ゆっくりでいいから。
寒い。毎日なんか寒い。
外になんて出たくない。
特に朝はベッドから出たくない……。
明日は休日だから目が覚めても絶対にベッドから出てやるもんか。
私はそう心に誓い、布団を頭からすっぽりとかぶり、ぎゅっと目を閉じた。
一人の夜。静かな部屋にやたらと響く時計の音がうるさくて、私はベッド脇のシルバーの小さなリモコンをピッとつけて、コンポを動かす。
なるべく気持ちを落ち着かせようと、好きな歌を流した。
そんな時に限ってなんだか優しいバラードが心に染みこんでくる。
ダメだ…。余計辛くなってきた…。
さほど悲しいわけじゃないのに、急にスイッチが入ったみたいに泣きたくなった。
私は傍らに置いた携帯を開いて、写メのデータを見つめる。
その写真は私の宝物。
悲しくなると必ずその写真を見つめる。
たった一枚の写真。
でも私にとっては、とても大切な写真なのだ。
悲しい時は泣いてもいいよと言われているような、大丈夫だよ、まだまだやれるよ、自分を信じて。と言われているような……。
写真を見つめて、涙目の理由を考える。
怖い。
ふっとそんな言葉が頭の中に響く。
「怖いよ…。」
写真に向かい、小さな声でつぶいた。
とめどなく目から溢れる『モノ』が止まらなくて、私は再度
「怖い…夜が怖い…」
掠れた声で自分の気持ちを写真に打ち明けた。
時々、生きていく事が怖くなる。
朝になっても、目が覚めなければいい…。
生きていたいと願う私の裏側には、いつも生きていく事は辛いと嘆く私がいる。
どうしてこんなに苦しくなるんだろう?
今の生活にたいした不自由はない。
仕事だってそれなりにできてるし、友達だっているし、五体だって満足しているのに………。
何かが欠落している。
その何かがきっと、こんな気持ちにさせている。
わかってる……。
そんな事、わかってるんだよ。
わかっていても、それには多分手を伸ばせそうにない。
「本当、バカだね…」
私は写メの中で寄り添うように咲く『白い花』に向かい、小さくつぶやいた。
◆
眠れない夜。
僕はふと彼女の事を考えた。
彼女は、今何を思っているんだろう……。
彼女を知ってから3年の月日が経つけど、彼女は中々自分の本当の姿を僕に見せない。
数カ月前まで、彼女は僕の隣で笑っていた。
所謂『元カノ』ってやつだ。
彼女とは仕事仲間で、ふざけて笑ったり、時には酒を交えて、真面目に仕事の話をしたり…。
そんな事を繰り返して仕事仲間から『好きな人』へと進んで行った。
彼女は誰にでも優しい人で、職場での人望も厚かった。今でももちろんそうだ。
言いたい事、間違ってる事は上司にもはっきりと言うし、仕事は手を抜かない所謂自分に厳しいタイプだと思う。。
「右へならえが嫌い」と彼女は言うけど、決して会社からはみ出した存在じゃない。まあ、一部女性からは男に媚びを売っていると陰口を叩かれてはいるけど、彼女は「バカはほっとけ」と笑ってる。
僕は彼女がとても強い人だと思っていたんだ。
だって、いつも彼女は笑っていたから……。
でも、それが作り笑いだって気付いた……。
彼女と付き合って3年近くが経ち、僕は彼女にプロポーズをした。
彼女から返ってきた言葉は『ノー』だった。
「結婚はしない。…できない。」
彼女はやんわりと悲しげな笑みを浮かべて目を伏せた。
はっきり言ってショックだった…。
3年とは言え、それなりに年月を重ねて彼女のすべてを受け入れてきたはずなのに。
怒りよりも悲しさで頭が麻痺した。
そんな半ば茫然自失な僕に彼女は言った。
「私は、自分の遺伝子を遺したくない…。結婚したら、どうしても子供を望むのが当たり前でしょ?でも、私は子供を産みたくないんだよ……」
僕はその言葉を聞いて、彼女の中の『傷』の深さを改めて知った。
僕は今まで普通の家庭で普通に暮らしてきた。別に裕福な家庭ではない。父は平凡なサラリーマン。母はパートをしながら家庭を切り盛りするどこにでもいる優しい母。
生きてきていろいろとあったとは言っても、僕には家族という礎があった。
今もそうだ。成人して大分歳を経たけど、僕はその礎の上で生活を続けている。
彼女にはその礎がない…。
それでも彼女が笑っているのは、彼女の言葉で言うなら「家族には恵まれなくても、私は人に恵まれてる」…それが、彼女の礎になっている。
僕は彼女がとても幸せな人だと思っていた。
今時、人が好きだなんて言える人間は少ないと僕は思っている。
