視線を感じてしまった。

 この時間は三限目の地理の時間だった。五十分みっちりの授業。そうか、俺は五十分間この冷たい視線を浴び続けたんだ。

 放課後になって怖いが単純な言葉で言い表すものではないと今日この日をもって脳内に書き換えることにした。怖いって本当に怖いんだ。ただ口に出す怖いなんて可愛いもんでまだ優しさがあるんだ。そもそも口にできない。これが怖いの原点だ。

 三限目から感じていた冷たい視線は俺の背中に絶え間なくその後も向かってきた。それが給食の時間、休み時間だとしても真っ直ぐ一直線に俺の背中、姿を捉えていた。いや、捕らえていた。間違えない。

 次の日には背中だけではなく体のあちこちからあれを浴びた。もう口に出したくない。俺は今寝不足だ。後遺症だ。あれを浴びて想像以上の何かを俺の体に残した。そしてあれは、昨日よりも強く鋭い視線。俺を刺した、貫いた。そんな気にさえされた。あぁ、間違えない。

 犯人は彼だ。名前は知らない。顔もあいまいの彼だ。転校がこの日、この人生を狂わしたと思った瞬間だった。けれど違うんだ。

 また次の日、シャープペンシルがなくなった。地理の教科書に引き続き物がなくなった。なんのこれしき、シャープペンシルは替えがまだ筆箱の中に数本ある。流石にかなくなったのは一本だけだったのでこれに関しては切り替えることができた。しかし、ターニングポイントといえるような、そこのポイントでまた俺は怖くなったのは言うまでもない。切り替えることはできた。けれど切り替える前にいろいろと俺の頭には行き交った。シャープペンシルがなくなった怖さ、しかもそれは教科書に続いているというミステリという謎、俺の存在はまだあるという少々の安堵。

 決定的なのが一つ。

 "俺は狙われている"

 何も思わないでおこう。

 ノートがなくなったのはそれから一週間後のこと。ただ、このノートは余っていわゆる余分のノートだ。前のシャープペンシルと同じようなことを俺の体で繰り返す。そう、頭にいろいろと行き交うあの光景。

 怖くなる。何も思わないでおこう。切り替えよう。切り替える。

 消しゴム、参考書、くつ。次々と俺の私有物はなくなっていく。消しゴムは買えばいいものの参考書は学校のものだから容易に手に入れることは難しいし、くつなんて学生でしかも中学生だからなかなか高額。だから、また一つと不思議なことができた。

「彼はなぜ今もなおこの行為を繰り返すのだろうか」

 学校が終わって、今は自分の家。一冊のノートにこれを書き込み一つ一つと理由を増やしていく。そして呟く。まさに独り言。

 ノートの真ん中に呟いたことと同じことを書き丸で囲む。歪な丸をどうしても描いてしまうのはどうしようもない。

 自分なりの解答はある。

「これは俺に気づいて欲しい?」

 あの視線で気づかれていないと彼は思っているのだろうか。だとしたら俺を舐めすぎている。ただ、俺もスパイとかそんな特殊な人種でもない。自身がない。

 けれど考えれば考えるほどこれは隠したいこと。バレてバレて誰がやっているのかというのもバレるレベルのこの行為は何か物足りない。関係があるかわからないが彼は学年で上位層の成績を誇るいわゆる俺よりも頭の良いやつ。バレない行為を遂行するのはこのままだと俺が一枚上手になる。

 そこでもう一つの仮説。彼はこれがまさか初めてで苦手でいかにもこのようなことになってしまったのではないか。人は歴史を学んで次に活かす。だから前失敗したことはその失敗の原因を追求し成功へと導く。だがそんな彼は歴史を持っておらず、さらにを考えるとこういった行為をする環境にもいなかったとか。

 今はこの二つの仮説しか浮かばない。浮かばなかった。

 中学三年になるとこれはなくなったから今となってはどうでもいい記憶。

 驚くことにピタリと止んだ。一体彼は何がしたかったのか、目的はなんだったのか。残念ながらこれらはわからずという結末に終わった。卒業まで彼とは一言も会話を交わすことはなかった。毎日がつまらなくなった。それが起き始めたのは現実の俺ぐらいの時期だからか春の温暖な空気、花の香りがあの頃の記憶を掻き立てる。

 一週間に一回。していることはよくないことだけどイベントのような次は何が隠されるのかと何か良い評価をされるぐらいの楽しみの日だった。マイナスで受け止めることはなかった。プラスでもないだろうに俺はそんな今では考えにくい思考でそのことを受け止めていたんだ。

 その楽しみがなくなった今、俺は何を楽しみに生きていけばいいの……。

  

「大智、大智」

 聞き馴染みのあるかないか際どい声が俺の鼓膜を揺らす

「大智、大智………、」

 声は反応を示さない俺へさらにさらにと強くなると思っていたが、声が聞こえれば聞こえれるほど鼓膜は揺れなくなっていく。頬に生ぬるい何かが落ちた。俺は植物かそれとも自動車か、その何かが落ちて俺の視界は瞬く間に広くはっきりと周りを映す。何かは水かガソリン、だとしたら液体なのか……。

 声はやがて聞こえなくなったと同時に俺は元の俺に戻ったみたいだ。物に触れる感触や服の絶妙な重さと肌と布、糸が触れ合う感覚がいつもよりも鮮明に感じられる。そしていつもと違う感覚を俺はお腹部分に感じた。お腹が何かによって押されている。腹痛とかではないから外部から。何が原因だとは一瞬わからなかった。理解が追いつかなかったというのもまたひとつ。

 女性だった。そして、店長、そう明日奈だ。頭がこんがらがるということはこういう感覚なんだ。"落ち着きたい"とこれが今の望み。ただ明日奈を俺が起き上がるためにずらすのがどうもためらわれた。頭がこんがらがるとどうも正常を保てないらしい。明日奈と近くにある観葉植物を目で何度も往復するから明日奈の顔は見れなかった。それに気づいてしまったからどうもやりにくい。

 気持ちよさそうに自分の腕を交わして枕がわりにして寝ている。なんとも卑怯だ。あぁ、俺は今、明日奈の役に立っているのだろうか、そうだったらいいなと心で呟く。声は出さないと俺の全部の体の組織は理解していた。今は思ったことは心にだけにとどめておこうと。

 それからの朝はすぐだった。窓から差し込む光とさっきまで俺のお腹で寝ていた明日奈の大きなモーニングコールで目覚めた朝。顔は心当たりがないが俺が何かをしてしまったのか、鬼の形相だ。けれど、顔の端というべきというあまり表に出すところではないところで明日奈は笑っているんだとどこか感じてしまう。そう幸せの印が小さく出ていた。

 そういえばという記憶が頭の片隅にあった。だから朝の支度を済まして朝食をとっているときに明日奈に聞いてみた。

「お爺さんたちって結局はどうなったの」

 聞かないべきだったと悟った頃にはもう手遅れだった。頭に浮かんだ疑問をしっかりと最初から最後まで俺は言った。もっと早く思い出せばよかった。"そうだった"心でただひたすらと呟くだけで俺は止めた。口に出していないのに出したような気がして一言一言と心で呟いていると明日奈を取り囲む雰囲気という名のオーラが黒く燻むのが見える。

「ごめん。ただ不思議だったんだ。いろんなものを見せられ夢でいろいろと転々して、やがてには昔の記憶まで出てきた。これが今までになくて、初めてで……」

 "怖かったんです"は口に出したけど上手く発音できたかどうか。言葉が上手く繋がらない。言いたいことと伝えたいことが多い。手で拳を握ると中がゆっくりと夏のあのじめっとした感触に近い、それぐらいに俺の拳は湿っていく。自分のしたことがなかなかまとめられず思いつき出したものから順序良く口に出したのが今俺らを狂わせている。

「謝らなくてもいい。大智はしっかりとやってくれた、守ってくれたんだよ」

 混乱、反論。俺は何をやっているのだろう。孤独の暗闇に取り残された気持ちになる。ただ、"守ってくれた"ってなんだという疑問で俺は何を行い何を成し遂げたのか。一人の暗闇はなんだか楽しい。

