人類に希望はありますか?
伊桜里は今、奇跡とも呼ぶことができる景色を目の当たりにしていた。
幻創種とは本来、一匹を相手にする際に伊桜里のような戦闘員が旅団編成をされても危うく壊滅させられるほどの強さを誇る。世界に六人存在する《英雄》と呼ばれる特殊な者でもない限り、容易には戦いを迫らないものなのだ。
そんな幻創種が目の前に二十数匹もいる。伊桜里にとっては地獄よりも絶望的なシチュエーションだったに違いない。だというのに、恭介は本来赤い炎には不可能な武装の展開――しかも、類を見ない空を覆うほどの巨大な武装を展開してみせた。
それはまるで極光が闇を切り開くがごとく、輝く星々の光を落として幻創種を一層してみせたのだ。
(間違いない……恭介さんこそが……)
伊桜里はこの世界は絶望の蔓延する終りを迎えた世界だと知ったときから願っていた。
いずれ、人類を率いてこの終焉を超えていく人が現れると。老若男女別け隔てなく、全ての人類を救って、この絶望を取り払う存在がやってくると。
その願望はおそらく自分では叶えられない。弱すぎる自分では。
故に伊桜里は日本帝国七十二家の反対を押し切って身寄りのない子どもたちにも教育を施し、生きていく知恵を与えて、そのいずれを待ち続けた。全ては人類復興のため。そして、自分が愛したこの世界は美しいのだと信じたかったがために。
教師をはじめてまだ三年。自分の教え子たちから英雄が出なかったことは悔しいが、ようやくして伊桜里は見つけたのだ。
――――人類の最後の希望。
恭介の強さは本物だ。現に恭介は今まで人類が成し得なかった数々のブレイクスルーを巻き起こしている。人の身にて、食物連鎖の頂点への挑戦という無謀を。
恭介の今までの戦いは、おそらく人類の向こう一世紀分の進歩を示していた。もはや恭介でなければ、救世主なんてものは存在しないだろうとさえ思えた。
黒い炎を纏い、燕尾服を着こなして、漆黒の無地仮面で正体を隠す。とても英雄と呼べる姿ではないが、それでも伊桜里は縋るしか無い。否、人類は縋るしか無いのだ。
そして、おそらく恭介はその発言に唾を吐くだろう。見た目からして、いやこれまでの会話からして世界を救うなどという大役を恭介が喜んで引き受けるはずもない。
きっと、すごく嫌そうな顔でこういうのだ。
――いやなこった。
容易に想像できる恭介の嫌そうな顔と拒絶の言葉に伊桜里は戦場であるにも関わらず笑ってしまう。それを悟られまいとすぐに顔を覆うが、どうやら恭介にはバレてしまっているらしい。
「よくも笑える元気がこんな時にあるもんだな。なんだったら強制的に王冠種とベヒモスの相手を任せてもいいんだぞ」
「そ、それは全力でお断ります……」
強制的という単語に身震いがして、伊桜里の笑いは冷めてしまう。
幻創種の一掃を終えて数分。地面には未だにふつふつと星が落ちた痕跡が残されていた。地面は焼け、草木は溶け、幻創種の肉片がそこら中に撒き散らされている。
変な匂いに胸焼けが起きそうな伊桜里だが、先程吐き出したせいでもう体内に吐き出すものがなかったのが功を奏した。
恭介は強烈な匂いの中を歩いて、今度はベヒモスへと向かっていく。当の巨大な幻創種は再び大量の現存種を引き連れて恭介を待っているようだった。
だから、伊桜里も安堵して戦いを見ていられたのだが、伊桜里は安堵が続くと大切なことをど忘れするという性分がある。そうして、恭介の言葉が現実というものを嫌でも知らしめるのだ。
恭介の戦いを見ている伊桜里の横に小学生ほどの少女が舞い降りる。表情は無表情で何を考えているのかわからないが、整った顔は将来に期待が持てるほどだった。しかし、それらを上回る濃密なプレッシャーが邪魔をして、可愛さを可愛いと思わせないでいた。
伊桜里の横に陣取った王冠種は恭介の戦いを見ながら伊桜里に問う。
「あなたは……なぜ……戦うの……?」
「た、戦う、理由……ですか?」
「そう……あなたは……あなたたちは……なぜ……」
なぜ戦うのか。戦わなければ死んでしまうからだ。そう答えようとして、伊桜里は口を閉じた。王冠種の顔が、無表情にも関わらず悲しそうに見えたからだ。
おそらくは思い込みだろう。だが、それを思い込みだと断じるには見知った感覚だった。
伊桜里は本来であれば学生という立ち位置にいる年齢だ。両親が二年前のとある事故に巻き込まれて他界したおかげで、伊桜里は日本帝国七十二家を欠けさせたくないという国の意思によって強制的に天王寺家の当主へと祭り上げられた。
もちろん、子どもが当主の家に仕える殊勝な執事やメイドなど居らず、元々慈善活動ですり減っていたなけなしの資金をやりくりして今日まで苦しい日々を生きてきたわけだが。
生来の優しさか親族の影響なのか。伊桜里はこうして英雄を探すという目的を理由にして世界から見捨てられた子どもたちを匿い、学ばせてきた。その生徒の中に、王冠種のような子がいた。
