黒髪の少女
二十一世紀初頭、時のローマ教皇は悪魔崇拝者の増加を懸念し、
『各教区に悪魔祓い師を必要なだけ配置する』と明言した。
CHAPTER 00(夢)
夢を見ていた。
灰色で薄暗い世界。
目を凝らしても何も見えない。
何もかもが靄に包まれていた。
すべての輪郭が滲んでいた。
視界は歪み遠近感が喪失していた。
光は遠くにあった。
薄暗がりの中、俺は必死に逃げていた。
良く解らない、邪悪な何者かに追いかけられていた。
そいつは獣のようであり、悪魔のようであり、呪いのようだった。
薄暗い風景は、町のようでもあり、森のようでもあり、水中のようでもあった。
必死に走ろうとする俺の意志とは反対に、足は重たく地面は泥濘のごとく絡みつく。
そいつは背後に迫ってきた。
何物かは判らない。
しかし、それが恐ろしいものであることは確かだった。
好奇心は後ろを振り返り、そいつの正体を見極めたかった。
しかし、本能は恐ろしさで振り返ることを拒んだ。
ついにそいつは背後に迫ってきた。
首筋にそいつの息がかかった。
今にもそいつの『爪』が俺を引き裂こうとしているのが解った。
今にもそいつの『牙』が俺を頭から噛み砕こうとしているのが解った。
『死』を覚悟した。
!
突然、頭上から目映い光が射し込んできた。
見上げると、天の高い場所から光と共に何かが降りて来るのが見えた。
それは三人の天使だった。
純白の聖衣に輝く翼。
性別を超えた端正な顔立ち。
美しく澄んだ瞳。
記憶ではなく、遺伝子に刻み込まれた、それはまさしく天使だった。
天使は各々に金色の弓に銀の矢をつがえると、俺に迫っていた魔物に放った。
矢は見事に魔物を貫いた。
矢は炎となり、貫かれた魔物たちは断末魔の悲鳴を上げ火焔の中に消えて行った。
気が付くと闇は去り、空に光が帰ってきた。
「ありがとう。助かりました」
俺は俺を助けてくれた三人の天使に礼を言った。
天使たちは優しげな微笑みを浮かべていた。
やがて一人の天使が俺にこう告げた。
「礼には及びません、私たちはあなたを殺すために地上に降りたのですから」
CHAPTER 01(黒髪の少女)
下心が無かったと言えば嘘になる。
六月、雨上がり、少し寝坊気味の朝。
急ぎ足で学校に向かう途中だった。
「あれは…… ?」
女の子が数人の男に取り囲まれていた。
白い壁の大部分が緑のツタに覆われた廃屋。
濡れた土と植物の匂い。
商店街の外れ、かつて美容院だった建物の前だ。
制服の女の子。
丸襟の白いブラウス、プリーツスカートは紺のタータンチェック。
紛れもなく俺の通っている高校の制服だった。
エメラルドグリーンのリボンタイ、は一年生か。
おとなしい感じの女生徒だった。
腰のあたりまである黒髪ストレートのロングヘア、スレンダーでやや地味な印象。
しかし、よく見ると端整な顔立ちの美少女だ。
「あの、放してください。私は大丈夫ですから」
腕を掴まれた女生徒が抵抗していた。
男たちは四人。
皆黒いスーツに黒いサングラス、黒いソフト帽。
おいおい、朝っぱらから誘拐か?
一番体格の良い男が 女生徒の腕を掴み近くに停まっているワンボックスカーに連れ込もうとしていた。
「ちょっと……」
黒スーツの集団に駆け寄って声をかけた。
「何だ?」
男たちが凄む。
「何やってんだ、あんたたち」
美少女の前だ、こちらも強気で答える。
「おまえには関係ない」
「いやがってるだろ!」
彼女を連れ去ろうとしていた男の腕を掴んだ。
「!」
強い電気のような衝撃が走った。
「いっ、痛っ!」
男が彼女から手を放し、俺に掴まれた腕をさすった。
どうしたんだ?
そんなに強く握ったつもりはなかった。
「お、おまえは……」
恐怖と怒りの混じった声。
「まあ、君、落ち着きたまえ」
一番年配と思われる男が両腕を挙げ、両手のひらをかざしながら近づいてきた。
「何か誤解しているようだ」
「誤解?」
「私たちは決して怪しい物ではありません」
「黒スーツに黒ネクタイ、黒サングラスの集団が怪しくないわけがないだろ!」
「リーダー、こいつは……」
俺に腕を掴まれた男が言う。
「わかりました、今日はこれで引き上げましょう。お嬢さん、今度また、ゆっくりお話ししましょう」
リーダーと呼ばれた男は女生徒に向かってそう言うと、道端のワンボックスに向かった。
他の男たちもリーダーに倣い、車へと向かった。
「何なんだあいつら……」
走り去って行く黒いワンボックスを見送りながら、俺は呟いた。
ふと女生徒の方を見た。
目が合った。
小動物のような瞳だった。
「あ、あの…… ありがとうございました」
女生徒は頭を下げると、くるりと踵を返し、逃げるように立ち去っていった。
あれ?
