不安溢れる帰宅路
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終鈴が学校内に鳴り響き、後に教師の口から言われる解散の言葉を合図として生徒たちは各々椅子を引き立ち上がる。
椅子や机がぶつかり合う音、背負い鞄のベルトを雑に掴み、鞄の中にしまわれている教科書やノートが揺れる音など、様々な生活音が混ざり合った。
生徒たちは楽しそうに話し合いながら教室を出て行く。
「花屋の向かいに出来た新しいお菓子屋に寄らない?」 「いいね、昨日お小遣い貰ったから沢山買っちゃお!」
腰にあるポケットにしまっていた財布を取り出し、ご機嫌に揺らしながら廊下へと歩みを進めて行く。
そんな中ただ一人、トーガだけは椅子を引くどころか、立ち上がる様子すら見せずにただひたすら机の上に乗っているノートと、握っている万年筆に視線を向けていた。
たまに分厚い教科書に目を向け、更にたまにそれよりもずっと分厚い参考書へ目を向ける。
生徒たちはトーガを横目に見ながら、一人、また一人と教室を出て行き、最終的には教室内にはトーガとトーガの荷物だけが残った。
寸刻前までは賑やかだった教室はすっかり静寂に包まれており、トーガの揺らす万年筆とノートが擦れる音だけが響き渡っている。
「応急処置の手順と、やってはいけないこと……」
万年筆を動かす手を止め、参考書へと手を伸ばす。
参考書のページをめくろうと伸ばした右手は参考書に届くことはなく、空を掴んだ。
ノートに視線を向けたままだったトーガは、何事かと眉間に皺を寄せながら参考書が本来あったはずの場所に目を向ける。
だがそこには参考書は置かれていなく、あげた視線の先は少し薄暗くなっていた。
「トーガ・ジュラルド。教室を閉めます。やるなら図書室でやりなさい」
「……はい。」
薄暗かった理由は、教師が机の目の前に立っていたからであり、参考書がその場から消えていたのも教師が掴んでいたからである。
教師はわざとらしく鍵を揺らしながら参考書を机へと返し、教室の扉の前へと早歩きで向かう。
すると扉の前に立ち止まり、トーガの方へと視線を向けて、ヒールを鳴らし貧乏ゆすりを始めた。
ヒールの音は時間を煽り、その音を聞きながらトーガは慌てて机に広げていたノートや教科書を背負い鞄に詰め込む。
そして、雑に椅子を引いて立ち上がり、椅子を戻すと小走りで教室を飛びだそうとした。
……が、閉まっている扉が自動で開くなんてことはなく、静かな教室の中で「がどん」と大きな音を立て、トーガは自身の頭を撫でる。
気まずさから下を見ていたせいもあり、前を見ていなかったトーガは教室の扉の頭をぶつけてしまったのだ。
「一刻も早くここから消えたい」
それだけがトーガの頭の中を支配し、ぐるぐると思考が鈍る。
慌てて扉を開いて教室を飛び出すと、教室の方からは教師の嗤う声が聞こえた様な気がした。
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場所は変わりピュリフィケーション内の図書室。
トーガは図書室に並ぶ沢山の本を読みながら、黙々とノートに文字を綴っている。
隙間なく埋められて行く文字たちを目で追いながら万年筆を揺らしていたが、揺れは次第に震えに変わって行った。
ふるふると肩を揺らしながらも、なんとか手を動かそうと万年筆を強く握ると、その瞬間視界が滲み、ノートにシミができる。
自分が泣いているのだと理解をするのに、そう時間は要らなかった。
制服の裾で涙を拭いながら、鼻水を啜る音を静かな図書室内に響かせる。
気を紛らわせようと無理矢理万年筆を動かすも、頭の中はトーガのもやもやとした複雑な心境が支配した。
書いてあることを書き写しているだけで私は本当に壊助師になれるの?
