猫になった私を愛して
――ふと気が付くと、私は猫になっていた。
急にそんなことを言っても信じてもらえないだろうが、事実なのだから仕方がない。
目が覚めたら虫に変身していたなどという小説がどこかにあるらしいが、それよりはマシな状況だと思う。
どうしてこんなことになったのか……。
思い出そうとした途端、キキィー!! という車の甲高いブレーキ音が耳の奥によみがえった。
そうだ……車……。
道路の真ん中で車に轢かれそうになっていた猫を助けようとして、一緒に轢かれてしまったのだった。
私は死んだのだろうか。
それとも、死んだのは猫なのか?
なくなった猫の魂の代わりに、私の魂が猫の体に入り込んだのかもしれない。
轢かれる直前、私が「あの猫になりたい」などと考えていたから……。
私、甲斐美弥子には好きな人がいる。
大久保達哉君。同じ高校の、二つ年下の後輩だ。
もっとも、最初に出会ったのは高校ではなく、小学校時代だった。
当時は家が近所だったので、登校班や休日の公園などで度々見かけていた。
その頃の彼は背が平均よりかなり低く、サラサラな髪の毛は他の子より少しだけ色素が薄くて、女の子みたいに可愛かったのを覚えている。
ただ、私にとっては、他の子と比べて格別気になる子というわけではなかった。
大勢いる近所の子のうちの一人にすぎず、当然、その頃は異性として意識したことなどなかった。
私は、小学校の卒業と同時に、家族で引っ越してしまったし、もし高校で再会しなければ、彼のことを思い出すこともなかっただろう。
再会は、私が高三、彼が高一の春だった。
偏差値がそこそこ高く、やや遠方からも人の集まってくる県立高校。そこで、私がマネージャーをしていた陸上部に、彼が選手として入部してきたのだ。
「あれ、美弥子ちゃん?」
彼は私を見て、昔近所に住んでいたお姉さんだとすぐに気付いてくれたようだった。
一方私は、彼の顔に見覚えがあるような気はしたものの、彼が名乗ってくれるまで、誰だか思い出すことはできなかった。
昔はあんなに小さかった彼は、身長が百八十センチ近くまで伸び、体つきも大分男らしくなっていたのだ。
「え、嘘、達哉君!?」
私が驚いて叫ぶと、彼はちょっと笑った。
笑うと頬にできるえくぼだけは、昔のままだった。
達哉君は足が速かった。
練習熱心で、どんどん記録を伸ばした。
ひたむきに走る彼の姿に、私はいつの間にか目を奪われるようになっていた。
先輩には礼儀正しいところも、友人が多くてよく笑うところも、練習中の真剣な表情も、全てが好きになっていた。
私だけではない。彼が走ると、グラウンドの外で一年生と思われる女子達がきゃあきゃあと声を上げるのをよく見かけた。
――そうだよね。彼、格好良いもんね。
私は心の中で彼女達に語りかけたりした。
やがて、陸上部に一年生の女の子が一人、マネージャーとして入ってきた。
明らかに達哉君目当てだった。
タイム計測をしたり、皆のドリンクを作ったり、道具を運んだりと、マネージャーの仕事は意外と多い。
それなのに、彼女は達哉君が見ているところ以外では、あからさまにやる気がなかった。
「ちょっと、真面目にやってよ」
あまりにも目に余ったので私が注意すると、
「えー、センパイこわーい」
彼女は笑いながら言った。
「だってぇ、マネの仕事がこんなに大変だって知らなかったしぃ」
「あっそ。じゃあ辞めたら?」
私はカチンと来て、冷たくそう言った。
「……わかりました。やめます」
少しの沈黙の後、急に平坦な声になって彼女が言った。
彼女があっさり部を去ってくれて、正直言うとせいせいした。
だがその代わり、一年生の間で、私が後輩をクビにしたと噂になってしまったようだ。
もしかしたら、彼女が意図的に噂を広げたのかもしれない。
陸上部の後輩から、直接噂の真偽を訊かれた。
私に、誰かを「クビにする」権限などない。だから否定するべきだったのかもしれないが、私が「辞めたら」と言ったのは事実だし……などと考えてしまって、その時はうまく言葉が出てこなかった。
私の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。後輩は、驚きとも呆れとも非難ともつかぬ、微妙な顔をした。
そして、やや遠巻きにこちらの様子を窺っていた他の部員達のところへ、報告に行ったようだ。
おお、まじか、と部員達がざわめいた。
その中に達哉君もいたので、私はつい聞き耳を立ててしまう。
「みや……甲斐先輩がそんなことをするなんて、思ってませんでした」
達哉君のそんな声が聞こえて、私は大きなショックを受けた。
その日は結構落ち込んだ。
暗い気持ちのまま真っ直ぐ家へ帰る気にならず、私は学校の近くにある公園へ寄り、ブランコに腰掛けた。
――私が怒ったのは、あの子が仕事をしないからであって、悪いのはあの子なのに、どうして私が悪いみたいになってるの?
