戦いから逃げるのは罪ですか?
サイレンが耳に痛い。辺りは騒然となり、まるで規律というものを欠いていた。
人類の敵。《プランドラ》が恭介たちのいる場所の近くに来ている。決して人類の力では淘汰できないであろう存在が、すぐ近くまで迫ってきていた。それはもうパニックだ。泣き出し、叫び、狂い、よもやまともな思考などできるはずもない。
この場に、伊桜里という存在がいなければ。
伊桜里は泣き出す子どもを抱き、叫ぶ子どもを諭し、狂う子どもを押さえつけた。そうして言うのだ。大丈夫だと。何も心配することはないのだと。
するとどうだろう。あれほどまでに荒れていた周囲が、一気に落ち着きを取り戻していくではないか。これが伊桜里という心の支えを得た人類の姿なのだと知る頃には、伊桜里から指示が出されるまでに場は冷静になっていた。
「慌てないでください! ともかくここから移動します! ついてきて!」
言うなり、伊桜里は自ら先頭に向かう。
ここは日本帝国の果て。もっとも《プランドラ》に襲われやすい場所。だから、伊桜里はいつでも逃げられるように退路を確保していた。それが功を奏したのだ。
流れるように進んでいく伊桜里の後ろに一クラス程度の生徒が一列についていく。その最後尾に恭介と魔霧はいた。
進行速度的には早いとは言えないが、少なくともあの冷静でなかった皆を連れているときでは考えられないほどに逃げられている。このまま行けば、あるいは逃げ切れるかもしれないだろう。
恭介はともに歩いている魔霧の方を見る。すると、そこには怪しげにニヤつく魔霧の顔が伺えた。
「何を笑っている?」
「君は本当に逃げられるとでも思っているのかな」
「このまま行けば、その可能性もなくはないだろ」
「確かに。ありえなくはない。でも、君は知っているはずだ。そして、この世界で生きている誰もが知っているはずだ。世界はそう甘くはない。物事が順調に進んでいるとき。それは最も慎重にならなくちゃいけないときだ。なぜなら――」
魔霧の言葉を最後まで聞く前に、少し前の方から悲鳴が響く。
皆の視線がその悲鳴へと向いた。そうして絶望の表情に変わるのだ。
退路を歩く一列からほど近い場所に、人ほどの大きさの白い蟷螂がいた。鋭い鎌は、まるで日本刀のようで。細く素早そうな身なりは臨戦態勢へと。さらには大きな複眼が恭介たちをきちんと写し取っていた。
「なぜなら、絶望はそういう時に限って味わうものだからさ」
魔霧の言葉は誰にも届かなかった。
それよりも完全にターゲットにされていた。その矛先がまず誰に向くかなどわからないが、少なくとも、蟷螂は今から恭介たち一行を襲うだろう。そして、この場においてまともに戦えるのは伊桜里のみ。
悲鳴が止むよりも早く、蟷螂は地面を駆ける。その速度は尋常ではなく、瓦礫の上だというのに素早く体制を崩すこと無く真っ直ぐに獲物へと向かう。
栄えある蟷螂の最初の獲物に選ばれたのは、高校生か中学生ほどの女の子だった。確か名前は間宮とか言った子である。
間宮は自分が狙われているとわかると逃げようとするが、今この場所は一本道。逃げ場らしい逃げ場などない。足場の悪さも相まって、バランスを崩した間宮は地面へと手をつく。そして、動けなくなった間宮の上に、蟷螂が鎌を振り上げて立っていた。
間宮は次の瞬間に痛みに耐えるかのごとく目をぎゅっと力強く瞑るのだ。
そうして、蟷螂が鎌を振り下ろそうかというときに、蟷螂に躊躇いの動きが入る。なぜなら、
