最終話
僕は30のおっさんになっていた。あの事件以来、オリヴィアの消息は途絶えたままだ。正直を言うと、もう会えないと思っている。大人になってしまった。子供のころのような純心は、今はない。そんな人間に、もう彼女は見えないのかもしれない。そして、記憶は非情にも、彼女のことを消そうとしている。
カフェでの一服を終え、ドアを開いた。あの日以来、心なしか世の中は暗い。太陽を見たのはいつだっけ。いや、それは僕の目の錯覚でしかない。しかし目に映るのは灰色だ。雲行きが怪しい。黒雲がやけに多い。しまった傘を持っていない。今日は洗濯物を干してないよな。風が湿っている。雑踏がうるさい。
痛。誰かとぶつかった。僕は心底嫌な顔をして相手の方を見た。「ご、ごめんなさい」相手は相当急いでいるのか、息が上がっていた。「気をつけろよ」僕はそう言い捨てた。僕は背を向け歩き出した。しかし、どうにも視線を感じる。さっきの女は立ち去ることなく、こちらをじっと見ている。何がおかしい。
待てよ。この匂い。どこかで嗅いだことがある、柑橘類のいい香りだ。僕は知っている。それは何か特別で、大切なものであったはずだ。僕は歩みを止めた。冷や汗が湧き出てくる。と同時に、頭の奥が一種のノイズを立てて揺れた。…オリヴィア。彼女の顔が鮮明に浮かぶ。僕は我に返り勢いよく振り返った。
「オリヴィアか…?」僕は恐る恐る尋ねた。彼女はこくりとうなずいた。僕は唾を飲み、目を見開いた。「本当にオリヴィアなのか」再びこくり。「そうか」僕はゆっくりと歩み寄った。オリヴィアは久しぶりと小さくつぶやいた。ああ、と僕もつぶき返した。「オリヴィア…。きみはなぜ年を取っていない?」
「会いたかった」そういう彼女の姿は、僕らが最後に会ったピクニックの日と全く変わりなかった。彼女の外見はまだ10代のままだった。僕はわけを訪ねようとした。しかし、オリヴィアは首を横に振り、僕の発言を遮った。「今はその時間はないの」オリヴィアが僕の後ろを指さした。その指先は震えていた。
そこには、あの日見た老婆がいた。今度は現代風のフードを被っていなかった。敗れたゴミ袋のような、黒服をまとっていた。杖をふりふり、不気味な呪文を唱えている。魔女だ。危険を察知した僕はオリヴィアの華奢な手を掴み、走り出した。高笑いを上げて、魔女も追いかけてくる。僕は思わず叫んでいた。
物語の最終章を必死に思い出していた。姫は、最後、その美貌に嫉妬した魔女に呪いをかけられ、殺される。このままではオリヴィアが。「ねえ!連れてって!どこまでも!」
彼女は僕にそう告げた。僕は決意の面持ちでうなずき、路地裏など老体には堪えるだろう獣道を駆使して隠れられそうな場所を探した。
廃工場を見つけた。息切れを我慢し、僕は急いで扉を力いっぱい閉じた。鍵の閉まる音と同時に疲れがどっと押し寄せた。ガクガクと震える脚は重力に耐え切れず、僕らは二人してその場にへたり込んだ。オリヴィアは安心したのか、突然壊れたように笑い出した。よく見ると、その服はボロボロに破れていた。
「やった!巻けたよ!」僕は親指を立てて見せた。「ついに魔女が動いたか」僕は念のため、ホコリを被った窓から外を覘いた。「ナイトは一緒じゃないのか?」「『聖戦』で殉職しちゃった!」「ドラゴンは?」「私を守ろうとして死んじゃった!」僕は黙った。「どうしたの!たったそれだけのことだよ!」
「それだけのこと?」僕は訊き返した。「そう!それだけのこと!」表情が曇っていく。「そう、それだけのこと」オリヴィアはうつむいた。「あれ、ひとりぼっちだ…。ねえ、私、どうすればいいの…?」わっと泣き崩れる彼女。僕はただ、そのやるせない思いを胸で静かに受け止めてやることしかできない。
