あなたの炎は何色ですか?
戦場でここまで気持ちよさそうに気を失う人を見たことがなかった恭介は、伊桜里の姿を見て笑いが溢れる。ただ、安全な場所まで移動させるという隙を与えてくれそうな相手ではないのでそこまでの配慮はできない。
早々に再開を果たした恭介と蟷螂はしばし見つめ合う。最初に会ったときと違いがあるとすれば恭介には以前よりも余裕が見える。蟷螂に関しては一丁前に怒り狂っているようだ。
故に、蟷螂は恭介が掴んでいる鎌を振り上げて勢いで恭介を叩きつけようと自分の鎌に力を加える。だが動かない。頑として恭介が掴んだ鎌が付け根から固まったように動かせなくなっていた。
そこでようやく異変に気がついた蟷螂の複眼は恭介に注目した。そこには左目から黒い炎が滾る恭介のニヤついた顔があって、蟷螂には理解できないが恭介はこう告げる。
「さっきはすまなかったな。記憶が封印されてて本来の力で戦えなかったんだ。けど、安心しろ。こっからさきは本気で相手をしてやる」
バキバキと、蟷螂の鎌の付け根が砕けるような音を上げる。恭介が鎌の付け根を掴む握力を上げたのだ。するとどうだろう。ダイヤモンドよりも硬い装甲がいとも簡単に砕けていくではないか。
これは魔霧が恭介に与えたナノデバイスの活性第一条件が開放されたことによる機能拡張がもたらした身体強化である。つまり、恭介はまだADDとしての能力を一切使用していない。
やがて、自身の腕である鎌が引きちぎられると気がついた蟷螂は掴まれていないほうの鎌で恭介の頭部を襲うが、それを涼しい顔で避けると恭介は折れてしまった鎌の付け根を持ったまま、砕かれた腹部の装甲に合わせて蹴りを入れ、蟷螂を距離にして十五メートルほど飛ばす。
「虫けら風情が幼女に興奮してんじゃねぇよ、みっともねぇ」
鎌の付け根を握ったまま吹き飛ばされたせいで、節で無理矢理にちぎられた蟷螂の片腕を地面に捨てると、恭介は静かな怒りを見せた。
さきの蹴りの衝撃で元々砕かれていた装甲の一部が剥がれ落ちる。その様子を見ながら、恭介は嘲笑うように高笑いをしてみせた。
「おいおい。まだくたばるんじゃねぇぞ? お前もせめて俺の本気を見て死にたいだろ?」
満身創痍の蟷螂は黒い炎を瞳に宿す恭介をにらみつけるようにジッと見ながら、理解できないであろう言葉を受けていた。しかして、蟷螂からは叫び声が上がる。これは果たして虫のそれか、あるいは《プランドラ》特有なのか。
どちらにしても怒り狂っているのは見るだけでわかる。
そして、恭介はナノデバイス活性第二の条件をクリアするべく合言葉を頭に思い浮かべる。
「人間を舐めるなよ、虫けら。かつて幽王と呼ばれて恐れられたこの俺、御門恭介が愛した種族は、そんなにやわな存在じゃないぜ? この地球に《プランドラ》の蔓延る場所はただの一片も存在しない。それを今、俺が証明してやる」
これは正義を示す戦いではない。
これは悪行を成す戦いではない。
これはかつて辿り着けなかった場所へ挑む戦いだ。
美しいと思えた者を救うための戦いだ。
左目から漏れ出す炎に触れて、恭介は頭に浮かぶ言葉を声にして挙げる。
「――――疾く在れ、我が名は嘘の王、幽王なり」
ナノデバイス活性第二条件の解錠。強化された体が更に軽くなるのを感じる。おそらく、この感覚こそが人類が《プランドラ》に対抗しうる唯一の武器であるADDの感覚なのだろう。見れば、恭介の装いも変わっているのがわかる。
黒のワイシャツに燕尾服、両手には黒の革手袋と足には漆黒の革靴。さらに右手には黒の無地の鉄仮面が収められており、恭介は何も考えずにそれを被る。すると、男であることと左目から黒い炎が滾っていること以外の情報が遮断される。
懐かしささえ思わせる格好に恭介は仮面の下で微笑んでいた。
漲る力は目の前の敵を討滅さんとうずいている。それをグッと抑えて、恭介は気絶している伊桜里を抱き上げて、安全な場所へと移動させるべく蟷螂に背を向けた。