どんなに覚えたって実践で活かせなければ意味がないじゃない
筆記で満点を取ろうと、暗記でボーナス点を貰ったとしても結局は壊助能力を使えなければ意味がない。
こんなんじゃ私、いつまで経ったって……
頭の中を紫色が支配する。
そんな中、トーガは咄嗟に自分の涙で滲んでしまった文字へと視線を向けた。
じわりと広がって行く文字は、その部分だけではあるものの、なんて書いてあったかなどすっかり分からなくなっていく。
なんとか止めようと、手を伸ばそうとしたその時、指先がいつの間にか手放してしまっていた万年筆に触れた。
その瞬間、頭の中は紫色から一変し、暖かな記憶へと姿を変える。
真っ先に浮かぶのは、この万年筆をくれた「亡き父の姿」だった。
幼き頃から壊助能力の才能が無いと見放されていたトーガは、友達は愚か信頼できる人すら一人もいなく、心を塞ぎきっていた。
そんなトーガが唯一信頼し、尊敬していたのは実の父親ただ一人だったのだ。
父は壊助師としての才能が満ち溢れており、引っ張りだこで忙しい最中であってもトーガをそれはもう大切そうに抱き寄せて、トーガの話を熱心に聞いてくれた。
父の話を楽しそうに聞きながら、灰色のボブカットを揺らしていたのを思い出しながら、ゆっくりと震えを抑える。
『お父さん、私でもお父さんみたいなすごい壊助師になれるかな』
『なれるさ、なんせお前は俺の大事な一人娘だからな!』
『……でも私は、皆みたいに壊助能力が使えないよ?』
『能力が使えないからなんだ!大事なのは人を守りたい、助けたいと思う心だ。』
『心?』
トーガは万年筆を握り、瞼を閉じて大切な記憶を鮮明に思い出す。
『そう、心だ!病は気からとも言うしな!ガッツとハートがあればなんとかなる!』
大好きな父。
トーガが幼い時、バグにかかって亡くなってしまった、世界で一番大好きな人。
気がつくと、トーガの体の震えはすっかり治まっていた。
何故自分が壊助師になろうとこうも努力しているのか改めて思い出す。
トーガは父がバグにかかってしまった時、何故自分は何も出来ないのかと心の底から悔やんだ。
そして、これ以上父のような優しい人を、苦しんでいる人々を一人でも多く救えるようにと自分から一歩踏み出したのだ。
静かな図書室に、渇いた音が響き渡る。
辺りの視線を集める音の正体は、トーガが自分自身の両頬を叩いた音だった。
赤い色に腫れ上がった頬を撫でながら、痛みのせいで出てきた涙を拭う。
「図書室では静かに」と注意を受けながらも、トーガは改めてノートへと視線を向けた。
父から貰った、形見である万年筆をしっかりと握って。
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「空振り、データ消滅、表記ミス……」
学校からの帰り道、トーガはレンガで出来た石畳の上を歩きながら図書室で借りた本を読み耽る。
……が、書かれている内容はトーガの脳では全くと言って良いほど理解できなかった。
たしかに人々を苦しめる病である「バグ」は症状こそ疎らで、薬も何が効くのかは不明。
だが、こんな名称のバグはトーガ自身初めて見たこともあり、最早借りる本を間違えたのでは無いかと頭を抱え始めた。
その時、花屋とお菓子屋の前を素通りしようとすると、生徒同士の雑談の内容が耳に入ってくる。
「そういえばさ、この辺で「ウイルス」出たらしいよ。」
「え、嘘!?」
美味しそうにカップケーキを頬張りながら話している生徒たちの話題は、トーガの歩みもぴたりと止めた。
ウイルス、実物こそ目にしたことは一度たりとも無いが、名前を知らない人はいないだろう。
ウイルスとは、日々私たちを悩ませるバグを振り撒く魔物のこと。
色は赤かったり、黒かったり、足は五本だったり、二本だったり。
とにかく本に書かれていることは不特定なことばかりで、トーガはウイルスの正体を全くわかっていない。
だが要は病気を振り撒く化け物だ、恐ろしい他無いだろう。
これから一人で自宅へと向かうトーガは、この先にウイルスがいるのかもしれない恐怖に怯えながら帰らなければならないのか、と思うと足がすくんだ。
「本当本当、でも「討罰士」が追いかけ回してたらしいから大丈夫だと思う」
「……よかったぁー」
一歩を踏み出せずその場で立ち止まっていると、トーガの耳には「討罰士」という言葉が入ってくる。
討罰士とは、この情報不特定な魔物、ウイルスを討伐してくれる人たちのことをさした名称。
ウイルスと同じく、名前を耳にしたことのない人などいない。
それもそのはず、この世界は今、ウイルスが撒いたバグを治す壊助師と、そのウイルスを一匹でも多く倒す討罰士で成り立っているのだから。
この二つの片方でもかけたら、この世界はとっくに終わっているだろう。
……さて、討罰士がウイルスを追っていたなら話は別だ。
トーガの緊張がゆるりと解けて行くのがわかる。鉛のように重かったはずの足は、スクスクと前に進んでいた。
討罰士がいるなら安全!さて家に帰ろう!
