わり引けん
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トーガの目の前にいる男が探している、人物か動物かすらわからないものは「ピック」というらしい。
だが、男の口からはその「ピック」の特徴はおろか、人なのかどうかすら吐かれることはなく、トーガは当然ながら、ボットすら呆れ返っていた。
ただ、これだけは確信を持って言えるとするなら、「私はピックではない」ということである。
トーガはもちろんの事、ボットもそのピックという名前ではない。
未だ手を離す様子のない男に、なんとか手を離させようとトーガは学生証を顔に近づけてやるが、「近すぎて見えん」だの、「文字が小さくて読めん」だの言葉を並べ続け、結果としてトーガの手首を握る手が離れることはなかった。
長時間掴まれているせいか、手首が蒸れている感覚を感じるトーガは、顔を顰めながら掴まれている手をこれでもかと上下に振り回す。
それでも屁理屈を並べて言葉を濁し、離さない男にいい加減呆れていると、ふと噴水周りを避けている人混みの中から鈴のような可愛らしい声が聞こえた。
「す、っみませえん!通してください!」
トーガとボットが声のする方に視線を向けると、大人や学生たちの足に揉みくちゃにされながら、すっぽりと小さな手が飛び出してきた。
その後すぐに、窮屈そうに顔を赤くしながら、顔、右足、体、左足と人混みの中から出てくるその人物は、おでこがハッキリ見える程に短い前髪と、それに反して長く、癖っ毛のある後ろ髪を揺らしながらぴょこんと小動物のように出ている四肢を揺らし、人混みにはまって抜けない左手を引き抜こうと奮闘している。
綺麗な赤い刺繍があしらわれているロングコートの袖が引っかかっているのか、抜ける様子のない左手を抜こうと履いている革製のブーツを鳴らしながら飛び跳ねている姿はなんとも可愛らしかった。
……思わず見惚れていると、無事左手を人混みから抜くことに成功した少女はこちらへと視点を向けている。
だが、左手の抜けた勢いに任せ、少女はそのまま地面へと倒れそうになっていた。
「危ない!」
謎の男に手首を掴まれていることも忘れ、トーガは今にも転びそうになっている少女を助けるべく手を伸ばす。
すると、突然トーガやボットの着ている制服が揺れる程の豪風が横切った。
突然の大きな風の音と、風の勢いに負けて制服と髪が揺れ、トーガは思わず視界を両の手で伏せようとするが、その時気がついたのだ。
そう、男に掴まれていたはずの手が自由になっている。ついでにその場にいた男も消えていた。
「何故?」トーガとボットは疑問に思いながら首を傾げ、転びそうになっていた少女の方へと視線を向ける。
するとそこには目を疑う光景が広がっていた。
「ピック、ようやっと見つけたぞ、この悪ガキめ。」
転びそうになっていた少女を、先程の怪しい男が大切そうに受け止めているではないか。
少女の広いおでこに向かい、デコピンをする男は何処か既視感があり、トーガはさらに呆れ返った顔をする。
「さっきも私に似たようなことをしたじゃない、こいつは誰彼構わずやってるのか」
トーガの考えとしては、完全にこうである。
初対面で阿呆呼ばわりされ、手首を掴まれ、探しているものとは別だとわかっても頑なに離さなかった、寸刻前までこんな出来事が起きていれば、そう思われてもしょうがない。
だが、初対面の少女にデコピンをかまし、抱き寄せて体を密着させているのは先程よりも明らかにやっていることのレベルが高すぎる。
これでは少女が困ってしまう。そう思い、急いでその場へと駆け寄った。
……否、駆け寄ろうとした。
足を一歩踏み出した瞬間、少女のツヤツヤな唇が動き、とある言葉を発したのだ。
その言葉は、トーガとボットの足を止め、呆気にとらせるには十分すぎた。
「やっと見つけた!おじいちゃん!」
「え」 「この子はマジなんだ」
怒っているのか、頬をぷっくりと膨らませた少女は、視線を向けている男に負けずと上目遣いで睨みを効かせている。