その猶予を与えるわけもなく、背中を向けられた途端に蟷螂は足音すら立たさずに飛び上がり、上から恭介を強襲するように鎌を広げた。
しかし。
「少しは大人しく待っていられないのか?」
振り下ろされた蟷螂の初撃を躱し、ガラ空きの胴体に右の回し蹴りで数メートル押し戻す。すると、もろくなっていた装甲がさらにもろくなり、破片は肉に突き刺さってしまう。
不用意な攻撃で思いも寄らない手傷を負ってしまった蟷螂は恐怖するでもなく、ただ怒りで片腕だけになってしまった鎌を振り上げ威嚇のポーズを見せる。
それを完全に無視して、恭介は少し離れた場所のある程度平らなコンクリートの上に伊桜里を寝かせる。
どうやら腹部に鎌の切り傷があるが、それほど深いわけではないようだ。気になるといえば、血液量が多いというくらいだが、すでに血も止まっているため大丈夫だろう。
コンクリートに寝かせた直後に伊桜里が目を覚まし、自分が誰かに抱き上げられていたと気が付いて、その人物を目にする。ほぼ無意識に右手が仮面を被る恭介の頬へと伸びる。
恭介が着ける仮面は鉄製のようで、触るとひんやりと冷たかった。しかし、燃ゆる左目の黒い炎はかすかに温かくて、どこか優しさの感じられるものだった。
そうして意識がおよそはっきりし始める頃。伊桜里は訪ねた。
「あなたは……誰ですか?」
それは五ヶ月前にも聞いたこと。正体に予測が出来ている。しかも、それに間違いはないだろうという確信も持ち合わせている。けれど、伊桜里は聞くのだ。黒衣に身を包み、仮面で素顔を隠す恭介に、「あなたは一体誰なのか」と。
問わずにはいられなかった。
あの日、救ってくれた人は本当に思った通りの人だったのか。そして問いたいのだ。どうして自分なんかを救ってくれたのかを。
伊桜里は当主としては幼くして両親を失った。やがて人の悪意を知ったのだ。いつの頃からか、伊桜里は死んでもいいと思いつつ、死にたくないと悩むようになった。
そんな惨めな自分を救ったのはなぜか。伊桜里はそれが聞きたかったのだ。
程なくして、予想した通りの答えが仮面の下から飛び出してきた。
「…………幽王。かつてそう呼ばれていた」
きっと、そう名乗るのには理由があるのだろう。伊桜里はそう思うことにした。
やはり、そう名乗るしかないのだろう。恭介は決して自分を英雄視しないようにそう答えた。
幽王とは嘘つきの王の名だ。少なくとも恭介はそう思っているし、恭介を初めてそう呼んだ人もそういう考えがあったのだろう。
しかし、伊桜里はそれだけに留まらなかった。幽王とは嘘つきの王のことである。そこに嘘偽りはなく、否定することは出来ない。けれど、幽王はただの嘘つきではない。
一人の女を笑わせるためだけに、国を混乱させた愚王である。もちろん、その行いは褒められたものでは決してないだろう。咎められ、後世に語り継がれるほどの悪行だったことだろう。だけど、それでも幽王は一人の女を笑わせたかったのだ。たとえ、それで国が滅ぶとわかっていても。
国という一つの文明よりも、その王は己が愛する女性に尽くしたのだ。ある意味でそれは献身とも言えるだろう。あるいは本物の愛であると考えられる。何より、愛に狂ったがゆえの優しさだったに違いない。
であれば今、目の前で自分を優しく地面に寝かせた仮面の男は、やはり優しいのだろう。その正体が真に心に思い描く人であれば、この場に戻ってくる必要など微塵もないのだから。
仮面に触れていた手を離し、伊桜里は最後にこう問うた。
「信じていいんですね?」
「…………」
「私は、幽王さんがあの《プランドラ》を倒してくれると、信じてもいいんですよね?」
「…………もちろん。それがお前の願いなら」
(ああ、そうか。だから、恭介さんは……あのとき)
伊桜里は死にたいと願いつつ死にたくなかった。助けてほしかったのだ。誰でもいい。英雄だろうが勇者だろうが、魔王だろうが悪魔だろうが、それが自分の心を癒やしてくれるならそれだけで十分だった。
