リョーちゃん、ミヨちゃん、おやすみなさい
1
四月の風は冷たい。
下校時の帰り道、ゆるやかな坂を下りながらそう思った。
晴れの日も雨の日も、今日みたいな曇りの日も、毎日ただただ登校と下校を繰り返す。
それは淡々とした日常で、まるで終わりないもののようだった。
季節と街並みだけが過ぎていく。
はあ、と俯きながら息をついた。
穏やかな日々の中で、不安を感じることがある。
何かが必要だけれども、それが何かが分からない。
そんな落ち着かない気持ち。
顔を上げると、再び曇り空が目に映った。
そんなとき、向かいの脇道にある桜の木の下で、不思議なものを見つけた。
女の子だった。
私と同じ高校の制服―しかし少し古い型の―を着た、少し幼げなその見た目は、可憐なようで少し奇妙でもあった。
その子は、退屈なような寂しいような、それでいて翳のある、そんな面持ちで木に寄りかかっている。
私は何となく目が離せず、ただ立ち止まりぼうっとその子を見つめていた。
すると、急に風が吹き出した。
桜の花は散りゆき、視界には薄紅が揺らめき、陽光とは程遠い冷気が辺りを包んだ。
私は寒さに身をすくめ、顔をしかめながら視線を下す。
少しして風は止み、再度私は視線を戻した。
そのとき。
目が合った。
その子は、まるで信じられないとでもいうような表情でこちらを見つめている。
私はその子と知り合いでも顔見知りでもなかったが、彼女の方は私のことを知っているのだと言わんばかりに。
そんな視線に耐えられず、私は目をそらし、人違いだというていで再び歩き出した。
まるで現実味がなかった。
私がその子を見つめていたのも、その子が見つめ返してきたのも。
一体何だったのだろうと考えながら、ちらと彼女のいた場所を振り返ると、そこにはもう人影がなかった。
しかしその代わり、肩をとんとんと叩く感触が応えた。
振り向くと、その子がいた。
2
「リョーちゃん」
「うん?」
「毎日一人で、つまんなくないの?」
その子、ミヨちゃんはあれ以来毎日話しかけてくる。いつもあの木の下で、私が通るのを待っているのだ。
ミヨちゃんは私より一学年下。私と同じで部活には入ってない。
いつしか、登下校はミヨちゃんと一緒にいる時間になった。
「つまるつまらないの問題じゃなくて。私は、こうせざるを得ないんだと思う」
「また小難しいこと言ってー」
毎日ミヨちゃんといる癖に一人とはこれいかに、と思われるかもしれないが、実際に私は学校では独りだった。
いじめられているわけではない。ただ空気みたいな存在。
周りの目さえ気にしなければ、一人は楽なのだ。
「高校一年生なら、これぐらいの意味は汲み取ってほしいんだけどな」
「もう。そんなこと言うから、ミヨぐらいしか友達がいないんじゃない?」
「おっ、ちょっと当たってるかな」
「何が違うの?ちょっとって?」
「ミヨちゃんが友達ってとこ」
私はわざとおちょくるように言い返した。
「ミヨが友達?やっぱり、リョーちゃんもそう思ってくれてるんだね?」
ミヨちゃんは心底嬉しそうな顔で、その儚げな細い身体とは裏腹に力強く私の腕をつかむ。
いや、友達ってのがはずれなんだと冗談言ったつもりなんだけどな。
「えーっと。そうだね、そういうことにしておこうか」
苦笑いしてみせる。
「えー?違うの?せっかく友達いないどうし、仲良くできてると思ったのに」
いかにもがっかりという様子で、肩を落として口にする。ミヨちゃん、けっこう辛辣なこと言うなあ。
だからミヨちゃんも一人なのかもしれない、と思ってなんだか同情する。
・・・友達いないどうしがくっついたら、それは友達なんだろうか。よくわからなくなってきた。
ただ、ミヨちゃんとは不思議と波長が合うというか、心地よさを感じる。
思わず私は、ぎこちなくもミヨちゃんに微笑んだ。
