私の執事は嫌ですか?
犬。もとい執事とは、文字通りに解釈すればおはようからおやすみまで君は僕が守る的なことを謳う体のいい召使いのことだ。つまりは犬という認識で間違いはないだろう。
どう間違えば住所不定の身分を示せない恭介を自分のそばに置こうという思考に至るのかはさておきとして、どうやら伊桜里は自分の言葉に後悔はないように見える。最初からこれが目的だったのだと考えられる。そのうえで恭介を逃さないように入念な準備を進めてきたのだろう。
称賛に値する。心の底から恭介はそう思う。
しかし、その努力を認めたところでその提案を認められるわけもなく。恭介は次なる策を弄する。
「執事……大佐ともあろう御方が戯れに過ぎるな」
「ふざけているとでも?」
「十分に」
目下、恭介の目的はこの場からの安全な撤退である。
それを成すには伊桜里の提案に首を縦に振らなければならないらしい。だが、恭介は他の選択肢があることに気がついた。
提案を拒否することはできない。だったら、その提案事態を無かったことにしてしまえばいい。要するに恭介を執事にしたくないと思わせた上で、この場から離脱する。これこそ恭介が助かる唯一の道筋だ。
狡猾に働く恭介の頭脳が如何にして自分を嫌いにさせるかを言葉にする。
「住所不定。これは現代では少なくない事例だ。だからこそ、住み込みの仕事を探す者は少なくないし、それを認めて上流階級の御仁が引き取ることもまた少ないことだ」
「ええ、そうですね」
「しかし、それは相手がどういう人間で、どういう人生を辿ってきたかというものを前提として話が進む。つまり、身分証が全てを物語る」
「要するに恭介さんは、自分には身分を示せるものがないのだから、執事などできるはずもないと言いたいんですか?」
「まさしくそのとおり」
笑みが崩れる。少しは言葉が聞いたようだ。
最大の弱みであるはずの事柄を武器として振るうとは思わなかったようで、その返答をするには時間を有した。けれど、その時間を恭介は有効に使わせない。
恭介にとって、相手に考える時間を与えるというのは死に等しい。伊桜里がどれほど頭がいいかなど知ったことではない。簡単な話だ、考える時間と発言をさせなければ恭介の勝利となる。
伊桜里の発言から彼女の立場とおそらく家柄がいいという判断をつけてその上で話を進めることにする。
「上流階級ともなれば、周りからの視線も気にするはず。それは弱みを掴ませないためであり、自分を守るためでもある」
「……痛いところを突いてきますね。確かに住所不定だけでなく、身分証を持っていない恭介さんを執事にすれば、その情報は瞬く間に広まって、あらぬ噂すら立つかもしれませんね」
「だから、俺はあなたのことを思って首を縦に振らない。お分かりいただけましたかな?」
ゲーム自体を無かったことにする。そうすれば《チェックメイト》も《王手》も関係ない。ちゃぶ台返しされたゲームはゲームとして機能しない。
(勝った。これは反論できまい)
胸の内で勝ち誇る。
話は振り出しへ。しかし、振り出しにしては恭介の立場は大きく違う。現在、恭介と伊桜里の力量差は僅差。いや、若干恭介のほうに軍配が上がる。
もう伊桜里に満面の笑みは見られない。対して恭介の表情に笑みが伺える。
「…………でも…………」
「……?」
「……それでも、私はあなたを――恭介さんを探したんです」
時として、女の涙は核爆弾をも超える強力な武器となる。すべての男は往々にして、目の前で泣く女をそのままには出来ない。たじろぎ、どうにかして泣き止まそうという思考が走る。それが男の本能である。
けれど、伊桜里を泣き止ませる方法は思いつくだけでもたった一つ。この場で先程の言葉は嘘であると伝えて、伊桜里の提案に黙って首を縦に振るだけ。つまり、恭介が伊桜里の執事になることを了承するほかない。
それはせっかくひっくり返したゲーム盤を元に戻し、かつ配置されていた駒を思い出せる限りで正しく置き直すようなもの。
それはできない。明確な理由があるわけではないが、恭介は無性に執事をやりたくないのだ。
なぜなら、嫌な予感が後を絶たないから。
こういう時に限って感じる嫌な予感に、恭介は予知めいた確信を持っている。伊桜里の執事になれば、近い将来面倒事に巻き込まれる。しかも、それは否応なしに恭介を苦しめるはずだ。
だと言うのに。
目の前で泣く伊桜里を見て、何を思ったか恭介は考える。提案を受諾する尤もらしい理由を探し始めたのだ。
人はそれを自分を騙すというのだろう。あるいは欺瞞だとあざ笑うに違いない。
それでも恭介は考える。自分を許せる妥協点を見つけるために。何がどうすれば自分が不幸になってもいいのかと思考する。
そうして、恭介はある意味で尤もらしい理由を見つけてしまう。だからこそ、そんな自分に気がついて呆れもする。阿呆だと息を吐く。