「私、あそこに大智がいなかったらきっと連れていかれてた。和治さんに腕を掴まれて絶対にどこかへ連れて行かれてた。声に言葉にできなかったけど怖かった……」

 俺のある記憶では明日奈は和治さんに腕など掴まれていない。だから俺は何もせずにただあそこにいただけ。

「大智がいたから和治さんは何も出来なかったんだ。だから私は大智にありがとうって言ったんだ」

 "俺は何も出来ていない"

 俺はあそこで自分の過去を甦らす夢を見たんだ。あれを見ただけの俺は誰かを守ったなんて言えない。あの時の俺は俺じゃなかった。あれは夢を見ていない俺が何かをしたのだろう。彼に感謝を伝えるべきだ。

「俺は明日奈を守れていないんだ、守ろうともしていない。明日奈を守ったのは俺で俺じゃないんだよ……」

 明日奈の口は結ばれた。そうなるのも無理はないと思う。第三者からしたらおかしいに決まっている。黙るに決まっているんだ。そして次はこの自惚れた俺を笑うのか、俺を罵って笑いを込み上げ爆発させるのか。

「臆病なんだよ……俺は……」

 頭を抱えている、俺はこのあと何をする。頭が壊れたテレビだ。何も写さない、気持ちも述べない、何も聞こえない。

 自分は惨めと下へ下へとおとしめる。じゃないと俺はこの場に居てはいけないし存在すら許されない。

 笑ってくれたよ。明日奈は笑った。"大智何言ってるのよ"と俺を茶化すように笑ってみせた。そういえばさっきから話しているときに明日奈の顔は見れなかった。本人が意図的に隠しているといえばそういうふうに読み取れる。明日奈は泣いていた。心の表面が引き裂かれるぐらいに熱い。俺は自分のことも守れなかったのかと自分に制裁を加えるための現象なのだろうか。

 明日奈の瞳と頬に一本の水の道が出来ていた。

「泣いていたの?だから顔を故意に見せなかったの?」

「泣いた顔なんて見せられないし、自分は強くありたい」

 嘆いていたのは自分だけじゃなかったよう。窓から差し込む日の光が朝食を奏でる机に並べられているグラスを差しているからかグラスの中にあった氷は水になっている。そういえばと思い出したのはその時だった。

「明日奈、俺のお腹で寝てたよ」

 和んだ空気を作ろうと出た行動はやはり急かされた判断だったためか乏しいものとなって和やかになる空気は冷たいものになってしまった。なぜこの話題を選んだのか、ほんの数秒前の自分が憎たらしく感じる。

「今それ言うのかよ」

 この冷たい空気に合わせてと言わんばかりの顔をしてくれる明日奈。空気を読んでくれた、そんな些細なことだけど"ありがとう"と心で俺は呟いていた。日差しのおかげであって欲しいけど、今二人でいる二人だけの空間は冷たかったのに暖かくなった。

 

「そういえば、明日奈呼びなのはどうして」

 この問いは悩んだ。いつだったか覚えていない。"昨日"といえばそれは間違えではないしいいのだが、おそらく明日奈はそういう"いつ"を求めていないのはわかってしまう。"いつ"があってこういう展開からどうしてが生まれるからわからない。何を答えればと悩むのに力が入りすぎてつい今洗っている食器が手からすり抜けた。食器が形を崩す音が途切れることなく響く。

「何動揺してるんだよ」

「いや、悩んでいたんだ」

 これが動揺になってしまうのが惜しい気がした。"拾うから手伝って"と割れた食器の破片を先に拾う明日奈に遅れて俺は腰を下ろし拾い始めた。

 盛大に散る破片を一つまた一つと拾うのはやらかした俺が言うのもおかしいが大変だ。破片だからそれは間違えなく尖っているけれど食器の外側(端の部分)は割れずあんまし尖っていないので慎重につまんで拾い上げる。ただ、破片拾いが後半に差し掛かったところで"小さな事件"が発生した。明日奈の拾い上げた破片がなんらかの影響で拾う指からすり抜けて落ちた。床に落ちればいいもののそれは運悪くもう一方の拾い上げていない明日奈の左手の人差し指を掠めて落ちるから面倒なことになる。

「救急箱みたいなのある?」

 人差し指から赤い血が次々と出てくる。傷が深いとか詳しいことを言える立場・身分じゃないけど放っておくわけにはいかないので応急処置はしておこうと思った。救急箱のある部屋と位置を教えてもらい早急に取りに行く。それらしきものをその位置から手に取り急いで明日奈の元へ戻る。持ってきた救急箱を開いて絆創膏を取り出す。手が勝手に動く。動いて動いて。自分が手を動かしていることも忘れてしまうぐらいに手は動いて手当ては進んだ。

 手が止まったのは、明日奈が俺に呼びかけたから。

「もう大丈夫、ありがとう。たかがかすり傷で絆創膏を貼るだけなのに、なんだか悪いね」

 手当てが終わって絆創膏が貼られた指を撫でながら顔を赤く染める明日奈は言う。顔が赤いのはなんとなく察せれた。俺は今、身体中の血が熱を持っているようで今を誤魔化すためにもアイスのような冷たいものが食べたい。

 俺の顔は今赤い。明日奈の顔が赤い理由が俺と同じだったらなと願ってみた。それに相まってまた俺の顔は赤くなる。

 このりんごはいつごろが旬になるだろう。

 あのパンケーキのことが頭によぎった。


 俺がこの店に働いてから大体三ヶ月。そして今大学は絶賛夏休み。店内はクーラーが効いてて涼しいものの外が暑いからか明日奈が横にいるからか、それとも今夜のことがあるからか。

 今夜、俺は明日奈に想いを告げようと決めているからか。俺はあの件以来から明日奈が視界に入ると体に異常が生じるようになった。緊張は緊張でもまた違うような気がしてなぜかその緊張は元気が出る。ただ明日奈が横にいたりそばにいたりすると会話はだんだんと減っていく。時が経てば経つほどに、もしやと考えると元気がなくなる。

 そういえばあの件はお互いに話し合っていくにつれ辻褄がピッタリ当てはまっていた。長治お爺ちゃんはやっぱり和治さんに取り憑かれていたのだと。二人で辻褄を当てはめていくにつれ背中に冷たい黄泉のようなものが当たる。けれどうまく当てはめれたらお互いに顔を見る瞬間がひどく爽快だった。

「成仏したのだろうか」

 明日奈の頬はふっくらと膨らみだし俺に何か物申したそうにしていた。それ以来この件のことに関しては話してもいないし口にも出していない。単に明日奈が嫌がることとわかったのにそれを言うのは本当に残念な人間を自分自身で作り上げてしまう。自分に残念とか言いたくないってわけではないが人の嫌がることはしない。それを徹底しただけ。しかし最近それは甘くなってきてしまった。

 我を忘れた少年のように明日奈をからかうのが最近増えた気がする。明日奈のことばかり考えどうしたら明日奈と話せるのかこのごろ考えてしまう。普通に話す。ただこれは誰もできてしまう。印象に残らない。明日奈の人生の一欠片になるようにとからかってしまう。

 辞めようとしないのは明日奈がそれを嫌がることもなく笑ってくれるから。口が開くことはないんだけど口がニヤッと緩む。なぜ笑うのかは聞いたことはないのだがそれが俺のことに関しての笑みだとしたら。そう勝手に決めつけてるだけなのに考えてしまうと心がキュウっと音を出して鳴いて縮み込んでしまう。

 店前に看板を出して店の開店を知らせる。いつも開店してお客さんは来ないから明日奈と二人だけの空間と時間。この時間に言おう。考えた末に決めたこと。硬い意志、鉄の意志。それぐらいのを模して俺の意志は固くなっていこう。今回は近くの河川敷で花火が見れるようだ。近くで花火大会があって空高く舞い咲き誇る花火はその周辺でよく見れるよう。空いっぱいに咲き誇る花はさぞかし美しかろう。

 "花火を見に行かないか"と声をかけ誘えば先は見えてくる。だからファーストステージでファイナルステージでただそれを言うだけでこのミッションはクリアできる。想いはそのあと。花火を見終わったあとの帰り道に言えばいい。

 "付き合ってください"

 そのあとはもう本当に明日奈任せになる。どれだけ頭でシミュレーションを繰り返そうとも明日奈のこの答えで物事は一変したりとかと大きく崩れたりの可能性があるから。そのあとは流れに逆らわず、川のせき止めらることのない流れのように流れていけばいい。

 "比較的簡単な流れだ" と自分に何度も言いつける。

 "俺なら大丈夫"何回言っただろう。

 "さぁ、今だ!"