改めて今日のことを思い出しながら、ブラブラとブランコを揺らしていたら、涙が出てきた。
私は、中学時代は陸上部で、最初は自分が選手として走っていた。
なかなか記録が伸びず、ハードすぎるトレーニングをしては故障する、ということを繰り返していたので、高校入学を期に、思い切ってマネージャーへ転向したのだ。
マネージャーになったからには、全力で選手達を支えようと思っている。
選手達にとって、記録がどんなに重要かはよく分かっているので、タイムの計測と記録は特にきっちりやるようにしているし、皆の平均タイムがどのくらいなのかも全て覚えている。
だからこそ、彼女のいい加減な仕事ぶりに腹が立ったのだ。
彼女に対して嫉妬があったのは確かだけれど、もし彼女の好きな人が彼じゃなかったとしても、私は同じように注意したはずだ。
……いや、本当にそうだろうか?
もしそうなら、注意はしただろうが、「辞めたら」とまでは言わなかったような気もする……。
分からない。
自分の感情が、まるでコントロールできない。自分が自分でなくなってしまったような気がする。
でもそのこと以上に、これから先、達哉君に敬遠されるようになるかもしれないのが怖い。
私はどうしたらいいのだろう……?
ぐすぐす泣きながら、しばらくそんなことをぐるぐる考えていた。
考えは少しもまとまらなかったが、泣いたら気分は少しすっきりして、そろそろ帰ろうかという気になった。
鞄を肩に掛け、公園を出ようとした時――。
私は、目の前の道を歩く達哉君の姿を見つけたのだ。
咄嗟に、植え込みの陰に隠れてしまった。
途中でコンビニに寄ったのか、彼はアイスキャンディを囓りながら歩いていた。
コンビニを経由して駅へ行こうとすると、この公園の前を通ることになるのだ。
他にも何か買ったらしく、彼の左手にはコンビニのビニール袋がぶら下げられていた。
ガサガサと音を立てる袋を目指して、一匹の猫が彼に近付いていった。
「ん? なんだ、餌が欲しいのか?」
彼はきっと猫が好きなのだろう、ちょっと嬉しそうな顔をした後、ビニール袋の中を探り、魚肉ソーセージを取り出して剥いてやっていた。
猫は、甘えるような声を出してから、ソーセージを掴んでかぶりついた。
達哉君はしゃがみ込み、餌に夢中な猫をわしゃわしゃと撫でた。
なんて羨まし……いやいや。猫よ、野生の本能はどうした。そんなに警戒心がなくて良いのか。
心の中で猫に向かってそんなことを言ってみたが、虚しくなっただけだった。
――ああ、あの猫になりたい。私もあんな風に思いっ切り達哉君に甘えて、撫でてもらいたい。
私がそんな妄想をしている間に、猫はあっさりソーセージを食べ終わり、素早く去っていった。
達哉君はそれをちょっと名残惜しそうに見送っていたが、やがて駅の方へ歩き去っていった。
達哉君の姿が見えなくなったところで、私も公園の外へ出た。
すると、先程の猫がまた姿を現わした。
だが、私が何の餌もやる素振りを見せないでいると、プイッと顔を背けて道路の真ん中へ出ていってしまった。
そこへ、あの車がやってきたのだ。
猫は車を見て、完全に硬直してしまっていた。
――ぶつかる……!
「危ない!!」
私は猫を庇おうと咄嗟に飛び出し、そして――。
気付いたら、目の前に大きな顔が見えた。
凄く見覚えがあるような、それでいて初めて見るような顔……。
――私……?
「大丈夫か!」
突然、とてつもなく大きな声がして、バタバタとうるさい足音が近づいてきた。
私はビックリして、足音とは逆の方向へ飛び出して逃げた。
信じられないくらい身体が軽かった。
こんなスピードで走れるなら、また陸上の選手に戻れるんじゃ……なんてことをつい考え、ふと我に返って足を止めた。
――どうして私、四つ足で走ってるの?
何が起こったのか分からず、私は自分の体を見下ろした。
事故の前、遠目に見えた茶トラの縞模様が、そこにあった。
今や自分のものとなった毛皮を、手足から背中へと見回し、掌の肉球を一頻り観察した後、私は結論を出した。
猫だ。
これは猫の体だ。
私は猫になってしまった!