涙する伊桜里の頭に手を乗せて、自分の負けだと観念する。
「一つだけ…………俺の質問に答えたら、その解答次第ではお前の執事の件。考えてもいい」
「質問……ですか?」
「簡単な質問だ――――どうして俺を選んだ?」
俺のような人間は、他を探せばいくらでもいるだろうに。
きっと、恭介はそう続けたかったのだ。だが、続けなかった。その言葉は自分で自分の価値を暴落させるようなものだから。
恭介に自分を貶す趣味はない。ただ、伊桜里が恭介にどういう思いを持って近づいてきたのかを知るだけであれば、おそらくその質問で及第点のはずだ。
そして、伊桜里はその難解な言葉を受けて即答する。最初から決まっていたのか。もしくはその場限りの口八丁が上手いのか。いや、真剣な表情を見るにおそらくは最初から決まっていたのだろう。
伊桜里は立ち上がって、机に上半身を乗り出して訴えた。
「私は恭介さんに救われました! 五ヶ月前、絶体絶命の危機に颯爽と駆けつけて、あっという間に敵をなぎ倒して行った。恭介さんがあの日現れてくれなかったら、私は今頃、冷たい地面の上に転がる死体です」
「…………何か、勘違いをしているようだな」
その何かについての言及はない。だが、恭介が思うに伊桜里の言葉には必ず勘違いしている点があったようだ。
恭介の引き気味な言葉を受けても、伊桜里は大きく首を横に振ってこれを否定する。
「わかってます。幽王なんていう嘘つきな王様の名前を出すほどの人です。何か名前を隠さなくてはいけない理由があるんですよね。だから、これ以上は何も突っ込みはしません。ただ……私の提案に賛同してください」
「お、おう……わかった。よろしく頼む」
(ヤダこの子。自分の世界に完全に入った状態で話を進めてる……)
もう何も言うまい。恭介は伊桜里の提案にただ従った。元々、恭介がした質問に答えられたら提案を飲む気でいたため、提案を受諾したことに対しては何も思わなかった。
しかし、伊桜里の世界で完結した理由に関しては物申したい気持ちが微塵はあった。だが、宿と仕事の二つを手っ取り早く手に入れるならば伊桜里の提案はこれ以上無い待遇だろう。
なにせ、伊桜里の階級は大佐。所謂、上流階級の人である。その人の執事ともなれば、あるいは豪遊も夢ではない。無論、この終わりかけた世界での豪遊など高が知れているだろうが。
それに、恭介には尤もらしい理由がある。伊桜里の執事になってもいいと思える理由が。
(まあ、その理由は聞かれても言わないけどな)
言わない。というのは語弊がある。
正確には言えないのだ。なぜなら、その理由とやらがやっつけにしてはやけに恥ずかしいものだったから。
ニッコリと可愛らしく笑う伊桜里の顔を見て、よく笑うやつだと鼻を鳴らす。視線は外さず、そのまま伊桜里に問う。
「さて、見事俺を手に入れて、大佐殿は一体何をしようってんだ?」
「むぅ。口の聞き方が執事っぽくないですが、まあおいおい直してもらうとして。とりあえずは……そうですね」
少し考えるような仕草をして、予めいくつか選択肢があったようでその一つを選ぶように口を開く。
「ここを出て広い場所まで行きましょうか」
「それはまたなんで?」
「恭介さんがどういう人で、どういう事ができるのかを知るには広い場所が必要だからですよ。それともこの書庫でまだ用事が残ってますか?」
恭介は積み上げられた本を名残惜しそうに見る。けれど、なぜか心は少しだけ晴れていた。
五ヶ月かけて読み上げた歴史書だ。歴史の勉強ならもう十分だろう。
そろそろこの世界について、深く知らなくてはならない時期に差し掛かっている。いや、もしかしたら遅いくらいかもしれない。
何はともあれ、第三者から教えてくれるというのならそれに乗らない手はない。初めて出来たこの世界での友好だ。上手く使って、この世界のことをもっと深く知るべきだろう。
恭介は仲良くやってきた本に触れ、思う気持ちを追いやって本を取る。そして、それらを片付けていき、机の上がまっさらになる頃には、恭介の気持ちも落ち着きを取り戻していた。
恭介の支度を待っていた伊桜里に一言入れる。
「じゃあ行こうか、お嬢様?」
「執事にしておいてなんですけど、なんだかすごく似合わないですね…………」
「ほんと、世界って理不尽だと思わせる一言どうもありがとう。さっさと行くぞちんちくりん」
「ち、ちんちくりんじゃありません!! 私、これでも十八歳ですよ!?」
歳と身長は全くもって関係ない。恭介が言ったのは身長のみで、特に歳が若いとは言っていないのである。
まあ確かに、本人から年齢を聞いてその歳でその身長は詐欺だろうとは少しは思ったみたいだ。だが、断じて年齢を知った上で言ったわけではないことを承知してもらいたい。
そして、その大前提があって、恭介は小さく笑う。
それを見逃さない伊桜里はプンスカと可愛らしく頬を膨らませていた。