「あの……」 

 そのあとを続けることは自分の弱さか、いや違う。明日奈がほぼ同時のタイミングで俺に問いかけた。確かだ、いつも俺から話しかけていたな。だとしたらと明日奈の発言が気になって気になって仕方がない。

「先にどうぞ」

 そう言って俺は手でそれを表す仕草をする。

「ならおかまいなく」

「うん……」

「大智に桜木さんの話をしていなって。したことないでしょ、桜木さんのことを話したの」

 俺の頭はあるエピソードを思い出す。

「まさか、前言いかけてたやつ?」

「そうそれ」

 気を取り直してというように明日奈の表情は式典でよく見かけるあのかしこまった表情へと変わる。

「では、このお店について詳しく説明しようかなと思います」

 

 桜木さんは彷徨う私を快く引き止めてくれた。両親が事故で他界しどこの親戚も私を引き取ってくれなくて、私は通うまでもなく暑い夏の日に公園のベンチに座っていた。風が吹いていないのに夏の空気はジリジリと音を出している気さえしてくる。

 公園の水道水の蛇口をひねり水を出して口に入れる。けれど昨晩からの空腹はやっぱり満たせない。

 "お腹…………空いた……………………"

 こう呟いてみるも言葉一つ一つに普通ではあり得ない間ができて単語を読み上げる。私はここまでの記憶はあった。

 気づいたら私は西洋のような雰囲気を感じさせてくれる家のソファで寝ていた。後にここは家ではなくカフェと知るのだが。

「気づいたかい?」

 机の数と椅子の数は一般の家庭とは比べ物にならないぐらいあって、ここはカフェなのではとの推測が前進していく。キッチンの方から聞こえた声に自分の思考を深いところまで掘り進めていたから返事をしていなかった。いわゆる無視。

 声の主の姿をその目で捉えたときに返事をした。

「はい、気がつきました」

 まるで声を向けている人を抱いて包み込んでしまいそうなまたその抱かれた空間が心安らいで眠っしてまいそうな安らかな声。なので、ふっくらのお腹のお爺さんを想像していたのだが体格はいわゆる普通、顔はなんとも言えないが草の生えていない頭がなんとも輝いていて強調されている。お爺さんは私のところに一歩また一歩と歩みを進めるのと一緒に話してくれた。

 失礼ながらやっぱり声と体が対応していない。

 ベンチで意識がなくなったらしい。ベンチに座ってなくベンチの前で倒れていたようだ。胸を撫で下ろすときに手に砂が付く理由がここではっきりと理解できたのがなんとも悔しい。

 "お腹…………空いた……………………"

 意識がなくなっているはずなのに私はこうぶつぶつと言っていたらしい。お爺さんはこんなことをこんな状態になってまで言う私が見捨てれなかったらしい。私の行動でこの子を助けれるならと今私のいるこの場へと連れてきたそうだ。この話の合間に聞いたのだがここは私の推測通りやはりカフェだった。カフェとわかった状態で店内を眺めるとなんだかさっきまでとは違って"洒落た店内だな"とつい声に出してしまった。

 "ありがとうございます"と言う感謝の言葉が頭に出てこなかった。探すこともなかった。

「もうちょっとで出来るから待っててな」

 そう言ってお爺さんは元いた場所であろうというところへと戻っていく。

 もうちょっとがわからない、いきなりで慣れていない、慣れるはずがない。視線が環境が私を拘束する。時計が掛けられていたからただぼんやりと秒針が進むのを眺める。なんでだろう、秒針はいつも一定の速さなのに遅く感じられ一分経つのさえやっとと思ってしまう。楽しいことがあっという間の逆でこの学生生活で与えられた試練。時が来るまで私はただぼんやりと眺める。

 甘い匂いがして間の前にある机を見たら、あのパンケーキがあった。

「パンケーキとレモン、パンケーキレモン」

 隣のお爺さんはそう言った。パンケーキがあまりにも魅力的でお爺さんがいたことなんて知らなかった。

「こっちにおいで、食べよう」

 お爺さんは優しい表情を浮かべて招きをする。このお爺さんへの警戒心はなかった。お爺さんの言うがままに椅子に座りパンケーキを食べる。

「何これ」

 思わず声に出してしまった。

 パンケーキ。クリームがただ乗っただけのものかと思っていた。だがしかし、輪切りのレモンが小山となったクリームに添えられている。クリーム単体ではなくクリームとレモンの二つで単体と言わんばかりの存在感をパンケーキの上で示し、演じている。

 白い見ただけでわかるふわふわっとしたものがパンケーキに包まれている。これはまたクリームかと机に置かれているフォークを手に取り優しく突いてみると白いものは小さくしぼんでいく。若干ながらしゅわしゅわと弾けでたような音もしたような。

 なんだろうと思いフォークで優しくすくい口に入れる。舌に乗ってそれは優しくほろほろと溶けたり、崩れていく。ただそれはふんわりとした軽い味だった。メレンゲ、これはクリームではなくメレンゲだ。

 手が止まらない。たまたまの喫茶店で恐ろしいものを見て私は今頬張っている。もうこれは食べるの次元で説明できない。もしそうしようもんならこのパンケーキからかなりきつめの制裁を受けることになるだろう。しかもおいしさはメレンゲだけではない。この全体にかかった透けて美しい茶色のシロップがちょうど良い甘味なのだ。程よく優しくパンケーキを包み込んでくれている。

「どうじゃい美味しいだろう」

「それは本当に美味しいです」

 私は素直に頷いているがこれに感しては社交辞令とかお爺さんの気を使ってとかの考えはこの頷きに決して練り込まれていない単純なものだった。手が止まらず少しずつ小さくなっていくパンケーキが別れの笑みを浮かべるよう。"まだ、行かないで"と私は叫び続ける。

 だがもう行ってしまった。だけれどいい時間をあなたと過ごせた。

「ごちそうさまでした」

 "いただきます"をし忘れたからそれの分まで重い気持ちを込めて合わせた手に強く乗せる。

「これを食べたもんは幸せになれるんだ」

 突如、お爺さんはそう語り始めた。

「若い頃に入店してきた面白いお兄さんがいてな……」

「はい……」 

 せっかくの機会だからと私はお爺さんの話を聞くことにした。行く当てもない途方に暮れるよりはまだマシに思えた。

「彼は有名な芸能人になるとこの店に来て言い出したんだ。けれど彼の芸は全て遠慮しても面白いとは言えなかった。"正直に物申してください"と彼は頭を下げながら言うんだから正直に言ってやったんだ」

