きっと太陽と月
「……復讐。……そうか。僕はあの炎の中で、父さん母さんと一緒に居たかったんだ」
伝ったミゼルの血で握りが滑り、剣が地面にからりと落ちていく。夜と炎の記憶。頭が、割れるようだ。いいや。それでも、思い出さなければならない。それが僕たちを繋ぐものなら。
「なのに、どうして僕だけ……。助けられて、生き残って! でも置いて行かれて一人で……!」
ひりついた身体に熱が帯びる。炎の中、父さんと母さんは僕を逃がす為に屋敷に残った。僕は領主様に火事を伝える為に、夜に必死で馬を走らせて、そこからの記憶は。
「そうだ。置いて行かれたんだ僕は。だから……、だからせめて報いようとして……」
「やはり、あなたは私と同じね」
彼女の口元が歪む。夕焼けが庭を染める。空の色をしていた髪は今でも同じく、陶器の如く白い肌もそのように。
「私のお父様とお母様も私を置いて行ったわ。いつも、置いていかれるのは私。いつも、忘れ去られるのは私。……だから、ずっと憎くて、憎くて憎くて……」
「違う! 僕は憎んでなんて……」
「なら、どうしてご両親の意思を反故にしようとするのかしら。……本当は復讐という名実で死んでしまいたいのでしょう?」
言葉に詰まる。喉から息を出せない。それでも、辛うじて声を出して。
「そんな、ことは……」
「けれどそれは許さない。私が許さないわ。だから──」
身体が引き寄せられる。背中には濡れて、しかし暖かい感触。
「私の傍に居なさい」
「……またそうやって、君は僕を縛り付ける」
「ええ、私はこれしか知らないもの」
また、微笑んでみせる。いつも分からない彼女の顔も、今だけは分かる気がした。
「さて、そろそろ夕食の時間よ。そんな小汚い格好で食卓に座らせる訳にはいかないわ。時間までに身体をよく洗っておきなさい」
ミゼルは僕から踵を返して、右手から血を滴らせながら館の方向へと戻っていく。僕はそれをただ佇んで見送る事しかできなかった。夕日に焼かれながら、残されたのは僕と剣とティーセットだけ。
「それでも、僕は……」
きっと、報いたいのに裏切りたいんだ。
「いつっ……」
シャワーの温水にうたれる皮膚がひりひりと痛みを訴える。灯されたカンテラが唯一の光源となって、鏡には僕の姿が映っていた。黒い髪で青い目をした十代前半ほどに見える少年。実際は十四なのだが、少しそれが気にする部分でもある。毎日剣を振っているせいか、同年代よりは筋肉質な方、だと思う。見つめて、その風貌に両親を思い出して目を逸らした。
──やっと、一人になれた。
続く血を辿り館に入って、それでも他に行くべき場所なんて無かった。血は途中で途切れて、ミゼルを追う事も出来なかった。そうしてふらふらと白い部屋へと戻ってしまった僕は自ら牢に入る滑稽な罪人のようだった。
「ははっ」
笑みが漏れる。罪人、そうだ。僕は罰されるべきなんだ。両親を犠牲にして僕は生き残った。だからいつか、罰が下るはずなんだ。だから、僕はその罪を清算しようとして。けれど、それは裏切りでもあって。
「……っ」
頭がふらつく。少し、熱に当てられたらしい。浴槽から身を起こす。
そして外に出ようとして気が付く。着替えがない。思えばクローゼットに仕舞われていたのは女性もののドレス。そしてこの館にはミゼルしか住んでいないように見える。しかし畳んでこそいるものの、煤だらけで汚れた服に袖を通す気は起きない。
そうしてバスタオルを巻き、どうしようかと思案していると部屋の扉が開く音がした。
「失礼致します」
ミゼルの声ではない。落ち着いた女性の声。靴の音を鳴らしてこちらに近付いてくる。僕はバスルームから半身乗り出して取り込み中の旨を伝えたかったが。
「まっ、待って」
「ライヒアルト様。お着替えをお持ち致しました」
白銀の髪を肩まで垂らした碧眼の給仕服を纏った美しい女性。部屋の白さと重なって、姿の輪郭を見つけるのに少し手間取った。
