眩しい姿は羨ましいですか?
雲ひとつない青空。日差しは冗談でも弱いとは言えず、外で過ごすなら水分補給が必須な強い日差しが肌を焼く。そんな海で遊ぶなら最適な天気の日に、恭介は海とは間逆な廃墟が立ち並ぶ暑苦しい場所に立っていた。
そして、恭介の視線の先では十数名の小学生から高校生までの子供たちが、オンボロな机と椅子を使って勉学に勤しんでいる姿が映る。さらにその先には、気持ち黒板にも使えなくもないコンクリートの壁に、脆いコンクリートをチョーク代わりにして授業を開いている伊桜里の姿が。
季節は夏だ。間違ってもこんな場所で勉強をするものではない。だが、これには理由がある。こんな場所で授業を開かなくてはいけない理由が。
これは俗に言う青空教室というものだ。恭介も実際に見たことはないが、話として聞いたことがある。第二次大戦後、焼き払われた場所で子どもたちがそれでも勉学に勤しもうとして行ったことである。
しかし、今はプランドラの脅威があるとはいえ、それほど貧困しているようには見えない。ただ、それは日本帝国の中心部での話だ。中央から離れれば離れるほどに貧困度は増していき、日本帝国の外れにまでくれば、そこは無法地帯が如く荒れた場所へと早変わりだそうだ。
伊桜里はそれが許せなかったのだという。
世界の危機に人類が皆平等になれるとは思わないが、不平等をそのままにして誰かが――まして自分と歳の変わらない子供が苦しみ続けるなど、認められなかったようだ。
だから、こうして伊桜里主導のもと、参加者自由で青空教室を開いているのだとか。
正直、恭介はよくやるものだと思った。自分はできないだろう、とも。
結局、伊桜里は真面目なのだ。そのうえで優しい。聖人君子がごとく、誰彼構わずに助けようとするのだろう。それで、自分が不幸を被ろうとも。
授業に集中しているみんなから離れた場所でそんな風に見ていた恭介の横に人が立つ。
妙な笑みを浮かべていた魔霧だった。
「何のようだ?」
「用という用はないかな。ただ、君が合法ロリを見る目が少し眩しそうでね。君は合法ロリのようになりたかったのではないかなと思ってその真偽を正しに来たわけさ」
本当に嫌なところを突いてくる。
おそらく、魔霧はそういう観察に長けているのだろう。でなければ、恭介のポーカーフェイスが崩れかけているのか。どちらにせよ、魔霧の言葉の大部分は当たらずとも遠からずだった。
少なくとも、恭介は伊桜里のような人間になろうと思ったことはない。なれると思えなかったから、すぐにそんな夢を捨ててしまったと言ったほうがいいかもしれないが。
今にして考えれば、恭介は臆病だったのだ。誰かを助けようとして、結果が優れたものでなかったときの絶望に怯えていた。だから、掴み取ろうという気持ちを押し殺した。
少なくとも、伊桜里はそうではないのだろう。結果を考えるのではなく、その時の気持ちで動くのだ。そういうところが、恭介には眩しく映る。ある人はそれを馬鹿げていると笑うのだろう。感情で動いて良いことはないとあざ笑うに違いない。
それでも、誰かのために感情を爆発させることができる若さを、恭介は望んでいたのかもしれない。
(かといって、羨んだりはしないけどな)
羨んだりはしない。そう心で言った恭介の目は、どこか悲しそうだった。
やがて、授業が始まって一時間ほどたった。さすがの暑さだったからか、それとも単純にそう決めてあったのか。授業は一旦の休憩を入れるために終了となった。
一時間の半分以上を話し続けていた伊桜里の首筋や額には汗が流れており、疲労を物語っていた。
汗を手で拭っている伊桜里に、恭介は予め渡されていたタオルと近くで買ってきた飲み物を手渡す。
「ほら」
