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シャステにとってレーベは誰よりも、世界で一番大切なひとだった。
だからこそ心が耐えられなかった、レーベを傷つけたことに。
彼は治癒術も扱えるから助かっただけで、もしも、万が一、それができなかったとしたら、シャステがレーベを殺していたかもしれないのだ。
もう彼と一緒に居たくない、彼に近づきたくない、彼に優しくなんてされたくない。
それがシャステの持つ不快感と嫌悪感の正体だなどと、どうして予想できようか。
(あぁそっか、あたしがレーベを殺そうとしたんだわ)
シャステは真っ暗な意識の片隅でぼんやりと考えていた。
(レーベはあたしを守ろうとしてくれたのに……あたしが、あたしに魔力がなかったから)
あのとき、グラナートが来てくれなかったらどうなっていたのだろう。
後悔と罪悪感ばかりが胸を占めていたのだ。
レーベを見ると怒りが湧くのは悲しいからだ、彼に優しくされると苛立つのは罪悪感からだ。
すべて、きっとシャステだけが忘れていたことだが。
(やっぱり……婚約は破棄してもらわなくちゃ……)
浮上しはじめる意識の中でそう考える。
またレーベを危険な目に遭わせるかもしれない、それだけではない、シャステ自身も耐えられない。
彼と一緒に居ることに、彼の妻になることに。
思えば、レーベは婚約を破棄しないと言ったが、あれは意地悪ではなくてレーベなりにシャステを大切に想ってくれていたからなのだろう。
だったら余計に、もう一緒に居たくない。
今はベッドに寝かされているのだろうか、ふかふかとした感触が伝わってくる。
それに、誰かが手を握っているのも分かる。
瞳を開けば、不安そうなレーベの顔が映った。
周囲は薄暗く、すでに夜を迎えていることが分かる。
「……シャステ、意識は? ぼくのことが分かるか?」
レーベの静かな問いに、彼女は緩く頷く。
すると、彼は安堵したのか小さく息を吐いたが、続くシャステの言葉に硬直して青い瞳を見開いた。
「……レーベ、婚約、やっぱり……破棄して」
「――どうして」
彼には理解できないようだ。不思議そうに瞳をまたたいていたが、やがて苦しげに表情を歪めて痛いほどきつくシャステの手を握り、青い瞳に悲しみを滲ませて言う。
「どうして……っ! 思いだしたんじゃないのか? だったら、あのときのことなんて気にするようなことじゃない、ぼくは……っ!」
「だからこそよっ!」
シャステはひときわ大きな声で言う。
「またあんなことが起きたらどうするの⁉ あたし、もう、嫌なの……あなただけは……」
あなただけは傷つけたくない。
レーベを喪ったら、きっと気が狂ってしまう。
それが、自分の手であったら余計にだ。
「とにかく、あなたとの婚約は破棄にしてもらうようお父様にお願いするわ。思いだしたのだから、お父様だって納得してくださるはずよ」
身を起こしてそうシャステが言うと、すこしのあいだを置いてレーベが静かに口を開いた。
少しだけ、震えた声で。
「……すべて思いだしたら、前みたいに……おまえは、ぼくを受けいれてくれるんだとばかり……思っていた」
どこか自嘲気味な声にシャステがレーベに視線を向けると、彼は翳のさした笑みをうかべていた。
「……それも、幻想だったなら……それでもいいさ」
「っ⁉」
そう言うなり、レーベはシャステを押し倒した。
鼻先が触れあうような距離で、シャステの金色の瞳をじっと見つめて彼は言う。
「破棄になんてさせない……させてやらない」
青い瞳は冷たく、けれどひどく切なそうでもあった。
レーベ、と、名を呼ぶ前に唇が重なる。
「シャステ……おまえがどう思っていようと、ぼくはおまえを手放すつもりはない」
次の口づけは深く、抵抗しようと彼の肩を押してもびくともせず、シャステはただきつく目を瞑り、彼を受けいれることしかできなかった。