「申し遅れました。わたしはこの館の給仕兼侍女を務めているテミスと申します」
彼女は革の衣類鞄を携えて僕に一礼をする。
「始めまして。僕はスーティラージュ家の長男。ライヒアルト・スーティラージュと申します。今はこの様な装いで申し訳ありませんが……」
「ええ、存じ上げておりますわ。山道でライヒアルト様を見付けた時にはどうなる事と思いましたが、大事には至らず済んだようで良かったです」
「あなたが僕を助けてくれたのですね。……ありがとうございます」
「いえ、助けただなんて。けれど、名目上はそういう形にはなるのかしら。館に着くなりお嬢様が連れて行ってしまいましたが……。ああ、申し訳ありません。そのような御格好で立ち話なんてさせてしまって」
「いえ、お構いなく。……と言いたい所ですが、すみませんが少し時間を頂けると幸いです」
僕は衣類鞄を広げ、下着とブラウスとロングパンツを手に取ってバスルームの中で着替える。僕自身に洋裁の詳しい知識は無いが、その手触りや材質でかなり上等な品である事が窺い知れた。少し悔しい話だが、我が家で着用していた衣類よりは格段に上等といえるだろう。
「どう、でしょうか」
「ええ、よく似合っておいでです。こちらは洗濯してしまいますね」
彼女は畳んで置いてある僕の衣類をまとめて抱えた。
「直に夕食の支度が終わります。定刻になりましたら食堂へとお集まりください」
「分かりました。わざわざ衣服まで用意して頂いて、そして……助けて下さって本当にありがとうございました」
テミスは最後に微笑んで一礼をし、部屋を出て行った。
ミゼルの部屋はきっとこの上にある部屋だ。そうして階段を登り扉を開くと、案の定シャワーの水音が聞こえる。ほんの少し、ほんの少し高鳴る胸を押さえて僕はミゼルに呼びかけた。
「……ミゼル。そろそろ夕食の準備が終わるって」
「ライヒアルト? 分かったわ。直ぐに済ませるから」
窓から涼しげな風が吹いてカーテンが揺れている。陽は遠く落ち、銀の燭台とカンテラが部屋を照らしていた。
「お待たせ。髪の煤がなかなか取れなくて手間取ったわ……」
「っ!」
目に飛び込んできたのは、ビスクドールさえ思わせる白くしなやかな四肢。そして薄い暗闇でもなお輝く瞳の紅玉。厳寒の冬さえ思わせる水色の長い髪は夜の色とも溶けていた。ひとつひとつを取っても眩いそれらが全て調和されていて。
──美しい。
美術館に展示されていた女性の裸像でもここまで目を奪われた事はない。ただ、美しいと。ただ、見惚れて。
「何? ……あまりそう見られると困るのだけれど」
「……あ。ごめん。じゃない! 君はどうして……!」
「ああ、そうだったわ。年頃の淑女が人前ではしたない。……少し余所を向いていて欲しいのだけど」
ミゼルはその身体を隠すように半身でバスタオルを取った。
「わ、分かったよ……」
熱い脳みそとうるさい心臓を無視して、無視しようとして僕はカーテンの裏で外を見る。ふくろうが遠く鳴く声や風に揺られる森の音。混じる衣擦れは聞こえない振りをしようして、それでも胸がうるさい。静かな夜に僕の鼓動だけが鳴り響く。
「終わったわ。行きましょう」
振り返るとミゼルはいつもの通りにブラウスとロングスカートを着用していて、剣を掴んだ左手には包帯が巻かれていた。
「……どうしたの? そんなに胸を押さえて」
「……いいや、なんでもないよ……」
二人きりの食卓で夕食を終えて、僕たちはミゼルの部屋へと戻ってきた。
「いつもあんな感じなのか」
広い食卓に二人きりで向き合って、燭台に照らされつつもぽつりと辺りは暗く。これではいくら料理が美味しかろうが心までは晴れることのない。寂しい食卓。
「今日はあなたが居たから二人だったけれど、いつもは私一人ね。ずっと、ね」
「そんな……。テミスさんは」
「テミス? 彼女は……私に必要以上会おうとはしないから。いつ館に居るのか、それとも居ないのか。それすら分からないもの」
──なんて、孤独。