「さっきと矛盾してませんか?面白いって言ってましたよね。それとなんて言ったんですか?」

「そんなもん、単純に"面白くない、時間が過ぎるのが勿体無い。無駄にした"とな」

「かなり毒舌なんですね」

 "まあな"と答えるお爺さん。お笑い番組とかは小さい頃茶の間のテレビで見ていた。両親は笑っていた。

「お嬢ちゃんは見るの好きかね、お笑い」

「はい好きです。けれど……」

 "思い出したくなかった"のだ。あの小さい頃の記憶では私一人でお笑いを見たという描写のアルバムの中には一枚に写真もない。お茶の間のテレビ。

「両親と見ていたから今は思い出したくありませんでした」

 "ごめんなさいお爺さん"。そんな気持ちで一つ一つ言葉を綺麗に並べた。

「そのお笑いは面白かったか?」

「はい、面白かったです」 

 申し訳なさが優先したこの今、私の発言は悲しいような殴られ続けている。もちろん殴っているのは自分自身の意思とか甘い考え。

「なら大丈夫」

 力強くお爺さんは続けた。

「彼はそのあとも毎日ここに練習に来て私にお笑いを見せてくれた。だが一向に面白いとは思わんだ。だから同じお笑いであっても彼はそれはまた違うもんさ」

 "思い出させてすまない"と最後に添えるおじいさんはやはりこの世の何もかもを包み込んでくれる。

「話を戻そうかね」 

 年寄りはしゃべりたがりらしい。私の返答を待たず話し始めた。

「"面白くない"と私は言い続ける日々を過ごした。"アドバイスをください"という彼の態度、眼差し、姿勢は本当に誰にも真似できない唯一無二のものがあったが何をしようともそれが、その能力が向上することはなかった。それから数日経ったある日にお笑いの大会のようなものがあったらしくてね、彼は予想通りの初戦敗退。この店に戻ってきて私にしがみついて泣き崩れていたよ」

 大人が大人にしがみつく光景はとても想像できるものではないと思う。見た目は大人で中身が育っていないとなると教育が届いていないような、その人を軽蔑してしまうんだ。

 ただ物語は一変した。

「彼が"ここで働きたい"と言ったのはそこから間もないときだった。夢第一志望の料理人を目指すなんて言うときには笑いを堪え切らなかったよ」

「どうしていきなり料理人なんでしょうか」

「わからないが突然言いよった。私が初めて彼のことで笑ったのはそこからだったんだよ」

 いきなりの展開は私でさえ驚き笑ってしまう。

「けれどそれは彼の人生を本当に変えてくれた。そしてこの店も」

 おそらくの予想を頭に描きお爺さんの話を待った。

「このパンケーキはその彼が発案して作り上げたんだ」

 まさかの予想の的中とそれが最も想定外で絶句した。

「これには私は笑ったよ。君はスイーツのお笑い芸人だって」

 "そしてこれだけではない"とお爺さんははたまた会話を続ける。

「それを発案して作って店の新商品として看板に出すとお客さんの来店数が上がったんだよ。それもみんなパンケーキ目当てで。食べた後にほとんどの人が感想とそして置き手紙をしてくれるんだ」

 "私は彼に助けられた"

 この言葉が忘れられなかった。お爺さんが言った言葉。お兄さんを尊敬、感謝として見る目とそれの反対の思いが植え付けられている。

 その後お兄さんは結婚も遂げたようだ。そのパンケーキがお兄さんと彼女を結び繋ぎ合わせた。彼女は毎週、そのパンケーキ目当てで通う常連となる人だったようである日このパンケーキの発案者と話したいと言い出したらしい。"感動した"と彼女は言ったようなんだ。お兄さんは"何かを撃ち抜かれた"って言ったらしい。

 あぁ……、これはまた長くなりそうだ。


「男が引きこもって何をする。行動しなければ恋は芽生えてこないしそもそも一度結ばれた赤い糸もほつれてちぎれてしまうぞ」

 私は彼に言った。独身の私が言うのもおかしい話だが身近な人の人生に関わる問題を見捨てるのもおかしい。自分の恥か若者の恥か。自分なんて捨てればいい。私は圧倒的後者を取る人間で彼を応援し、サポートする。

「行けみたいなこと言いますけど何をしたらいいんですか」

 イライラとした感情とどこか切羽詰まっている彼の感情はどうも複雑で面白い。若者はどんな知識を頭に蓄えているんだろう。

「とにかく連絡先じゃないか。そしてデートとかに発展するんだろう」

 私はただサポートだ。

「今は店内に誰もいない。行くんなら今だ。こんな焦ったくて緊張しいやつがお笑い芸人目指してたのか」

 上手いこと彼の逆鱗に触れたらしい。挑戦として彼はいよいよ想い人が座りいる元へと向かった。

 何かを話しかけた。

 ぺこぺこと頭を下げている。

「本当に焦ったいやつだ」

 これが上文句になってきそうだ。

 携帯をポケットから取り出した。

 それに続いて彼女もカバンから携帯を取り出した。

 何か言っているようで口がお互い動いている。

 彼女が携帯に視線を落とすと彼は戻ってきた。

 これはまさか……、

「連絡先…………」 

 早く早く、年寄りは待てんのじゃ。

「連絡先交換できました!」

 衰えた身体で飛び跳ねた。膝、腰、関節に負荷がかかるけれどいいんだ。自分は捨てる。

 それからは早いもんだった。

 彼は知らない間にデートの約束を立てていてしかもそれが旅行と言うんだから驚いたものだ。

「どこに行くんだい」

「箱根!」

 "温泉入って江ノ島行って江ノ電乗って"ってまるで幼いときに遠足でこれをしてあれをしてと言う子供が連想された。指を折って数えていく仕草もまたそれを連想させる。

 その当日は楽しみすぎて眠れなかったと言うんだからもう笑ってしまう。見た目を裏切る幼さでとギャップが激しくて朝から私は元気だった。

「爺ちゃん、行ってきます」

 私はいつの間にか彼から爺ちゃんと言われていた。親近感が余計に沸くではないか。だけれどそれは嬉しいエピソードの一つで。

 "可愛いやつ"

 箱根旅行を待ち侘びた甲斐があったようで、毎晩夜に電話をくれた。早めの孫ができたみたいで私はなんだか現実から脱線した電車に乗っているようだ。旅行は箱根に留まらず箱根旅行が終わった後に草津、別府、下呂と日本各地の温泉の有名どころを彼女と旅行で行っている。

 旅行に行ったあとには旅行先で撮った二人楽しく笑っている写真と二人お揃いのストラップを私に自慢に見せびらかす。彼だからこそ許せたという確信がある。もちろん旅行後はお土産を持ってきてくれる。まんじゅうばっかだけれど年寄りの歯にはもってこいだし嫌いではないし飽きないし。

 いろんなお土産を持って帰ってきたけどこのお土産が一番好きで、忘れられなくて。

「お付き合いすることになりました」

 下呂温泉の旅行後に彼はモジモジと恥ずかしげにけれどきっぱりと言った。両手の指を交わして大きい拳を作るのは彼自身の気を逸らすためだろう。無理もない。彼はあれから一歩を確実に踏み進めている。

「よろしくお願いしますと言ってくれました」

「君から言ったんだね、うふふ」

「笑ったー」

 彼が他人とはもうこのときから考えること、思うことはなかった。

 次は温泉ではなくグルメ中心の旅行になるようで海鮮の北海道、石川、山口。ラーメンの福島、神奈川、福岡。B級グルメの大阪、広島。この旅行の回数が増えていくにつれ私はあることの期待を寄せてしまうのだ。これぐらい旅行をする仲なのだからそろそろなのではと。"結婚するよ"と言う彼の言葉を待っていた。きっとそれは今まで見たよりも笑顔で明るくて。

 私を一番笑わせてくれる瞬間となるだろう。

「明日、彼女と花火見に行ってくるよ」

 カフェの営業時間が終わり片付けをしているときに彼は言った。

「そうか、行ってらっしゃい」

 少し期待をよし押せまさかとはと待っていた。期待は事実へと変わったときは身体中に痺れるイナヅマが走った。

「花火見終わったあとに結婚を告げようと思うのですが……」

 ついにこの瞬間が来たと素直に思った。

「遅いよ、待ち侘びてたよ。先に私が死ぬんじゃないかと思ったぐらいだよ」

 可愛いやつだ。冗談の気持ちで手を広げると彼はその手の中、いわゆる腕の中に飛び込んで今私の空間に入り込んだ。暖かく普通の体格と思っていたが意外とがっしりしていた体格。