最初の衝撃から覚めると、今度は自分の体のことが気になりだした。
私の意識はここにあるけれど、ここには猫の体しかない。
ならば私の体は?
――そうだ、倒れた時に目の前にあった大きな顔、あれは私の顔だった。
私はあそこに倒れたのだ。
あの時大声を上げて近づいてきたのは、きっと車の運転手だったのだろう。
そう気付いた私は慌てて元いた場所まで駆け戻ったが、その時はちょうど救急車が走り去っていくところだった。
私の体は周囲のどこにもない。きっとあの救急車で運ばれているのだろう。
あっという間に小さくなっていく救急車を追いかけることもできず、私は呆然と立ち尽くした。
救急車がどこの病院へ向かったのか分からないので、私はとぼとぼと、自分の家へ向かって歩き出した。
普段は電車通学なので、家までの道のりは果てしなく遠く思えた。
道が分からないので、時々行き来する電車の轟音に怯えながら、線路に沿って歩く。
途中、子供に追いかけられたり道に迷ったり自転車に轢かれそうになったりして、なんとか家まで辿り着いた頃にはすっかり暗くなっていた。
不思議と周囲はよく見えるが、家の中は真っ暗で、人のいる気配がなかった。
中へ入ることもできず、私は生け垣の陰で丸くなった。
疲れと落胆で、待っているうちに寝てしまったらしい。
私は、ガヤガヤとした気配でハッと目を覚ました。
家の中に、大きな白い布で包まれた長い荷物が運ばれていく。
それをただ見送りそうになっていた私は、玄関のドアが閉まる直前、ハッと気付いて慌てて家に駆け込んだ。
家の奥の和室では、家族が例の白い荷物を取り囲んでいた。
布団の上にちょうどよく乗りそうなその荷物の正体に、私も気付かないわけにはいかなかった。
業者の人だろうか、黒いスーツの男が、白い布を一部めくり、その下に隠れていた顔をさらす。
「美弥子……!」
と泣きながら、母がその、私の……死体、に、縋りついた。
予想していたこととはいえ、私の目の前は真っ暗になった。
やはり、「私」は死んでしまったのだ。
――いや、もしかしたら、今なら間に合うのだろうか? このままもっと体に近づけば、私は元の自分に戻れて、眠りから覚めるように起き上がれるのかもしれない……。
そうも考えるが、逆の想像もしてしまう。
死んだ体に戻ったとしたら、その瞬間、私のこの意識も消えて、私は完全に死んでしまうのではないか、と。
どうすべきか、心が決まる前に、黒スーツの男がふとこちらを振り返った。
私は咄嗟に物陰に隠れた。
もしかしたら姿を見られたかもしれないが、男は特に何も言わなかった。この家の飼い猫だと思ったのかもしれない。
家族に見つかる前にと、私はその後、隙をみてソファの下へ駆け込んだ。
おかげで、他の誰にも気付かれることはなかったが、一度隠れてしまうと、出るに出られなくなるものだ。
私は、家族が業者の男達と私の葬儀について相談する声を、そこで聞くことになった。
自分の葬式なんて、見たくもない。
このまま死体が焼かれてしまったら、何をどうやっても生き返ることはできないだろう。
だとしたら、今が最後のチャンスだ。
皆が目を離している隙に、私はソファの下を飛び出し、自分の体の上へ跳び乗った。
――戻れ……!
