本当のあなたは誰ですか?
恭介の心はざわついていた。本当にこれでよかったのか。これが正しかったのか。そのことが心のなかで騒ぐのだ。
原因は傲りで怪我をしたことが悔しかった、あるいは敵前逃亡をしなければならなかったからか。
いや、どちらも正確ではない。もちろん、それらもある程度の原因ではあるだろう。だが、この場合は恭介の最もな原因にはなりえない。
恭介は許せなかったのだ。敗北したことも、逃げ出したことも、何より震える女の子に後を任せてしまったことが。
守れたはずだ。そう言い聞かせる。
倒せたはずだ。そう自問する。
ならどうして自分は今、怪我をして逃げているんだ。
その言葉は重くのしかかってくる。恭介は自分を許せない。何より、現実から逃げ出すことが得意になってしまった自分を、恭介は許せないのだ。
そうこうしているうちに大分逃げてきて、目の前には兵隊に見える軍服を着た男たちが目に入る。伊桜里に任された子どもたちは誰も欠けてはいない。逃げ切れたのだ。そう思って、恭介は今来た道を振り返る。
視線の先、もう見えなくなってしまっているがその先で伊桜里が戦っている。もしかしたら死んでしまっているかもしれない。あるいは瀕死の傷を負っているかも。
そう思うと恭介は無性に引き返したくなる。だが、自分の右腕を見てこんな自分に何ができると左手を強く握りしめた。
「君たちは!?」
「俺達は避難してきた。この先でたった一人で戦っているやつがいる。救援を――」
「それは……できない。今、何故か帝都の方でも《プランドラ》が出現していて、どこも手が足りないんだ。敵は何体いたかわかるか?」
「おそらく一体。手傷を負っているが、一人では倒せないと言っていた」
「そうか……こちらも救援に行きたいんだが……」
男は言葉を渋った。おそらく手が足りないというのは本当なのだろう。しかし、今の日本にとって最も重要なのは帝都を守ることだ。末端の集落など比べるまでもない。
だが、如何に追い詰められている日本だからといって各地に軍人を配置していないはずがない。他に何か問題が生じているのではないかと思った恭介は焦ったように聞くのだ。
「どうして、手が足りないんだ。日本はそんなにも戦える人間がいないのか!」
「そ、それが……ここだけの話だが、この地区の守護を任されている本田宗次郎殿が見当たらないのだ。もしかしたら……逃げ出している可能性も考えられる」
「あんの、クソジジィ!!」
ここにきてまたその名前を聞かされることになるとは思わなかった。
日本帝国七十二家に名を連ねているからいざとなったときの対応は、それでもしっかりしているのだと思っていたが、よもや逃げ出すとは思わなかった。
だが、そうだからといって見捨てられるのか。兵隊の表情は曇ってしまっている。
その様子を見て、恭介は手を引いていた小さい女の子を兵隊に押し付ける。すると、兵隊は驚いたように恭介を見て首を傾げた。
恭介は知っていた。兵隊が真に見捨てたいと思っていないことを。だからこそ、悩んでしまっていることを。そして、それ自体が時間の無駄であることを。
だから、恭介は伊桜里に預けられた子どもたちを安全だと思われる兵隊に託したのだ。そして、続けてこう言った。
「そいつらを頼む」
「君は?」
「俺は……少し寄るところがある」
「まさか……戻るなんて言わないだろう?」
「まさか。俺はそんな命知らずじゃない。なぁに、右腕が困難になっちまったから痛くてな。少し休むだけさ。さあ、さっさと行ってくれ」
「わ、わかった。君もすぐに逃げるんだ。いいね!?」
子どもたちを引き連れた兵隊がそう叫ぶ背中に、恭介は小さく笑って「ああ」と言う。
そうして、恭介は元来た道を歩もうと足を伸ばす。しかし。
「いけないなぁ。嘘は泥棒の始まりだと言うよ?」
「……行かなかったのか」
背後から聞き覚えのある言葉が聞こえた。
それが魔霧だとすぐに気がついて、姿を見ること無く会話に応じた。
「もちろん。どうも君が戻りそうな雰囲気だったからね。そりゃあ、残るさ」
「なぜ?」
「なぜ……そうか。何故と問われるか。そうだなぁ……それについての返答は考えてはいなかった」
「邪魔をするな。俺が戻れば多少は時間稼ぎにもなるだろ」
「その右腕で? 渾身の一撃を食らわせても倒せなかった敵と利き腕が潰れた状態で戦うのかい? それは少し無謀が過ぎるんじゃないかな?」