「この身体なら彼女を守っていけるよ。強い男になってください」

「爺……ちゃん……」

 この子は本当にすくすくと育ってほしい。

「てか爺ちゃん、まだ死なないでよ。結婚出来たら俺の子供を見せたいし面倒見ててほしいし」

「私は子守かい」

 笑いながら腕の中にいるあったかい子は言って、私も言った。

「でもそうだな。君の息子の顔をしっかりと目に焼き付けたい」

 私の過去最高のわがままを吐いたつもりだ。

「見せるよ、絶対に約束」

 指切りげんまん。小指を立てた拳を私に向けて心が温かくなる。そして笑う。彼はお笑い芸人だ。心を温かく温めてくれるお笑い芸人。

 君は最高の私の息子だ。

 翌日に日と時は進む。

「指輪は持ったかい?」 

 玄関であたふたと足を躍らせ靴を履く背中を見て私は言った。結婚を申し込む彼の背中はいつもよりたくましく感じられた。それが伝染するように私のやる気も上がっていく。何をやるためのやる気かわからないから自分のを彼に分け与えたいくらい。

「あぁ、持ったよ。忘れるわけにはいかんよ」

 よく見たら右手に指輪のケースらしきものがあった。玄関の照明は少々暗いがおそらくそれは渋い赤色をしている。どんな指輪を買ったのかは知らない。次期にお目にかかることになるだろう。そのときのお楽しみと言うような気持ちで今は彼を送ろう。

「いってきます!」

 大きい声で彼は言った。大きく開いた口と隠せていない頬の紅潮。それと彼らしいと思えるものがあと一つ。

「これ待て。口見たか、パンケーキの白い粉が付いとるぞ」

 ここと人差し指を立て自分の口を示す。彼からしたらこの位置だよという意味。パンケーキは願掛けで食べさせた。告白が成功しますように。彼と彼女を結ばせる力があるのだからきっとほどけないよう頑丈に結んでくれるはず。

「粉砂糖ついてた、マジやん!」

 口元の粉を指先に付けぺろっと舐める仕草も子供らしい。すぐにティシュで口周りを拭いたら扉を勢いよく開いて表へ出た。

「やってくる。後悔しないよ俺は」

 "あぁ、盛大にやってこい"

 俺は祈って二人が結ばれることを願った。

 たくさん旅行に出かけたんだ。

 たくさん二人で笑ったんだ。

 たくさんの時間を共有したんだ。

 他にもいっぱいあるだろうけど私にはこれが精一杯。彼と彼女はもっと何かをしたに違いない。二人だけの秘密を私には暴けないし、探りたくない。秘密は秘密のままでいい。

 彼がさっきげん担ぎで食べ残していったレモンの果肉を口に加え吸う。

 あの二人のような関係を綺麗に表してくれる味が口いっぱいに広がった。

 

「爺ちゃん」

 玄関のドアが力一杯に開く音が聞こえた。"爺ちゃん"と言っていた。心が勢い良く跳ねた。急いで玄関に向かい彼の元へ向かう。結果は……結果は…………、

 彼と彼女が二人手を繋いで玄関にいた。照明の不具合でいつも暗い玄関が今だけ明るく見えた。二人が輝いているのだ。

「爺ちゃん、俺たち結婚します」

 さっきまで口に粉砂糖をつけてた子供が大人に完全に成長したと思える瞬間だった。彼は子供ではなくなった。あぁ、酷い。あの無邪気な姿が、その姿を持った人がいるのにもう見れなくなるなんて。あぁ、素晴らしい。人がこんなに早く成長して立派になるなんて。

「お爺ちゃんですね、今後ともよろしくお願いします」

 私は寝起きだから頭はまだほぼ起動していない。でも今はフル稼働だ。

「おめでとう」

 これから二人で幸せな家庭を築きあってください。

 

「それで二人はどうなったの?」

 さっきまで私はぐったりだったのにこのパンケーキを食べたあとだからかみるみる力が湧いてきた。それと今この涼しい環境にいるからというのも一つの理由だろう。元の体に徐々に戻ってきている。

 そして老人だと舐めていた。素敵な話じゃないか。小中の校長先生のような長々と面白くない話が今から耳に入ると思っていたから予想を覆された驚いている。

 その続きへの興味もすごい。あのパンケーキが繋いだ物語。二人はあのパンケーキで出会って、結ばれて、最終的に結婚まで至った。だとすれば今も幸せな家庭をどこかで築いているのだろうか。二人の間で生まれた子供はどんな子なのだろうか。笑顔がきっと素敵で父という名の彼のひょうきんさを受け継いでいるのだろうか。

 お爺さんは口をもごもごと結んだままだ。早く早くと急かす私に困った表情を向ける。目を瞑り、やっと開いたと同じタイミングで結ばれていた口が開いた。

「彼は亡くなった」

 リセットボタン。これがあったならとすぐさまに思った。私が今耳に入れた語が聞き間違えかもしれない。"なんて"と私は聞き返すが返ってきた言葉はさっきと大差なかった。

 "亡くなった"が今度はどこかの異国語かと思うぐらいに翻訳が難しかったが、単語の意味を理解したら受け止めなきゃいけない現実は絶対に受け止めなきゃいけないとわかった。

「すみません。どうしても続きが気になってつい聞いちゃいました。本当にすみません」

 "すみません"ではにけれど"ごめんなさい"は最近よく口にした。少しの間だけいろんな親戚に引き取られて引き取ったくせに邪魔者扱いで日頃のストレス、会社や人間関係でのトラブルが体を呑みそれから脱すべく必死に暴れる。暴れるためのサンドバック。

 何もしていないのに私は言っていた。

 "すみません、すみません"

 ダンゴムシのように丸くなり頭を守るポーズで蹴られ殴られ。本当に血が繋がっていない親戚の配偶者からのあたりは特に強かった。邪魔者、サンドバック、パシリ。昔漫画で読んだ不良としていることと大差なかった。比べるものが違う。彼らは主に中学生、高校生でそれに対しての奴らは大人だ。なんの教育も受けなかったやつとしか思えなかった。

 "なんで私がこんな目に"と考えなかった日はない。クラスでギャーギャーと叫ぶうるさい奴ら、悪ふざけを当たり前のように繰り返す奴ら、本人のいないところでこそこそと陰口を吐く奴ら、仲間外れを当たり前と考える奴ら。

 けれどそいつらは普通の範囲の生活を過ごして今も普通に学校に通っている。そして授業を受けている。

 不平等だとしか言えない。夜も寝れない体はもうボロボロだった。

「君は散々謝ってきただろう」

 いきなりお爺さんは口を開いた。

「だから謝らなくてもいい。彼は確かに可哀想な結末に終わってしまったし私だって代われるものなら代わってやりたい。だが代われないんだ。そんな自分に謝りたい」 

「いえ、これとそれでは趣旨が違います」 

「それが違くない。だから私は彼に謝ったことなんぞ本当はない。止めるのだ心に。天で彼が聞いているだろう」

 死んだ人は星になる。これはもうこの年代で本当と思う人はいないだろう。死んだ人の魂はそこで終わりで体も焼かれ土に埋められ記憶、思い出だけが残る。けど天にいると言われて"違う"なんて言えない。実際私もいまだにこの年齢でそう思っているから。

「お父さん、お母さん元気かな」

 視界がぼんやりと霞む。お爺さんはハンカチを出してくれた。

「君が元気なら元気じゃよ。きっと天でも幸せじゃ。心配ない」

「本当にそうだといいです」

 "うわー"心からの今まで耐え抜いた傷跡の痛みを今口から吐いた。肺から来る呼吸は心からの呼吸も含まれていただろうか。吐いたら心が癒やされていく感覚が忘れられない。

「で、このパンケーキはどうして幸せになれるかわかったかい?」

 それはどうも十分に理解できた。

「はい!」

 私はそう力強く答える頃には視界が元に戻り目の周りが小さく縮込むような感覚になった。

 私はあれからどこの親戚の家に引き取られることもなくこの家に住むこととなった。桜木お爺ちゃんと呼ぶ。私は彼二世だろうか。だったら彼と同じ人生を送ってみたいと思った。けれど最後は私の代で意地でも捻じ曲げようと思った。

 交通事故で亡くなったらしい。死に様と言い方は卑劣だがそれは素晴らしかった。彼女が誰かに押されて道路に身を持って行かれた。彼は手を伸ばして道路とは反対の方向へ投げた。その反動だ。道路へ体は持っていかれ車の衝突音とクラクション音と共に彼の魂は天へと向かったそうだ。

