12
その翌日、シャステは鬱々としてソファに座っていた。
本を読もうにも内容が頭に入ってこないし、勉強にも身が入らない。
ひたすらソファに座り、テーブルを凝視しているシャステに声がかかった。
「あのさ……何、してるの?」
「入っていいなんて、ひとっことも言ってないわ」
シャステの怒りをぶつけられたレーベは涼しい顔で答える。
「ぼくたちはおまえの許可がなくても入室することを許されている」
「ぐ……」
確かにそのとおりだ、レーベとグラナートは護衛をしているのだから、シャステの意思に関係なく部屋に入ってこれるし、傍に居られる。
「あぁもう、あなたの顔を見るだけで腹が立つわ!」
「失礼なやつだね、こっちだっておまえのまぬけ面を見ているとイライラするよ」
「な、ん、で、す、って⁉ もう一度言ってごらんなさいな!」
「おまえのまぬけ面を見てるとイライラするって言っているんだよ」
がたんと音をたてて席を立ち、シャステはレーベに掴みかからんばかりの勢いで怒鳴る。
「だったら! 大人しく破談にしなさいよこの権力欲の塊!」
「べつに権力に興味はないけど」
つまりシャステへの嫌がらせが十割ということだ。
今度こそ彼女はレーベの襟首に手を伸ばすが、軽々と避けられる。
「危ないな、姫君が騎士に暴力を振るうのはどうなわけ?」
「振るわれてないでしょ! こっちのほうがよっぽど暴力を受けてるわよ! 精神的に!」
ここでシャステは大きく息を吐き、そして何かを思い立ったかのようにレーベから離れた。
「どこへ?」
レーベの質問に、彼女は短く返す。
仕事だ、仕事だからしようがない。
「お兄様のところ!」
シャステには年の離れた兄と姉が居る。
早くに母を亡くしたシャステの教育方針でもめる二人が嫌で、ここ最近は距離を置いていたのだが、今日、たった今、兄に会いに行こうと決めた。
兄に会えばあの重い愛をもたらす姉が怒り狂うだろうが、それはそれ、そのときだ。
第一王女フィエナの、妹への溺愛ぶりと言ったら諸侯の知るところであり、シャステとしては恥ずかしいかぎりだ。
「ギルバート様のところに? いったいどうして?」
あとをついて来るレーベに、シャステは短く答える。
「たった今、あなたに避けられて思いだしたの、お兄様が護身術を教えてくださると言ってたこと」
兄の教育方針はシャステにも武術を身につけさせることと、議会などにも出席させることであり。
姉の教育方針は姫らしくしとやかに、女らしく、というか無事に、とにかく無傷で居させることだった。
「身につけたところでぼくに一撃入れようなんて無理だと思うけど?」
レーベのあっさりとした返事に、シャステは眦をつりあげて言う。
「やらないよりはマシよ! 百回殴れば一回くらい当たるかもしれないでしょ!」
「そんなに殴りたいわけ……?」
シャステの言葉にレーベはどこかがっかりとした様子でそう言った。
まぁ、百回殴りかかるのは冗談としてもレーベにやられっぱなしでは気がすまない。
それにシャステも兄の話には興味があったのだ、ただ、姉の猛反対があっただけで。
(これからレーベの妻になるんだったら、余計に身につけたいわ、生涯のうちに二十発くらいは殴れるでしょうし)
そうして、訪れた兄の執務室。
ここへ来たのは随分久しぶりだ、数年ぶりかもしれない。
それくらい、シャステは公の場以外で兄と姉に関わらないようにしてきた。
本当に本当に、彼らが自分のことでもめるのが嫌だったのだ。
「急にどうしたんだ? シャステ」
ノックをし、返事を待って部屋に入ると、黒の短い髪に金色の瞳というシャステと似た容姿に、黒い礼服を着ている長身の青年が出迎えた。
「お兄様、あたしに武術を教えてほしいのよ」
「ほう?」
金色の瞳を細めた兄はしかし、シャステの頭をぐしゃぐしゃと撫でて言う。
「それなら、ヴォルフレイア公爵に頼めば良いだろう? 結婚するんだしな」
「嫌よ! こいつを殴るためにお兄様に教わりたいんだからっ!」
シャステの言葉にレーベは額に手をあてて、兄のギルバートは金色の瞳を不思議そうにまたたいた。
「だって! レーベに教わったらレーベが有利に決まっているじゃない! お兄様の型を教えてほしいのっ!」
「おまえは夫婦喧嘩に暴力を持ちこむ気なのか?」
兄のややあきれたような言葉に、シャステは腰に手をあてて言う。
「ええ!」
堂々と。
「だったら駄目だ。そんな理由でおまえに武術を教えてやることはできない。いいかシャステ、武器を持つのは守るためでなくてはならない」
「素手でも?」
「ああ」
兄の言葉に、シャステは小さくため息を吐いた。
