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始まりの約束 3

 つまるところ、殻之杜梨苑は死にたかった。

 梨苑に家族はいない。好きな人も、大切な人も、愛する人も、焦がれる人も、憧れる人も、憎める人も、誰一人として存在しない。梨苑にとって、他人とは他人でしかなく。その一線を超えられる人類は、おおよそ現れるはずがない。

 加えて、明日に希望など微塵も存在しないご時世だ。絶望することが茶飯事で、失うことこそ日常で。全く救いようのないこの世界から脱却したいと思う人間はおそらく梨苑だけではないだろう。


 しかし、それを全て噛み砕いて受け取れるかと言えば無理な話だ。

 西園寺キリヱは真っ直ぐすぎる。

 故に、死を否定する。明日の絶望を拒絶するのだ。

 もちろん、梨苑はこの願いが叶えられるとは思っていない。言ってみただけ。もしくは、無理難題を押し付けられた西園寺キリヱの困り顔を拝見しようと少しは思っていた。だから、西園寺キリヱの言葉は予想の範囲外のものだった。

 震える西園寺キリヱの口は、現実を切り離している梨苑を確かに動揺させた。

 ただ一言。それだけで西園寺キリヱは梨苑の度肝を抜くことになる。その一言とは……。


まだ(・・)、無理です……」


 まだ。

 西園寺キリヱは今確かにまだと言った。

 まだ無理だと言ったのだ。


 それはいずれは可能であるという意味だ。決して叶えられない願いを胸に抱いていた梨苑が、長年かけて欲したただ一つの言葉だった。

 その言葉がよもや年下の女の子に与えられるなどと、少したりとも考えていなかったがゆえに、梨苑は驚きを隠せない。いや、期待が隠せないと言うべきか。

 ともあれ、その言葉の真偽を確かめなければならない。本心で言っているのならなおのこと。もしも嘘であっても、確かめる必要はある。

 震える声で、梨苑は問うた。


「お前は……俺を殺してくれるのか?」

「それが、先輩の望むものなら……ただ、今すぐにとはいきません。というより、今の私では先輩を殺すことが出来ないと思います」


 希望が見えた。梨苑には西園寺キリヱが希望に見えたのだ。救済の光だと。まさしくそう思った。

 梨苑は腰を抜かす。起きていた上半身を腕の力のみで支えると、重くのしかかる自分という存在をつい忘れてしまいそうになる。


 西園寺キリヱは真っ直ぐすぎる。

 故に自ら死を望む人を否定するし、死が救済だと言う人を拒絶する。

 しかし、その真っ直ぐすぎる心は他人の望みを無碍むげに出来ない。たとえ、その望みが自分が最も不審がるものであったとしても。


 意外すぎる回答に、どうしていいかわからない梨苑はとうとう腹を抱えて笑い出した。

 その様子が疑問に思ったのだろう西園寺キリヱは首を傾げてしまった。


 可笑しい。これが可笑しくなくてなんという。

 少なくとも梨苑は生まれてこの方、数名の人にこのような質問をしたことがある。けれど、どの回答も二つ返事で否定された。違う反応もあったが、それは不審者を目の当たりにしたような顔をされた挙げ句、逃げられるというものだった。

 だから、梨苑は己の望みがおかしいということを自覚していた。その上でなおもこの望みを忘れはしなかった。


 西園寺キリヱは至って真面目だ。さもありなんという表情からして、今の発言がおかしいとは思っていないのだろう。

 人の願いを叶える。西園寺キリヱにとって、それは家訓にある通りだろうし、その行い自体が正当化されるべきものだと思っているに違いない。

 念の為、梨苑はもう一つ問う。


「ちなみに、どれくらいしたら殺してくれるんだ?」

「そう……ですね。おそらく十年……いえ、早ければ五年くらいでしょうか」


 驚いた。西園寺キリヱは今日初めて会った梨苑を拝見しただけで、強さの程度を見切ったようだ。しかも、ただ一方的に蹴り飛ばされただけの梨苑しか見ていないはずのなのに。

 頭に人差し指を抑えて、よく考えた様子の西園寺キリヱを見たまま、梨苑は最後に質問した。


「どうして、そう思うんだ? 俺はただお前に殴られたり蹴られたりしただけだぞ? 戦う素振りなんて微塵も魅せていないはずなのに……」

「その、先程は大変申し訳有りませんでした! …………先輩の質問ですけれど、なんて言えばいいんでしょうか、……わかる。ただ漠然として理解できる。私は昔から、その人が今どれほどの強さで、未来でどれほどの強さにまでなるかがわかるんです」