 私はこのことにこれ以上の言及はやめた。彼は彼なりの人生を全うした。悔いのない人生。それを罵倒している、否定している気にさせられる。だからもうやめた。

 桜木お爺ちゃんのカフェのお手伝いをして過ごした。通信制で一応高校は卒業した。中卒という称号は給料面から不利だから意地でも高校に通った。

 高校卒業した三月下旬。

 "桜木登賀死去 享年96歳"

 老衰と彼に続きまた一人と自分の人生を全うした人物が現れた。

 桜木お爺ちゃんが死ぬ間際私にこそっと話してくれた。

「君はあのパンケーキを食べてはいけない。食べたいときは一緒にいても苦にならない男を捕まえてからだ。そして二人となったときにはお互いがなくなるまで一緒にいて欲しい。一世、二世ができなかったことを君が全部成し遂げてみようや」 

 こんな長文を桜木お爺ちゃんは。

 絶対に叶えます。だからあの世、いや天で私をみていてください。あなたに救われた命は絶対に無駄にはしません。

 口に出したけど聞いている人はいなかった。

 お爺ちゃん、今まで本当にありがとうございました。

 

「明日奈は今桜木お爺ちゃんの家に住んでいるんだね」

 死んでしまった悲報をどうにか遠ざけようと振り絞った言葉がこれとは。俺はまじで未熟者なんだな。

「そうだね。歴史も思い出もいっぱい詰まっていてそのおかげで年季が十分にあるし。何?泊まりたいの?」

「バカ言え」

 こう言ったものの少しそうしてみたかった。好きな人の見れない一面、好きな人といる時間が増える。小さいときにたまにあった恋心が揺さぶられる。

「私は別にいいんだけど、大智が嫌なら、しょうがないわね」

 うーん、今の訂正は効くだろうか。

 数分して今日のお客様第一号が来店した。けれど、気づいたら夕方だし最初で最後のお客さんだろうと思った。高校生の男女、かばんにあるストラップがお揃いなのをみておそらくカップルなんだろう。

 眼鏡の男子と言い、もう一方のボブの髪型の女子。

「それでさー」 

 案内して席に着くなり二人は話し出した。けれどどこか会話がぎこちなくて会話が噛み合っていない。

「あの二人って初めて見たけど明日奈は見たことある?」

「いや特にないけど、どうして」

「いや別に気になっただけ」 

 キッチンでボーッとしている。それはまぁ暇なのだ。だからあの二人のカップルの話を聞くのに適した時間と言ってもいい。

 俺はあんな青春を送ったことがなかった。だから見ていて正直羨ましく思う。けれど安心して欲しいのはリア充爆破しろとかよくネットで見る投稿は気にしないしむしろ応援するタイプ。

 自分が高校生のときはいろんな人が恋愛をしていたなんてアニメみたいなことはなかったし、カップルは極めて少ない学校だった。自分が知らないだけかもしれないがそれぐらい耳に入ってこないのだからきっと少ないのには間違えないのだろう。

 恋愛ではないけれどこんな事件を俺らは立ち向かったことを思い出した。


 クラス内に一人しかいなかったし彼は女たらしでいい印象とは言えなかった。SNSの投稿で"女たらしは悪いことではない"という記事を見たことがあるがこれの反例のような奴が彼だった。

「え、君って彼氏いるの?」

 クラスで女子と話す丈一郎(彼)はいつもと変わらない感じで話していた。当時は高校に入学して一ヶ月経った五月の頃だったから特に丈一郎とも話したことがないから誰でも関われる人なんだろうなって思ってた。

 六月。とうとう俺の番が来たらしい。先月中に高校でできた友達の鉄真ら全員は彼と話したらしい。五人が一緒に寄り道でファストフード店でそのことを聞かされた。

「丈一郎っているじゃん。みんな何聞かれた?」

 鉄真がそう言った。

「俺は彼女いるのって聞かれたよ」

 これは優斗だ。優斗は優しいし顔も絶世のイケメンとは言えないけれど突然女子から告白されても文句ない顔ではあった。

「俺もそんな感じ。好きな人いるのって」 

 結翔は顔は標準のようなけれど髪がサラサラとしていて前になびく前髪がかっこいい。

「俺は結翔と一緒だよ」

 最後は颯大。

「え、大智は?」 

 鉄真から始まり、優斗、結翔、颯大と来たら取り残されたのは俺だけだった。

「俺はまだ何も」

 六月上旬ではまだ聞かれることはなかった。けれどだ、クラス中の男子にこう声をかけているのだから俺の番が来ないというわけではないだろう。そのときの万が一の備えというような形で俺はこの話し合いに積極的に耳を傾ける。

「正直なこと言っていいか?」 

 鉄真がそう言い始めた。

「丈一郎って誰が誰とどういう関係でどういう風に思っているのかを探ろうとしているんじゃないか。こういうのもなんだけど俺はこのグループで一番クラスの上位カーストにいると思う。自分の勝手な考えでお前たちを見下すみたいになっているけど思ってないからな」 

 この鉄真の保険は意味がないのはみんな重々承知だ。"鉄真がリーダー"という素ぶり、会釈をとっている。確かにこのグループ内では誰が言おうとも鉄真が中心でありリーダーだ。だからこうして会話の司会的役割もこうやって鉄真が務めている。

「そこでなんだがこのクラスの情報、誰かの弱点を知っておこうとしているんじゃないかって思うんだ」

 多分全員の頭には一斉にハテナの文字が浮かんだだろう。言っていることは理解できたけれど俺も一回聞いただけではイマイチパッとこなかった。

「まさか、丈一郎はクラスメートの弱点を自分のカーストに使うってこと?」

 優斗が言う。

「けどなんでそんなこと」

 結翔が言う。

「自己解釈だが説明していこうと思う」

 一つの机を囲う。俺らの周りに隙間ができないぐらいに頭を体を寄せ合って鉄真の考えを聞く。

 これを聞いた一同が衝撃を覚えた。

「そんなバカなこと」

 優斗はそれに反論するような口調だった。

「丈一郎はかなりの女たらしだ。しかもSNSをチェックしたところ毎回いろんな女子とご飯に行っている」

「それぐらい、友達なんだからあって当然だろ」

 優斗はおそらく丈一郎を援護する側だった。

「まぁ今はそんなことはいいんだ別に。俺が言いたいことはなんで弱点を知ろうとしているかだ」

 反対派の優斗もこれには黙った。そして全員息を呑む。

「下手をしたら俺らはいじめの対象になりかねない。一応確認だが丈一郎の問いかけにしっかりと答えて尚且つ彼女や好きな人がいると答えた人は挙手して」 

 鉄真、優斗、結翔がこれに手を挙げた。

「颯大と大智は命拾いってことか。じゃあまず俺ら三人気をつけるぞ」

「何をだよ」 

 丈一郎の標的にされているかもしれないのに優斗はまだ反対派だった。

「丈一郎は俺らに何か危害を加えたのかよ。それを言ってくれなきゃ、一体何をしたら」

 優斗はやはりこれには満足いっていない。まだあべこべなところはあるが俺はこの状況をなんとなく把握した。

「クラスから浮くってことなのだろうか」

 俺は二人の会話に入った。ちょっと緊張したけどこのピリッとした空気感をどうにか変えたかった。

「大智正解。その可能性が十分に出てきた」

「だからなんでだよ」

 やはり納得のいっていない優斗は反論を継続する。口調が力強い。しかし、いたって冷静で鉄真はそれをなだめ詳しく状況説明を行う。やはり彼がリーダーなんだとこう言うところを見て思う。

「女子に聞いたんだ。丈一郎と話した女子になんて聞かれたのか。彼女らだけではない。丈一郎と付き合っていたという人たち全てに聞いた」

 優斗の喉仏がゴクリ動く。

「まずは丈一郎に声をかけられた女子からだ。彼女らは俺らと同じ通りの性別なけ逆の質問をされたようなんだ。"○○って彼氏いるの?"って。な、同じだろ。ただ不快に思うことも一つあった。言い方が悪いが陰キャの女子には颯大と大智と同じ風で"○○って好きな人いないの?"って言われたみたいだ」