「名前くらい教えてくれても…… 、って俺も遅刻だ!」
「貴船、貴船暁!」
教室に担任の声が響いた。
ホームルームに遅刻して、こっそり後ろの扉から入ろうとしたところを見つかって名前を呼ばれたのだ。
「貴船。おまえ、今月、三度目の遅刻だな」
クラスメイトの笑い声。
「先生、それには訳があって……」
しかし、誘拐されそうになっていた女生徒を助けた、なんて言い訳なんて絶対に信じてもらえないだろう。
「どうした? 暴漢に襲われていた女の子を助けたので遅くなった、なんて言い訳するつもりじゃないだろうな」
再びクラスメイトの笑い声。
「……」
黙って天井を仰ぎ見る。
「そういうわけで、今日の特別清掃は貴船、おまえが行け」
「え? ちょっと……」
特別清掃とは、校舎の屋上や裏庭など、普段あまり掃除が行われていない場所を月に一度、放課後に各クラスから一、二名を出して清掃を行うこの学校特有の行事だ。
「何か不満でも?」
担任はわざとらしく黒縁眼鏡を指で押し上げながら言った。
特別清掃に派遣される生徒は、以前はくじ引きなどで選ばれていた。
しかし、近年では遅刻や課題の未提出が多い者から担任が独断で選ぶのが習慣となっている。
「はいはい……」
こうなることはある程度覚悟していた。
「『はい』は一度でいい」
三度クラスメイトの笑い声が響いた。
退屈な授業はあっという間に過ぎ、放課後になった。
俺は特別清掃で割り当てられた校舎へ向かった。
俺の通う『県立港南高等学校』は某電器メーカーの研究所の跡地に立っている。
県がこの土地を買い取り、この学校を建てたとき、工事費の節約のため、元からあった建物の一部を解体せずに校舎として使うことにした。
それが現在の旧校舎で、敷地の北側に南を向いたコの字型をした四階建ての建物である。
ちなみに新校舎は校庭を挟んで南側にある六階建ての建物だ。
特別清掃で俺が割り当てられた場所はその旧校舎の一番北の端に繋がる、三階建ての離れのような建物の屋上だった。
この建物は現在では資材置き場として使われているため生徒の出入りがほとんどなく、しかも体育館の死角になっているのでその存在を知らない生徒も少なくなかった。
俺と他に一年生がふたり、竹箒を持って階段を上る。
屋上にはさわやかな風が吹いていた。
気持ちのよい青空だった。
教師も上級生もいない。
「時間まで適当にこの辺りを掃いていればいいだろ」
俺は竹箒を担いだまま下級生たちに言った。
「そっすね」
ふたりの下級生は既に楽勝モードで竹箒を適当に振り回していた。
「あれ?」
屋上の片隅に打ち捨てられた古いプランターがあった。
プランターには花が植えられ、一人の女生徒が如雨露片手にひざまずいていた。
あの子……
今朝、黒服の男たちに襲われそうになっていた女生徒だった。
「これなんていう花なの?」
「えっ? あ……」
いきなり声をかけられ驚いたのか、振り向いた女生徒は俺の顔を見て動揺していた。
長い黒髪が揺れ、美しい榛色の瞳を見開いた。
「ごめん、びっくりした?」
「……」
「園芸部か何か?」
この学校に園芸部があるなんて聞いたことはないが……
「いえ…… 、今はないんですけど、昔はこの学校にも園芸部があってこの屋上を使っていたらしいんです」
女生徒は伏し目がちに答えた。
「知らなかった……」
よく見ると屋上にはプランターだけでなく水撒き用のホースや園芸用の支柱やハサミなど、本格的な機材が揃っていた。
「私が入学したときにはもう園芸部は廃部になっていたんですが、まだ使える機材があったので、先生に許可をもらってここで花を育てているんです」
「君一人で?」
「はい……」
遠慮がちに頷く。
プランターを見ると、まっすぐ育った緑の葉に囲まれてピンク色の蕾が揺れていた。
「チグリジア…… トラユリとも言います」
「何?」
「花の名前……」
「あ、そう…… 、……で…… いつ頃咲くのかな」
少しの動揺。
「このところ暖かくなってきましたから、来週くらいには咲いてくれるかな……」
「楽しみだね」
「…… 花だけなんです。花だけは……」
「花だけ、って?」
どういうことなんだ?
「……」
しばらくの沈黙の後、女生徒は立ち上がり、俺と一瞬だけ目を合わせ、そして目を伏せた。
「ごめんなさい」
「え?」
どうして謝る?
「もう、私に近づかないでください」
「え?」
振られた?
女生徒はそう言うと、くるりと踵を返し、小走りに立ち去っていった。
ちょっと待て!
告ってもいないのに振られたのか?
「C組の加茂川か」
突然、後ろで声がした。
振り向くと一緒に特別清掃で上がってきた下級生の男子生徒だった。
「知ってる子なのか?」
「隣のクラスですけど……」
男子生徒は女生徒が駆け下りた階段の方向を見ながら言った。
公立校で校則が緩いのを良いことに、髪を茶色に染めピアスをしている。
「加茂川、って言うんだ」
「加茂川摩耶、あのとおり美人なんで、入学した頃はけっこう評判だったんです。でも同じ中学だったやつがあいつには近づくな、って」
「近づくな、って、 いじめられてたのか?」
「よくわかりません。でも、あの子に近づくと不幸になるとか……」
「何で……」
「先輩、どうかしたんですか?」
少し離れたところで竹箒を振るっていたもう一人の下級生が俺に向かって言った。
「何? 俺がどうかしたって?」
「さっきの女子。泣いてたみたいなんで……」
泣いていたって?
「い、いや。俺は何もしてないぞ」
むしろ泣きたいのは俺の方だ。
「…… 、そうすか。何でもないんならいいですけど」
加茂川摩耶が泣いていた?
どうして?
俺は風に揺れているチグリジアのピンクの蕾を見つめていた。