ささやかな理想は矛盾ですか?
いけ好かない魔霧との会話はもう三十分も前の話になる頃。
恭介は密かに学んでいた。
自慢ではないが、恭介はこの世界について知らなすぎる。ADD然り、未知の生物も然り。恭介はこの世界について歴史しか知らず、その歴史も上辺だけのものだから手に負えない。
したがって、恭介は非常に遺憾ではあったものの、伊桜里の非常に身になる授業を聞いていた。
内容は目下人間が闊歩する世界を脅かす《プランドラ》についてだった。
「皆さんも知っているように、ひとえに《プランドラ》と言っても種類があります。
大きく分ければ三種類。
彼方より、この地球に存在していた動植物の姿をしている《現存種》。
人類がその叡智を持って創造した物語の中の存在、あるいは人の手によって造られたコンピュータの狂化といった《幻創種》。
そして、その発生や進化の過程がまるでわからないけれど、強大過ぎる力を持つ《王冠種》。
全ての《プランドラ》がいずれかの大枠に分けられるわけですが、人類が踏破できたのは《現存種》と《幻創種》だけで、出現数の少ない《王冠種》は未だに退けたという話はありません。この理由が分かる人はいますか?」
真面目な説明口調で問を出す伊桜里に、一人の少女が手を上げる。メガネを掛けたザ・真面目という言葉が合いそうな可愛らしい女の子だった。
他に手を挙げる者がいないため、どうやら答えるようだ。伊桜里もその子を名指しすると、少女が席から立ち上がって問を解き明かす。
「《王冠種》は《現存種》や《幻創種》と違って、強力な力を持っているからです」
「そうですね。具体的に説明できますか?」
「現在の研究でわかっている範囲では、最もな違いとすれば《王冠種》は気象を操るものもおり、任意の場所に雷を落としたり、台風を起こしたりできると聞きました。人類は……その、天候を操る能力の前に成す術がありません。よって……」
「そこまでで大丈夫ですよ。間宮さんが言ってくれたように――」
どうやら間宮というらしい少女の答えは及第点だったらしく、詰まったところで伊桜里は解答をやめさせた。
しかし、恭介は驚いていた。町外れ、いやもっと正確な言い方をすれば捨てられた街の子どもたちがここまでの知識を有しているとは。
ちなみに言えば、恭介は今の問に答えられなかった。《プランドラ》に種類がいることすら知らなかったのだから仕方あるまいが、それにしても常識がなさすぎると言われても仕方ない。
しかしながら、恭介は顎に手を当てて深く考える。そして、人類が立たされている現状を正確に把握しようとしていた。
(さっきの言葉が本当なら、人類は相当追い詰められているみたいだな)
気象を操ることができる《王冠種》とやら。話を聞く限りではそれ以外のこともできるようだ。
確かに、人類はどれほど強くなろうが台風を打ち消すことはできなかった。天候を操ることができなかったのだ。故に、人類はその権限を神に移譲した。そして、神に祈祷したのだ。
となれば、《王冠種》とは言い換えれば神とも言えるのかもしれない。
恭介の中でまとまろうとしていた言葉が、伊桜里の説明で完全な知識へと変わる。
「《現存種》や《幻創種》もたしかに強力です。それらの攻撃をまともに受ければ人は死ぬでしょう。ただし、《王冠種》は別格です。その攻撃は人を殺すのではない。人が築いた文明を殺す。人が闊歩する大地を砕く。故に、私達は畏怖を抱いて《王冠種》をこう呼ぶ――――神の具現化、と」
説明されたとおりならば、ライトノベルや漫画でよくある神との戦いだ。ただし、ライトノベルや漫画のような英雄譚ではなく、絶望的な戦いになりそうだが。
生徒たちが皆、息を呑む。自分たちが生きている時代が、決して生半可なものではないという事実を再び噛み締めているようだ。
対して、恭介は廃墟に背を任せて、腕を組んでいた。まるで、自分には関係ないといいたげな格好だが、この世界にいる以上は関係がある。むしろ、今後も伊桜里と行動をともにするのならば、戦闘にならないとも限らない。
だが、それよりも恭介は《王冠種》という生物について気になることがあったのだ。
故に、生徒でもないのに手を上げて質問の権利を得ようとする。
「え? ……あ、えっと、恭介さん?」
「質問だ。構わないだろ?」
「えっと、授業に関係のあることなら……」
