03
青白い月明かりに照らされた、初夏のみずみずしい空気が舞い込む部屋で、シャステはまた小さくため息を吐いた。
扉の前から移動して柔らかい二人がけのソファーにぽつんと座り、グラナートが持ってきてくれたホットミルクに口をつける。
蜂蜜が入っているのだろうか、ほのかな甘さとちょうど良い温かさに、少しだけ荒んだ心が癒される。
それでも脳裏をよぎるのはレーベのことばかり。どうしても、彼のことが嫌いでならない。
まるでそれは川底に沈んだ汚泥のような感情だった。
ねじれて、よじれて、歪み歪んだ不可解な感情。
(いったい、いつからこんなふうになったのだったかしら?)
シャステは首を傾げて、ホットミルクを見つめる。
子供のころはそれなりに……いや、とても仲が良かったと思うし、仲が悪くなったのはこの数年だ。
どうして仲が悪くなったのか、シャステはよく覚えていない。
ただ、いつからかレーベもああいう風で、好意的な態度を取らなくなり、棘のあるような言動ばかりになった。
(反抗期だったからかしら?)
そこで関係がこじれたのだろうか、などと考えながら、シャステはホットミルクをゆっくりと飲み干すとベッドに向かう。
なんにせよ、今のシャステとレーベの関係は最悪だ。それなのに結婚だなんて、冗談ではない。
(く……なんとしても破棄にさせてやるわっ! 要するにレーベがあたしを嫌ってくれて、なおかつお父様が納得してくれればいいのだもの!)
今だって嫌われているだろうが、堪忍ならないほどに嫌ってくれればいいのだ。
そうすれば父も哀れんで、この婚約話を無しにしてくれるかもしれない。
王族としてはたいへんな我侭だと分かっているが、レーベより条件の良い縁談は必ずあるはずだ、仮に身の安全が無かったとしても。
レーベではないなら、どんなに年上でも良いし、おかしな男でも良い、いっそ気が狂っていても構わない。
(よーしっ! 明日から思いっきり嫌がらせして嫌われてやるわっ!)
こんなこと父はお見通しかもしれないが、それでもシャステがどれほど本気で嫌がっているか知ってくれれば変わるかもしれないのだ。
で、あれば、手を抜かず徹底的にやるしかない。
そう思いながら眠りに落ちていくシャステの意識は夢に呑みこまれ始めていた。
現実と夢の境にある独特の浮遊感。
生ぬるく心地いい温度が身体を満たしていく。
……それはいつのことだったか。
春の陽射しが城の廊下の窓から射しこむ中。
朝早くにシャステの部屋の前で起きたことだった。
『シャステの騎士はぼくだけで充分だ』
ふんと小さく鼻を鳴らすレーベの前で、困ったように佇む青年、グラナート。
彼はまいったという様子で眉をさげて、けれど自分より年下のレーベを宥めるように言う。
『けれどレーベ様、これは王の命令ですから』
『どうして、傾いた伯爵家出身のおまえがシャステの護衛に? それ自体が怪しいじゃないか』
レーベのうしろで、シャステはじっとグラナートを見つめていた。
優しそうなお兄さんだ、特に悪いひとであるようには感じないが、レーベは警戒している。
レーベはシャステに危害を加えるのではないかと思っているのだろう、確かに、貴族の体裁も繕えないほど困窮した伯爵家から選ばれたグラナートは不自然とも言える。
グラナートは小さく首を傾げて、レーベに提案をした。
『たいした理由などありません、私はただ剣の腕を買われただけのこと。もしもレーベ様が良しとなさるなら、一本、勝負いたしますか?』
その言葉にレーベはしばし考えたようだったが、頷いた。
『ああ、良いだろう』
まだ幼さの残る体躯のレーベと、青年のグラナートでは、魔術を使用しないとしたら勝負になるのかどうかさえ疑問だ。
レーベを信じていないわけではないが、怪我をしてしまうかもしれない。
そう思ってシャステは彼の肩に触れた。
『レーベ! 怪我をしてしまうわ』
シャステが声をかけると、彼は振り返って微笑んだ。
そうこの頃は、まだシャステも彼を心配するくらいには仲が良くて、彼もあたたかに微笑み返してくれたのだ。
『平気だ、ぼくだって弱くなんかないんだから』
けれど、朝方の訓練場にて、木刀での勝負はあっというまだった。
冷たい石の床には、一本の木刀が転がっている。
最初はグラナートも手加減をしていたが、レーベが本気でかかっていくと彼も真剣に応戦した。
結果としては五分五分だが、やはり剣のみではレーベのほうが多少劣っていた。
片膝をついて、レーベが言う。
『――っ、なかなかやるじゃないか』
強がりで負けず嫌いのレーベが言う「なかなか」は、褒め言葉なのだとシャステは分かっていたので、やはりグラナートも強いのだと再確認した。
グラナートは息を切らしながらも、困ったように微笑む。
『ええ、レーベ様こそ。さすが姫様の護衛を務められるだけあります』
『当然だ、シャステのことはぼくが守ってきたし、これからもずっとそうだから』
当然とばかりにそう言ったレーベの姿を眩しく思ったのは随分前。
このときは、なんだかその言葉がとてもとても嬉しかったのを覚えているのだが……。