第一話
小さいころから好きだったおとぎ話がある。とある国の可愛らしいお姫様についてのお話だ。自然が大好きで自由奔放な彼女の人物像はおよそ現代人とは正反対で、僕はそれに惹かれたのだった。今となっては、あらすじはほとんど忘れてしまったけれども。そしてなぜか、図書館を探してももう見つからない。
いずれにせよ僕はその絵本を求めて何度も図書館に通ったものだ。それは荘厳な棚の鬱蒼とした森の奥で静かに眠っていた。低い伸長でなんとか自力で手に取ったその本の年季にはどこかロマンを感じた。誰にも見つからない秘密基地の中、忘れていた時間は永遠だった。紙の向こうの彼女はやはり美しかった。
ちょうどそこだった。あの子と最初に出会ったのは。金髪碧眼で、薄い小麦色に日焼けのした肌はそれでも白かった。僕と同い年の女の子だった。その子は興味津々に僕の絵本を覗き込んだ。「なに読んでるの?」僕は緊張でたどたどしく題名を教えた。「何それ変なの!聞いたことないや!」僕はムッとした。
でも、僕はおとなだったから、我慢した。女の子はにっこりと笑って僕の隣に勢いよく腰を下ろした。「読み聞かせて!」図々しい要求に僕は従った。一通り読み終えると、彼女は勢いよく立ち上がった。「そのお姫様はまだまだだね!私の方がもっとすっごいんだから!」彼女は自慢げに語りだしたのだった。
彼女は宣言した。絵本の主人公の友達のドラゴンよりも大きいドラゴンと友達だということ。家の周りの森は、絵本の中のそれなど比べものにならないくらい大きいということ。お父さんとお母さんは、登場する王様と王妃様よりも偉大なのだということ。悲劇的な主人公よりもはるかに幸せなのだということ。
そんなことあるわけない。僕は確信していた。けれど、彼女があまりにもまことしやかに豪語するものだから、どこかで少し信じてもいた。そして、話を聞いているうちに僕もその作り話に魅了されていって、さっきまでの、この子に対する嫌悪の情は消え去っていた。僕らは気づけば何時間も話し込んでいた。
僕は自分の家族のことを話した。学校のことを話した。この世界について話した。意外なことに、この不思議な女の子にとって、それは珍しい情報のようだった。世間知らずにも程がある。けれど、一度この目で見てみたい、と思いをはせる彼女の横顔を見ていると、何とかして見せてやりたくなったのだった。
いつか見せてあげる。その言葉で僕らは友達になった。小さな小指の交わした小さな約束。それは儚くなかなか実現されなかった。彼女は実に神出鬼没だった。会いに行くつもりで探しても見つからないくせに、そのつもりのない日にはばったり会う。そんな不規則な会合が、しかし、僕にとっては楽しかった。
僕は子供ながら、ひそかに彼女のことを意識し始めていた。本をたくさん読んでいたから、早熟にも好きという気持ちがわかっていた。図書館でかけっこをしたり、大騒ぎしたりすることはいけないとわかっているのに、どうもその子といると、どうでもよかった。ドキドキできていれば、それでよかったのだ。
ある日、いつものように僕らは秘密基地でふたりの時間を共有していた。暗いなかで、彼女はいつになく考え込んでいた。沈黙は、幼い体には重すぎた。「ねえ、愛って何だと思う?」「わかんないよ」「私はあなたが好きだよ」僕は答えに困って黙っていた。「人って、好きな人とは結婚する動物なんだって」
「それがどうしたの?」僕は首を傾げた。彼女は僕の目を見つめた。「あなたは私のことが好き?」僕はかたずを飲んでうなずいた。その子は顔を赤らめた。「なら、結婚しましょ。大きくなったら、きっと」正直、よくわからなかったけれど、僕は何度もうなずいた。まぶしいほどの笑顔が、そこにはあった。
それなのに、あの日以来、彼女は二度と秘密基地には現れなくなった。