ならば大丈夫だと。恭介は二、三歩進んで伊桜里に問う。
果たして、恭介が疑問に思ったこととは。
「話に出てた《王冠種》だが、わかっているだけで数はいくついる?」
「はい? えっと、十二体ですね」
「そいつらの能力については、概ね把握できているのか?」
「理解まではされなくとも、把握はできていますよ。天候を操る。大地を揺らす。大海を支配する。どれも摩訶不思議な能力を持っているので、解明は出来ていませんけれど」
「解明できない理由は? 今挙げた例なら、ある程度は解明できそうだが」
「では問いますけど、死者が蘇る理由が恭介さんにわかりますか?」
おそらく、《王冠種》とは出鱈目な存在なのだろう。単に天候を操るならばあるいは解明できたかもしれない。恭介にだってある程度の予想はできる。
ただ、死者を蘇らせるなどと言われては、もう手の出しようがない。それはもう人が到達できなかった領域の話だからだ。
しかしそうなれば、話はガラリと変わってくるわけで。
人類は技術的に《プランドラ》に敗北したと言わざるを得ない。
そしてそれは、人類に勝ち目がないことを示していた。だからこそ、恭介は問うのだ。
「伊桜里。お前は人類が《プランドラ》に勝てると思うか?」
この質問には解答が一つしかない。だが、その解答はこの場で出すには絶望的過ぎる。
未来ある少年少女を前に、伊桜里は果たして正解を導き出せるのか。
正しいものに正しいと言い続けるには努力が必要だ。そして同時に力が必要だ。
多数決によって決められる世界だからこそ、正解が少数にあればもみ消される。数の暴力は圧倒的なまでに正義を踏みにじるのだ。その少数にある正義を、正しいと言えるのは極々僅かでしかない。
果たして、伊桜里はその立場なのか。あるいは、多数に踏みにじられる少数なのか。
少し考えて、伊桜里は笑ってみせる。
「勝てますよ。絶対に」
「その自信はどこから来るんだ?」
「だって、私は人類の可能性を信じてますから。いずれ、人類を導く人が現れて、全ての《王冠種》を退ける。《英雄》と呼ばれる人たちは皆、そのために戦っています。そして、その英雄たちでなくとも、必ず誰かが人類を復興させてくれます。それに、そう信じさせたいんですよ」
「……誰に?」
「この子たちにです。世界は捨てたものじゃないって。努力は報われるんだって。世界に捨てられた子どもでも、幸せになれるんだって。私はね、恭介さん。教師はそういうことを伝える仕事だと思うんです」
これはさすがの恭介も一本取られた。
まさか、伊桜里がそこまでの信念を持って教師をしていたなど考えもしなかった。完璧な答えだった。恭介がほしかった、まさしくそのとおりの言葉だったのだ。
人類は終わらない。どれほど絶望的な状況であろうとも。
伊桜里は正しくその言葉を選んだ。それだけで、伊桜里がどれだけ強い人なのかがわかる。同時に、不覚にも恭介は伊桜里の眩しさに飲まれそうになった。かつて自分がたどり着けなかった場所に立つ少女に羨望を抱いてしまいそうになったのだ。
だからだろうか。少しだけ、伊桜里に雇われたことに対して良かったという感想が浮かぶ。
欲しい解答を得て、恭介は身を引く。
「いや、その通りだ。授業の邪魔をしてすまなかったな」
「いえいえ! どんどん質問してください! もちろん、みなさんもですよ!」
ハツラツとした授業が再開した。活気づいた青空教室では、先程よりも質問が増えたように思える。
元いた場所へと戻ってきた恭介は、もう一度廃墟に背を任せると、遠目で青空教室を眺めはじめた。するとどうだろう。隣にいた魔霧が再び声をかけてくる。
「残念だったね」
「何がだ?」
「君は合法ロリに合意を求めたんだろう?」
「…………さてな」
「《王冠種》。絶望的な存在だ。《英雄》と呼ばれる人類最大の戦力である六人でも退けることができるかどうかわからない強大な敵。そんな輩がよもや十二体もいる。諦めても仕方ない。うんうん」
「ムカつく言い方はデフォルトか? もしも違うならやめろ」
「そう怒らなくてもいいじゃないか。僕と君の仲だろう?」
出会って一日も経たない仲にどれほどの冗談が通じるだろう。
やけに癇に障る話し方だが、どこか憎めないのはどうしてか。永遠の謎になりつつ魔霧だが、恭介は魔霧の言葉を考える。