ぷりぷりと怒りながら、髪に編み込んである赤いリボンを揺らして「おじいちゃん」に向かって声をあげていた。
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「おじいちゃんの面倒を見てくれてありがとうございます!これ良かったらどうぞ!おれいです!」
「どうも……ん?」
男のことを「おじいちゃん」と呼ぶ少女が、深々と頭を下げながら差し出してきたのは一枚の紙切れ。
ボットが「食えるものか?」と期待して顔を覗き込ませている中、恐らく裏向きだったであろう無地の桃色の紙をひっくり返す。
すると、色鉛筆で書いたであろう「わり引けん」の文字が、漢字の書き慣れていない小さい子の手つきで書かれていた。
何を割引するものなのか、首を傾げているトーガをよそに、食べ物じゃないとわかったボットは微妙そうに顔を歪ませている。
しまいには「えぇ……」だなんて期待はずれを表すような言葉を吐き出しそうになるものだから、咄嗟にトーガがチョップをかまし、少女の方を向いて「これは何に使うものなの?」と聞いた。
優しく微笑みながら、視線を合わせるためにしゃがんでくれているトーガを見て、少女は口角をゆるりとあげ、微笑む。
「自己紹介が遅れて申し訳ごめんなさい!私、「薬屋竜の息吹」店主のピック・タックです!こっちは私のおじいちゃんのキリュウです。」
「それ、私のお店で使えるわり引けんなんです!」
「竜の息吹」だなんて人が寄り付かなさそうな名前にしているセンスを疑うが、誇らしげに胸を張っているピックに対し、とてもそんなことは言えず言葉を詰まらせて、トーガはとりあえず頭を撫でてやる。
「物騒な名前してんなぁ」
……と言いそうになるボットのつま先をトーガはこれでもかと力任せに踏み付けると、もがきながらその場で転がり出した。
こんなにも小さな女の子が店を構えているのだ、ネーミングセンスはともかく十分すごいことだろう。
素直に「凄いじゃない」と褒めていると、何故かキリュウも驚いたように目を見開いていた。
腰のポケットに両手を入れながら、身長の低いピックを見て少し前屈みになる、そしてこう言うのだ。
「お前いつの間に店なんてやってたんだ?」
その一言に、思わずトーガは目を見開く。
つま先の痛みにもがいていたボットも、涙目になりながらキリュウの方を見ていた。
先程、ピックが「おじいちゃん」だと紹介していたはすだが、同棲していないのだろうか?
トーガは首を傾げていると、撫でている手の方から大きなため息が聞こえ、そちらを見る。
するとそこには、困った様に眉を下げているピックがいた。
「……ごめんなさい。おじいちゃん「データ消滅」っていう記憶に障害が出るタイプのバグ持ちなんです。」
「ご迷惑おかけしちゃいましたよね……」
「本当にごめんなさい」深々と頭を下げているピックを横に、キリュウはなんのことだか分かっていないのか首を傾げている。
トーガたちが初めて会った際、名前を聞いても分からないと言ったのは恐らくこのバグのせいなんだろう。
小さな疑問の正体がわかり、少し気分が良くなったトーガは、頭を下げているピックに「大丈夫だよ」と言いながら頭にそっと触れてやると、安心した様子で頭を上げて微笑んでいた。
釣られて微笑むトーガだが、ふと先程言っていたバグの病名である「データ消滅」という言葉が突っかかる。
だが、少し考えるとすぐに答えは頭の中に浮かんだ。
……そう、彼もまた、あの本に載っていた「現在どの壊助師にも治せない」と書かれていたバグ持ちなのである。
「世界って狭いのねえ。」 「どうした?腹でも減ったか?」
呆れた様子で言葉をこぼすトーガをよそに、ボットは何処からか取り出した分厚いジャーキーを口元に寄せてくる。
「本当になんでも入ってるのね」と、言いながらそのジャーキーを握っている手を軽く押し離してやると、「いらないのか!じゃあ俺が食う!」と嬉しそうに頬張り出したのだった。
全く、呑気なやつである。
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