灰燼と鮮血
その後僕はミゼルに手を引かれ、先ほどの黒い部屋──ミゼルの部屋で如何ともし難く、部屋を逡巡するのみだった。今の僕には状況を飲み込むだけの余裕が足りない。父さんと母さんは殺されていて、僕自身はクエースフォード家の旧館に軟禁されているだって。保護と云うならば話は分かる。しかし彼女の存在はどうにも歪だ。考える時間が必要だ。一人で考えを整理する時間が。
「ミゼル……、日課の剣の修練をしたいんだけど」
ほんの少しの勇気を出して、声を絞り出した。
「剣の修練? なら庭を使えばいいわ」
「……逃げ出そうとした僕を咎めないのか」
「ええ、時間はいくらでもあるもの。些細な一々を咎めるほど私も狭量ではないわ」
ミゼルはけれどと付け加え、僕の胸に指を当てる。
「ライヒアルト。食事の席で急に立つのはお行儀が悪いわ。仮にも貴族なら礼儀ぐらいしっかりなさい」
「……分かったよ」
半日でも外の空気は久しく感じるもので、青空の下に、大地の上に立つ喜びを僅かに感じた。外から見ると旧館でありながらも、確かに名家に相応しい気品を感じさせる。僕の住んでいた屋敷よりも遥かに大きい。辺りは黒く高い鉄の柵で囲われ、細い隙間から深々と繁る森林を覗く事ができる。真正面となる大きく分厚い扉は堅く閉ざされ、地面に擦れ痕が無い事から、暫く開いた事は無い様に見える。何処かにこの館の抜け道があるのではないかと思ったのだが。
「……どうして君が付いてくるんだ」
白いレースの日傘を差し、少し離れてミゼルが僕の後ろを歩いていく。
「当たり前でしょう。仮にも保護なのだし、また変な気を起こされては困るわ。しかも、あなた一人じゃ物置までの道も分からないでしょう? 別に素手で剣の修練をやるというなら、それはそれで見てみたいけれど」
「……」
一人で整理する時間が欲しくて修練を口実としたというのに、彼女が居るとなると話が別だ。変化する状況にできるだけ冷静であろうと努めて来たが、淵でゆらゆらと揺れる理性が衝動に攫われてしまいそうだ。見失わないようにミゼルを見つめる。草木に紛れる空色の髪を追いながら、その異彩な容姿が白昼夢のようで、一層今は現実なのだろうかと夢想する。
などと考えている内に彼女が先行し、その物置までの道を拓いていた。
連れられた先にあるのは古びた建物で、木製の壁には苔が蒸していて暫く手入れがされた形跡は無い。
「こっちよ」
扉が開かれると急にかび臭さが鼻を突く。中は床が一部腐り、辺りには蜘蛛の巣が張っていてとても館と同じ敷地にあるとは思えない惨状だった。
ミゼルに案内され、暗く軋む床を歩いて行くと一つの小部屋に着いた。かび臭さに鉄臭さが加わり、少し吐き気を催したが問題はない。壁には斧や剣が掛けられ、どうやら兵舎の武器庫の様にも見える。彼女は部屋を一瞥し進み、奥から戻った時には一振りの剣が抱えられていた。手渡された剣は只管に黒く無地の鉄鞘に収められていた。抜いて錆を確かめようとした瞬間。
「っ……!」
酷い立ち眩みと眩暈、そして吐き気が襲う。身体は痺れるように埃塗れの床へ崩れ落ち、視界は明滅し感覚が失われていく。一度に全ての糸を切られたように、何も動かない。身体も、意識さえも。
「あら、外の人にここは駄目なのね。失念していたわ。重い上に面倒だけれど……」
遠く彼女の声が聞こえる。どうやら僕は引き摺られているらしい。床に打つ背中の痛みが少しずつ、少しずつ意識を引き戻していく。
「……もう、大丈夫だ。ありがとう」
「ふう、疲れたわ……。見た目に反してやはり重いものね。少し休ませて頂戴」
そう言って彼女は埃の床を気にせず僕の隣に座る。いつの間にかかび臭さにも慣れ、気にしなくなっていた。
「さっきのは何なんだ」
「あの部屋に掛けられたものを見たでしょう。あれらは全てクエースフォード家の処刑人が扱っていたものよ。武器だけではないけれど、死は纏わり付くもの。あなたはその瘴気に当てられたのね」
瘴気。あまりにも引っ掛からない言葉だ。魔術や呪術の類、あれが入室した者に不良を引き起こす結界等であるならば納得もできるのだが。