「あっ、今ミヨのことバカにしたでしょ」
「さあ?」
「もうっ」
会話は堂々巡り、帰り着くまで続く。
既に温かくなってきたこの頃、それにつられるように私も少しばかり朗らかになったような気がした。
3
何もない部屋。
窓ガラスの向こうに広がるのは、ただ暗い闇と儚い月明かり。
夜なのだろう。だが、この空虚の理由はそこにはないと思う。
光がないから暗いのではない。
暗いから嫌なのではない。
何もないということがただ空しかった。
未来のない自分に待つ未来が想像できない。
ただむなしい。
4
夢を見ていた気がする。
特に心動かされるものでもなく、悪夢でもない。
しかし私は、ひとすじの涙が頬を濡らしていたのに気づいた。
夢だ。何でもない。意識しなくていい。
知らないふりをして、学校へと向かった。
「・・・くん、今日も来てないね」
「なんか病気なんだって?」
教室でそんな会話を耳にした。長期欠席しているクラスメイトのことだろう。
埋まり切った席の中で受ける授業は、うんざりするほど息苦しくて、思わずこそこそと会話したくなるのはわかる。
ここにミヨちゃんがいてくれたらな、とふと思う。なんとなくだけれど、ミヨちゃんなら何か楽しいことをしてくれる気がするのだ。
一人でいるのが楽だ、そんなことを考えていた自分が他人を求めるなんて。これはもう友達だと言い逃れできないな、そう思って苦笑する。
するとそのとき、出入り口の向こう側、廊下に見覚えのある姿が―
見逃しようもない。ミヨちゃんだった。
「あれ、大丈夫だったの?」
「それね。うん。大丈夫なんだ」
放課後、二人で坂を下っていく。
今日は雨の日、上は雨粒、下は水たまり。
ぱちゃぱちゃと水を蹴りながら歩くミヨちゃんと、入念にそれを避ける私。
「上級生の階に、授業中に来るなんて。先生に見つからなかった?」
「だから、大丈夫なの」
今日の授業中の話だ。別に大事ではないのだが、ミヨちゃんとはいえ突飛な行動に思えたのだ。
結局、あの後すぐにミヨちゃんは消えてしまったが、それはとても不思議な光景だった。
「大丈夫、ね」
私には、なんとなくミヨちゃんがいつもと違う様子に見えた。無理をしている。嘘をついている。あるいは。
そんな視線に気づいたのか、ミヨちゃんは、
「うん。大丈夫」
ただそう答えるだけだった。
しばらくの間、沈黙が二人の間を流れた。
雨の音、水滴が傘や地面を叩く音、それ以外は世界に何もないみたいだった。
こんな雰囲気は、ミヨちゃんと会って以来一度もない。
いや、あった。たぶんそれは。
「あのね」
ミヨちゃんがつぶやく。消え入りそうな声で、しかし懸命に何かを伝えようとしている。
「なあに」
私はただ、受け入れるように優しく言った。
「今から言うこと、信じてもらえる?」
「うん。大丈夫。・・・話してみて」
「わたし、実は」
そう言いかけたところで、急に強く風が吹いた。
ミヨちゃんの手から傘が離れ、坂道を転がっていき、止まる。
口を開いたまま、ただ私を見つめている。
少しと言うには長い時間、そのまま時が流れた。
やがてミヨちゃんは口を動かし、こう言った。
「わたしは」
傘がないにもかかわらず、乾いたままの服、髪、その姿で、
「もう死んでるの」
そうだ。
ミヨちゃんと初めて会った時も、こんな感じだったんだ。
5
もう死んでいる。
それを聞いた私がまず感じたのは、驚きでも疑いでも呆れでもなく、胸のざわつきだった。
なにかを忘れている。もしくは気付いていない。
そんな風な。
「もう死んでいるってことは、生きていないってこと・・・」
「そう。だからね、初めて会ったときは驚いたの。あんなに見つめられたから」
「じゃあ、普通は見えないのね」
「そういうこと。だから、ミヨは一人だった」
