紅の蝋燭
窓から見る空は、分厚い雲が陽を隠し薄暗く。昼食を終えた食堂で僕は景色を見ようとして、しかしこの一階からでは館を囲む鉄の柵と木々に囲われて叶わなかった。そして今度こそは一人でこの館の探索をしようと、ミゼルを振り切るように急ぎ身を翻し扉に向かう。
「アルト、待ちなさい」
しかしそれは叶わなかった。細い指に腕を絡め取られ、しんとした食堂に静かな声が響く。
「……なんだよ」
「腕を見せなさい」
意図の分からないまま、僕はしぶしぶ綿のブラウスの袖を捲っていく。
「……そうじゃないわ。もういい、私がやるから座りなさい」
「ミゼル。君の言う事はいつも要領を得ないんだよ。付き合っていられない。……僕は独りになりたいんだ。もう、構わないでいてくれ」
腕を振りほどき扉に手を掛ける。それでも再び彼女の指が僕の腕を掴んだ。
「待ちなさい。あなた、火傷を負っているでしょう」
「……それがどうした」
確かに僕の背中と腕にはあの火事で負った火傷がある。今だに痛むこの傷が僕が生きているのだと実感する。生きていてしまったのだと、実感する。
「手当てするわ。結構得意なのよ、そういうの」
「必要ないと言っているだろ。こんなもの、放っておけばいつか治る」
「いいえ。痕になってしまうもの。重度なら放置すれば命に関わるわ。だから……早くっ、……見せなさいっ」
ぐぐっと彼女の腕に力がかかっていく。
「や、やめろっ! そもそも何だ君は人をべたべた触って、淑女を自称する割にはしたないとは思わないのか!」
「生憎咎める者が周りにいなくてね、こう育ってしまったわ……っ!」
「分かった! 分かったから手を除けてくれ。……それで、僕はどうすればいいんだ」
「シャツを脱いで背中を見せなさい」
「……ああ、分かったよ」
革のサスペンダーを肩から外し、白いブラウスのボタンを外していく。ミゼルの視線が妙に身に刺さる。肉親を除けば上裸なんて異性に見せた事は無い。最後に袖から手を抜いて、視線を切るように背中を向けた。
「……ほら、これでいいのか」
「ええ、……やはり酷いじゃない。皮がめくれて、今でこそ血は止まっているけれど赤くなってしまっているわ。……よくこのまま今までいられたものね」
彼女は僕を椅子に座らせ待つよう言うと、薬草を持ってくると言い出て行った。
窓辺から吹き抜ける風が冷たく、そして傷を刺す。外の枯葉はもう落ち揃って、もうすぐ冬が来る時季だった。この肌寒さも痛みも生きている証明だというなら、これから死にゆくような自分には関係のない事だ。
──なんだ、馬鹿馬鹿しい。
彼女の手当てなんて必要ない。無駄だ。それに彼女がいない今こそが抜け出す絶好の機会ではないか。立ち上がり再びブラウスに袖を通そうとして、その時扉が開いた。
「あら、きちんと待てて偉いわ。あなたの事だからてっきり逃げ出してしまうと思ったのだけれど」
「……っ。えらく早かったじゃないか」
「倉庫まで行かなくとも部屋にあった事を思い出してね。包帯やタオルと併せて持ってきたわ。さあ、座って」
肩を押され椅子に座らせられる。ほんの少し髪が触れて、ふわりと何か花の香りがした。
「じっとしていて」
耳の奥へとすり抜けて、直接響くようにささやいた。
目をつむる。暗闇に感じる僅かの風が自分が今在るのだと実感する。
「触れるわ」
「……っ」
ミゼルのつめたい指が僕の背中をなぞる。他人に傷を触られる心地悪さを感じながらも、不思議と安心感を覚えていた。
「これが私の傷だったなら、私は痛まないというのに。あなたはこんなに辛そうに見えるわ」
「……痛くなんてないさ。ただ……」
「ただ?」
「疼くんだ、傷が。……ずっと、ずっと疼くたびにあの夜を思い出して。だけど、そのお陰で僕は覚えていられるんだ。父さんと母さんの死を背負った僕ができる事を。やるべき事を……」
彼女の手が止まる。そして暫しの沈黙が流れて。
「腕も見せてくれるかしら」
「……ああ」
その手が腕を取る。肩、肘、そして手首へと。息遣いさえも触れるような距離で薬を塗りこんでいく。静かに、静かに。
「……やるべき事と言ったけれど、あなたは死ぬつもりなのでしょう」
「何も死ぬと決まってる訳じゃないさ。復讐を果たしたら……果たしたら僕は……」
何も思い浮かばない。もし、僕が死なずに復讐を果たして。けれどその先は何も無い。ずっと、ずっと近かった今は遠い日常を全て元通りになるはずなんてないのに。
「ほうら。何も決まっていやしないじゃない。……死んでしまったら全てが終わりよ。何も残らない、それをあなたは知っているはずよ。……私と同じ、置き去られたあなたなら」
腕ではなくミゼルの指が僕の頬を撫でる。包帯の左手で、彼女に付けられた傷を。
「知っているさ……。けれど、そうじゃないともう立っていられないんだ。罪を背負った僕は、そしてこれから罪を背負う僕は死によって裁かれるべきだ」
「……そんなこと必要ないわ。既にこの館にいる時点で死んでいるようなものなのだし」
「……それでも思い出だけが僕を苛む。僕が僕を許せない。それに報えない僕を僕は堪えられないんだ。だったらいっそ……」
「忘れてしまいなさい」
彼女の指が頬のまま向かされて、そこには深く赫い眼がじっと僕を見つめていた。呆気に取られる僕を余所に近づいていって──。
──唇が触れた。
ほんの短い時間だったと思う。拒む間なく、そして彼女は何事も無いように僕の胴に包帯を巻き始める。
「……え? あっ……。また、君は……!」
「ふふっ、いいじゃない。減るものでもないのだし」
くすくすと笑う彼女に、より近い距離を感じて。静かな風とは違うつめたい温もりを感じて。
「……思い出なんて儚いもの。人の記憶なんて風吹けば飛び散る木葉と同じよ。だったら、今ある傍こそがずっと永久に、永遠に在るもの」
びゅうと一際大きな風が吹いてカーテンがはためく。続く呟く言葉は僕には届かなかった。
「あなたの傷は私だけでいいわ」