「まあ、外の人にはあまり馴染みがないでしょうね。クエースフォード家の人間は代々、瘴気に耐性を持つ血族なの。流行り病や不作、天災や魔物の凶暴化……、それらは瘴気が濃いから起きるのよ。この剣だってそう」
彼女は黒い鉄鞘を取り、剣を引き抜いていく。暗闇の中で鈍い銀の刀身が露わになる。
「これはお爺様が現役だった時に使っていたものらしいわ。多くの命を絶って、多くの死を吸った」
「そんなものを、どうして僕に……」
ミゼルは銀の刀身に赤い眼を写して、何も言わずにただ微笑むまま。
「さあ、そろそろ出ましょう。埃が酷い上にかび臭くて堪らないわ。……テミスにここの掃除もさせようかしら」
今まで修練でも大会でも、使うのは訓練用の木剣だった。そして、今握っているのは銀の刀身を持つ一振りの剣。この重さが人の命の重さならば、余りにも足りないのだろうが、命を奪ってきたと説得力を持たせるだけの事はある。ほんの少し、ほんの少しだけ暗い感情が心をさらっていく。
──この剣ならば、人を殺す事ができる。
頭に響いた"なにか"の衝動を無視して、頭を振りほどく。そして、いつもの通りと構え型をなぞっていく。度々、慣れない重さに腕を持っていかれそうになって転んでしまう。慌てて立て直すと、端でくすくすと笑い声が聞こえた。
「あらあら。自ら修練を望むものだから期待できると思ったのだけれど、そうでもないのね」
煤だらけのブラウスとスカートを今だ着て、ミゼルは白い丸テーブルで日傘を差し僕を観察していた。汚れてしまえば、着替えや風呂に戻り一人になれると思ったのだが彼女には見当違いだったようだ。
「うるさいな……。それよりもこんな実剣を与えていいのか。僕は逃げ出そうとした危険人物だろう」
「いいのよ。……ねえライヒアルト、あなたはどうして剣を振るうの?」
「……特に理由はないよ。ただ日課であっただけで、別に王立騎士団を目指してる訳でもない。だけど、好きなんだ。こうして一人で集中して、身体を動かして没頭できる時間が」
ふうんと詰まらなそうに彼女はテーブル上の紅茶を一口付ける。
「でも、今は違うでしょう」
きらめく紅玉にも、濡れた鮮血にも思える眼が僕をじっと見つめる。それだけで僕は呪縛されたように、見つめ返す事しかできなかった。
「そんなことは……」
「いいえライヒアルト。今のあなた、とても死が濃いわ」
まだ、彼女は微笑む。いつもそうだ。彼女の笑みは何かを含むがそれを決して表立たせない。彼女の瞳は僕の瞳ではなく、もっと奥を見つめていた。きっと、僕の知らないものを。
「そんなことはない。僕はただ、また大切な者を失わないように、……強くなろうとしただけだ」
嘘ではない。嘘ではないはずだ。いいや、今の自分は何に嘘を付いているんだ?
「強くなって、そして殺すのね」
どくりと。見えない手で心臓を鷲掴みにされたような。
「わかる、わかるわ。あなたが急いで外に出たいのもそれでしょう。──親を殺した者を殺したい、復讐したい。ああ、ああ! なんて美味な殺意なのかしら!」
恍惚のように舞う。明るい陽の元で、彼女の長い髪は黄昏に焼かれ今だ空と同じ色をしていた。
「けれどね」
彼女が僕に近づき、そしてその手で──抜き身の刀身を掴んだ。はっと正気に返った僕は。
「お、おい! ミゼル! 止めろっ!」
血が刀身を伝い僕の手まで濡れていく。
──彼女も血が流れる。生きているのか。ならば。
──自由になりたいのならば。
また"なにか"が僕に囁く。それが僕自身だと、僕は知っている筈なのに。僕の知らない僕が語り掛けてくる。身体の奥から溢れる、黒く暗き泥が血を満たす様に。心臓は眼差しに打ち付けられていながらどくどくと解放を望むが如く。
彼女は顔色一つ変えぬまま、歪んだ赫い眼でずっと僕を見つめて、呑み込まれてしまいそうで。
「外に出ればあなたは死ぬ。暗殺者と対峙して普通の人間が敵うはずがないわ。けれど、そこまで理解して外に出たいというのなら──」
「まず私を殺しなさい。……もう、一人きりは嫌なの」