正論だ。腹立たしいほどにその言葉は正しかった。
けれど、恭介は行かねばならない。自分を許せないのならばもう、こうする他に自分を慰める方法はないのだ。
それが間違っているなど知っている。この行動に正しさなど微塵もないことなど理解が及んでいる。それでも行くのだ。そうしなければ、自分が自分でなくなってしまうように思えるから。
「君の行動は馬鹿げている。勇気と無謀を履き違えるような人間でもないだろう?」
「だったら何だって言うんだ」
「僕と一緒に行くんだ。ここは合法ロリにまかせて、僕たちは逃げよう。それが人間という生き物だ。その生き方が正しいんだ。適材適所にまかせて、力のない僕たちは自分の命を守るんだよ」
「それは…………」
魔霧の方を初めて向く。
その表情はとてもそう思っているようではなかった。誘惑的な弁舌。正しさの応酬。まるでそうすることこそが当たり前なのだと言い聞かせる。
だというのに、魔霧の顔はそうではないと言っている。まるで矛盾しているようだ。
何が正しくて、何が間違っているのか。
人間として生きることを説く魔霧の弁舌は、確かに正しいのだろう。
他人を見捨てずに生きることを説く魔霧の表情も、あるいは正しいのだろう。
その矛盾した正しさは、ではどちらが本当に正しいのか。恭介にはもうわからない。わかりようがない。だってそれは、かつて自分が放棄したものだったから。
恭介は今、試されている。人として生きるか。人として死ぬか。どちらも正しくて、どちらかしか選べない。この難問を解くには、あまりにも時間が足りないように思えた。
だというのに、恭介の心は最初から決まっている。
「考えるまでもない。俺は行く」
「それが正しくないとわかっていても?」
「誰かを助けようとする心も間違いじゃない。確かに、今の俺には力はない。おそらく、助けに行ったところで足手まといになるだろう」
「なら、行かないほうが良いんじゃないかな?」
「だが、時間稼ぎにはなる。右腕が砕けていようとも、左腕はまだ動く。足も心もまだ折れちゃいない。それに、伊桜里に世界を救うなんて大役を任せられないだろ?」
かつて、自分が悪友に頼まれたことを思い出す。
己の生き様が真に正しいと言うならば、生きよ。そして、世界を救え。
とんでもないやつがいたものだと思っていた。一端の人間ではなかったが、善人でもなかった恭介によもや世界を託そうとするやつがいると思っていなかったので、少し得意げになったのだ。
(世界を救えと言われたのは俺だ。なら、その俺が逃げ出すのはダメだろうな)
故に、恭介は行く。止まっていた足はいつの間にか軽くなっていた。気がつけば、体もすごく軽い。この感覚は少し前にも感じたものだった。
この感覚は一体なんだろうと自分の体を見ていると、魔霧が声を出して笑うのだ。
「何がおかしいんだ?」
「いやなに。聞いていた通りの人間だと思ってね」
「聞いた? 伊桜里に?」
「いいや。君が悪友と評する神様にさ」
その発言で、恭介は度肝を抜かれたような表情になる。
恭介はこの世界の人間ではない。だから、恭介を真に知る人物などいるはずがなく、現に魔霧を除く全ての人物が恭介を知らないでいた。
しかし、その例外である魔霧はたった今、会うよりも前に恭介のことを知っていた理由を明かした。どうやら魔霧は、恭介の悪友と面識があったようだ。
でも、それはおかしい。面識がある。それはつまり、この世界に悪友が来ていることになり、この世界に存在するということになる。
ならば。恭介のよく知る悪友であるならば、絶対に恭介を監視するために出向くに違いない。だというのに、一向にその姿を見せてはいないのだ。
ブラフか。いいや、悪友が神様だと知っているのは恭介のみだ。そもそも、悪友がいることすら話に出した覚えもない。であれば、これは本当の話か。
恭介が混乱している最中。魔霧はよく見たニヤケ顔で恭介に問いかける。
「まあ、僕がどうして君の悪友と面識があるのかは置いておいて。それよりも、君は何かを忘れているんじゃないかな? 例えば、君がこの世界に来てすぐのこととかを」
「どうしてお前が…………っ!?」
フィンガースナップを響かせた魔霧。何事かと思うが、急に恭介は頭を押さえる。
突然、頭痛が恭介を襲ったのだ。
同時に覚えのない景色が思い起こされる。そして、それが無くしていた記憶だと悟ると、目の前が暗転した。