そう念じてみたが、何も起こらない。
戻れないのか……。
私は力が抜けて、その場にがっくりと座り込んでしまった。
「あっ、こら!」
太い男の怒鳴り声は、父のものだ。
父はドスドスと音を立てながらこちらへ走ってきて、私の首根っこをがっしり掴むと、
「どこから入ったんだ!」
と言いながら庭へ続く窓を開け、私をぽいっと外へ捨てた。
お父さん、私だよ、という気持ちを込めてニャーと鳴いてみたが、伝わるはずもなく、父はさっと窓を閉めてしまった。
家族は私の死を嘆いているというのに、こんなに近くにいる私に気付いてくれない。
なんだかこの状況が、悲しいのを通り越して、滑稽な気さえしてきた。
前と同じ生け垣の陰に戻り、また丸くなる。
――どうやら私は、元の体に戻ることはできないらしい。
そう認めてしまったら、かえって気が楽になった。
身軽な猫の体を、私は気に入りつつあった。
このまま猫として生きるのも、そう悪くないかもしれない。
ただ、最後に一目だけでもいい、達哉君に会いたい――。
そう思った。
葬儀屋の人が来て、家の中へ棺桶を運んでいった。
おそらく家の中で、私の死体がそこに入れられて、また運び出されてくるのだろう。
私は隙を見て葬儀屋の車に飛び込み、隠れた。
達哉君が私のお通夜に来てくれるなら、また会えるかもしれないと思ったのだ。
そして事実、お通夜にはクラスメイト数人の他、陸上部のメンバーも何人かが来てくれていた。
その中に達哉君がいてくれたことを、私は神に感謝した。
彼らの話し声が聞こえる所へ、私はこっそりと移動する。
「……走ってる車の前に飛び出したんだってさ」
「まさか、自殺?」
「運転手は、何か動物を庇ったみたいだって言ってたらしい」
彼らは、私の死因について話しているらしかった。
「あー……、それはなんか想像つくな」
「後輩マネの件で叩かれたのを苦にして、ってわけじゃないのか」
「だってあれは、なあ」
「仕方ないんじゃね? あの子、明らかに大久保狙いだったじゃん。俺のときのタイム計測とかめっちゃ適当だったのは、マジ勘弁してほしかったわ」
「それな」
「甲斐はマジメだからなあ。そういうの、許せなかったんだろ」
三年生部員達が私を庇ってくれていて、私はちょっと感動した。
「そういうことだったんですか……」
達哉君は驚いた様子だった。
彼の前でだけはあの子もちゃんと働いていたから、分からなかったのだろう。
お通夜が終わった後、どことなく落ち込んだ顔でひとり帰ろうとする達哉君を励ましたくて、私は思わず彼の足下まで進み出ていた。
「お前……」
達哉君が私を見て呟いた。
「先輩、動物を助けようとして車に轢かれたんだってさ……。もしかして、お前か? ……なんてな。そんなわけないか」
そうだよ、とも、私が美弥子だよ、とも言うことはできないが、私は彼を見上げてニャーと鳴いた。
「ごめんな。今日は何も餌持ってないんだ」
勘違いして彼が謝るので、つい首を振ってしまい、彼に怪訝そうな顔をされた。
首を傾げながらも、彼は私を撫でてくれた。
立ち上がって帰ろうとする彼と離れたくなくて、しばらく後をついていくと、彼は困ったような顔で私を抱き上げた。
「お前、うちに来るか?」
私は迷わずニャーと答えた。
「この猫、飼いたいんだけど」
私を抱いたまま達哉君が言うと、お母さんは目を見開いた。
「ちゃんと世話できるの? お母さんも昔猫を飼ってたけど、生き物の命を預かるっていうのは大変なことなのよ」
「分かってるよ。実を言うともっと昔から飼いたいと思ってたんだ。ちゃんと世話する」
「でも……」
お母さんは躊躇っている様子ではあったが、心底嫌がっているようには見えなかった。
私が、お願い、という気持ちを込めてニャーと鳴くと、
「ま、まあ……、どうしてもっていうなら飼ってもいいけど」
と了承してくれた。
「名前はもう決めたの?」
「いや。でもそうだな……、ミヤ、とか」
私はハッとして達哉君の顔を見上げた。
「気に入ったか? ミヤ」
達哉君は笑顔で私の頭を撫でてくれた。
「猫だからミャーってわけ? 安直ねえ」
「でもこいつ、呼ばれてちゃんとこっち見たよ」
「前にもどこかでそう呼ばれてたのかしら」
お母さんはやや呆れた風に言ったが、結局そのまま私の名前は「ミヤ」に決まった。
後で分かったことだが、このお母さんはかなりの猫好きだった。
この後餌をくれたり、色々な猫グッズを用意してくれたりと、なんだかんだ構ってくれることになる。
ちなみに夜遅く帰ってきたお父さんは、特に興味なさそうだったが、家に傷を付けたり粗相をしたりしないように躾けろと言っていた。
人に見えるところでトイレをするのはかなり恥ずかしいので、なるべく誰も見ていないときにすませるよう気を付けている。
朝練も授業もテストもない、気ままで楽な生活は、私をどんどん駄目にするような気がして、最初のうちは抵抗があった。