「いただけねぇな。そいつァダメだ。やっちゃいけねぇよ」
恭介が蟷螂の前に立ちふさがった。故に蟷螂は動きを止めた。
おそらく、複眼が恭介の接近を捉えたのだろう。だから、殺害よりも警戒を選んだのだ。
しかし、恭介に《プランドラ》を倒す力はない。如何に人間を凌駕できようが、それは《プランドラ》には通用しない。その事実を、恭介はまだ知らないのだ。
蟷螂がそれ以上の行動をするより早く、恭介は動く。左足の親指の関節から始まり、足首、膝、股関節、腰、右肩、右肘へと力を伝播させ、右足が沈むほどに踏み込み全体重を乗せた鋭く重い一撃が蟷螂の中心へと突き刺さる。
だが、それでは足りない。
「くっ……」
恭介の顔が苦渋に塗れる。怪我を負ったのは恭介の方だった。
この蟷螂の部類分けをするならば、現存種昆虫属蟷螂型通常種。昆虫属の最もな特徴は何よりも軽いことと何よりも硬いことである。
その硬度はダイヤモンドを超え、数百トンの重圧にも耐えられる。
よって、そんなものに思いっきり拳を投げ打った恭介のダメージは計り知れない。恭介の体感では骨にヒビが入ったようである。あまりの痛みに右腕の力を抜いて、糸の切れた人形のようにする。
しかしながら、驚くべきことに蟷螂の装甲にヒビが入っていた。間違いなく恭介の一撃で入った亀裂である。これはダイヤモンドを超える硬度を、人の手で割ろうとしてそれをあと一歩のところで失敗したということにほかならない。
奇しくも痛み分けとなった両者だが、蟷螂には大した傷にはなっておらず、むしろ怒りを買ったようにさえ思えた。見れば、蟷螂の鎌はすでに間宮よりも恭介を狙っており、今にもその殺意に満ちたものを振り下ろそうとしているではないか。
(予想よりも遥かに硬い……か。仕方ない。右腕くらいはくれてやる)
踏み込んだ右足を軸に、再び力は伝播させる。そして、突き出していた右腕を捻るように再び打ち出す。するとどうだろう。ヒビの入った蟷螂の装甲が砕けて、中の肉が露出した。どろりと昆虫ならではの液体が流れ出してきた。
同時に、恭介の右腕が完全に砕けた。これで蟷螂が倒れなければ恭介にはもう左腕を使って攻撃する以外の手段は無くなったわけだが、どうやら蟷螂は傷を負っただけでまだ戦えるように見えた。
「ちっ……昆虫風情が」
これは恭介の傲りだ。心の隅で、《プランドラ》と殺り合えると考えていた甘さから来たものだった。だから、この結果に不満はないし、悔いもない。ただ一つだけ言えるなら、恭介は声を大にしてこう言いたい。
次に会ったら絶対に殴る。
もちろん。その言葉はこの世界にはいないであろう悪友への憎しみだった。このような世界に放り出して、右も左も教えないクソみたいなやつを痛めつけてやるべきだとずっと思っていたのだ。
このようなことを考え始めれば年貢の納め時だろう。恭介は死ぬ。あの鋭い鎌が振り下ろされれば、おそらく体は真二つに切り裂かれる。痛みもあろう。絶望もあろう。だが、次の瞬間には真っ暗な世界が広がるに違いない。
不思議なことに恐怖はなかった。この瞬間を、恭介はすでに一度体験していたから。
ただ、恭介の心にはこの程度だったのかという自分への悲観のようなものがねっとりとまとわりついていた。
「恭介さん!」
近くもなく、遠くもない。そんな感じの声が耳に届く。その瞬間、恭介の諦めきっていた細胞が活性化したように熱くなる。
(これは……なんだ……?)