確かに、同意を求めていた。諦めてしまえばいいと考えていた。伊桜里なら、そちらを選択すると思っていたのだ。だが、同時にそうでなければいいとも思っていた。
結局のところ、恭介は伊桜里に理想を重ねていたのだ。自分と同じく諦める側の人間であってほしいという以上に、どこかであの眩しい姿がどこまでも輝いていてほしいと願ってしまっていたというのは否めない。
伊桜里は眩しいのだ。どこまでも垢抜けていて、きっと誰にでも平等に接するのだろう。
恭介にはそれが出来ない。人の悪意を知りすぎているから。人に与える善意が、善意として捉えられるとは限らないことを知っているから。
だから、この一言に尽きる。
――――御門恭介は臆病だった。
いつからか、期待することはやめた。善意を与えることをやめた。そして、結果だけを重視して生きることを決めたのだ。
そうして出来上がったのが望む結果を手に入れようと奮闘して、それでもダメだった残り滓。全てにおいて諦めることから始めるようになってしまった、どうしようもないダメな人間だけだった。
そこまで知ってか知らずか。魔霧はそれでも話を進める。
「僕から君への助言だ」
「いらない」
「まあ聞き給え。そう無下にするものじゃないよ。君には、きっとあの合法ロリが眩しく映るのかもしれない。誰にでも優しく、誰にでも手を差し伸べ、おそらくは分不相応なことにだって手を出す。それは確かに誰もが望んだものだった。そして、それに言葉を充てがうなら――」
「――正義の味方……か?」
「まさしくそれだ。合法ロリは……いいや、おそらく君も。はじめはそれを望んでいたのだろう。ただ、違いがあるとすれば、君は諦め、合法ロリは今もなお続けているという点に尽きる。しかし」
言葉はそこで一旦切られた。
一度も魔霧の方を見ていない恭介の目には、はじめからずっと伊桜里の姿が映されていた。炎天下の中、にじむ汗をそのままに授業をする。教師の鏡だ。その信念は硬く。誰もが幸せてあってほしいと願うその姿勢は恐れ入る。
しかし。
恭介にだってわかっている。そして、魔霧にもわかっているはずだ。きっと、伊桜里自身にも。
魔霧が語るのはそれだ。次に続けられる言葉を聞いてしまえば、世界はどれだけ人類にとって残酷非道なのかを知らしめるに違いない。けれど、恭介では魔霧を止められない。諦めてしまった恭介では。
「この世に正義の味方なんて存在しない。誰もが幸せだなんていう甘い世界はない。もしもあるとすればそれば…………誰もが傷つき、誰もが恩讐を吐きながら生きるような地獄だけ。そんな世界のほうがよほど現実的だろうね」
「お前には夢も希望もないんだな」
「ああ。生憎と僕は人間の腹から生まれた子どもではないからね。そういうものとは縁遠いのさ」
哀愁か。いいや、何の感情もなさそうだ。淡々と結論だけを述べたのだろう。
この世には正義の味方など存在しない。当たり前だ。そんなもの、ただの偽善でしかないのだから。
誰もが幸せだなんて言う甘い世界はない。当然だ。そんなもの、この世界が許すはずがない。
だから、この会話に慈悲はない。故に、恭介はこの会話をしたくはなかった。だってそれは、目の前で輝く伊桜里の姿がいずれ自分と同じく濁ってしまうという証明になるのだから。
きっと、それは遠くない未来だ。明日か、明後日か。日にちはわからずとも、必ず伊桜里は絶望することになる。期待すればするほどに、世界は絶望の色を濃くさせる。そうして、気がついたときにはその絶望に飲み込まれてしまうのだ。
そうならないでほしいという気持ちはある。でもダメだ。伊桜里では力不足だ。あれほど眩しい姿でも、世界の絶望を払拭するには暗すぎる。
やがて、授業は強制的に終了させられる。
甲高い警報が耳を痛めるほどになりだしたのだ。その警報が指すものは……。
「《プランドラ》の緊急避難警報……」
魔霧が不敵な笑みを浮かべながらつぶやいた。
「魔霧さん! 《プランドラー》の現在地は!?」
「ちょっと待ち給え……おっとこれは困った」
「何がです!?」
ざわめく生徒たちと耳をふさぎたくなる警報の中で、伊桜里の大声がかろうじて聞こえる。
だが、次の瞬間。誰もの耳にも警報の音はおろか、その他の音すら聞こえなくなり、世界がゆっくりと動くように思えた。
魔霧が言った言葉とは――。
「未曾有の危機は……今ここで起きているらしい」
絶望は意外にも足早にやってきた。




