37話 別れ
──あれから、何年が経過した?
そんな問いかけに、果たして僕は正しく答えられるだろうか。
実留は大学卒業後、この町に戻り、一人暮らしを始めた。
月上君と香里も大学卒業後に裃地区に戻り、結婚し、子供二人と幸せに暮らしている。
瞳は大学在学中に付き合い始めた人と結婚し、僕やみんなに別れを告げ、この町を出ていった。
努は高校卒業後も弥勒沢家に残り、生涯独身を貫いた。
僕も就職し、一人暮らしを始めた。
──時系列がバラバラなのは、僕の記憶があやふやになってきているせい。
神となり、永い時間を過ごすために、脳内がそんな風に変わっていったようだ。
いやまあ、そんなことはどうでもいい。
今すべきことは──直面している課題と、どう向き合うか、だろう。
「……あーあ」
ため息のように、優しく息を吐く、齢90の女性。
「結局、告白させること、できなかったなぁ」
悲し気に、しかし後悔はしていなさそうに。
病室のベッドの上で、寝転びながら、実留は静かに呟いた。
◆
裃病院のとある一室で、実留は日々を過ごしていた。
僕らが高校生だったころのあの元気さはまるでなく、静かに、最期の時をただ待っていた。
足腰が弱くなったらしく、ほとんど寝たきり。
ごく稀に、看護師さんに車椅子で屋上に連れて行ってもらい、裃地区を眺める。そんな日々。
一度、訊いたこと──というか、提案したことがある。
弱くなった足腰を、元気な状態に戻してあげようか、と。
しかし、今の今まで、頑としてその提案を受け入れてはくれなかった。
「あたしはね、巡」
また、実留が口を開く。
もう、『最期の時』が刻一刻と迫っているのに。
「巡に甘えたくなかったの」
目をつぶって、楽しかった日々を思い出すように。
僕と実留の、最後の会話が始まる。
『最期の時』まで、あと30分を切っていた。
◆
神にしか知りえない、残された時間。
それなのに、実留は自分のその時間を、心の中で理解している。
努もそうだった。瞳も、月上君も香里も、最期の時を分かりきったうえで、その時まで生を満喫していた。
神となり、寿命が人間のソレとは変わってしまったからだろうか。
僕には、どうも理解できなかった。
あと数時間しか生きられないと分かっているのに、なぜ笑顔でいられたのか。
そんな疑問が脳内を駆け巡っている僕のことはお構いなしに、実留は話を続ける。
「巡に甘えずに、逆に甘えられるくらいになってやらなきゃ、って思っていたのよ。……でも、ダメだったみたいだけど、ね」
あの頃と変わらない姿の僕のほうを向いて、にかっ、とまぶしい笑顔。
その笑顔があまりにもあの頃の実留と変わっていなかったから。
「ねえ、実留」
「なあに?」
つい、訊いてしまった。
「実留は、幸せだった?」
「馬鹿なこと訊くのね」
呆れられた。
でも、今訊かなければいけないことなのだ。
「幸せだったわ。大変だったこともあったけれど、それ以上の幸せな時間をみんなと過ごせたんだもの。……それに」
苦しくなってきたのだろうか、呼吸のタイミングが不規則になってきている。
看護師を呼ぶボタンを押そうとする僕を制し、話し続ける。
「巡、あなたと同じ世界で生きられたのだから。これ以上の幸せがあるのかしら」
「……」
心の底から、自らの人生に満足しているのだな、と。
実留の言葉で、ようやく理解できた。
ならば、僕がすべきことは一つだけ。
「ねえ、実留」
「なあ、に?」
益々不規則になる呼吸。
苦しみながら、それでも僕と話せるのが嬉しいようで。
笑顔で僕を見て、僕の言葉を聴こうとしてくれている。
「ずっと前から──」
随分待たせてしまったけれど。
今なら言える。実留は、僕の一番大事な──。
「大好きだよ」
◆
「……あは、は」
正面を──横になっているから、天井を見上げながら、穏やかに笑う実留。
その感情を読もうとしたけれど、続く言葉を聞き、思いとどまった。
「嬉しいなぁ、嬉しいなぁ。巡が、告白してくれたぁ」
今の今まで待たせて、死の間際に告白するなんて、卑怯な気もするけれど。
本当に嬉しそうな笑顔を見せてくる実留を前に、そんなごちゃごちゃした感情は吹き飛んだ。
「あたしも」
「うん」
「巡のこと、大好きよ」
「……うん!」
自然と、返答の声量が大きくなってしまった。
視界もぼやけ、喉の奥が枯れたような感覚。
これは──。
「泣かないで、巡」
言われて初めて気付いた。
僕は、泣いていた。
なぜだろう。
実留とお別れしたくないからだろうか。
あの頃の──高校生の頃を思い出したからだろうか。
実留の苦し気な表情を、見たくないからだろうか。
実留が、──死んでしまうからだろうか。
ああ、きっと。
全部だ。
全部合わさって、涙が止まらないのだ。
「大丈夫よ、きっと大丈夫」
「え……?」
「次の世界も、きっと楽しいわ、巡」
何の話をしているのだろうか。
なぜ、僕の心配をしているのだろうか。
「だから、ね。少しの間、だけ」
酷く不規則だった呼吸は、すでに落ち着いて。
かすれた声で、実留は──。
「さよならね、巡」
最後の言葉を言い切って。
「……うん。さよなら、実留」
静かに、息を吐き終えた。
◆◆◆
看護師さんを呼ぶボタンを押して、僕はその場から姿を消すことにした。
今頃実留は、天国でみんなと再会しているだろうか。
そうだったら、嬉しいな。
◆◆◆
さて。
僕はというと、まだまだやるべきことがたくさんある。
1年参りを終えた人の願いを叶えなければいけないけれど、その前に。
「……よし!」
僕が一人暮らしをしている家に、老いた僕の姿の死体を作り出し、布団の上に寝かせておいた。
近所付き合いはそれなりにしていた方だし、役場の人も定期的に来るから、そのうち誰かが気付くだろう。
『高宮巡』は死んだ。
後悔はない。
友達はみんな、天国へと旅立ってしまったのだから。
神社の縁側に腰かけて。
次の願い事を待つ。
そうして僕は、人を捨て、神となった。




