1話 叶う朝
──巡、あたりが無難だろうか。
思考を巡らせ、その答えにたどり着くまでに費やした時間、15分ほど。
寝ぼけ眼で見た窓の外は薄暗かったけれど、考えている間に早朝の明るさへと変わっていた。
なにせ色々考えた。「真菜」や「美夜」のようなよくありそうな名前から、僕が冬生まれだから「冬子」とか、あるいは今が夏だから今日生まれたとして「夏子」とか、少し安直なものまで色々と。
ひたすら考えたけれど、僕の名前は両親からもらった、とっても大事な宝物だ。
なんとかして「巡定」のどちらかの文字を残したい、と考えた結果、「巡」の一文字に落ち着いた。
ということはつまり「定」を取ることになってしまうけど、仕方ないと思う。まさか「巡定子」なんてよくわからない名前にするわけにもいかない。「めぐるさだこ」……うん、不気味だよね。
下裃町に生まれて15年。まさかこんなにも清々しい気持ちで悩むことになれるとは、思いもしなかった。
「女性、かぁ」
女の性別と書いて、女性。
まさか僕が、この僕が。
「女性、かぁ……!」
その事実と、自分の声を確かめるように。
何度も、何度も感嘆の声を発する。
声帯は変わった。
身体も、最初は触って、次に廊下に設置された洗面台の鏡で確認した。
顔ももちろん、ソレへと変わった。どこかお母さんの面影があるような。そんなものなのだろう。
驚きの中で、それでも言える言葉といえば。
「叶った……!」
静かに、自室で歓喜の声を上げる。
7月1日時点では、男性。
そこから7月2日に至るまでの一夜にして、僕の身体は女性へと変わっていた。
祈りが届き、願いが叶ったのだ。
◆
僕の住む下裃町は、裃峠という、その名の通り峠道を下ったところにある。
交通量がそれなりにあるその峠の近くには、ある神社──裃神社がひっそりと存在している。
どこにでもありそうな、小規模なその神社には、ある秘密が隠されていた。
『祈りは届き、願いは叶う』
──もちろん、ただで叶うわけではない。
神様を敬い、1年間1日も休まずその神社に通い、お参りする。
お百度参りならぬ、365日参り──1年参りだ。
さらに、条件はもう一つ。
「大願」──何が何でも叶えたい願いのみが、届く。
なぜそうなったか。神様のいたずらとしか言い様がないその現象を求め、お参りする人はたくさんいる。
ただ。
この町に住む人でない限り、毎日通うというのはかなり難しい。
裃神社へと続く道の近くに駐車場はない。広場と呼べる場所すら、ないと言っていいと思う。
よって、車で毎日来ることは不可能。
ならば自転車は? ……それも、峠道がかなり狭いため、走れず不可能。
裃神社へ赴くには、下裃町の外れから続く階段を上っていくほかないのだ。
何百段あるのか分からないような階段を上り、峠道にポツンと存在する横断歩道を渡り、また現れる階段を上る。
そうして、ようやく裃神社へと到達する。
「神様、ありがとうございます。……望む身体にしてくれて、ありがとうございます!」
周囲に人影はない。
だから、大きな声でお礼を言う。
現在時刻、午前5時丁度。
いつも通りの時間に、しかし昨日とは異なる意図を持って、僕は神社へとやってきていた。
「お礼参り、完了!」
上下ジャージという服装でのお礼参り。……お礼参りには似合わないラフな格好だけど、多分大丈夫。神様も事情を分かってくれてるはず。
なにせ、昨日までは男だったから、男ものの服しか持っていないのだ。
今着ているジャージは、小学校で使っていたもの。いつか──たとえば今日のような日に必要になるかなと思って、保管しておいたのだ。
中学校のジャージは、さすがに丈が長すぎた。中学ごろから身長が伸びだして、今年の身体測定では173cmもあったのだ。
……けどそれは、あくまで昨日までの話。
今の僕の身長は──確かめてはいないけれど、このジャージがぴったりということは、150cmくらいだろうか。
ああ、だいぶ縮んだなぁ。縮んでくれたなぁ。
身長のことにも感動を覚えながら階段を下りていこうとして、ふと思い立ち、立ち止まる。
鳥居を通り過ぎる前に、神社に振り返り、一礼。
(……本当に)
ありがとうございました。
◆
神社からの階段を下りていく途中、数人とすれ違った。
みんな、真剣な表情をしている。それぞれに「大願」があるのだ。
例えば、たった今すれ違ったのは、一丁目の……なんだっけ、名前忘れた。そんなに親しくないからなぁ。
……そのナントカさん家のおばあさんが、ガンなのだとか。
おそらく、というか確実に、そのガンを治してください──とお祈りに行ったのだろう。
ところで。
みんな一様に、僕のことを憐れむ目で見ていくのだけど、なんでだろう。
……って、ああ、そっか。
考えるまでもなかった。一見小学生に見える女の子(僕)が、こんなに朝早くからお参りしているという事に、憂いの目を向けているのだ。
尤も、お参りはお参りでもお礼参り。この身体だって、お参りしまくった結果だ。
さて、帰ろう。長い階段を下りきってまっすぐに進み、一丁目の2つ目の交差点を右折すれば、すぐに僕の家だ。
交差点を右折したところで、人とぶつかってしまった。
「おおっと」くらいで済むと思ったけど、意外とふらついてしまった。そっか、今の僕、小さいんだった。
はずみで車道に出てしまい──ということはなく、ただ歩道に尻もちをついてしまっただけ。
それでも相手はかなり焦っているようで。
「ご、ごめんね、大丈夫? ケガ、してない?」
「大丈夫だよ、実留。たいしたことないよ」
実留のやつ、なぜかめちゃくちゃ驚いてる。
昨日も学校で話したのに、一体何を──って、ああ!!
