思い出の時の中へ
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毎日が楽しい。
母はとても優しいし、父との勉強も充分すぎるくらい充実していて。
久しぶりだった、頬を染めている母を見るのは。
口元を緩ませて、口角を上げ、それはもう楽しそうにしている。
久しぶりすぎた、父の全ての表情を見るのは。
発する声も、声に合わせて動く口も、笑うときに揺れる方も全てが愛おしかった。
そして、いつからか、少しずつ何かが失われていく。
それは大事なものであったはずなのに、砂時計のガラスが割れて中身が溢れたみたいにサラサラと無くなっていった。
食堂で、ほかに誰かと笑っていなかっただろうか?
自室で、他の誰かに優しく接してもらえていなかっただろうか?
キッチンも、広すぎる庭も、沢山の使用人たちも、何か違うはずなのだ。
でも、でも……
「……トーガ?どうかしたのか」
「ううん!なんでもない!」
___心地の良い夢の中で、大切な何かを忘れてしまった。
目の前の父はどこか心配そうに眉を顰めているが、その視線の先にいるトーガは幼く笑いながら、手に握る万年筆を走らせている。
失ってしまったはずの右手があることになんの違和感も持たず、すっかり幼くなった見た目で、父とは正反対に笑っていた。
まるで、これが当たり前かのように。
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「モロネ、後はお願いしていいか?」
「かしこまりました」
父……ハンス・ジュラルドは、トーガと並んで座っていたのを立ち上がり、すぐ後ろで控えていたモロネに話しかける。
「トーガ、お父さんは仕事に行ってくる。いい子にしてるんだぞ」
「うん!いってらっしゃい!」
どうやら仕事に行くようで、引いた椅子をゆっくりと押し戻すと、トーガの頭を数回撫でた。
父の心地の良い手が離れていくのを名残惜しく感じながら、トーガは父へと視線をあげる。
そんなトーガに微笑むと、モロネが持っていた帽子とコートを受け取り、ハンスは部屋を後にした。
扉が閉まったのを確認すると、トーガは庭の見える窓に向かって身を乗り出す。
しばらく庭を見つめていると、ハンスが外に出てき、門へと手をかけていた。
「お父さん!お父さーん!」
「トーガお嬢様!危ないですよ!」
幼く丸い手で窓の鍵を開けると、そのまま窓に両手を当て、体重を込める。
バンッ 窓が外開きに開くと、トーガは窓の外に顔を出し、ハンスに向けて手を振り回した。
驚いた様子でハンスは頬に一粒の汗をかくが、トーガが窓から落ちないようにと腰をささえているモロネの2人を見るなり、クスクスと喉を鳴らして笑う。
が、トーガの期待に応えるように手を振りかえすと、門へと手をかけ、仕事へと向かっていった。
「頑張ってねー!」と口を大きく開き、笑みを浮かべると、少し気が抜けてしまったよう。
そのままモロネに引っ張られ、地面へと仰向けに倒れ込んでしまった。
ガツン と間抜けな音と共に、モロネは腰と頭をさすり、痛そうに目を潤す。
その様子を見たトーガは慌てて起き上がり、困ったように眉をひそめた。
「もも、モロネ!?ごめんなさい!私……」
「こ、腰が……」
「い、いたいのいたいのとんでいけ!」
……
唖然としているモロネを見るなり、トーガは少しずつ顔を赤く染めていく。
すぐに恥ずかしそうに慌てると、モロネはすぐさま言葉をこぼした。
「わ、わあ。素晴らしいですお嬢様!痛みが引きまし……たァ……ッタタ……」
「むむ、無理しないで!?お部屋で休んでてちょうだい!」
「ありがとうございます……。」
ゆっくりと腰をあげると、モロネはトーガの自室を後にする。
部屋に残されたトーガは、申し訳なさそうに眉を下ろすと、机へと戻り、勉強を進めた。
……一人でポツンと、ただ万年筆の滑る音だけが聞こえる。
なんだか、寂しく感じた。
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