走り、転び、そして
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……意識が朦朧とする、呼吸がしづらい。
だが迫ってきているウイルスが待ってくれるはずもなく、疲れ果てている足を無理矢理動かしてただひたすら前に進んだ。
生気を失った右腕は、だるんと重力に従っており、指先まで紫色一面に染まっている。授業の時に見たデコイ人形の様に「プスプス」と音を立てながら、藤色の煙を立たせていた。
そこに心臓が付いているのではないか?と錯覚するほどに右腕はどくどくと音を立てて、ただひたすらに痛みだけを感じさせる。
走る中当たっている風ですら、ナイフで切りつけられているかのような痛みに感じてしまい、トーガは涙で目の前を歪ませながら右腕を支え、必死に逃げ回っていた。
入り組んだ路地裏にある、道一つ一つに片っ端から曲がり、走り、駆け抜ける。
勿論トーガ自身にその道の先なんて分かるわけないが、後ろから迫ってきているウイルスから逃げるには、ただ追いつかれない様に走るしか選択肢は無かった。
目の前に見える、先の見えない曲がり角を曲がろうと左足を力任せに踏みつける。
そして、地面を蹴ろうと足のつま先に力を込めたが……
「うぁっ……!」
ウイルスの動きにより、トーガの足元は大きく揺れながら宙を舞う。
そのまま体制を崩してしまい、曲がること叶わなかった曲がり角の壁に背中を打ち付けてしまった。
背負っていた鞄のおかげもあり、直接的に壁に当たった痛みは来ないが、鞄の中に入っていた教科書や本が背中に勢いよく叩きつけられ、この上ないぐらいの痛みが背中を巡り、右腕に伝う。
不意に来た右腕の痛みになんとか耐えようと頭を回すが、体は追いつくことなく、そのままうつ伏せで地面に倒れ込んでしまった。
肩で息をするトーガは、疲れ切った重い体を無理矢理動かすべく、うつ伏せの状態で腕を動かす。
地面に触れた右腕を見ると、バグにより染まった紫色が「ジ……」と音を立てて地面に毒々しいシミを広げており、ただ恐ろしいという感情だけが脳を支配した。
……が、地面に這いつくばっている間にもウイルスが止まってくれるなんてことはなく、一歩、また一歩と近づいてきていた。
揺れる、揺れる、私の体が、地面が、辺りの壁が、建物が。
こっちを見ている、化け物が、ウイルスが、……父を殺し私を独りぼっちにしたやつが。
_怖い。
ウイルスの振り上げられた腕により、トーガは遂に目を閉じた。
目を包んでいた涙の膜が、瞼によって地面へと落ちていくが、それはやけにスローモーションに感じる。
視界は瞼の裏で真っ黒に染まってしまい、目の前が何も見えない中、ただひたすら思い、それは声に出た。
「誰か……助けてッ……」
喉を震わせながら、届くことないであろう助けを求めて叫ぶ。
振り下ろされるはずの腕を、ただ力任せに瞼を閉じながら待つことしかできなかった。
暗い視界の中、身体中の震えと腕の痛みだけを感じる。
……だが、いつまで経っても痛みが襲ってくることはなく、ただ暗い視界の中、刃物がぶつかる様な「がきん」という音が聞こえた。
なに……?
トーガはゆっくりと瞼を上にあげていき、音のするウイルスの方へと視線を向けていく。
向けた先には、太陽の様な優しい光が見えた。
「間に合ったァ……ッ!」
「ボット……!」
ウイルスの紫色とは真逆の、明るい髪の色を揺らすボットは、カッターナイフを構えている。
そのカッターナイフはたしかにウイルスの一撃を抑えていたのだ。
身体中に汗を滲ませながら、鍛え抜かれた腕に血管を浮かばせるボット。
ボットはウイルスの腕を受け流すと、「こっちだバカヤロウ!」と叫びながら駆け出した。
トーガはただ、大粒の涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてその場に腰をついている。
ウイルスは寸刻前までトーガだけを追っていたのが、ぎょろりと目線を変えてボットを睨む。すると、トーガが見えなくなったかの様にボットだけを追い始めたのだ。
ここにくる直前まで別のウイルスを追っかけ回していた挙句、この場に来るために全速力で走ってきたボットはすっかりヘトヘトであり、足取りはどこか覚束ない。
だが、その覚束ない足取りの中、次々とウイルスが仕掛けてくる攻撃を避けて言った。
「大丈夫!俺ッは……余裕だから!今のうちに逃げろ!」
冗談でしょう?手は震えているし足元だって覚束ない様子。
おそらくそれは恐怖ではなく、疲労から来ているものであり、目に入る情報ではウイルスに攻撃は愚か、逃げ切ることすら出来ないだろう、とトーガは直感で感じた。
だが、それと同時に自分がここにいてもただの足手まといであることも感じとる。
そうだ、ただでさえ疲労で倒れそうな中守ろうと逃げに徹してくれていると言うのに、いつまでバグった右腕をぶら下げて座っているの?
今は逃げるのがボットにとっても、私にとっても得策。
そう思いながら、トーガは震える腰をゆっくりとあげると、また大きな音と共に地面が揺れる。
音の先へと目線を送ると、ウイルスの一撃を喰らってしまったボットが地面に打ち付けられているではないか。
ぐるぐると喉を鳴らすウイルスは、何か攻撃をする様子でボットを目掛けて大きく喉を膨らませている。
その攻撃は、どこか見覚えがあるものであり、トーガの足を止め、目を引いた。
……なんとそれは、トーガの右腕を病に犯してしまった大きな炎を出そうとする構え。
軋む身体を起こして、ボットは攻撃を受け流すべく、震える手でカッターナイフを握っていた。
瞬間、トーガの頭の中にはたくさんの思考が巡る。
ボットは「空振りバグ持ち」、であればあの構えた武器は恐らく高確率で空振るだろう。
右腕に少し食らっただけで触れる風すら地獄の様に痛いのに、武器が空振り、炎をもろに食らったらボットはどうなる?
だが、自分に何が出来るだろう。散々出来損ないだと蔑まれ、壊助師を目指すくせに壊助能力すらろくに使えない「出来損ないのトーガ」が。
背負っている鞄に入っている本に載っていたのだ、「現在どの壊助師にも治せない」と。
……本当に、このまま逃げてもいいの?
滲む視界の中、気がつくとトーガは右腕を構えていた。
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