深藍の鳥籠
はっと我に返って、赤面を振り払い冷静を装おうとする。だけど、きっと僕にはできていなかっただろう。
「き、君は恥じらいや節操というものまでないのか!」
「あら、淑女にそのような物言いをするものではないわ。傷ついてしまうもの」
「……っ」
「ふふっ」
身体に巻かれる包帯が程よく身体を締め付ける。少し触れる指がこそばゆい。雨も静かな昼下がり。二人だけの食堂は、こちこちと音立てる時計の針と擦れ合う包帯の微かな音だけがある。
──だからこそ、今ならば。
二人きりの今ならば、彼女も逃げることはできないだろう。
「ミゼル。そろそろ本当の事を教えてくれ」
「本当の事? いったい何を……」
「僕がここにいる理由だ!」
思わず立ち上がってしまう。声が壁から耳まで跳ね返る。僕は振り返って、ミゼルは唖然としていた。
「いきなり大声を出して、驚いてしまったわ」
「ご、ごめん……」
座り直し、少し静かな時間が流れて僕は言葉を続ける。
「……私を愛せだとか僕が死ぬだとか、君はいつも煙に巻いてばかりだろ。僕はそういうのじゃない、本当の納得のいく理由を知りたいんだ」
「あなたが欲しいのは本当の答え? それとも納得のいく答えかしら」
いつもと変わらない静かな声音で彼女は僕を見つめ返す。
「はぐらかすなっ! また掻き乱そうとしても無駄だ。……僕が欲しいのは本当の答えだ。僕がここにいる理由と、そして──」
僕はこの館から出なければいけない。罪と罰、そして復讐。その先に行き着くものが僕自身の終わりだとしても、この館に居てはならない。今まで自分に流れた時間がそう告げている。ここで膝を附いたなら二度と立ち上がれないのだと。起き上がれないのだと。だから、だから。
「──君がここにいる理由だ」
「……私が?」
ミゼルがきょとんとした表情をしてみせる。
「……話したじゃない。私は兄妹の間に生まれた卑しい忌み子だって」
「違う。僕が聞きたいのはそこじゃない。……ミゼル、君は外に出たいとは思わないのか。この館から外に出ようとした事は、一度もないのか」
胴に巻く包帯の手が止まる。
ミゼルがこの館に居続ける理由。テミスさんが何らかの手段で外へと出られているのなら、この館の何処かに通じる道があるはずだ。彼女との問答でそれを聞き出せるのなら良し。だが、僕自身が彼女が館を出ない理由について気になってしまっているのも本心ではある。外を知る僕から見たら、全てを隔絶するこの館に独りだなんて、なんて痛ましいと。
「……私、鳥を飼っていた事があるの。私一人のこの館に迷い込んだ一羽の手負いの小鳥。小さかった私は書斎の本を引いて必死に手当てしたわ。初めて、慣れないながらも本当に必死に」
「それが、君と僕との理由になんの関係が……」
挟む僕の言葉も無視して彼女は続ける。
「結果として、傷が治りその鳥は飛べるようになったわ。けれど、私はそれがたまらなく嫌だったの。飛べない時には私に手当てされて触れられたのを、羽ばたいて私の届かない所にまで行ってしまうのだと」
静かに、静かに包帯を切る鋏の音を挟みながら彼女は続ける。
「だから鳥籠に入れたの。ずっと私の手元で触れられるように。何処にも行ってしまわないように。けれど、ある日私は鳥籠を閉め忘れてしまった。その日は天気が良かったから窓も開けていて、……そして遂に小鳥が戻ることはなかった。……再び私の手に帰ることはなかったの」
「……」
どうして彼女が僕にこのような話をするのだろうと思った。可哀想だと共感を惹きたいのか。それとも哀れだと罵って欲しかったのか。色々な思考が瞬いて消えて、それでも奥底に少しの恐ろしさが引っ掛かっていた。
「……私は絶望した。そして深く後悔したの。愚かだったと、考えが足りなかったと。本当に、本当にずっと手元に置いておきたいのなら、最初から──手当てなんて、飛べるようになんてしてはいけなかったのよ」
触れていたいのに、だからこそ離れてしまった時の愛おしさが憎しみに近いものへと変わる事を今の僕は知っている。けれど、何故今その話をするのだろうか。──いいや、底に溜まった恐怖が答えを掬い上げる。きっと見えないふりをしていた答え。
「そうか、君は僕を……っ!」
振り返った先には、爛々と深く紅いミゼルの眼差しが僕を捉えていた。
「ふふっ、うふふっ! そう、そうよ。アルト、あなたは私の愛する可愛い小鳥なの。今度は絶対に逃がさない。あなたが居て初めて私が存在できるのよ……!」
「ふざけるなっ! そんな君の身勝手な都合一つで囚われろというのか!」
立ち上がろうとする。立ち上がろうとして、足が痺れたように動かない。
「動かせないでしょう? クエースフォード家の血族は瘴気を扱うに長けているけれど、特別血の濃い私はある程度扱う事すらできるのよ。魔を祓うには魔。そしてこれも一つの理由、家から私は大切な肌馬同然という事よ」
足から腰へ、腰から腕。そして首へと、やがて視界のみになってそれでも彼女の眼差しに捉えられる。動かない胸に心臓がうるさく鳴り響く。
「ずっと、ずっと一人だった。触れる事だって触れられる事だってずっと無かった。けれど、それがようやく終わるの」
「だ、から……君は、僕を……っ」
「ええ、そうよ。最初から言っているじゃない。あなたは私を愛さなくてはならないの。今度ばかりはテミスに感謝しているわ。あなたを連れて来てくれたのだから」
彼女が微笑んでみせる。いつものなんでもない彼女の微笑み。だけど、どうして今はこうまで痛々しいのか。悲しみを帯びてしまっているのか。
「でもあなたも今は同じはずよ。両親が居なくなってしまった今のあなたなら私が必要なはず。だから、だから……」
──そんなこと。
「……ふざっ……けるなっ!」
痺れる喉に、震える口に力を込めて。
「なら、君は……僕じゃなくてもいいはずだ。だけど、僕の大切は父さんと母さんだ……っ。君が替わりになんてならないんだよ!」
そうだ、違う。ミゼルと僕は違う。父さんと母さんの代わりなんて誰もいない。理解しているのに、それでも感じる寂しさには見ないふりをして。
「……仕方ないじゃない。空の星に手が届かないなら、墜ちた星を掴むしかないの。私にはそうするしかないのよ……!」
ミゼルが震える声で叫ぶ。
「いいや。君はこの館を出るべきだったんだ。そうすれば誰かと出会って、きっと……」
「出会って、そしていつか離れてしまう。そんなもの私は要らないわ」
彼女の指が頬の傷をなぞる。いつの間にか傷は不思議な熱を帯びていた。
「だけど、だからって僕を閉じ込めても何にもならないだろ! 僕は……、僕は君の求めるものをきっと与えられない」
「それでもいいの。私の傍にさえ居てくれれば、それだけで」
愛おしげに僕の手を頬に添える。冷やかな肌に触れる体温はだけど温かくて。
「……ミゼル、君はもっと多くの人と出会うべきだ。外の世界で、そうすればきっと……」
陽だまりの中ならば、きっと君の下にも照るというのに。君がずっと暗がりにいるから。
──だから。
「だから、きっと僕がこの館から君を連れ出してやる……っ!」