君の我儘の隨に 5
一人で颯爽と訓練場から離れ、目的もなくただあの場から離れようと歩き続けた西園寺キリヱは唐突に足を止めた。そこで小さい咳を何度かしたあと、今度は激しい咳に変わり、口を手で覆う。
手を顔から離すと、唾液が混ざった赤い液体が手を染めていた。考える必要もなくそれは血液だ。おそらくは先程の戦闘で肺か内蔵にダメージを負ったのだろう。本来であれば、深刻な状態を考えてすぐにでも救急外来に搬送されるべきなのだが、それを嫌がったのだ。
訓練場から離れたこともあって、西園寺キリヱは思う存分に全身の力が抜けていき片膝をつく。
限界だった。西園寺キリヱは先の戦いで想像を絶する程の深手を負っていた。
ADDを介した炎の発現には確たる証明は成されていないが、とある天才が一つの仮説を立てている。それは体内電流をADDが増幅させ、空気中の酸素を火種に炎を起こしているのではないかという推論だ。学生である西園寺キリヱには難しいことはわからないが、そう考えると西園寺キリヱの今の状態にも話が見えてくる。
梨苑のADDはADDを喰らう。そして、ADDは使用者の体内電流を元に起動、操作がなされる。
では、ADDの八割を喰らわれた使用者に何のリスクもないのか。そんなはずがない。
ADDは難しく言えば操作可動域の拡張、あるいは身体的面積の増幅だ。簡単に言えば、体が瞬時に大きくなったという状態にある。つまり、巨大化した体を食べられて、人にリスクが無いかという質問になる。
問題がないわけがないのだ。むしろ、体の八割食べられて無事でいる人がいない。
文字通り血反吐を吐き捨てて、西園寺キリヱはニヤついていた。
「これは……想像以上にキツイですね」
「なら早めに諦めるんだな。あいつを殺すとか言ったんじゃないか?」
「……先生。女の子のお花摘みに着いてくるなんて礼儀知らずもいいところですよ?」
「なんだ、彼岸花でも摘んでるのか? ならぜひとも手伝わせてもらいたいものだな」
近寄って、西園寺キリヱの背を撫でる黒瀬教員の表情は優しいものだった。だからか、西園寺キリヱも安心して息を整え始めた。
やがて、安静を取り戻した西園寺キリヱは近くのベンチに腰掛けて、今度は体の調子を少しでもよくするように専念する。と、そこに近くで飲み物を買ってきた黒瀬教員も再び合流する。
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます…………、なんだか聞いていた話とは違いますね」
「お前さんがどんな噂を聞いたのか知らないけどな。大方当たってると思うぜ?」
「……ご自身がどう噂されているのかをご存知で?」
「そうさな。変人、怪物、小汚いやつ、信用ならないやつ、ロクでなし、裏切り者、敗北者…………あ、そうそう。面倒くさがりと童貞ってのもあったな」
「最後のは言わなくても良かったのでは……? って、そこまで言われても何も言い返さないんですね」
「ああ、だって面倒だろ?」
果たして、自身を卑下する言葉に言い返すことが面倒とはどういうことだろう。
少なくとも、質問をした西園寺キリヱには理解不能のことだった。
黒瀬という男には一般的に言われる努力や友情、そして正義がどうしようもなく欠けていた。だが、黒瀬教員には分不相応な力が与えられている。まるで、黒瀬教員を必要のない戦場へと掻き立てるように。
黒瀬教員は天才だったのだ。戦闘的アピールも、戦術的アプローチもどれも凡人のそれではない。努力をせずとも戦いにおいての最適解を導き出し、友情がなくとも望んだ勝利を手に入れる。
しかし、黒瀬教員には正義が欠けていた。自分の正義もなく、世界が望む正義も理解できない。だからこそ、黒瀬教員を知る人は皆、彼のことを怪物と卑下する。
「三十路が目前だってのに、俺には正義ってのがよくわからない。自分の邪魔だと思って《プランドラ》を殺すのと、自分の正義に倣って《プランドラ》を殺すの、これの違いがまるでわからないんだ。だってそうだろ? どちらも殺しているっていう結果に違いはないのに、どうして人はその過程を気にするんだろうな」