このような感覚が初めてだった恭介は戸惑いを覚える。見た目に変わりはない。ただ、先程までよりある程度体が軽いようにも思える。
だから、恭介は怪我をした右腕を庇いながらとっさに後ろに飛んだ。すると、瞬きほどの時間も有さずに恭介がいた場所に鎌が振り下ろされる。間一髪で恭介は蟷螂の攻撃を避けることに成功した。
だが、右腕は確実に砕け、戦力は依然として伊桜里のみである。対する蟷螂は胸部を砕かれ血肉が漏れ出しているが存外元気に見える。
戦力差は途方もなく。勝機は薄い。何より、生き残れた恭介に逃げ切れるビジョンが浮かばない。
「大丈夫ですか、恭介さん!」
「右腕が砕けてるのが大丈夫なら概ね大丈夫なんだろうさ」
「砕けてる!? って、遠目だからよくわかりませんでしたけど、もしかして生身で昆虫属の装甲を砕いたんですか!?」
「ああ。存外硬くてびっくりした」
「バカなんじゃないですか? いやほんとにバカなんじゃないですか!?」
右腕が砕けていなければ即座に頭を引っ叩いていた。
しかし、今はそれよりも蟷螂の対処のほうが大切だと判断して、恭介は蟷螂をにらみつける。そして、怪我の具合を概ね見終わった伊桜里に一つ質問を繰り出した。
「あいつ。倒せそうか?」
「無理ですね。私、見た目によらず弱いですから」
「見た目通りで安心したよ」
皮肉は返すが、それ以上の進展はない。なにせ、恭介たちは追い詰められているのだから。
この場においてあの蟷螂をどうにかできるのは伊桜里のみ。だが、伊桜里いわくどうにもできないという。それはそうだろう。通常、伊桜里のような戦闘員では十人を最低人数として昆虫属の《プランドラ》一体を割り振られる。
それが安全かつ確実に《プランドラ》を殺すことができる人数なのだ。
今回は人数が足りていないのに加えて足場が悪い。所々に瓦礫が落ちており、バランスを崩しやすいのだ。これではただでさえ弱いと自称する伊桜里がさらに本領を発揮できない。
こういう場合の対処は伊桜里の頭にはある。ただし、それは民間人がいないことが大前提の行動である。
すなわち、一旦撤退して人数を集めるという方法だが、これでは民間人、とくに子どもは撤退のお荷物になる。
伊桜里がどうすればいいのかと頭を悩ませている頃、恭介は違う考えを巡らせていた。
それはどうすれば目の前の敵を排除できるかという根本的な考えであった。
「ちっ。まるでビジョンが見えねぇ」
「はい……? まさか、倒そうっていうんじゃないですよね!?」
「もちろん、そのまさかだが?」
「ばか――」
なんじゃないですか。という言葉よりも早くに恭介の左手が伊桜里の頭を叩く。
無論、無茶な話だとは理解している。それでも、恭介は出来ない話ではないとさえ思っているのだ。いいやむしろ、出来ないほうがおかしいと考えていた。
ただし、その方法がうまく見えないだけ。それさえ見えれば、目の前の敵は粉砕できる。
故に頭を働かせるのだ。右腕の激痛で飛びそうになる意識をつなぎ合わせ、フルスロットルで踏破への活路を見出そうとしている。
けれど、思いつく限り五百通りの戦闘パターンを考えたが、どれも決定打に欠けていた。全ては戦力不足…………いや、あの蟷螂の装甲の硬さが原因だろう。
手をこまねいている時間はない。そうそうに決着をつけなければ、消耗戦になれば恭介たちに勝ち目は皆無だ。焦る気持ちを抑えようとするが、それでも滲み出る汗は果たして焦りのせいか、あるいは右腕の痛みからか。
恭介でさえ身動きが止まる。それを見越して、伊桜里が何やら決心したように立ち上がった。
「伊桜里……?」
不自然な行動に恭介が伊桜里に声をかける。
すると、伊桜里からはこんな返事が返ってきた。
「私が時間を稼ぎます。そのうちに恭介さんは皆さんを連れて安全な場所へ逃げてください」
「何言ってる。さっき、お前は勝てないって――」
「はい。勝てません。最悪死ぬかもしれません。でも、恭介さんたちが逃げるだけの時間は稼げるはずです。幸い《プランドラ》の方も手傷を負っているようですし」
声は震えていた。まだ足には恐怖が伝わっていないようだが、おそらくは立ち上がるのでさえもやっとだっただろう。とてもじゃないが戦える状態ではない。
ではなぜそんな状態でそのようなことが言えたのか。答えは簡単だ。
伊桜里が、理不尽を嫌っているからである。これほどまでの絶望を許せないからである。
この場においてまともに戦えるのは伊桜里のみ。恭介の拳は砕け、再戦は不可能だ。そして、援軍も未だにその影すら見せやしない。
なればこそ、ここは自分が立たねばなるまい。伊桜里はそう鼓舞して立ち上がったに違いない。
その決意を。その勇気を。恭介は見ているだけしか出来なかった。眩しすぎる背を、見つめることしか出来なかったのだ。
「さあ、早く!」
「でも――」
「ここで全滅するより何倍もマシです! 私の教え子は、こんな場所で死んでいい子どもたちじゃない!!」
それはお前にも言えるだろう。恭介はそっとその言葉を胸にしまい込んだ。
そして、言われるがままに恭介を背を向けて駆け出す。子どもたちを連れて、安全な場所へと。
背後では震える声がこう叫んでいた。
――――変身、と。