それを知ってか……いいやおそらくは感じられたのだ。死にたくないと心で泣く少女をあやすように救われた。優しい言葉は、張り詰めた伊桜里の心をようやく溶かしていく。そこにあったのは、安堵だった。
その言葉を聞いて、伊桜里は脱力する。どうやら精魂尽きたらしい。可愛らしい寝息を立てながら意識を深く沈めていた。そして、目には涙が見える。
恭介が伊桜里の願いを叶える義理などどこにもない。いや、恭介にしてみればこれからご主人さまになる伊桜里を死なせないためと、そのご主人さまになる人からの願いであれば叶えなければならないだろうが、どちらにしても実名を伏せている時点でその義理は発生しない。
だから、これは純粋に恭介の慈善活動だ。誰かに求められたからではなく、今自分がしなければならないと思ったからする行為だった。
おそらく、恭介は信じてもいいのかと訪ねてきた光を絶やしたくなかったのだ。理想をここで砕かれたくはなかったのだろう。
(もしも、その理想が俺を信じてくれるなら、あるいは……)
恭介は首を振って否定する。
ありえないことだった。間違っても自分は、もうかつて望んだ理想の姿にはなれない。故に、伊桜里に期待するのだ。つまずいてしまいそうになる伊桜里に手助けをしたくなったのだ。
心で涙する子供をそのままにはできなかったのだ。もう大丈夫だと優しい言葉を聞かせてやりたかったのだ。
(だからこれは、俺のわがままだ。俺には無理だったものでも、せめて他の人がその理想通りになれたのなら、俺は世界の全てを恨まずにいられるから)
眠ってしまった伊桜里を見て、早速始めようと振り返る。蟷螂は恭介が戦意を向けてくるまでジッと威嚇したままでいた。
否、蟷螂は威嚇する他に方法が無かったのだ。恭介に戦意はなかったが、代わりに押しつぶしてしまいそうなほどの殺意は感じられた。
それを無意識に感じ取っていた蟷螂は襲うよりも、逃げるよりも、ただその場でことが始まるまで待機するしか無かったのだ。それほどまでに、黒い炎を左目に宿した恭介の殺意は濃厚だった。
振り返った恭介を蟷螂の複眼が捉えた途端、目の前から消え去り次の瞬間には蟷螂は天を見上げていた。もっと正確に状況を説明すれば、地面を蹴った恭介は瞬きほどの時間で蟷螂の懐へと潜り込み、小突くように軽く握った拳で蟷螂の砕けた胸部をノックするように叩いた。
すると、蟷螂の体はくの字に折れて弾かれる。やがて蟷螂の背は地面に張り付くように落ち着き、空を見上げる構図が出来上がったのだ。
だが、驚くべきはその攻撃の速さではない。恭介は今、ADDの本来の性能をほとんど扱わずにそれを行った。つまり、本気など微塵も出していなかったということになる。
いや、正確に言えば、恭介も今、探り探りでADDを試運転している最中である。なにせ、ぶっつけ本番で扱ったのは五ヶ月前で、その間の記憶は封印されていたのだ。
もちろん、扱い方など細かく覚えているはずもなく、だからこそ見様見真似で扱ってみようと伊桜里が言っていた言葉を思い返す。
(確か、炎をイメージするんだったか?)
伊桜里にADDを渡されたときには出来なかった炎の発現。それを今、もう一度試そうとしていた。そして、程なくしてそれは成功する。
恭介が思い描く炎とは、侵食と炎上。すべてを燃やし、勢いを増していくがごとく。そのイメージに共鳴するかのように恭介の左目に宿る炎が滾る。そして、強まった炎は火の粉を飛ばし、火の粉によって辺り一面と両手を燃やす。
だが、その炎に熱はないが、地面に落ちていた蟷螂の砕けた装甲に引火するとそれを塵も残さずに燃やし尽くす。それを見て、恭介は理解する。
この炎は《プランドラ》を殺すためだけの力なのだと。
そうして、空を見上げていたはずの蟷螂が起き上がり、恭介を捉えたのに気がついて、恭介は告げる。
「待たせたな。そろそろ始めようか」