純粋な疑問だった。昔、同じ質問をとある少年にしたことがあるが、それが存外面白い答えだったのを黒瀬教員はよく覚えている。
別に西園寺キリヱにその回答を求めたわけではないが、西園寺キリヱは質問されているのだと勘違いして回答を述べた。
「それはきっと、言い訳をしたいからですよ。自分の意志で何かを殺すには相当の覚悟が必要なものです。だから、人は戦争をするときには国の正義のために戦うと言うんです」
「……………………へぇ。お前さんは、あいつと同じことを言うんだな」
「先輩も同じことを?」
「ああ。あいつもお前さんと同じことを言っていたよ。正義なんて、人が何かを殺すときに使う隠れ蓑だってな。あのときほどスッキリしたときはなかった。今でも鮮明に覚えてるさ。あの眠たそうな顔から、よもや誰もが至ることができないであろう回答を口にするんだから」
「先輩らしいですね」
殻之杜梨苑はある意味では天才だ。境遇としては黒瀬教員と似ているかもしれない。望まない力を持ち、将来のすべてを決められ、周りから異端のレッテルをはられている。
しかし、梨苑と黒瀬教員の圧倒的な違いがあるとすれば、それは現実に忠実になったか、反旗を翻したかだろう。
黒瀬教員は順応した。それなりの非行はしたが、それでも《プランドラ》が現れれば軍を率いて戦うことを選んだ。
しかし梨苑は抗った。英雄としての力を賜っても、必要以上に戦いを行わない。必要があっても最後の最後まで力を使わないようにしている。
黒瀬教員が一度だけ、梨苑に問いただしたことがある。
「一度だけ、俺からあいつに質問したことがある」
「どうして、そんなに自由に居られるのかを、ですか?」
「やっぱお前さんはさすがだよ。それで、あいつはなんて返したと思う?」
「さぁ……先輩のことはまるで予想できませんから」
予想できないとは、梨苑にとっては褒め言葉なのかもしれない。なぜなら、梨苑は良くも悪くも普通ではない。思い至る限りの人類の中で見ても、極々少数に割り振られる変人だ。それを梨苑自身も自覚しているし、その上でそんな自分を好きでいる。
それだから、黒瀬教員は梨苑が輝いて見えるのだろう。若すぎると上の立場の人たちは吐き捨てるだろう。甘すぎると罵るに違いない。
それでも、サラリとそれらに背を向けられる梨苑に憧れてしまうのだ。
「あいつはな。自分に聞いてみろって言ったんだよ。先生も十分に自由に生きているじゃないかってな。笑っちまったよ。誰かに与えられた役職と力、地位、人生において一度だって自分の意志で進めた試しがない俺が、自由に生きているってよ」
心底楽しそうに笑う黒瀬教員を眺めながら、西園寺キリヱだけは真剣に今の言葉を考えていた。
そうして、その意味を真に理解したとき、西園寺キリヱは初めて笑顔を見せた。
梨苑はこの世界で自由に生きていない人間はいないと、おそらくはそう考えているのだ。誰かに与えられたものだとしても、それを受け取ったのはその個人の自由だと。努力をするのもしないのも、己の自由だと。選択肢が一択しかなくとも、それを選んだのはその人の自由なのだと。
強情だ。傲慢だと言ってもいい。
梨苑にとって、選択肢とは選択の余地があるものなのだ。強制的なものだとしても、きっとその考えは変わらない。なぜなら、その強制的な選択肢はずっと前の己の選択から生じた選択肢なのだから。
しかし、それはどうしようもなく強い者の考えでしかない。二十年、いや三十年前の世界でも弱者に優しかったときなどない。弱者は常に搾取されるのみ。それが世界の常だった。
強いからこそ言える言葉。口にできる文言だと決定を下そうとする西園寺キリヱに、黒瀬教員が付け加える。
「一つだけ良いことを教えてやろう」
「……なんですか?」
「あいつの成績だ。知りたいだろ、殻之杜梨苑の成績を」