感情を表に出せなくなった子どもは、無表情のままに世界を見つめるのだ。しかし、表に出せなくなっただけで感情はある。その機微を感じ取るのに伊桜里も苦労したが、そのおかげで今、伊桜里は王冠種の感情の機微に気がつけたとも言える。
故に、伊桜里は切り捨てられない。教え子と同じくらいの見た目であるというのも相まってなおさらに。
「……あなたは、戦いたくないんですか?」
「どこの……世界に……戦闘を……好む種族が……いるの……?」
「でも、あなたたちは……」
「私達は……ただ……望んだだけ……世界の……救済を……」
「世界の……救済?」
伊桜里には何を言っているのかわからなかった。
間違いなく、世界を危険にさらしているのは王冠種を筆頭とする《プランドラ》だ。そうであるはずだった。
しかし、それは人類が頂点であるべき世界の話だ。
少し考えればわかることだ。伊桜里を含め、生き残った人類が望むのは人類が安全に、平和で、優雅に過ごせる日常だ。だが、ことこの地球には他にも動物は存在する。生命という括りにすればその倍――いやそれ以上の生命が息づいている。
その全てが果たして人類の繁栄を望むだろうか。
答えは否である。誰も……人類を除いて人類の繁栄を望む種族などいやしない。であれば、王冠種の言う世界の救済とはすなわち、この地球の支配権を地球に返すという意味にほかならない。
伊桜里は青い顔になる。今まで望んだ自分の願いは、あるいは間違いだったのではないか。そう思えてきたからだ。
少なくとも、今の伊桜里には王冠種の言葉こそが正しいとさえ思える。
もう伊桜里には人類が正しいのか、王冠種が正しいのかがわからなくなった。きっと、伊桜里以外の人間であれば、問答無用で王冠種を否定するだろう。一個の生命であるがゆえに、同種の考えこそが正しいと考えるためである。
けれど、伊桜里は違う。人類であることに間違いはないが、伊桜里は一度、人類に絶望した。人類の間違いを知っている。人類が非道であることも。
故に、矛盾が生じるのだ。
世界そのものを救おうとする王冠種は正しいだろう。地球の支配権は人類には重すぎるのも頷ける。
人類が淘汰に対して抗うのは正しいだろう。一種の生命が絶滅のために抗うことを否定などできるはずもない。
どちらも正しければ、果たしてどちらを信じれば伊桜里は自分を保てるだろう。
決められない伊桜里の震える手を王冠種の少女が優しく包む。それに驚いた伊桜里の目を覗き込むように無表情の王冠種が見つめるのだ。そして、甘美ともいえる優しい声色で告げた。
「やっぱり……あなたは……こっち側……なのね……」
「待っ……何を、言って……」
覗き込む王冠種の目の奥にゆらゆらと何かが揺れている。
優しく激しい、仄かな熱さえ感じさせるそれは、伊桜里のよく知るものだった。
(黒……いえ、青い炎……?)
青みがかった黒。ネイビーブルーのような炎が王冠種の瞳の奥で揺らめいている。
それが指し示すことを察して、伊桜里は震えた。
(うそ……じゃあ、私達の相手は――)
人間である。
王冠種は人の形をした化け物ではない。れっきとした人類だった。
おそらくは現存種のような《プランドラ》と同じく体内に《デウスニウム》を取り込んだのだろう。そうして変貌したのが王冠種だと考えられた。
信じられなかった。まさか、自分たちの最大の敵だと思っていた王冠種が同じ人間だったなど。
握られた手を振り払えない。同じ人間が思い描いた眩いほどの夢を否定するほど、伊桜里は正しい人間ではなかったから。
膝が折れる。力が抜ける。敗北などという言葉では贖えない感情が心の塗りつぶしていく。
衝撃を受け止められない伊桜里に王冠種は言葉を続ける。
「さあ……最後の一席……失われた十三番目の……神格を……」
握られた手が離され、そのまま伊桜里の頬へと。
体の中で何かが爆発的に熱くなる。やがて、それが左目から噴出する。それは炎だった。ただし、伊桜里本来の淡い赤ではなく、クリムゾンレッドの黒に濁る炎。
自分の中で大切な何かが書き換えられていくという感覚に恐怖して、伊桜里の右目から涙が流れ、口からは細い悲鳴が漏れる。しかし、抜け出すことができない。まるで地面に体を縫い付けられたかのように体が全く言うことを聞かない。
無表情だった王冠種の少女が初めて口元を緩める。その様子は新しく誕生する仲間を喜ぶような顔が目に入るが、伊桜里にはどうすることも出来なかった。
しかし、その爆発的な炎の噴出が止まる。気がついた頃には体内で蠢いていた妙な感覚もなくなっていた。吐き出すように咳き込んで、伊桜里は状況判断のために涙で見にくい眼球を動かした。
すると、そこには黒い炎を爆発させて怒りを顕にした様子の青年が立っていたのだ。
そして、青年は告げる。今まで聞いたこともない怒気を含めて。
「そいつに触れるな」
青年――恭介の背後には黒い炎が燃え立つ死骸の山が築かれていた。