「あ、ありがとうございます、……この飲み物いくらでしたか?」
「払わなくていい。元は喧嘩を売ってきたあのジジイから頂戴したものだからな」
「そうですか……はい!? い、今なんて!?」
遠慮なく飲もうとして、口に入れた水を吹き出した伊桜里が信じられないものでも見るように恭介を問い詰める。対して恭介は涼しい顔だ。
ポケットから一つの財布を取り出して、恭介はにっこりと笑う。その笑いが、極悪人のそれだと悟ると伊桜里は今頃目を覚ました本田宗次郎が怒り狂っているのではないだろうかと気が気でなくなる。
そもそも、恭介はそれが目的で本田宗次郎を襲ったフシがある。もちろん、本田宗次郎の発言が気に食わなかったのは認めよう。鼻にかけたような話し方や、自分が偉いという態度に嫌気がなかったかといえば嘘になる。
だが、その程度で恭介は誰かを傷つけようなど思わない。どれだけ正義があろうと、どれほどの正当性が認められようと、暴力それ自体は悪行である。故に、恭介はあの程度では暴力は振るわない。
しかし、今回は色々と運が悪かった。
恭介はこの世界にやってきてから仕事をしていない。だからこそ金が無い。やっと見つけた仕事も雇い主に金が無いというではないか。正当な金が振り込まれない可能性が示唆され、切羽詰まった状況だった。
そんな時に、目の前で大嫌いな弱い者いじめが起こる。
それではもう仕方ない。殴るべきだ。世界がそう認めた。そうして悪行を成した。これは正当な悪行だ。
ならば、もう一つも二つも変わらない。むしろ、盗んだのが命じゃなかっただけ感謝してほしいくらいだろう。
以上を持って、恭介の手には今、本田宗次郎の財布が握られている。
「ど、どうするんですか! こ、こんなことしたら……」
「構わないさ。俺はたまたまこの財布を見つけた。手近に持ち主もいなかったし、何よりこの暑さだ。のどが渇いて死にそうなのに、自前の財布がない。拾った財布には何と大量のお札が入ってるんだ。これはもう神様がこの財布を使えと言っているように思わないか? 少なくとも俺にはそう思えた」
「な、何という言い分……本田宗次郎が知ったらどんな顔でやってくるか……」
うなだれて大きく息を吐く。これから来るかもしれない絶望の足音に、今から諦めているように見える。
確かに本田宗次郎のような嫉妬深そうなやつではそう思うのも仕方ないことだろう。けれど、恭介はどうも思わない。決して侮っているわけではない。いや、それ以上に見えていないのだ。恭介には本田宗次郎という人間が目に映らない。
恭介の目には、本田宗次郎が鴨が葱を背負って来るようにしか見えてはいない。故に――
「まあそう言うなよ。次来ても、また俺がぶっ倒してやるよ」
「は、はあ……?」
(そして、もう一度財布を頂戴する。ああいうやつは負けても何度でもやってくるからな。絞れるだけ絞り尽くすぜ)
なおも不吉な笑いを見せる恭介に、伊桜里はもう二度と本田宗次郎が来ないことを彼のために願う。
そうこうしているうちに休憩の時間が終わりを迎えようとしている。時間通りに戻ってきた生徒たち。予め決められていたのだろう、自分の席に戻って静かに伊桜里の帰り待っている。
伊桜里もそろそろ時間だと言って持っていた飲み物とタオルを俺に渡すと、静かに振り返って歩きだす。
もしも。
魔霧の言うように、自分が伊桜里のような人間であったらと。
そんな風にもしもの自分を浮かべて薄っすらと笑う。
出た結論は“ありえない”の一言だった。
無慈悲だろうか。絶望だろうか。人はなりたいと思った人にはなれない。だからこそ羨んで、妬んで、格好悪い自分を嫌いになる。それではダメだとわかっていても、人は一度望んだものを諦められない。
では、羨まれた人は?