雨の降りしきる中、まるでそれとは無関係であるかのように佇んでいる。
初めてこの子を見た時の、あの翳りある感じが、今ははっきりと感じられた。
「でもね、ヘンだと思う」
「何が?」
「もう死んでるから、見えないからミヨは一人ぼっち。でも、リョーちゃんは生きてるのに一人ぼっち」
ミヨちゃんは続ける。
「実は、リョーちゃんの前にも『見える』人はいたの。でも、他の友達と遊んだりしてるうちに、そのうち見えなくなっていって・・・」
「リョーちゃんもそうなるんだろうな、って思ってた。でも、もう一ヶ月ぐらい経つのにずっと一人ぼっちで、ミヨが見えて、一緒にいてくれる」
なにか理解できないものを見るように、私を見つめる。
「たぶん、それは」
私は、なんの迷いもなく言った。
「私は一人ぼっちが好きだから。いや、他人と一緒にいるのが苦手だから。でもなぜか」
「ミヨちゃんとは気が合う感じがする。・・・そういうことじゃないかな」
雨が小降りになった。雨音は小さくなり、その代わりに雨の匂いが広がった。
とうに散った葉桜が、その身からぽたぽたとしずくを垂らし続ける。
「あのね」
「なに?」
「だったら、一つ約束」
「どんな約束?」
「それはね・・・」
ミヨちゃんは少し息を吸って、こう言った。
「これからも、友達でいてね」
幽霊の女の子。一人ぼっちの女の子。この子がこれまでどれだけ一人ぼっちだったのか、どんな思いをしてきたのか、私に知る術はない。
ただ、私の思うことを告げた。
「もちろん。そもそも―」
「私に別の友達ができるなんて、そうあることじゃないから」
それを聞いたミヨちゃんは、「もう、素直じゃないなあ」と少し不満げに言い返す。
私は、だってそうなんだもんと反論にならない反論を返す。
そうしてふざけ合いながら、坂道を下っていく。
何事もなかったかのように、いつも通りに。
6
以前より、ミヨちゃんといる時間が増えた。
学校の休み時間に人気のないところで会ったり、休日には一緒に出かけたりもした。
「そういえば、ミヨちゃんって」
「ん?」
「嫌なら話さなくてもいいんだけどさ」
今日は日曜日。
いつのまにか春は過ぎ去り、夏が来て、からりとした青空と遠くまで伸びていく雲が頭上に広がっている。
海が見たいというミヨちゃんの望みで、私たちは自転車で二人乗りして近くの海岸沿いまでやってきたのだった。
「こうなる前はどんな感じだったのかなって思って」
ミヨちゃんが生きていたころ。
死んだ後、私に会うまで。
そして、あまり想像したくないが、死の瞬間。
「ミヨはね、友達がいなかったわけじゃないの」
語り始める。
「でも、なんていうのかな。どっちかっていうと、知り合いが集まっただけって感じだった」
「何でも言い合えるひとがいなかったのね」
「たぶん、そんな感じ」
わかるような気がした。もともと、学校っていうのはきっとそんなものなのだ。
本当の友達なんて見つかる方が珍しいし、求める方が間違っているのかもしれない。
それでも、一人は怖いからひとは集まる。
「それで―死んじゃってからは、前も言ったみたいに、たまに友達になってくれそうな子がいたんだけど、結局その子たちは生きてる子たちの方へいっちゃうんだ。その繰り返しだった」
寂しそうな顔で、淡々と話すミヨちゃん。
堤防に腰掛けながら話すその姿は、桜の木の下、一人で佇んでいたあの時を思い起こさせた。
延々と続く水平線。その向こうよりも、遥かに遠い生死という隔たり。
このときばかりは、少しそれを感じずにはいられなかった。
「でもね」
ミヨちゃんは調子を変えて言う。
「今はもう、あまり気にしてないよ。リョーちゃんがいるからね」
「ふふ。そうね、こんな話が出来るんだから」
そうだ。私たちは友達どうしで、そして友達がいないどうし。
隔たりなんてあってもなくても、それは変わらない。