けっして分かっていなかったわけではない、そのことを。
ただそれくらい腹が立ってしようがないのだ。
「うー……やられっぱなしは嫌だわ」
腕を組んで唸りだしたシャステに、ギルバートは金色の瞳をおかしそうに細める。
「なんだ、もう夫婦喧嘩をしているのか?」
「夫、婦、じゃ、な、い、わ! 勘違いしないでお兄様っ!」
「もうすぐそうなるだろう? おまえたちの子供はさぞ可愛らしいことだろうな、楽しみだ」
シャステはその言葉にむっと眉を寄せる。
「そりゃ、まぁ、子供はきっと可愛いわよ」
意外だったのか、レーベはシャステの言葉に目を丸くしたが、続く言葉に絶句した。
「あたしに似ててもレーベに似てても子供に罪は無いわ、神様がコウノトリにお願いして連れてきてくれるんだものね!」
場の空気が固まったことにシャステは気づいていないが、少ししてギルバートがぎこちない仕草でレーベを見る。
その金色の瞳は哀れむようなものだった。
「……苦労をかけるな、ヴォルフレイア公爵」
「……いえ」
ギルバートはこほんと咳払いして、一つだけシャステに確認しておこうと問いかける。
「ちなみにシャステ、そんなことをおまえに教えたのはどこの誰だ?」
本当は「どこの馬鹿だ」と言ってやりたいのを抑えての問いに、シャステは不思議そうに答える。
「何言ってるの、フィエナお姉さまよ。みんなそうだって言ってたわ」
「あのポンコツ……!」
ギルバートは今この場に居ないもう一人の妹に対して怒りを滲ませた。
おおかたシャステに汚らわしい知識は必要ないとか、閨でもめて夫になる男が嫌われればいいとかそんな魂胆だろう。
「そういえば、お兄様は奥方を娶らないの?」
シャステの不思議そうな問いに、ギルバートは頷く。
「あぁ、近いうちにそういう話もあるが、今はまだおまえに教えられることではないな」
「そうなの。お兄様の子供もきっと可愛いわよ、コウノトリが運んできてくれるわ」
にっこりと無垢に微笑んだ妹に、ギルバートはめまいを覚えた。
いや、誰より苦労を強いられるのはギルバートではなくレーベだが。
そんなところに、バタンとノックもなしに大きな音をたてて扉が開く。
「シャステぇ! ひどいわ! おねえちゃんを放っておいてこんなポンコツ愚兄に会いに来るなんて!」
やって来たのはやはり黒く長い髪に金色の瞳を持つ、白いドレスの肉感的な女性。
「げ。お姉様っ……!」
シャステの言葉も無視、許可もなく部屋に入ってくるなり、妹の小さな身体をぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「あぁんもう! 何かあったらなんでもおねえちゃんに相談なさいと言ったじゃあないの、こんな野蛮人じゃなく!」
ギルバートを見るときにだけ顔を嫌そうに歪めた第一王女フィエナに、ギルバートは眉を寄せて言う。
「フィエナ、おまえにはあとで問いただしたいことがいくつかあるんだが」
「あら、わたくしの大切な時間は我が妹のためだけにあってよ。まかり間違ってもあなたのようなポンコツのためにあるのではないわ」
「どっちがポンコツだ! シャステになんてことを教えているんだおまえは!」
拳を握るギルバートに、フィエナはなんでもないことのように首を傾げる。
「え? なんてことってなんのことかしら? いえ、どのことかしら?」
「ひとつではないんだな、よく分かった」
姉と兄のあいだにまた火花が散り始めたのを悟って、シャステがフィエナの腕の中で暴れる。
「もーっ! 喧嘩しないでよお兄様! お姉様っ!」
「これがせずにいられるか!」
ギルバートの言葉に、フィエナはふんと小さく鼻を鳴らす。
「まぁまぁ野蛮だこと、シャステ、こんなひとのことよりおねえちゃんとお茶でもしましょ? ね?」
シャステにはなぜ二人が喧嘩をしているのかさっぱり分からないが、自分が原因であろうことは分かるので、フィエナから力ずくで離れるとレーベのほうへ向かう。
「もうっ、あたしは帰るわ!」
シャステのせいで兄と姉の仲が悪くなるのは、まったく嬉しいことではない。
なので、シャステはレーベを横切って扉の外へ飛び出していく。
「あぁ! 待ってシャステ! おねえちゃんと――」
そう言って呼び止めようとしたフィエナの手をギルバートが掴む。
「フィエナ、おまえには説教だ」
「んもうっ! 何よお兄様、シャステが自分から会いに来てくれるなんて数年ぶりだっていうのに!」
なお、フィエナに会いに来たわけではない。
「お、ま、え、は! 自分があの子に何をしているのかまったく分かっていない!」
結局、フィエナとギルバートの喧嘩は随分な時間続いた。