まして、人が笑ってるなら自分もうれしいなんて、そんな事を思う人間なんて少ないんじゃないかなとも思っている。
でも彼女は、「人が好き」と笑う。
僕はそんな彼女の強さが好きだった。
でも、彼女は強いわけじゃなかった…。
「人が好き」の裏側には「自分が嫌い」な彼女が隠れていたんだ。
僕はそれに気付かなかったんだ。
彼女は自分の深い心を隠して人と接してきた。
そして、僕にも。
彼女は僕に心をすべて開いていたわけじゃなかった。
逆に考えると、僕は彼女の心のすべてを開く事ができなかった……。
それが悲しかったと言うより、悔しかったのかも知れない。
人の心を、彼女の心をすべて知ったつもりで、受け入れられていたと勘違いしていた僕。
でも、やっぱり知らなかった…彼女の奥底の哀しみ。
彼女は僕と肌を重ねる時、『避妊』は事欠く事はなかった。
僕は子供ができたらいいなと思っていたけど、彼女は頑なにそれを拒んでいた。それも、僕に不快感を与えないように。
「私はお母さんにむいてないんだよ。それに、家庭に落ち着くより、まだまだ仕事したいしね。」
彼女は笑って幾度となくそう僕に言った。
そのたびに僕は、
「大丈夫だって。いいお母さんになれるって。」
彼女にそんな言葉をかけていた。
「いいお母さんかぁ…」
彼女は小さく笑ってタバコを吸っていた。
「うん、そこらへんにいる普通のいいお母さん。僕の母親だって、特別秀でてる人じゃない。辺りを見回したら、どこにでもいる人だよ。」
僕は彼女にいつもそう言っていた。
彼女は何も言わずに笑っていた……。
彼女がそんな些細な言葉に傷ついていた事も知らずに。
彼女の「遺伝子を遺したくない」と言う言葉は、彼女の存在を最否定する言葉。
僕は彼女の口からその言葉を吐き出させてしまった。
でも、逆に彼女の本当の気持ちが知れてよかったと思う自分もいた。
あの時の彼女の涙は、多分めったに見せる事がない、偽りのない本当の彼女だったから。
彼女が好きなら、『本当の彼女』が、本当に笑えるように、本当に泣けるように、僕はやっぱり彼女の傍にいたいと思ったんだ。
だから僕は、彼氏じゃなくなった今も彼女の友達として傍にいる。
彼女の為だなんて言うつもりはない。
僕がそうしたいだけだから。
嫌がったって、僕は彼女に電話をするし、メールも飛ばす。
本当に嫌なら、彼女は僕の番号もアドレスも消去してるはずだから。
本当に嫌なら、僕の誘いに『ノー』と言うと思うから。
もう一度、付き合ってと言う言葉には何度も『ノー』と言われてるけど、拒絶されているわけじゃないから。
今は友達。でもいつかは……。
僕はそう思って、彼女に電話をした。
彼女の声は心なしか不機嫌そうな感じだった。
「まだ起きてる?」
『……うん。』
「眠れないの?」
『……うん。』
「よし、ちょっと車でぶらっとするか?」
『……何時だと思ってんの?明日仕事じゃん。』
「今から15分後にはアパートの下につくから。」
『は…?ちょっ−−−』
僕は携帯を切って簡単に着替えを済ませ、車に乗り込んだ。
◇
私は切れた携帯を見つめてため息をついた。
「なんでいつもあいつはこんなに唐突な行動ばっかり取るんだろう。」
悔しいけど、それがうれしいと感じる自分に毎回驚く。
悲しい時に限って、彼は私を外に連れ出してくれる。
それが、偶然だとしてもやっぱり私はその偶然に救われているんだ。
きっと、私は彼に膨れっ面で悪態をつく。
『自分』を吐き出して、みっともなくもまた泣くんだろう……。
プロポーズを断ったのに、恋人同士という立場を解消したのは私なのに、彼は私に変わる事なく接してくれる。
私は本当は彼を心から必要としているのかもしれない。
踏み込む事のできない弱い自分を嫌いながらも、きっと心のどこかでは彼を…………
いつか、変わる事ができるのだろうか?
それまで、彼とこうして続いていられるだろうか……。
先の事はわからない。
でも、今はもう少しだけ彼の不器用な優しさに甘えたい。
そう願い、私は着替えを済ませて出かける準備をした。
15分後、私はアパートの前で彼を待つ。
暗闇に光る車のライト。
停止する黒い軽自動車。
「全く、本っ当に迷惑極まりない。」
私は毒を吐き彼の車の助手席に乗り込んだ。
「はいはい、ごめんね、ごめんねー。さっさとシートベルトしろ。」
彼は笑う。
「何、その謝りかた。」
私も笑う。
カーステレオからは、優しいバラード。
先刻部屋で流れていたあの、『とっておきの唄』だった。