「・・・てことで、この幽霊のミヨちゃんが貴重なおはなしをしてあげたんだから」
ぱっと明るい顔になるミヨちゃん。
「してあげたんだから?」
「リョーちゃんも何か話してよ」
「何かって?」
「うーん・・・リョーちゃんのこと、とか」
「ええ?別に私には、面白い話はないんだけどな」
これは本心だった。
というか、中学校、小学校、その前も記憶がおぼろげなのだ。たいして楽しい思い出もなく、何かを頑張った覚えもない。
だからこそ私は未来に希望なんて持ってないし、きっと何もないまま死んでいくのだろうと、諦念にも似た、ちゃちな絶望をいつも抱いていた。
「そうだ」
私はつい口走っていた。
「じゃあ、今度私の家に遊びに来ない?」
「リョーちゃんち?」
「うん。何もないけど、何となく・・・そういうのって楽しいかなって」
「いいの?お父さんとかお母さんに迷惑にならない?」
ミヨちゃんはこういうところは遠慮がちだ。
「大丈夫。どうせ家にはいないから」
「そうなんだ。じゃあ、お邪魔しようかな」
こうして、ミヨちゃんの来訪が決まった。
それからは、浜辺を素足で歩いてみたり、ふざけて水をかけ合ったりして、日が暮れ始めるまで遊んだ。
帰り道、疲れ切ったまま自転車を漕ぐのはつらく、ミヨちゃんが代わりに漕いでくれればいいのにと思った。しかし、後ろで眠りこけているミヨちゃんには何を言っても無駄だろう。
「まったく、もう」
明日からまた学校。それを考えると憂鬱で、疲れたから帰りたい気持ちと、このままどこかに行ってしまいたい気持ちとで、私の頭は満たされていく。
「リョーちゃん・・・」
不意にミヨちゃんの声が聞こえた。寝言らしい。
その瞬間、私は少しだけ疲労と憂鬱を忘れたような気がした。それと同時に、私の身体に腕を回して眠りこけているミヨちゃんが、少し愛おしく感じられたのだった。
太陽はどんどん沈んでいく。自転車を漕ぎ続けても、それに追いつくことは叶わず、必ず夜が来て、朝を迎える。
永遠に続くものなんてないみたいに。
けれども、ミヨちゃんといるこのひとときは、何か幸せで、でも切なくて、私はそれを大切に感じた。
だからこそ思う。
せめて私の中では、この記憶を消えないものにしようと。
7
それからは平凡な毎日が続いた。
不思議なことに、ミヨちゃんと出会う前に比べて、退屈さと鬱陶しさが増したような気さえした。
きっと、それだけ私はミヨちゃんに頼っているのだろう。そう思うし、授業を終えてミヨちゃんと会うことは実際に待ち遠しかった。
だがそれよりも気になることがある。何かを見過ごしているような、目を背けているような、あの気持ち悪い感触。
ミヨちゃんが幽霊だとわかったとき感じたそれが、近頃は強まっていた。
それで私は、何の関係もないのに、家にミヨちゃんを連れて行くという約束を後伸ばしにしている。
「リョーちゃん」
「なに?」
「明日から、夏休みだね」
「うん」
「ずっとお休みなんだよね」
「うん」
夏休みを控えた日の放課後。
いつものように、一緒に歩きながら話す。
ミヨちゃんが何を言いたいのかはわかっていた。
「あのね、イヤなら別にいいんだよ。リョーちゃんちに行かなくたって」
「ごめん」
なぜだろうか。気まずい沈黙が流れる。私がそういう雰囲気にしてしまう。
「リョーちゃんちのひと、来ちゃダメって?」
「そういうわけじゃないんだけど」
自分で提案しておいて、私はいったいどうしたんだろう。
ただ、友達どうしでやるように、自宅にミヨちゃんを呼ぶだけじゃないか。
なんでこんなに、頑なになってしまうんだろう。
「別に、リョーちゃんちに行けなくたっていいんだ」
ミヨちゃんは、震える声で言う。
「でも、なんだか隠し事されてるみたいで、悲しい」
