本当の幸せとは
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あの日、書斎の奥で聞こえた謎の音が頭から離れない。
そんな突っ掛かりを抱えたまま、トーガは日々を過ごしていた。
大好きな父と共に笑い合い、愛しい母と食卓を囲み、笑いかけてくれる使用人たちと一緒に邸内を駆け回る毎日は、トーガの心を満たしていく。
……満たしていく最中、やはり何かが足りない、大切な何かが欠けているような気がしてならなかった。
今日も書斎にて、不服そうに眉間に皺を寄せたトーガは、万年筆を動かしていた手をゆっくりと遅くしていく。
その様子を横で見ていたハンスは、ノートに顔を向けているトーガへと覗き込んできた。
「どうしたトーガ、何か分からないことでもあったか?」
何気ないハンスの質問に対し、トーガは少しの沈黙の後、「ううん」と言葉を溢して首を左右に振る。
だが、拭える様子のないトーガの不服そうな顔は、ハンスの表情すら次第に暗くさせていった。
「なあ、トーガ」
「……なあに?お父さん。」
「トーガは今、幸せかい?」
突然すぎる意味が理解できない質問に、トーガはノートへ向けていた顔を上げてハンスへと向ける。
瞬間、トーガは目を見開いた。
なぜなら、トーガの星が輝く瞳の中には、哀しげな表情を浮かべる父の姿が写っていたから。
どうして?私の勉強の進み具合が遅いから怒ったの?……一瞬そんな考えがトーガの頭の中に過ぎったが、すぐに自身の中にある普段の父の姿が否定する。
父は、そんなことで怒るような、悲しむような人ではない。
だからこその、疑問。
「幸せだよ、毎日お父さん達と笑っておいしいご飯を食べて……」
トーガは指を折りながら、一つ一つとこぼす事なく幸せを告げていく。
そんな時、幼く丸い手に視線を向けているトーガは、一つの言葉を溢した。
「夢だったから」
「……!」
当たり前のようにトーガの口から漏れた言葉に、ハンスは勿論のこと、言っていた本人であるトーガすらも驚きの表情を見せる。
瞳の中の星をギラギラと輝かせ、トーガは自身で吐き出した言葉に焦りと困惑を見せて、一粒の汗を流した。
「あれ、夢ってなんだろ。え、だって毎日美味しいご飯食べてるし、お父さんといっぱい笑って、おしゃべりだってしてるのに。」
「ごめん、ごめんねお父さん。私なんだか疲れてるのかも。だってこんな、ずっと望んでたことなのに物足りないなんて……」
「あれ?」
違和感と、疑問。
大きすぎるそれは、トーガの瞳を一際大きく輝かせた。
そんなトーガの様子を見ると、ハンスは何処か悲しそうに笑い、指を折っていた最中の手を、それはもう愛おしそうに両の手で包み込んだ。
「なあ、トーガ。」
_____そして、愛しい父の口から、真実が告げられる。
瞬間、落ち着いたノックが部屋の中に響き渡った。
突然のことに肩をびくりと震わせたトーガは、ノックの聞こえる扉へと視線を向ける。
だが、ハンスはノックの音には見向きもせず、トーガだけを見つめていた。
「お嬢様、こちらにいらっしゃるのですか?」
軽いノック音の後すぐに聞こえてきた声で、扉の向こう側にいるのがモロネであるということはすぐに分かった。
少しばかりの安心感の後、未だ手を離そうとしないハンスにトーガは笑いかけた。
「お父さん、モロネが呼んでいるわ。離して?」
「ダメだ。」
「……お父さん?」
悲しそうな表情のまま、ハンスは大きくため息をつく。
その後、トーガの手を包む自身の手を、祈るように頭部を近づけると、ハンスは決意を示した様に、表情を固めた。
「お嬢様?いらっしゃるのでしょう?」
「お嬢様?お嬢様ー?」
「黙れ」
ハンスの重みの効いた声により、モロネの呼ぶ声が止む。
だが、それは僅か一瞬のことであり、その後すぐに扉を叩くノック音が響いた。
……しかし、その音は先程と違って荒々しい。
「お嬢様、お嬢様、開けて。開け、あけ」
コンコンコンコン、コンコンコンコンコンコン。
ガチャガチャガチャガチャ、ガチャガチャガチャガチャガチャガチャ。
次第にノック音は、扉を殴っているかのような音に変わり、ドアノブを激しく揺らす音も混ざり始めた。
「開けろあけろ、アケロあけろあけろあけろ!!!!」
トーガは怯えたように揺れるドアノブを見つめる。
よく見るとドアには用意周到に鍵がかかっており、そう簡単に開く様子は無かった。
だが、これほどまでの扉を殴りつける音と、ドアノブを揺らす音を聞くなり、扉が開く……というより壊れるのは時間の問題ではないか。
例え扉の向こうにいるのがモロネであれ、そうでなかれ。
あまりにも恐ろし過ぎる光景に、いつしかトーガは扉を開けようとは思うことすら無くなっていた。
「時間がもう無い。トーガ、お父さんの話をよく聞くんだ。」
けたたましいノック音の中、ハンスはトーガを見つめて、口を開く。
「トーガ、お前には、もっと大切なものがあるんじゃないのか?」
ピシッ
心の中で、何かが割れたような気がした。
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