誰彼構わずに羨まれる人は、羨む人と違って羨んだりしないのだろうか。
否である。おそらく、誰もが誰かを羨むのだ。羨むことを忘れてしまった人は多分、全てに絶望しきってしまったような人なのだろう。
だから、恭介は人を羨まない。世界がどれだけ無慈悲で、絶望的で、救いようのないものかを知ってしまったから。恭介はもう、何にも希望を見いだすことができなくなってしまったのだ。
悟った恭介の横に立つ魔霧が存在を高める。
「君は、おそらく真面目なんだろうね」
「生まれてはじめて言われた言葉だな」
「そうかい? なら、今まで君と接してきた人は皆、目が節穴だったのだろうね。僕から見たら、君は真面目すぎて可哀想になってくるよ」
「逆だろう? 真面目じゃないから可哀想になるんだ」
そうではないと。
魔霧は首を横に振って、授業が再開された青空教室を見ながら言葉を続ける。
「合法ロリのような真面目さなら、あるいは僕が出した感想は逆だっただろうね。でも君は違う。何ていうんだろうね。君の真面目さは、合法ロリの真面目さとはベクトルが違う。例えるなら、合法ロリは柔軟な真面目さで、君のは一途な真面目さだ」
「真面目さにベクトルがあったなんてな。世界は広いな」
強引に話を終わらせようとしている恭介に気がついているのか。
魔霧は乾いた笑いを漏らしながら、恭介を逃さない。
妙に勘がいい魔霧は、きっと恭介の奥底にある何かをぼんやりとだが察しているのだろう。そして、恭介はそれを知られたくはないと思っている。知られれば、きっと呆れられてしまうから、と。あるいは、それを知ったせいで変わってしまうと思うから、と。
知られるわけにはいかない。恭介が恭介という一個人であるためには。
「君はやっぱり合法ロリのようにはなれないね」
「さあな。なろうと思ったことはあっても、実際になろうと努力したことはないからな」
「だろうね。君はそういう人間だ。誰かを羨んでも、そのための努力が無駄になることを恐れる。常に物事をやる前に結果を予想する。少しでも不利益があると考えれば、君はそれら全ての努力や行動を無駄だと断じる。やる前に諦めてしまう」
「なんだそりゃ。どこが真面目なのか検討もつかないな」
「真面目さ。人によっては効率厨……とか言うのかな。君はとにかく、結果を重視する人間だ。だからこそ、君は最善の結果を取るために強くなろうとした」
ぴくっと、恭介の片眉が上がる。
図星を突かれたのだろう。
なおも魔霧の言葉は続く。
「出来得る限り、限界すらも飛び抜けて、君は強くなろうとした。賢くあろうとしたのだろう? そうすれば、何が相手でも絶対に結果は最善だ。君は君がほしい結果がほしいから、バカみたいに自分を磨いたんだ。僕はそれを真面目だと考えるけどね」
果たして、魔霧はどこまで恭介を知っているのだろう。
いや、知らないはずだ。魔霧は恭介を知らない。恭介も魔霧に会うのは今日が初めてである。
ならば、どうして魔霧は恭介をこうも知っているのだろう。ただの観察眼ではない。魔霧の目は、思考は、まるで恭介を昔から知っているようにも思えた。
恭介は震えが止まらなかった。ポーカーフェイスは崩れてはいなかったはずだ。バレるはずがない。そのはずだったのだ。
動揺をどうにか隠すが、震える唇で話す。
「随分と、俺のことを知ってるようだが。誰かから聞いたのか?」
「さあ? それはどうだろうね。君がわかりやすいのか。あるいは君を知っている人から聞いたのか。どちらでも同じだろう? 今君は、僕に図星を突かれているのだから」
ニッコリと笑う魔霧の顔が、どうにも腹立たしくて、恭介はすぐに目をそらす。
いつか、どこかで見たようなムカつく笑み。その出処を恭介はもう忘れてしまっていた。