灰被りの記憶
──温もり。
まばゆい光が瞼を撫でる。聞こえる小鳥たちのさえずり。そして柔らかな手触り。夢は見なかった。深い眠りで身体は気だるく重い。それでも沈むシーツの感触は違和感があった。
白い視界に抵抗し瞼を開く。そこには覗き込むような真紅の瞳があった。
「おはよう、アルト」
「うわあっ」
驚いてベッドから落ちてしまう。打った手足の痛みが眠気を覚ましていく。
ベッドの上にはシュミーズを纏ったミゼルが訝しげに視線を寄越していた。
「……夢じゃ、なかったんだな」
秋の風は強く涼しく、それでも少し肌寒く。昨日の事が全て夢ならばと、全て無かった事ならばと。それでも目の前の事実は変わらない。
先日、僕の屋敷は何者かに放火され、気が付くとクエースフォード家の旧館に連れて来られていた。炎の中で両親を失い、残された僕に出来るのはその仇討ちしかない。けれど、今僕は保護を名目に彼女からの軟禁を受けている。僕はどうにかしてここを抜け出したいのだが──。
「……ちょっと。人が挨拶しているのに無視だなんて、あまりにも失礼じゃないかしら」
ミゼル・クエースフォード。水色の髪に赤い瞳を持つ彼女。領主クエースフォード家により独り幽閉されていた彼女。両親を失った僕と、両親に置き去られた彼女。どうしても、僕は彼女を他人事と思えなくて。
「ごめん。……おはよう、ミゼル」
「ふふっ。ええ、おはよう」
ミゼルは静かに微笑む。僕は彼女の透けた肌に、少し頭が熱くなって目を逸らす。
冷静に考えてみれば男女が一夜ベッドで過ごしただなんてあまりにもふしだらではないか。何故受け入れてしまったのだろうと昨夜の自分を反省する。
しかし彼女も彼女ではないかと思う。初対面からして僕を拘束し接吻し、庭では剣を平気で掴み掛かるような人だ。
──「あなたは私を愛さなくてはいけないのよ」
彼女の言葉が頭に反芻される。外界から隔絶された彼女。僕がこの館を去ったらまた彼女は独りになってしまうのだろうか。
例えそうだとしても僕は、僕から両親を奪った誰かを許せない。そして、犠牲の上で生き延びてしまった僕自身も。
不規則な雨音と規則の針音に包まれて。整然と並べられた本棚と、乱雑に積み上げられた本たち。窓の外は淀んだ灰の景色を映すだけ。
風向きが変わったと思っていたものの、ここまで直ぐに降り出すとは思わなかった。朝食を摂った後は剣の修練の名目で館外を探索したかったのだが、こうまで降ってしまっているとそれもできない。そうして仕方なく僕は書斎にこの館に関しての情報が無いかと調べに来たのだが──。
「また、付いて来るのか……」
「当たり前でしょう。あなた一人じゃ書斎の場所も分からないのだし」
「む……」
ミゼルの事情を知ってしまった今、目前で大々的に調べるというのは何というか少しばつが悪い。だから僕はひとまず学習に努める振りをして、少しづつ本棚の本を調べていった。
「それにしても凄い量の本だな」
二階までに及ぶ巨大な書斎はもはや一つの図書館と言っても過言ではなかった。置かれている本は古いものが多く、それに混じるよう近年の新しいものが置かれていた。棚は魔術理論の学術書から児童向けの絵本と統一性がない。所々抜けがあるのはミゼルに拠るものだろう。彼女は窓際のテーブルで色とりどりに本の山を築いていた。
「そうね。今でこそ旧館となってしまって立ち入る者はいないけれど、それでも数百年前はそうではなかったのでしょう。それでも有用な書物は現本館に運び出されたようだけれど」
ミゼルが積まれた本の山を一瞥する。
「……読まれなくなった本たち。私もきっとそうなのだと夢想する事があるわ。どれだけの記憶を書き連ねても、読む人間がいなければ無いものと同じ。ただ時と共に埃を被って、最初からそんなものが無かったのだと」
彼女は読んでいた本をぱたりと閉じる。
「だから此処にあるのは必要ないものたちだけ。そのまま置き去られて行くの」
「必要ないって、そんなことはないだろ。この本だって……」
僕が不意に取ったのは一冊の童話だった。悪い魔女によって塔に閉じ込められた姫を王子が救い出すという話。巷の子供から大人まで皆が知っているような有名な童話。
「それは……、姫が王子を救う物語だったかしら。馬鹿らしい。くだらない。そんな事起こる筈無いのに」
「じゃあどうしろって言うんだ。姫はそのまま塔に幽閉されていろとでも言うのか。それはあまりに非情だろう」
「夢の見過ぎと言っているのよ。誰かが都合よく手を差し伸べるだなんて、なんて幼稚で欲深い。……そうして勘違いするのよ。きっと誰もがお姫様なんだって、救ってくれる王子様が何処かに居るんだって」
彼女は手に持った本を置き窓へと視線を移した。
「……待つだけで望んだ全てが手に入るのなら、それほど羨ましい事はないわ」
「君のそれは貧しい大人の諦めだ。人はそうまで他人に無関心じゃない。街でも困ってる人が居たら助け合って──」
そこまで言って気付く、窓に映るミゼルの顔。うつむく彼女をよく見る事はできないが、その声音は震えて低く。
「……知らない。知らないもの。私にとってこの館だけが私の世界。ずっと変わらず、それでも傍に誰もいない世界。あなたと違って私は空っぽだもの。誰も手を差し伸べない、それどころか捨てられた身よ。人の善意だなんて、知らないもの」
「……ごめん」
「私、昨日アルトが一緒に居てくれて嬉しかったわ。初めて、私が独りじゃないんだって思うことができた」
僕も同じだったと伝えたかった。それでも、言ってしまったら戻れない気がして。そのまま、倒れこんでしまいそうな気がして。彼女の言葉に、甘えてしまいそうな気がして。
「……僕は、それでもここには居られない」
「そう」
沈黙が流れる。僕は彼女から離れた本棚に寄り添い、学術書の通り経済の学習を進めようとする。けれど、頭に入らず目が滑っていく。そうしてやるせない時間を過ごそうとした時に、遠くミゼルの声が聞こえた気がした。
「それでも私は諦めない」