それは透徹の棺
「……あなたは何も分かってないようね」
ミゼルは呆れた視線をこちらへ投げる。感情をあまり表面へと出さない彼女にしては、それは明確な形の哀れみだった。
「あなた自身すら立ち行かないのに、私を救おうだなんて。そして、それをここから出る口実にしたでしょう」
彼女は僕の奥を見つめ続けている。紅い瞳。手足は動かないというのに、胸から上だけがとても熱く火照り続けている。分かっている、分かっているんだ。僕が欺瞞に耽っているだなんて。復讐も彼女を連れ出したいのも決して嘘ではない。けれどそれは一つの本当に依るもので、僕はそれから目を背けて、覆い隠して、内へと仕舞い込んで。それなのに、彼女の視線は深奥を捉えて鷲掴みにしている。
「……決して嘘じゃない。本当の気持ちだ」
ふうんと呟き最後の包帯をきつく縛る。不思議ともう痛みは感じない。痺れもいつしか軽い麻酔のように全身を巡って、むしろ少し心地の良い程だった。
「でもアルト、あなたは悪い子よ。私にではなくあなた自身に。自らへと欺瞞を向け、本当を捻じ曲げた今のあなたの言葉に、一体どれ程の価値が有るというのかしら」
僕はミゼルに苛ついていた。彼女自身は僕へ押し通そうとする癖に、僕の弱みばかりを深く攫っていって逃げ道を無くそうとする。出会ってお互いを知る時間ほどは経っていないというのに、もう僕は彼女に心を暴かれてしまっている。ああ、不愉快だ。何も僕を知らない癖に、僕の全てを識ろうだなんて。
「本当の言葉が欲しいなら言ってやる。僕は君の小鳥じゃない。墜ちて光り輝く星でもない。僕はただ……何処にでもいる一人の子供なんだ。貴族だって、母さんの家が商家で父さんが辺境の地主だっただけだ。それだけなんだ。僕は……普通の少年なんだよ。君の理想を背負って、叶えるような人物じゃない。頼むから、今の僕には何も押し付けないでくれ!」
拒絶するつもりだったのに、いつしかそれは懇願になっていた。それは自分が情けないのだろうか。今の状況が異常なのだろうか。ただ、今の自分が絞り出した自然がこれなのだから、きっとこれが本当の自分に近いのだろう。ミゼルは僕を意気地なしと侮蔑するのだろうか。彼女は拒絶したい存在なのに、どうして僕は拒絶される事を恐れているのだろうか。仄暗い感情とは別に、何か違うものが身を焦がそうしていたのを感じる。
「良いのよ。全ては時間が洗い流すもの」
その時の彼女の表情は、何百年もの時を刻んだ大樹の様に穏やかなのに、何千年もの時に水面を覆う薄氷の様に儚く感じた。だけど。
「君自身の心はずっと昔に、君の親に囚われているじゃないか」
彼女が僕を望むのだって、彼女の周りには初めから誰も居なかったからだ。その誰かであるべき両親だって母親は死亡し父親は追放された。そうか、ようやく理解した。彼女が僕と同じと拘っていた意味を。彼女にとってはそれは過去で、僕にとってはそれは今だったという事だ。僕は初めて、正面から彼女の心に触れた気がした。
「……そうかもしれないわ。でも、仕方ないのよ。これが自然なのよ。あなたは感じないの? この身を裂き爆ぜそうな渇望を」
「感じるさ! だから僕は君と……!」
ミゼルの指が僕の口を制止する。その瞳は呆れではなく、紅く炯々と静かな苛立ちを秘めていた。
「今のあなたの、欺瞞の言葉は聞きたくないわ」
「ぐっ……!」
今の僕の言葉は彼女に届かない。いや、届けられない。自分の無力さが情けなかった。
「テミス」
ミゼルがぱんぱんと二度手を鳴らし呼ぶと、音も気配も無く使用人のテミスが現れていた。視界に収めようとしても、どうにも焦点が合わせにくい。眼差しが捉える前にすり抜けていく。
「彼を部屋に。拘束は軽くでいいわ」
「承知しました」
言葉の意味が分からない程馬鹿ではない。抗議の意を叫ぼうとしたが、いつの間にか身体はふわりと重力へ逆らう事なく。瞼もまた同じように。
「大丈夫よアルト。何も心配は要らないわ」
最後に聞いたミゼルの言葉は優しい声音で、けれど自身へ言い聞かせるようにも僕には聞こえた。
森を歩いていた。星の光も見えない空。踏み場のない枝や、得体の知れない暗闇をカンテラが照らしている。暗闇に恐怖するのは何かあると思ってしまうからなのだろうか。それとも、何もないと思ってしまうから怖いのだろうか。