「だから何を言いたいんだよ」

 さっきまでの優斗の力強い口調が少し弱くなったのか受け止めがあまり苦になっていない。

「人を見ての判断は実にお見事。そしていきなりの恋バナ。小さいときに好きな人でいじられた経験、またはその経験をしている人を見たことがないか?」

 俺ら四人は互いに顔を見合わす。辻褄がだんだんと当てはまっているのに気づいているのだろう。そしてそれは俺らが平等でもなんでもなく常に下に見られてきたことも。

「弱点。つまりそれは人が性と関わることと自分の個性の好みが存分に出されること。これら二つを合わせたつまりは」

 "恋愛"とここの部分を強調させて鉄真は言った。

「それがなんだよ……」

 優斗は丈一郎に自分のことについて言ってしまった人物だから現実逃避、今の自分を取り消したい気持ちに駆られている。

「俺らは奴からしたら獲物なんだよ。そして俺ら三人はもう奴の手の中なわけだ」

 丈一郎を奴と言い換えた。あの鉄真もそんなふうに考えてしまうことがあるんだなと今知ったことがすごく衝撃だった。

「俺は奴に"彼女がいる"とつい口を滑らしてしまった挙句それに続いてその彼女がどこ中学の人か、そして高校生だとしたらどこの高校か大体の個人情報を聞かれた。そのとき俺は丈一郎ってどんな奴だろうと考えていたがここまでは想定外だった。言ってしまった。もしこれで彼女の身に何かあったら俺は……」

 発言の後半から頭を抱え込み出して最終的に鉄真は頭を抱え込み続けながら机に突っ伏してしまった。

「俺も彼女がいるって言って鉄真と同じことを聞かれた。そして今の鉄真と全く同じ状況だ」

 鉄真までの落ち込みではないものの優斗の心はなんだか重く感じられる。顔色もちょっと悪くなったかなと思ってしまう。

「俺は彼女がいることは言ったけど高校とかは言ってないな」

 安全圏内の俺と颯大、注意圏内の結翔、危険圏内の鉄真と優斗。

「と、とにかく今は気をつけよう。何があるかわからないし。そして大智、お前は絶対に言うんじゃないぞ」

 鉄真のこの発言でこの集まりという名の会議は終わった。『丈一郎に要注意』というのが簡潔なまとめ。

 そして数日後に丈一郎が例のことで話しかけてきた。

「ねーね、大智って好きな人いるの?」

 鉄真の考え通りならこれで俺は陰キャと確立されたとわかる。そしてこの返答で俺の人生は学生生活が左右する。

「好きな人ね、いるよ」

「え、誰々?ここの学校の女子、それとも別の高校?」

 やはり彼は探りを入れてきた。それならと俺は仕掛ける。

「なんでそんなこと知りたいの。特になか言い訳でもないのに」

 人と話すと緊張する。俺は昔からそういう個性だった。けれど前に見た想像もできない鉄真の顔、優斗の感情。これらがどうにか解消できたらと狙って聞いたみた。

「いや、答えたくなかったらいいよ。ただ知り合いかもって思って」 

 俺は顔広いからさと今にでも付け加えたそうな顔で言ってくる。顔に書いてあるってよくアニメとかで見るが今がまさにそんな状況で正直ビビっている。人は案外弱いものなんだと。

「知らないと思うから気にせず」

 "嘘つけや"と言う丈一郎。これは嘘ではない。絶対に知らない人。だって俺が作り出した架空の人物だから。嘘と言ったら好きな人と言う初期ステージからだ。すでに君は餌を求めてこの簡単な罠に引っかかっているんだよ。

 授業の開始を知らせるチャイムで丈一郎は去っていく。このチャイムにはとても救われた。

 あれから丈一郎は俺にひつこく問いただしてくるが学校が終わるとそれはなくなった。学校内のおもちゃ的役割なんだよ俺は。

「なんか話してたやん。なんだったの」

 この事態を今最も恐れている鉄真が俺の席へと来た。それに続きいつものメンバーがゾロゾロと俺の周りを囲む。ただここではまずいと思った。見渡せばクラスには女子が笑い声をあげてクラスの端に固まっている。

「いつものファストフード店に行こう」

 そう言って俺らだけの空間の確保に至った。

「丈一郎に罠を仕掛けた」

 そう言って今日俺がしたことをメンバー全員に伝える。好きな人を聞かれたこと、好きな人を偽ってしかもそれは本当にいないこと、放課後までの学校の時間内に取り憑くように問いただしてきたこと。取り残すことなく全部伝えた。

 それで何ができるかわからない。けれど丈一郎にとっての想定外を作りたかった。

「けどこれは何か使えるかもしれない。考えよう今ある時間を有効に」

 リーダーがこう言うので俺ら全員は考え始めた。考えはすぐに出ないだろうと思っていた俺が突如閃いた。

「分かれ道が二つある。明日から丈一郎が俺に問いただし続けるか、それをしないか。それをする場合俺は鉄真の彼女の名前を言う。ただそれがなかったら俺が誰か女子のことを好きになる」

 どちらにせよどちらも腐った回答だ。鉄真の彼女を守るどころか生贄に差し出して、後者なんか完全にとばっちりじゃないか。

「ごめん、こんなんしか思い浮かばない」

 沈黙が始まった。ポテトを次々に口放り込み颯大はとても気楽で羨ましい。

 この沈黙の時間はなかなか終止符を打たない。

「俺、変なことしたよな」

 自分が良かれと思ってしたことは計画性がなくて、自分は未熟だ。鉄真に体を向け誤る。ただ鉄真はこれについて考え続ける。そしてとうとう口を開いた。

「いや前者は可能だと思う。彼女に事情を話してしまえば協力してくれるはず」

 脳の思考能力が一瞬止まった瞬間だった。それは本当かとつい疑いたくなった。けれど鉄真は嘘なんて吐かない。信じよう。

「あの……」

 颯大がこの会話に入ってきた。さっきまで他人事と言わんばかりにポテトをつまんでいた颯大が。

「仲良い女子いるから後者は俺が引き受けてもいいけど」

 このメンバーは最強なのかもしれない。

 翌日、丈一郎は昨日の続きと言わんばかりに俺に問い続ける。

「ねー教えてよ。誰にも言わないからさ。ね、ね、ね」

 残念ながら会話は二人きりではない。五人だ。けれどここは流石丈一郎というべきか人数では流石に圧倒されることはないらしい。ラジオのようにただ聞くだけで応対はしない丈一郎との会話。いやこれは無視ではない。この五人で無我夢中で盛大な大きな声で話して盛り上がって。肩をトントン叩かれたら横の結翔にすがり付けばいいし、名前を呼ばれたとしてもこの大声の中で聞こえませんでしたということにすれば良い。

 今日は下校中だった。

「前者だから相談した。了解してくれた。てか彼女は丈一郎を知っていた」

 最初のは薄々だが協力してくれる可能性が大きいと踏んでいたから計画が順調というふうに受け止める。鉄真の彼女が丈一郎を知っていた。これが今の難点となりそうな気がして落ち着かない。

「男バス、女バスで同じ学校であったみたい。友達が勧めてきて知ったんだけれどしつこく連絡先を聞かれたらしい」

「それはもう王手だな。俺、なんだか恥ずかしい」

 優斗は一回でも丈一郎側についたことを悔やんでいるようだった。でもしょうがないと慰める。どうしたら丈一郎に立ち向かえるか、俺らはまたさらに追求する。

 ただ計画のズレを作って俺は作ってしまったらしい。

「水月。春歌高校の」

 ここから狂い始めたのだろうか。


「それやばくない」

 いつもの鉄真と優斗の会話が始まる。

「ざっと計算してみたんだが最低三十分、最高一週間。これが奴の付き合った記録みたいなやつ。とてつもない奴だった」

「さあこれからどう調理しようか、ワクワクしてきたな」

 何もかもが順調だった。だけど物事が順調だとそれはどこかで決壊が生じているのだ。アニメ、物語でそれはあるあるの展開で聴衆、読者を引き込ませる。これは現実でそれらではないけれど十分にそれに近かった。