「…………驚いた。恐ろしいまでの観察眼……いや、それだけじゃない。きっとお前には――」


 言葉が続けられなかった。邪魔をされたわけではなく、ただ西園寺キリヱの目が物悲しそうに見えてしまったのだ。それに対して是非を問えない。かと言って、原因である言葉を続きも言えそうにない。だから、梨苑は言葉を続けられなかったのだ。


 息を吐く。そう言えば、嬉しさからか呼吸を忘れていたかもしれない。興奮した心臓の鼓動は類を見ないほど早くなっていた。間違いなく、梨苑は西園寺キリヱに魅入っている。

 一旦の冷静さを取り戻した梨苑はそれ以上の会話は身を滅ぼすと思い、会話を切り替えることを選択する。ただし、それには全てを無に帰す必要があった。


「……ばーか。嘘だよ。全部ウソ」

「え?」

「だーかーらー。殺してくれなんてのは嘘だってことだ。そもそも、死にたきゃ自殺でもすればいい。そうだろ?」

「ま、まあ……そうですけど」

「そういうことだ。だから、俺の望みは殺してくれなんてものじゃない」


 嘘である。けれど、ここで嘘の一つでも交えなければ、梨苑は西園寺キリヱと良好な関係を築けない気がした。どうやら、良好な関係を築かなければならない理由には気がつけなかったようだが。

 ともあれ、梨苑は嘘をついた。そして、西園寺キリヱがそれを嘘だと見抜くことも知っていた。だというのに、今までのは嘘だと言いはるのだ。

 やがて、話は初めへ戻り、西園寺キリヱは業を煮やして問うた。


「じゃ、じゃあ、先輩の本当の望みはなんですか?」

「そうさなぁ…………じゃあ、付き合ってくれよ」

「へ? ……つ、付き合うって――」

「なに顔を真赤にしてんだ? ちょうど散歩中でな。一人で歩くより、誰かと歩いた方がいくらかは楽しいだろ?」

「あ、ああ、なるほど。そういう付き合う……」

「他にどういう付き合うってのがあるんだよ?」


 全くおかしなことを言う女だと、梨苑は快活に笑った。

 しかし、それでは満足できないと、西園寺キリヱは歩き出す梨苑の背に向けて叫んだ。


「でも、それだけのお願いでいいんですか? それとも、私の命はその程度の価値ということですか……」

「…………? 別に、俺の願ったことでお前の命の価値が決まるわけじゃないだろ? それでも納得出来ないってんなら、そうだな。本当に死にたくなったら、そのときはお前に頼むよ。五年後か、十年後にな」


 果たして、その頃までこの願いは有効なのか。それは置いておいて、冗談交じりに梨苑はそう言った。

 不満は残る。けれど、先程までより幾分かマシな表情になった西園寺キリヱは梨苑の背中を追いかけて駆けていく。

 それから二人は三時間ほど散歩に明け暮れた。西園寺キリヱがこのあたりに詳しかったということもあって、梨苑一人では決してたどり着けない穴場まで回ることが出来た。


 そして、去り際。


 二度と会うことはないだろうと思いつつ、梨苑は少しだけ口惜しそうに別れた西園寺キリヱの背を見ていた。すると、不意に振り向いた西園寺キリヱが、年相応の可愛らしい笑顔でこういった。


「では、先輩……また明日」

「ああ……」


 この明日を夢見ないご時世に、よもやまた明日などという人間が未だに残っていたとは。

 呆れるほどに真っ直ぐで、眩しいほどに純真な乙女は、死を願う青年の心を少しは明るく照らしたのか。梨苑は、生まれてはじめて明日が来ることを少しだけ期待した。

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