「え、なんであたしの名前……」
驚きは、既に戸惑いへと変わっていた。
なんと説明しようか考えてみたのだけど、いい案が浮かばない。
……じゃないや、簡単に説明できるじゃないか。
「裃神社で──」
「ああ、神様に姿を変えてもらったのね」
よし、乗り切った。
……と思っていたのだけど。
「で、誰」
「え?」
「あたしの知り合いの中の誰かよね。うーん、悩みを抱えてそうな人……一丁目の杉林さん……は違うか。あの人がお参りしてたのって、おばあさんのガンを治すためだし。じゃあ……誰?」
心当たりがなくなったらしく、直接僕に訊いてきた。
……正直に答えるか。
◆
「じ、じゅ、じゅん……」
一文字ずつ増えていく。面白い。
「巡定ー!? うそ、ホントに巡定なの!?」
「うん、まあ、本当だよ。1年参りが昨日で終わったから、お礼参りに行ってきたところ」
「はぁ……」
大層驚いているご様子。
友達の姿が変わったのだから仕方ないだろうけど、この驚き方ははっきり言っておかしい。
なんでだ……?
「あたし……うん、今だから言っておくけど」
ごくり。
何を言われるのだろう。「あんたのこと、心も体も男子だと思ってた」とかかな。
願いが叶わなかったときのために、学校ではそう演じていたからなぁ。
……と考えたけど、どうやら大外れしたらしい。
「あたし、巡定のこと、好きだったんだ」
なんと。……なんと。
あの実留が、恋をしていたとは。あのガサツで、男勝りな実留が。この僕に!
「あんた、変なこと考えてるでしょ」
「すみません」
「よろしい。……事情は説明してもらえるわよね?」
お望みとあらば。少し悲し気に訊いてくる実留に説明することくらい、容易いこと。
何より。相手の秘密を(一方的に聞かされたとはいえ)知ってしまったのだ。
包み隠さず、教えよう。
◆
「性同一性障害、ね……」
「診断はされてないけどね。このことで病院に行ったってことはないし」
本来なら、真っ先に病院に行くべきだったのだろうけど。
この町には裃神社がある。軽いケガならいざ知らず、重大な──治しようがないものは、神様に願うのがこの町の決まりだ。……法律で決まっているわけじゃないから、神社の存在自体を知らない人も割といるけど。
「本当に叶うのね、あの神社に行くと」
「1年間通い続けるの、かなり大変だったよ」
「そりゃあそうでしょうね。だって……」
うん、おそらく同じことを考えてる。
僕らの通っていた裃中学校で、去年、2泊3日の修学旅行があったのだ。
あのときは焦った。僕の事情を知っているあの2人に協力してもらえなかったら、今日この日を迎えることはできなかっただろう。
「修学旅行の2日目で、巡定、確かに帰ってたわね」
「仮病を使ってね。……というか、よく憶えてるね、そんな前のこと」
「好きだったからね」
言わせてしまってすみません。……なんてことは言わないけど。
「で、どうすんの?」
「何が?」
「何がって、そりゃあ」
僕の身体をジロジロ見てくる。
ああ、なるほど。
「親への説明よ。一人息子が一人娘に変わったのよ? 驚いた、だけで済むものかしらね」
「実留、協力を」
「嫌よ」
食い気味に断られた。
「……まあ、大丈夫だと思うよ。僕の心が女性だってことと、それが理由で1年参りをしていたってことも知ってるから」
「ああよかった。何も知らなかったら大変だものね。……さて、と」
実留が立ち止まったから、僕も立ち止まる。
……じゃないや、僕は歩くべきなのだ。ここは僕の家の前だ。
「それじゃ、また学校で。……制服は?」
来るだろうと思っていた質問。ふふん、と鼻を鳴らして答える。
「ないよ?」
女子の制服など、持っているわけがなかろう。
「はぁ……」
ため息つかれた。
僕自身分かってる。今日を迎える準備がとても足りていなかった。
「学校行く前にあたしの家に寄りなさい。冬服だから暑いかもしれないけど、制服、貸してあげるわよ」
「そんなことをしてもらうわけには──」
「寄りなさい」
「はい」
有無を言わせない口ぶりなのだ。口答えなんかしたら、何を言われるか。
ともかく。
「まずは、お母さんたちに姿を見せるところからだ」
「そうね。頑張りなさいね、……えっと」
何かを考え込んでいる。
……って、ああ、名前か。
「巡、って名前にすることにしたよ」
「いいじゃない」
「でしょ」
「うん。巡定が残ってるみたいで、……うん、嬉しい」
それは……僕は喜んでいいものなのかな。
「じゃ、改めて。……頑張りなさいね、巡」
「うん!」
僕の家の駐車場を通り、玄関のドアをスライドさせ、家に入る。
この時間ならもう、お父さんもお母さんも起きてるはず。
「ただいまー」
「おうおかえ……誰?」
玄関にいたお父さん、案の定の反応。
説明を軽くまとめ、一番大事なことを伝える。
「ただいま、お父さん。僕だよ、巡定だよ」
さて、反応は。
「か、母さぁん!!」
お母さんを呼ばれてしまった。
はいはいなぁに、と玄関に来て僕を見るなり、
「あら、叶ったのね」
軽い。実に軽いし、何よりすぐに僕だと見抜いたようだ。
「分かるの?」
「当ったり前じゃない。誰の親だと思ってるのよ」
「ふふっ、お母さんらしいね」
母は偉大なり、だったか母は強し、だったか。
どこかで読んだ言葉が、思い出された朝だった。