 それから二週間経った。

 あの、別れたんだけど。と突然言い放った鉄真の顔はなんとも恐怖に満ちていた。

「俺、新しく彼女作ったんだ。水月って言ってほらほら」

 スマホを俺たちに見せる。仲良くVサインを作りながらプリクラ特有の目が大きくなってそれはとてもお似合いのカップルに見える。

「ごめんな、大智。好きな人取っちゃって。なんか昨日さ、いきなり連絡きてさ呼び出されたんだよね」

 今度はその証拠にメールのやり取りの画面を見せる。水月と思われるメールのやり取りはとてもすごく馴染んでいた。水月ちゃんという名前に編集している。

「水月ちゃんがね、付き合ってって告白するもんだからさ。ほら俺断れない主義だからついいいよって許可しちゃった。本当にごめんなー」

 安心しろ。お前のごめんは謝っていないし俺は傷ついてなんかいない。今最も傷ついているのは俺の横にいる水月と付き合っている鉄真だ。鉄真耐えろ、その怒りをどうか心の奥底に沈めてくれ。

「本当にごめんなー」

 耳に入れるだけで無駄な工程はもうガン無視だ。どうでもいい。

「鉄真、大丈夫か?」

 青ざめている鉄真の顔。怒られる、いや怒られて仕方がない。鉄真の彼女を奪ったようなもんだ。鉄真が俺の提案を水月にしていなかったら何か変わっただろうか。もう答えは迷宮入りとなった。もう鉄真と水月はお互い連絡を取り合うこともないだろう。

「大智、大丈夫怒らない。提案したのは俺でこんなことを始めたのも俺だ。巻き込んでしまった水月が向こうに流れるのもしょうがない。俺は俺自身を過信しすぎたんだ」

 闇おち。それから数日に鉄真にはその言葉がピッタリと当てはまった。もう再起不可能だった。

"ごめん、鉄真"

 俺はその日の就寝前、そっと呟いた。これは多分謝れていないだろうな。

「どうか俺らの友情はガラスでありませんように」

 これは呟くという音量ではなかった。

 夏休み前の学校は誰もがソワソワする。夏休みは休日が多いしほぼ自由だ。そんな時期にいきなり鉄真のスマホに電話がかかってきた。

 そのときちょうど俺らも居合わせていたから鉄真のスマホをスピーカーにして電話をする。スピーカーが気付かれないよう、俺ら他人がいると悟られないよう俺らは息を殺す。

「そこで私はどんな役づけになってる?」

「君は丈一郎と付き合ってることになってる」

 言いたくないだろうに鉄真は言った。

「ねえ、なんで俺に別れの一言もなっかたの。何か不満があったなら一言ぐらい言ってくれたっていい。何も言ってくれないのが一番悲しい」

 別れ際のカップルって全員がこんなふうなんだろうかと人間関係のいきなりの決壊に俺の心は嘆くようにキュウと音を出す。

「丈一郎に近づいてもっと情報収集できたらいいなと思って。何も言わずにこうやって付き合ったのは鉄真を驚かせるためだよ。だって鉄真っていっつも何事も完璧で私が驚かされてばっかだし。たまには私もできるってところ見せなきゃでしょ」

 言い訳、には聞こえなかったのは俺だけではなくこの場の全員だ。頷いて彼女への尊敬の目を向ける。

「もし、それが本当ならやめてほしい。これは俺らの特に俺の問題だから」

「俺らの問題って言うけれど鉄真のしていることは普通にいじめのような気がする。だから強いて言うならやめてほしい。でも鉄真は一度決めたことはあやめない悪い癖があるから。絶対に辞めないでしょ」

 彼女、水月は本当に鉄真のことが好きなんだなと二人の会話を聞いて体の全細胞が共感の意を示すためか 動いたような気がする。

「でも辞めないから早く終わらせる。私も正直うんざりだし、彼なんかに女子を物扱いされたくないし」

 この状況、鉄真はどういうふうに受け止めているのだろう。浮気が発覚した水月は実話丈一郎へのスパイのような役割をしていて、そしてこれは要するに鉄真のやりたいこと目標への近道としている。

「大丈夫、俺ももう辞めるから」

 唐突の出来事だった。鉄真が言った。まさかと何度も思ったがこれは真剣のようだ。

「なんとなくこれは自己満の一種に過ぎないようなそんな気がしていた。だから本当はこんなことやめるべきなのではと。けれどあういうふうに言ってしまったからには目標を定めたこと。目標に嘘を吐くのはとても耐えられなかった。この問題を遂行してしまえば終わる。まるで中毒のようで、周りなんか見れてなかった」

 俺は今人生で見れるか見れないかくらいのシーンを目が照らしている。鉄真が涙を浮かべる。鉄真は鉄真らしいことをした。自己満と捉えているが一応それは自分のためではなく"女子"のため。しかも今こうして彼女がいるんだから下心なんかない。純粋な心はしっかりと人を守っているがこれも純粋ならではなのかもしれない。行動の選択肢を間違える。

 けれどこれくらい俺にとってなんのその。俺は人生の選択肢を間違え、間違え今ではこんなどことなく醜い存在。鉄真はきっと間違えなかったのだろう。

「鉄真は泣かなくていい。鉄真が止めるなら私もしっかりと止めるから」

 電話越しの声は機会を通すにもかかわらず透き通っていて、こんな何もかもを透き通してしまうのだからとこの二人の関係性が窺える。

「もうやめる。俺は間違えた」

 こうして俺らは幕を下ろした。


「さっきから何ぶつぶつと呟いていたの」

 昔に遡ることが最近多くなってなんだかつい口に出してしまっても恥ずかしいとは思わなくなった。それが明日奈だからからと言う意見もあるだろうが俺はそんな変化がここ最近見られた。

「オーダー聞いてきてよ。二人暇そうだよ。男の子の方は何か喋りたげで女の子の方は何か待っているみたいだし」

 二人の方へと目を移すと明日奈の言った通りの状況だある意味驚いた。

 俺は二人の元へ向かう前に明日奈の方へと経由する。そしてあることをお願いして俺は目的地へと向かう。これを言ったとき明日奈はどんな顔をしていただろう。驚いたか、俺を馬鹿と見たか。どちらでもいい。一度は鉄真になりたかった。今しかないのだ。

「男の子の方ちょっとよろしいでしょうか」

 目的地について二人にはっきりと聞こえる声で言う。とう呼ばれた本人は席を立ち俺が案内するところに素直についてくる。

 スタッフルームのような空間に俺は彼を呼び出した。

「告白はどっちからだ?」

 我ながら馬鹿げた第一声で腰を抜かしてしまいそうだ。けれどこれを聞かなかったら物語の第一ページは決して開かない。分厚い本を読むにはまず肝心なのが一ページ目。ここで物語を粗末に扱うか丁寧に扱うかで物語は人それぞれの良し悪しの感想に分かれかねない。

 俺は今決めた。彼の恋愛をきっと成功させる。

「俺からです」

 きっぱりと言った。そしてそれが大きい後悔となっているのかその告白についての失敗談を語り始めた。だが咲穂さんへの罵倒ではない。自分自身に関しての問題を言っていた。

「俺は夜遅くにメールで突如告白しました。ただ、それはやっぱり深夜テンションが生み出した何かなのではないのかと今すごく感じているんです。それかバイトを始めたことか。彼女の学校バイト禁止なんですけど、彼女はお金がないからバイトをすると言い出すんです。俺は何がなんでもとこれを止めましたがやっぱりダメでした。最終的には俺はバイトに負けたんです。近道を辿れば俺か金か。彼女は金が目当てでした」

 一人となったからか初対面なのに言いづらさを感じさせず流れるようにあれらを全て噛むことなく言い切った。

感想聞かせてください。成長という種を芽生えさせたい

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