すっかり安心しきったトーガは、先程まで見ていた本に視線を戻して歩みを進める。
そしてそのまま自宅へと帰って行った……
……はずだったのだが。
本に集中しすぎた結果だろう。
ふと小石に躓き本から視線を外すと、周りに知っているものなど何一つ無かった。
深緑の苔が一面に生えている今にも崩れそうな建物に、腐り切った木製の扉はまるで扉の意味をなしていない。
手入れなんてされているはずのない低木は伸びきっており、これに躓か無かっただけマシだろうと思えた。
ツタが絡まり解けない、動けないとなるのが容易に想像できたからである。
一言で例えるなら、路地裏だろう。
結論から言うと、ここが何処かなんてトーガには全く分からない。
だが、ここが自身の家ではないことは理解できた。
「はぁ」と大きく溜息をついて、自分の体よりずっと大きい背負い鞄のベルトをあげ背負い直す。
そしてなんとか自宅に帰ろうと歩みを進めると、突然嗅いだこともない臭いが鼻を刺激した。
思わずその場に足を止め、鼻を両手で塞ぐ。
勢い余って目も閉じてしまい、脳に入ってくる情報は臭いだけとなった。
焦げ臭い?カビ臭い?様々な汚臭が混ざり合ったような刺激臭が脳を支配し、思わず眉間に皺を寄せる。
……が、次の瞬間に襲ってきたのは刺激臭ではなく、体に突撃されたような重い痛みだった。
「あ」 「え?」
……と言うか、実際突撃されたのである。
突然死角から突撃してきたそれは、トーガに受け止めることはできず、そのまますぐ隣の苔だらけの建物にぶつかった。
大きな音と共に、土煙が辺り一面を覆い尽くしながら舞う。
砂が目に入ってしまったせいで涙が溢れる中、トーガは両手で目を拭い出した。
背中は背負っていた鞄のおかげか無事であり、今はただ痛い目とぶつかってきた何かに意識を向ける。
目に入っていた砂が取れたのか、痛みが引くとそのぶつかってきた何かを睨むように見た。
橙色?黄色?例えるならば太陽が一番近い髪の色に、青と橙色の二色に分かれた瞳。
左目を前髪で隠している少年が、そこには立っていた。
その少年はトーガと同じ学生服を見に纏い、背中には何やら大きな物を背負っている。
トーガと同じく土と苔に塗れた少年は、トーガの顔を見るなり急ぐように立ち上がると、手を差し伸べてきた。
「ゴメン!大丈夫!?」
「……うん、大丈夫。」
トーガは差し伸べられた手を取り、地面についていた腰を持ち上げる。
手を離すと、土と苔だらけになった制服の汚れをなんとか落とそうと両の手で叩いた。
そんなトーガを見ながら、少年はトーガに指をさして問う。
「おまえ、この辺の子?」
嫌味かこの野郎、トーガはあからさまに顔を歪ませた。
自身と同じ制服を着ているなら、この少年も同じ学校に通っている。ならばトーガの蔑称を知らない訳が無いだろう、と頭の中で決めつけた結果である。
何も言わずに不細工な顔をしていたからか、少年は突然慌てたように両手を大きく動かし出した。
「い、いや!変な意味じゃ無い!ただ、今この辺スッゴイ危険だからそれでな……!」
「?危険って」
危険ってどういうこと?
トーガが少年に問いかけようとすると、突然地面と建物が大きく揺れる。
建物が崩れて欠け、腐り切った土の壁がゆっくりと空から降ってくると、少年は顔を真っ青に染め上げた。
その瞬間、場にいたトーガの腰を掴み、担ぎながら駆け出したのだ。
突然のことにトーガは抵抗するも、少年は「ごめん、ごめん!」と謝罪するばかり。
謝罪をするなら何故離さない、焦りが頂点に達したトーガが少年の腕をなんとか解こうと暴れていると次第に揺れが大きく、そして近くなってきた。
トーガの視界に何か大きなものが写り、思わず抗っていた手を止める。
どんどん大きくなって行く揺れや音を他所に、良く目を凝らすと、建物の裏手から何かが這い出てきた。
ぶくぶくと太った体に、そこから何か溶け落ちているかのような不安定な身なり、口から覗く大きさ形不揃いな歯と、動きがしどろもどろしている四本の足。
……例えるならばそれは、まさに化け物だった。
思わず叫びそうになり、両手で口を抑える。
走る少年の肩の上、揺らされながらもゆっくりと深呼吸をすると、口を抑えていた両手を離して少年に問いかけた。
「あれなに!?」
「知らねえの!?」
「知らないから聞いてるんでしょ!?」
どこかイラついている様な口調で話すトーガの質問に、走りながら少年は答える。
背負っている鞄の中が揺れる音をなんとか遮断し、少年の返答を聞いた。
「ウイルスだよ!ウイルス!俺が追ってたな!巻き込んじゃってマジごめん!!」
「……は」
その時、トーガは道に迷う前に花屋とお菓子屋の前で聞いた話を思い出した。
『そういえばさ、この辺でウイルス出たらしいよ。』
『う、嘘!?』
『本当本当、でも……』
『討罰士が追いかけ回してたらしいから大丈夫だと思う。』
あそこでカップケーキを頬張っていた生徒のように安堵した言葉を吐けたならどれほど良かっただろう。
実際にそれを目の当たりにしたトーガは、ただただ恐怖に包まれたのだった。
「はぁぁぁぁぁ!?」
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