05
「……好きなひとがいるくせに、あたしにキスするような男とは絶対に結婚なんてしたくないわ」
それもレーベ限定の話であって、これがまったくの他人であれば気にもしないのだが。
ぽろぽろと涙をこぼしながらそう吐き捨てたシャステに、立ち去ろうとしていたレーベは青い瞳を見開いて振り返った。
「……は? 好きなひと……?」
心底不思議そうな顔をしているが、話は終わりだと言わんばかりにシャステは背を向ける。なのに、レーベはほうっておいてくれなかった。
シャステの傍まで戻ってきて、不機嫌そうに早口にまくしたてる。
「いったい誰のことを言ってるわけ? 勘違いで言いがかりをつけられるのはごめんだよ」
肩に手が触れて、大袈裟に震えたシャステは視線だけをレーベに向けて怒鳴る。
「うるさいわね! ほうっておいてよ! この軽薄男!」
レーベの手がその言葉にぴくりと震え、そして不満そうに眉を寄せた。
これだから女たらしはと、シャステは嫌悪もあらわにレーベから視線をそむける。
「な……誰が軽薄……っ。あぁ……いいよ、もう。どうせおまえにとってぼくは軽薄な男なんだろう」
自棄になったようにそう言って、レーベの手が離れる。
アンネマリーのことがありながら、シャステにキスをするような男のくせに、軽薄と言われて不満だとはおかしな話だ。
遠ざかる足音を聞きながら、シャステは近くにあったクッションを抱きしめた。
あまりにも心が痛くて、涙が止まらない。
なぜ、こんなにも苦しいのだろう?
その理由さえ、シャステには分からない。
「シャステ」
けれど扉のすぐ前あたりで立ち止まったレーベは、真剣な声音で彼女の名を呼ぶ。
返事をせずに黙っているシャステに、彼は少しだけ、寂しそうな声で言った。
「おまえのことが好きだって言ったら、信じてくれるの?」
「――は?」
思わず、無意味でとぼけた声が口をついてでた。
だがすぐにその言葉を呑みこんで、シャステはフンと小さく鼻を鳴らす。
「誰にでもそういうこと言ってるんでしょ、あたしは騙されないわよ」
信じるか否かと言われたら、分からない。
だって彼はきっとアンネマリーのほうがずっとずっと好きだから。
だが、とにかく今は嫌われるのだと、そうしなければならないのだと、シャステはそう告げた。
「……あぁ、そう」
レーベは低い声で短くそう言って、それっきり何も言わずに部屋を出て行った。
シャステだって、今のはあんまりだと思っているが、そもそもレーベに嫌われなくてはならないのだからこれでいいはずだ。
それに、レーベの言葉を信じろというのもむずかしい。
彼はシャステと居るより、アンネマリーや他の人々と居るときのほうがよほど楽しそうで、生き生きしているように見えるのだから。
むしろ、誰と居るときが一番嫌そうかと言えば、そこれこそシャステと居るときだ。
(それなのに、信じられるわけないじゃない……馬鹿)
シャステはクッションに顔をうずめて、そのまましばらくじっとしていた。
そのうちに、またうとうととしはじめて、夢を見た。
『ごめ……なさ、ごめんなさい……』
自分の声だ。
夢の中なのに、頬を伝い落ちる生ぬるい涙の感触がリアルに伝わってくる。
それに……手を濡らす生温かい液体が冷えていく、その感触も。
いったい何で手が汚れているのかと確認しようとして、真っ赤に染まったその両手にシャステは声を失った。
がたがたと身体が震え、声も出ない。
どうして? これは、誰の血?
誰の……。
――いや、いや……いや、いやぁぁああっ!
声にならない悲鳴をあげたときだった。
「……姫様?」
「――っ」
誰かに肩を揺すられて悪夢から飛び起きると、すぐ傍に不安そうなグラナートの顔があった。
「あ……グラナート」
おぼろげな意識、震える声で名を呼ぶと、彼は小さく頷く。
「はい、姫様。どうなさったのですか? 悪い夢でも?」
シャステはしばし迷って、唇を開いた。
「……ええ、そうなの、あたしの両手が真っ赤で……血で……」
そう告げると、グラナートは驚いたように赤い双眸を見開いた。
不自然に思って、シャステは首を傾げる。
「どうしたの? グラナート」
「……いいえ。それは恐ろしかっただろうと思いまして」
困ったように笑う彼に話をはぐらかされたような気はしたが、グラナートなりの気づかいなのだろうと解釈した。
きっと、これ以上恐い夢を思いださないように配慮してくれたのだろう。