だが、毎日達哉君が撫でてくれる、この幸せを、捨てることなどできるはずもない。
「おまえ、あんまり猫らしくないなあ」
家では常に達哉君の後をついて回る私に、ある日達哉君がそう言ったので、私は少し慌てた。
私は動物を飼ったことなどない上、どちらかといえば犬派だし、今まで猫を間近に見る機会などなかった。
飼ったことがある生き物といえば、お祭りですくった金魚くらいだし、それも三日くらいで全部死んでしまった。
だから、どういう行動をとれば「猫らしい」のかなど分からない。
――こんなことなら、猫動画でももっと観ておけば良かった……。
だが、
「この甘えん坊め」
などと言いながらも、指にじゃれつく私を見て、彼は嬉しそうに頬を緩めていた。
彼の撫で方は凄く気持ちが良くて、触れられている喜びとあいまって私を有頂天にさせた。
ある意味、事故に遭う前の望みが叶ったのだ。
こんな時間がいつまでも続けばいいと、思った。
しかし、幸せな時というのはいつまでも続かないものらしい。
家に帰ってきた達哉君の態度や匂いが、いつもと違うように感じる日があった。
私を撫でてくれるときも、なんだか上の空で、別のことを考えている様子だった。
何の根拠もないが、女だ、と直感した。
きっと、好きな人でもできたに違いない。
それとも、もう付き合い始めたのだろうか。
いつかはこんな日が来ると、覚悟はしていたつもりだった。
それでも、私の前で彼が別の女の子のことを考えていると思うと切ない。
せめてその子がいい子であればいいな、と思った。
「たまには家族で旅行にでも行くか」
達哉君のお父さんがそう言い出したのは、年末の休みが近づいているある日のことだった。
「あら、いいわねえ」
お母さんは嬉しそうに賛成したが、達哉君は、
「俺は部活あるし、行かないよ。二人で楽しんできて」
と言った。
「……そうだな。それもいいか」
お父さんは意外とあっさり頷き、お母さんも、
「ミヤの世話を頼んだわよ」
と、うきうきした様子で言った。
仲の良い夫婦なのだ。
久し振りの夫婦水入らずの旅が嬉しいのだろう、その後、二人は旅の目的地や日程について、楽しそうに相談していた。
そして、旅行当日。
達哉君は、両親を見送った後で、スマホでどこかに連絡を取っていた。
それからそわそわと身支度を始め、どことなく浮かれた様子で出かけていった。
明らかに、部活へ行く格好ではなかった。
デートかな、と考えるとつらくて、私は無駄に家の中を走り回って気晴らしをした。
やがて、彼が家に帰ってきた。
ただし彼は、一人の女の子を連れていた。
私の知らない子だった。クラスメイトだろうか。
とりあえず、ほんの短期間だけマネージャーをしていたあの後輩ではなかったことに、私はホッとした。
達哉君と彼女は仲が良さそうだった。
二人で並んでソファに座り、達哉君が出したお茶を飲みながら、私の知らない人の話をしたり、私にはよく分からないタイミングで二人同時に笑ったり……、二人だけで通じ合っていて、私はとても居心地が悪かった。
この二人がどんな風に出会って、どうして親しくなったのか。そこには私の知らない何かしらの物語がきっとあって、なのに私は、その物語の一部に関わることすらできなかった。
それが悲しい。
私がいなくなっても、関係なく世界は回っていくんだと、見せつけられている気分だった。
話が途切れたとき、どこか緊張感のある沈黙が漂い、達哉君が彼女の肩にそっと手を掛けた。
彼女は潤んだ瞳で彼を見つめている。
嫌だ。見たくない。
でも、それでも私は、達哉君のそばにいたい。
だから、だから我慢しなきゃ……。
だが、二人の距離がさらに近づき、唇と唇が触れそうになった瞬間、
――やっぱり耐えられない!
私は無意識に飛び出していた。
――達哉君に触らないで!
彼女の顔を押し返そうとした私の爪は、彼女の頬に当たり、そこにくっきりと傷を作った。
やや遅れて、傷口から血が滴る。
私は動揺した。
――違うの、ごめん、そこまでするつもりじゃ……。
言い訳したかったが、伝わるわけもない。
次の瞬間、私は達哉君に引っぱたかれていた。
信じられなかった。
彼はあんなに、私を可愛がってくれたのに……。
呆然とする私を引っ掴み、達哉君は窓を開けて、私をベランダへぽいっと放り投げた。
「そこで反省してろ!」
彼の目には強い怒りがあった。
それは、いつ本物の憎しみに変わるのか分からないのだ……。
私は怖くなった。
これ以上ここにいたら、きっとこの先も、同じようなことが起こるだろう。
そのせいでもし彼に、本格的に憎まれるようなことにでもなってしまったら、と考えると、たまらなかった。
……だから私は、ベランダから飛び降りて、逃げ出すことにした。
彼は私がいなくなったら、少しは寂しいと思ってくれるだろうか。
たまには私のことを思い出してくれるだろうか。
――もう二度と、帰らない。