ザー、と雨が降ってきた。破れた天井のせいで僕らはびしょ濡れになった。なんとか泣き止んだオリヴィアを立たせて僕は家に向かった。先にオリヴィアを風呂に入れ、僕もその後に入った。暗い部屋の中で僕らは黙っていた。オリヴィアのタオルから覗く背中がふと目に入った。彼女も僕の視線に気が付いた。
「気づいちゃった?そうだよ。魔女の呪いだよ」彼女はもう、毒牙に掛かっていた。タオルがほどかれた。おぞましい紫色の腫瘍だった。僕は嗚咽しそうになった。オリヴィアは笑った。「仕方ないよ。運命だもん」たまらなくなって彼女の唇に自分の唇を重ねた。彼女は言った。「幸せにしてよ」美しかった。
僕らは交わった。幸せ以上のものだった。「物語は繰り返すなら、あの頃のきみは今もあの図書館の一隅で僕の知らない男の子との運命的な出会いを果たしているのだろう?僕と会う前も、きみはこうしてこの幸せな夜を他の男とベッドで明かしたのだろう?」僕は彼女の髪をなでた。オリヴィアは吹き出した。
「そうね。そうかもしれない。でも、あなたが偶然出会ったのが他でもない『私』よ。そしてあなたを必然的に選んだのも唯一無二の『私』なの。あなたは必然的に私の名を呼んでくれて、私は偶然あなたに恋をした。ただそれだけのこと」オリヴィアは僕の頭を抱き寄せた。そして胸のホクロを指して言った。
「気づいたら偶然こんなところにできていたホクロも、今となってはきっとここにできるほかなかったにちがいないの」僕は笑った。つられて彼女も笑った。「ねえ、最後のお願い。聞いてくれる?」もちろん。僕はいつだってきみの望むことなら何でもする。「物語が繰り返すなら、ハッピーエンドがほしい」
「私、あと一週間も生きられないの」彼女は続けた。「あなたに書いてほしい」彼女はガバッと起き上がった。「私とあなたが永遠に、幸せに、同じ場所で暮らしていく。そんなハッピーエンドを」オリヴィアは布団の中にもぐりこんだ。「あなたとはそこで会えるもの。永遠の命があれば今死ぬのも怖くない」
わかったよ。僕は承諾した。疲れ果てたオリヴィアはそこで眠りに落ちた。僕はその愛しい寝顔にキスをした。そして僕は書き出した。しかし、これはただの気休めだ。まったく意味がない。何の解決策にもならない。人の代わりに用を足す、または自分が代わりに用を足されることと、何ら変わりがないのだ。
不治の病であと一日しか生きられなくない場合、クローンに自分と全く同じ記憶を移植して代わりに生きていってもらえることになったとき、自分はどんな気持ちだろう。逆に、クローンの気持ちになって、ついさっきまで自分を本物と信じていたところに、偽物だ、とつきつけられたら?どちらも同じことだ。
死んだら何も知覚できない。一方、代行人のクローンは生きている。赤の他人の自分は、決してその先の経験と記憶を共有できない。もう一人の自分が生きているなら死は怖くないだなんて幻想だ。どうしようもない生のエゴイズムだ。しかし、僕は、それでも彼女のその後を綴る。あるべき未来を築いていく。
それはほかならない、オリヴィアに生きていてもらいたいという、自分の勝手なエゴでもあった。いくら彼女の頼みだとはいえ、僕が書かないまま書いたと嘘をついて安心させてやることもできる。どうせ元の物語では死ぬのなら、彼女はこれからの彼女の物語を知るよしもないのだから。それでも、僕は書く。
残り一週間。まだ生きている。一秒経った。大丈夫。まだ時間はある。一秒経った。大丈夫まだたっぷりある。一秒経った。オリヴィアは絶対に死なない。僕のオリヴィアは永遠にいなくならない。また、一秒経った。ほら、七日後は永遠に来ない。それなのに。一週間は早すぎた。オリヴィアは、もういない。
『姫は、王族の身分を捨てて、長年恋していた幼馴染の少年と結ばれました。王様と王妃様は二人の結婚を盛大に祝いました。姫と少年は、平和に暮らし、子供もたくさん授かりました。友達の騎士もドラゴンもスライムもよく二人のもとに遊びにくるそうです。毎日笑顔が絶えません。めでたし、めでたし。』