「はぁ……まあ……はい」
煮え切らない返事だったが、それを無視する形で黒瀬教員はポケットに入れていた携帯端末を操作して手早く梨苑の成績を教師権限で呼び起こす。
画面いっぱいに個人情報が表示されている端末を無造作に西園寺キリヱに渡す。それを目にした西園寺キリヱは驚きのあまり声が漏れた。
「え……?」
「驚くか? 驚くよな、そりゃ。ちなみにそれ、手加減とかじゃないぜ?」
「ほ、本当ですか、これ?」
画面に映し出されていた梨苑の成績は最下位。最低点数に、いくつか落第点数も存在する。
なにかの理由でADDが扱えないとしても、ここまでの点差がつくだろうか。
少し考えた西園寺キリヱはハッとなる。
すべてが逆なのだ。
何かしらの理由でおいそれとADDを扱えない梨苑に他のADDが扱えるだろうか。
無色の炎。それはつまり、大量に生産された三原色に調整されたADDが使えないということ。現に梨苑は訓練用の木刀でさえ扱うことができなかった。
満足に武器すら扱えない梨苑が果たして学園の試験で十分に力を発揮できるのか。できるわけがない。炎を扱えない者と扱える者の差は蟻が殺虫剤を持った人と戦うようなものだ。
端末を返す西園寺キリヱの様子を見て、黒瀬教員は何も言わなかった。その姿だけで理解したのだ。西園寺キリヱの中で梨苑という人がどれほど愚かで強い人間なのか感じたのだと。
梨苑は決して強くない。力があるのに使えない。使わない。それでバカにされても感情的にならず、後ろ指をさされても気にしない。
それは強さ故の余裕などではない。力を保持しているから生じる見下しでは決してない。これが……今の梨苑の立ち位置こそが梨苑自身が選んだ自由の結果だ。少なくとも梨苑はそう言うだろう。
「殻之杜は馬鹿だが阿呆じゃない。決して強くはないが弱くもない。努力が嫌いで、試されることが嫌いで、戦いが嫌いで、学ぶことが嫌いで、どうしようもないダメなやつだが、誰よりもこの世界を愛している。だから俺は、あいつが壊れちまう前に殺してやりたかった」
「壊れる、前に?」
「あいつがあの力を手に入れたのは二年前、とある事件のときだ。そのとき、あいつは己の身に余る力を手に入れて、選択の余地を失った。世界への絶対的奉仕。強制的な救世。あいつはな。この世界で唯一愛していた人を失って、その人が持つ力を継承した」
気になった。その人は誰なのか。どうして梨苑が壊れてしまったのか。壊れる前はどうだったのか。
しかし言葉にならない。聞いて良いものなのかという考えもあるが、それを聞いた後に自分に梨苑を殺す覚悟ができるのか。それがちらついたのだ。
目を瞑り、深呼吸をする。
西園寺キリヱは自分が何者なのかを自身に問いかけて、正義を重んじる《西園寺》であると言い聞かせる。約束は破らない。だが、約束を守るためには通らねばならない道が今、目の前にある。
梨苑を、殻之杜梨苑を知ることは、絶対に必要なことだった。
「その顔は知りたいって顔だな。まあ、俺の口から教えても良いんだが、それじゃあ殻之杜に不公平になる。まあ、お前さんの家柄ならこれだけでも十分だろう。――――神埼麻里奈。ヒントはこれくらいで足りるだろ?」
「神埼……麻里奈……そう、ですか」
聞き覚えがあるような名前に、西園寺キリヱは息を呑んだ。
そして、すぐさま話題を変える。
「先輩のことを勝手に聞くのはあとで何を言われるのかわからないので、私も秘密を教えましょう。これで、お相子ですよ?」
そう云う西園寺キリヱはゆっくりと秘密を明かす。
それを見た黒瀬教員は、固唾を呑んで頬を引きつらせた。
同時に今の会話が完全に密会にしなければならなくなったと心の中で西園寺キリヱを追いかけた自分を責める。
西園寺キリヱが示した秘密を目を見開いてみて、そこそこの地位にいる黒瀬教員はすべてを把握してしまった。
「そうか……じゃあ、お前さんは……」
漏れ出す言葉に、ただ西園寺キリヱは首を小さく縦に振るだけだった。