綿密な木々に紛れて森を進んで行く。今が一人だとしても、樹木でも何かが傍にあるというのは安心するもので、自然と安らかな気持ちで歩みを進めた。けれど、やはり少し怖くなって歩を速めた。
どれほど歩いたのだろうか。時間の感覚はなく、一歩進める毎に過去か現在に飛ばされているようで。もしかしたら本当は最初から自分はここに居て、永久に彷徨うだけの何かなのかもしれない。万年の大樹に紛れて、自己の意識すら森に依り最初から個など無いのだと。透明な風の様に吹き抜け、清涼な河の様に流れ進むだけのなにかなのだと。
──いいや。
そんな自分を光が見つめていた。優しい灯りが照らしていた。それは、ずっと持っていたカンテラの炎だった。暗闇さえも炎の前には消え失せ、樹木も得体の知れないその姿を露わにする。そしてふと、衝動的にその炎で手近な新芽を焼いた。炎は燃え広がり、身を覆っていた枝葉も、地に我が物顔の大樹も全てが姿を崩す。自分も暖まろうと炎に手を伸ばすが、何故か炎は自分をすり抜けてしまう。すり抜けてしまうのに、その暖かい炎をずっと浴びてしまっていた。
全てが燃え尽きて、灰すら何も残らない場所で、自分が望んだものは違うのだと。自らを炎に包もうにも、カンテラの炎は既に消え失せている。全身に張り付いた炭だけが非難を訴えていた。自分もあの場で燃え尽きていれば、きっと誰かを照らせていたのかもしれないのだと。
「うっ……」
夢を見ていたようだ。得体の知れない苦い後味が続く。明瞭には覚えてはいないが、良い夢ではなかったらしい。瞼を開くと包帯の巻かれた胴が見え、ミゼルに手当された後なのだと理解ができた。瘴気の力だっただろうか。こう何度も意識を閉じられると、時間感覚が曖昧になるからできれば止して欲しいのだが。
「お目覚めですか」
静かな女性の声だ。白い部屋に支給人服を纏ったテミス、その姿を捉えようとするがやはり上手くいかない。白い部屋、という事は今の自分は拘束されているのだろう。寝起きで覚束なげに手足を動かすとじゃらりと鎖の音がした。
「ここからは……出して頂けませんか」
「申し訳ありません。ミゼル様の命ですので」
静かで柔らかな声音で、明確な拒絶の意を示されると少し心が痛くなる。
「いいえ、もう、少し慣れましたから……」
寝ている間に部屋は見違えるほど片付いていた。最初は上品な獄中にでも放り込まれたと思っていたのだが、今や誰を通しても失礼の無い客室へと変化していた。この鎖が無ければ本当に完璧という具合だ。
「そうですね。ですが……」
テミスが僕に近付く。音と気配は無いまま。彼女をに焦点を合わせようとして、透明な硝子の向こうではなく、硝子そのものを見ているような違和感。長い指が触れて、小さな鍵で四肢の枷を外した。
「拘束は軽く、という事でしたから。この部屋自体が拘束の様なものですし、なら枷は必要ないでしょう」
「ありがとう、ございます」
ほんの少し抗議の意を示す為に、彼女の手に持つ鍵束へとおもむろに視線を寄越す。
「……申し訳ありません。ですが、この部屋内での不便ならわたしに言い付けて下されば対応致しますから」
流石に部屋から出して貰おうとまでは思っていない。むしろこの部屋の整然な片付きように感謝しているぐらいだ。勝手な軟禁な身の下で、こう思うのも変な話だとは思うが。だけど、今の僕は彼女への疑問があった。
「テミスさん。……あなたはいつからここに、この旧館に居るんですか」
虚を突かれたようにきょとんとした表情を見せる。ほんの少し間が空いて、慈しみと悲しみを内包した様な表情へと返る。
「……そうですね。おそらくですが、今年の冬で17年になります」
「17年……!?」
想像よりも長い年月に耳を疑う。彼女の容貌は比較的若い女性に見える。それならばきっと、僕ほどの年齢からこの旧館に閉じ込められていたというのか。異常だ。やはりこの旧館は尋常ではない。しかし、それ程の時間があったならば。
「ならどうして、ミゼルの傍に居てやらなかったんですか。あなたならミゼルを独りぼっちにさせない事もできたはずだ! どうして……っ!」
「……わたしには資格がありませんから」
「資格……!? 資格ってなんですか! 何の資格で彼女の有様を見過ごして……っ!」
かあっと頭が熱くなる。真っ白になる。自分にこれだけの熱が秘められているだなんて思わなかったほど。