どうして、彼女はここまで一人でなくちゃいけないんだ。僕の幸せだった家族。毎日が喜びに満ちていて、全てが輝いていたあの思い出とは全てが違う。この感情が憤慨なのか憐憫なのかは分からない。けれどもう無関係ではいられない。
「……ずっと聞きたかった。どうして君は、ミゼルはこの館に縛られているんだ。君が長女という話もまあ分かったとしよう。だけど、それらを繋ぐ理由を僕は知らない。僕をここまでいい様にして、事情を知らせないというのは無いだろう?」
ミゼルは少し思案して。
「……私のお父様とお母様が兄妹だった。それだけ、ただそれだけの理由よ」
「兄妹って事は……」
「ええ、私は近親の子なの。お父様は家の処分として遠くへ追放されて、お母様は私を産んで亡くなったわ。……お爺様から聞かされた話だけれど」
「だからって……ここまで一人で、孤独でなくてもいいじゃないか!」
全ての人は誰かと繋がっていて、それが当たり前だと思っていて。思っていたのに、どうして。
「いいえ。名家クエースフォードにそのような卑しい事実は許されない。家名に傷が付くだけでなく領主として町民の信頼も失うわ。だから隠蔽した。誰も寄り付かない森深くの旧館に私を幽閉してまで、ね」
「……そんなやり方って……あまりに、惨い」
蝋燭の火が部屋を揺らす度に、それは僕の心のようで。定まらない暗闇に照る炎。揺れる。崩れる。
「そうね。……だから私は今でも、私を置いて行ったお父様とお母様が憎いわ。どうして私を産んだのだろうって。こんな思いをするならその前に殺して欲しかった。……生きてなんて、いたくなかった。でも──」
「今はあなたが居てくれるわ」
どくりと。意識が遠くなっていく。空っぽの心に注がれるようで。でも否定したくて、肯定したくて。求めてはいけないのに、手を伸ばしたくて。
「……君は、いつも僕の心を狂わせる」
「ふふっ、そうかもしれないわ。私はそろそろ夜着に着替えるわ。あなたも着替えたら私の部屋にいらっしゃい」
言われるがままに寝間着に着替えてミゼルの部屋へと戻る。着替えている最中でもずっと彼女の言葉が反芻していて。それでも餓える心を、渇く心を静めようとした。
「今日は二人で寝ましょう」
「……いいよ」
自分でも驚くほどするりと答えが出た。部屋の蝋燭は揺れて崩れて、消え去って。残るは窓から射す月光のみ。
「私、夜って好きなの。すべてが暗闇に包まれて、この世界すべてとも同じならきっと私も例外じゃないんだって」
「……僕は昼の方が好きだ。暖かい日差しがすべてを照らしてくれる。ぽかぽかと陽気に当てられて散歩するのも悪くない。人の喧騒だって心地よくて、それだけで僕は満ち足りてるんだって」
かつてそこにあった思い出たち。僕の知っている世界の有り方。そして、僕の日常。
「……いいえ、日差しはすべてを照らしてはくれないわ。陽が満ちる所にはまた影が射すものよ。そんなの不公平だもの。だから私は昼って好きになれないわ」
二人で黒い天蓋のベッドに横たわる。月光が、それだけが僕らを照らす。少し肌寒い。思えばそろそろ冬が始まる時期だったか。熱を求めて身体を寄せる。
「暖かいわ」
「……そうだね」
嘘だ。シーツ越しに伝わる彼女の身体は冷たい。それでも身体じゃなく、胸の内だけがどうにも熱く。いつしか熱そのものが触れ合って。二人で求め合うように身体を寄せ合う。
「ねえ、ライヒアルト──」
「アルト」
「えっ?」
「僕の名前。僕と親しい者はアルトって、そう呼ぶよ」
どうしてだろう。今夜はいやに心が疼いてしまう。そして、森の風に吹かれてしまいそうなか細い声で彼女は呟いた。
「……そう、ならアルト。あなたは、あなただけは私を置いて行ったりしないよね」
「……分からない」
「そう」
「……僕だって」
呟きは闇夜のざわめきに掻き消された。ずっとこのままがいいと。少しでも思った自分を悔んだ。僕だって、僕だってこんなに傍に誰かを──。
「……求めているのに」