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記念すべき人類の火星への第一歩はカメラが回っていなかった。
音声だけなら宇宙電話で届けることが出来る――。そんなことをしたら僕は英雄になるだろう。テレビに引っ張りだこになり、学校のみんなは俺の友達あいつなんだぜと言って急に友達が増えることになるだろう。しかしそれはなかった。火星の僕は消された。つまり宇宙に行っていない事になっている。不在も、海外留学しているとか言えばいくらでもごまかせるだろう。
だから遅れてきた火星旅行者一行(父を含む)の誰かが第一歩となる。本当は僕が最初に火星の地に足を付けたのだが、世間は誰もそのことを知らない。僕はきっとそのことに対して優越感に浸っていたはずだ。ここで一人過ごす時間が三年間でなく三日であったとしたら。
「これからどうすりゃいいって言うんだよ――」
一面が赤茶けた地表で覆われている。わずかな起伏があるが、見渡す限り何もない。空は宇宙空間が広がっている。それだけ。僕の目から見える視界の範囲だけでなく、星の全てが。
「どうやって気を持たせたらいいんだろうか」
五億年ボタンという話を聞いたことがあるだろうか。ある男がボタンを押すと、即座に百万円がボタンから湧いて出てくるという話。だけどもちろん条件がある。
ボタンを押すとその男は何もない空間に五億年間過ごさなくてはならないのだ。誰もいない空間で、死ぬことも出来ずに。五億年辛抱できたら、現実空間に戻って、百万円を受け取る。そのとき五億年の空間の経験や記憶は綺麗さっぱり忘れ去られている。論争を引き起こすような話だ。
で、その男はボタンを押してしまって五億年の時間を潰さなくてはならないのだ。僕の状況は、確かにそこまで悪くはない。でも三年だぞ、三年。何もない空間に三年。
いや、完全に何もないわけではない。宇宙電話が繋がっている。簡単なテキスト情報のやりとりもできるから、読書だって可能だ。だけどリアルな人間は誰も居ない。
「本当に、一人なんだなぁ――」
人間一人では生きていけないというけれど、一人で生きていけない人間、それが僕で、現にここにいる。
「普段はどうとでもない奴らでも、いざいなくなってみると寂しいもんだ」
星人は学校で人気者というわけでもないし、家族もワイワイやっている感じではない。どちらかというとおとなしい方だが、客観的に見れば普通。無口なわけではないが、意味のある時にズバッとツッコミを入れるような、サバサバしたような性格。
いわゆる陽キャのように友達友達した遊びをしたり、青春をしてみたり、家族愛を楽しんだりするタイプではないけれど、そんな星人でもいざ人間関係がなくなって独り火星で住まなければならないとなると、寂しくなるのは当たり前である。人間そういうものだ。
「帰りたいな――」
迎えを待つのが難しいなら、帰るのは――。当然のことながら絶望的だった。それは明々白々、驚きの白さだった。
「あのポッドをなんとか活用できたら――」
宇宙船には、緊急用の脱出手段・帰還手段として一人用ポッドが備え付けてある。宇宙でトラブルがあったときに、地球に帰還できるような代物だ。宇宙船の中の帰還用動力を使って、シャトルは帰還するが、火星に残った宇宙船でも予備の動力があって、ポッドくらいの軽量な機体なら地球に帰すエネルギーがある。また、現代のテクノロジーとAIの進歩により、全く知識のない星人でも、宇宙電話で指示を受けながら操縦することは可能なのだ。
だが問題が一つあった。あの小惑星のトラブルの中、振動などが理由で必要なある資材が地球に帰る宇宙船の方に行ってしまった。それは地球では平凡な材料で指示を受ければ自分で精製できる。しかしそれは地球での話。火星ではその資材が手に入らない、というか現在の技術では火星にその材料は発見されていない。
実は地球上からでも火星にどんな物質があるかどうかは特定できる。それにこれまでも無人の探索船が火星に行っていたので、ある程度分かるのだ。もし僕がその資材を手に入れるには、探索船や研究者達が見つけられなかったその資材を自分で探し出さなければならない。そして、探してもその物質が火星にない可能性が高い。
これでは技術の粋をつぎ込んだポッドも、宝の持ち腐れというものである。いわば、バッテリーの切れたスマホなのだ。
「駄目だ。考えても仕方がない。無理なものは無理だ、諦めろ」
悩んでも仕方がない。何か気晴らしになること。
「あのバカ親が転送した本の続きでも読むか」
星人は宇宙船のハッチに戻り、機器の電源を入れ、ディスプレイを眺め始めた。メニュー画面にリストが並んでいる。
「誰でもできる家庭菜園」「インド旅行に必要な知識のすべて」「1日10分で月10万稼ぐネット副業」。このラインナップはいかがなものか。火星の人間に送ってくるラインナップでは絶対にない。
しばらく眺めると、気になったタイトルがあった。青少年向けの小説だった。
僕はクスリと笑った。
本のタイトルはこうだ。――「異世界転生した先は剣と魔法に溢れた星」
このタイトルを送ってくるのはあまりにも嫌がさせすぎるな、と思ったが、逆に滑稽に感じて読み始めた。
ある日交通事故で死亡した高校生男子が目覚めると、そこは見知らぬ星だった。そこは魔法の世界で、RPGのような中性的世界観で、街の武器屋で手に入れた装備を身につけ、街の者から依頼を受けて魔物に溢れる森林へ向かう。そこで魔物の群れの中に美少女を見つけ、死闘の後、主人公は彼女を救い出す。街へ帰ると実はその美少女は高貴な家の娘で、彼は英雄として迎えられる。
あまりにも使い古されたストーリー。主人公の男はそんなシナリオに文句一つ言わず、正義感ある好青年を演じ続けた。
その小説の主人公が僕だったとしたらどうだろうか?展開の読める話に文句を言う?何の新しさもひねりも無い舞台設定に文句を言うだろうか?
とんでもない。僕の目の前には何が広がっている?「剣と魔法に溢れた星」と比べて、どちらが良いかという質問は、呆れるほど愚かである。
剣も魔法もない星。それどころか、建物も道も、草木もない。人っ子一人いない星。
僕は再び外に出た。宇宙服の分厚い手袋越しに赤い石ころを掴んだ。
ある意味これが本当の異世界だろう。現実世界とかけ離れている点において、ファンタジーの星よりも異世界だ。この火星の地表のリアルな色、大気の重さは、地球の人間が想像できるものではない。そういう意味でここと地球の世界は異なっている。
「本当の異世界が夢物語なはずがない」
異世界が夢物語で、誰かが憧れる世界なら、それは異世界じゃない。現実と同じ世界だ。現実の誰かが想像できる世界なら、それは誰かの頭の中に確実にある世界だからだ。現実の誰かの頭の中に入っている世界なんだから、それは現実世界に決まっている。だけどこの火星は現実世界だけど異世界だ。火星はみんな知ってるけど、その火星での生活のリアルは誰も想像できないから。
誰も、これほど寂しい世界なんて想像できない。
「くそっ」
僕は掴んでいた石ころを投げた。感情的になっていたが、自分が感情的になっていることも自覚していた。そしてそれを自覚していることに気付いて、泣きそうになった。
「――」
沈黙に耐えられずにすぐ振り返り、宇宙船に戻ろうとした。そのとき、金属音が鳴った。石ころを空き缶めがけて投げたときのような音だった。
しかし火星に空き缶があるはずがない。僕はその音の方へ向き、投げた石ころを探した。
そして見つけた。――空き缶を。