「……申し訳ありません。ですが、きっとこれがわたしの犯した罪への……償いなのです」
表情が分からない。感情が分からない。それでも遠い過去を回顧しているのだと瞳には映っている。見つめる先は僕ではない。そしてきっと、彼女でもない。
「罪……?それは、一体……」
言葉を続けるにはもう、時間と共に間は通り過ぎていった。握った拳がじわりと熱い。
「それでは、失礼します」
部屋への荷物を粗方運び終わると、テミスは今の役割を終えたらしい。白い部屋が一つ一つ、僕の為に作り変えられて行く。
「……ええ、ありがとうございました」
自分でも驚くほど、それは絞り出すような声だった。扉へと歩む彼女は一度くるりと身を翻して。
「ライヒアルト様、ご自身を大切になさってください。私は……あなたまで失いたくはありません。悲しむ者がまだ居る事をお忘れ無きよう」
「え……」
返事をする間もなく彼女は視界から消えていた。もしかしたら、初めから何も無かったかのように。静かな余韻がまたこの部屋に独りなのだと思わせる。
少しの時間が経って、ようやく冷静を取り戻した僕は、ようやく一人の時間が確保できたのだと安堵する。部屋を改めて見回すと整理された事とは別に、数冊の学術書や、ペンに羊皮紙、作業机等が新たに運び込まれていた。そして机の上にはずっしりと機械が鎮座しており。
「うわ……」
印字機械だ。母が仕事している時に使っているのは見たが、高価だと言ってあまり触らせては貰えなかった。それを僕一人の為に用意したのだろう。旧館とは言えど流石は領主の家と言う事なのか。正直ちょっと引いた。
本当の事を言うと、この部屋が整えられるほど、居心地の良さにむしろ疎外感を感じる。自分の気持ちはここにはないというのに、今だ僕の心は炎の家へと繋がれてしまっているから。絵柄が違うのにぴたりと嵌め込まれたピースのよう。何もかもがちぐはぐで、本当と今が違っていて、鏡に映る自分も他人のようで。
欺瞞だとミゼルは僕に言った。けれど僕の全てが本当なんだ。この旧館から出たいのだって、復讐したいのだって、両親の下へと帰りたいのだって。けれど、ミゼルをここから連れ出してやりたいのだって本当だ。本当同士がぶつかって何もかもがぐちゃぐちゃだ。逃げ出したい。楽になりたい。何も考えないようにすればどれ程楽だろうか。この旧館で彼女と共に囚われればどれ程良いだろうか。停滞という甘美な死の誘いが響き渡る。
──なら、その前にいっそ。心が死んでしまう前に。
部屋の隅に転がる黒い剣と目が合う。僕は自然と手に取り剣を抜き放つ。白銀の剣身は余りにも綺麗で、無数の血を浴びたとは思えない。この白銀が肉を裂くというなら、その様はどれだけの美しさだろう。あの日手に伝ったミゼルの血を思い出す。白い肌に赤い血が流れて、夢幻でも人形でもなく人間なのだと。今の自分は夢幻ではないのだろうか。そう、証明できるはずだ。僕の腕は自然の様に、いいや野を駆ける追い風に手解きされるが如く、白銀の剣先を喉元へと向けていた。
「はあっ、はあっ、はあっ」
荒い息が止まらない。やめてくれ。いいや、自然なのだから。その剣先は容易に喉を突き破り僕を殺めるだろう。それが"自然"なのだから。僕は死にたかったはずだろう。なら今は望みに近付いているじゃないか。もうすぐだ。そのままでいればいい。問題はない。さあ──。
「死にたく……ない……っ」
両腕から力が抜ける。羽根の様に思えた剣も、重さを思い出しからりと地面に落下する。肺は空気を求め、全身から汗が噴き出す。胃のむかつきは吐き気となり、思考していた頭はひび割れる程に痛い。少しか、どれ程の時間かが経ってか解決した時、僕は今生きているのだと自認した。そして寸での場で死ねなかった事も。
「……意気地なし」
剣を鞘に戻し見えない隅へと放り投げる。自分は生きていたいのだろうか。死んでしまいたいのか。もう分からない。それでも、死ぬ事ができなかった無力感と失望感が駆け巡る。死んでしまっていたならそれすら感じていなかったというのに、だからこそ逆説的に自分が生きているのだと実感できる。
冷たい地面に横たわり、頬に冷ややかな感触が頭を冷やして心地良い。しばらくずっと、この生きているという余韻を感じていたい。こめかみを伝って、ふいに涙が零れて来ていた。
「ああ、生きているのって嬉しかったんだ……」