会話が止まる。私はどうすればいいかわからず、ただ二人して歩き続ける。
車の往来が途絶えるたび、二人の間の張り詰めた静寂が聞こえるようで胸が苦しい。
いつからか、ミヨちゃんの様子が変わった。私と並んで歩いていたのが、だんだん遅れていって、ついには私の視界から消えてしまう。
振り向くと、ミヨちゃんは立ち止まっていた。震え声は嗚咽に変わっていて、瞬く間に涙が道路を濡らすのが見えた。
ミヨちゃんは泣いていた。
それを目に捉えた瞬間、私は途端に自分の愚かさがわかって、情けないやら、悔しいやら、ごちゃごちゃとした感情で頭が熱くなって、
「ミヨちゃん」
気がつけば、ミヨちゃんの手を握っていた。
人のいない公園。日の長い時期とはいえ、少しづつ赤い色が差し始めている。それを受けて木々は影を作り、地面は赤と黒に染まっていた。
私とミヨちゃんはベンチに座り、手を握り続けている。
「私ね、ミヨちゃんのこと好きなんだ」
唐突に、私はそんなことを言う。
他に弁解の言葉を見つけられなかったのだ。
「別に、私の家に来ちゃいけない理由はないの。ミヨちゃんに来てもらえたら楽しそうって思ったのは本当だし、ミヨちゃんはなんにも悪くない」
「うん」
「だから、悪いとすれば私の方だし、ミヨちゃんとは何でも話せる友達っていうのも変わりはなくて」
「ほんとに?」
「もちろん」
そう言ってあげると、ミヨちゃんは少し元気を取り戻したようで、顔を上げて私を見つめた。
「本当にごめん。私、ミヨちゃんに嫌な思いさせたし、不安にさせたよね」
「ううん。今の聞いたら安心した。やっぱり、リョーちゃんは私のたった一人の友達」
そう言って微笑むミヨちゃん。
そうだ。ミヨちゃんにとって、私は唯一の友達なのだ。私にとってのミヨちゃんがそうであるように。
いや、長い孤独の時間を考えたなら、それ以上に。
「それで、なんで私がこうなっちゃったのかというと」
「というと?」
「私ね、最近ずっと引っかかってることがあるんだ。でも、それが何なのかわからなくて」
不安。心配。忘れていること。形容しがたい何かがあることを私は話した。
ミヨちゃんは、わかるようなわからないような表情で、それでも懸命に理解しようとしているようだった。
「・・・そんな感じで、私は変になってたの」
「そうだったんだ。・・・ごめんね、ミヨもわがまま言ってた」
「ううん。私が悪かったから」
それきり、どちらも喋らなくなった。
しかし手は握られたままで、温かく、二人の間にはもうわだかまりも、気まずさも、胸の痛い沈黙も存在していなかった。
話しているうちに、長い時間が経っているようだった。
とうに夜を迎えてしまった公園は、ぼんやりとした心もとない街路灯だけが明るく照らす、黒一色の世界のよう。
それでも、このつないだ手は熱いぐらいで、それだけで私たちを守ってくれるように思えた。
8
あっという間の夏休みだった。それはミヨちゃんのおかげでもあり、ミヨちゃんのせいでもある。いろんな場所へ出かけて、いろんな話をして、いろんな楽しい思いをした。
ただ一つ、私の家に関する話だけはどちらの口からも出なかった。きっとそれは、ミヨちゃんの心づかいに違いない。
しかし私は、それをありがたいと思う反面で、不安にも感じていた。夏休みが明けてからは、ますますその感が強くなった。
だから、それを忘れてしまうぐらいの出来事が起こるとは思っていなかった。
もう九月も終わりかけの頃。暑さは身を引き、夏は秋になり、炎天の盛りはそよ風のわびしさに変わろうとしていた。
「リョーちゃん」
「どうしたの」
「うーんと」
そう言ったきり、ミヨちゃんは考え込んでいる。
金曜日の午後というのは街にも少しばかり活気が出るころで、学生や仕事帰りの大人で賑わっていた。
けれども今日、ミヨちゃんはそうした中でぶらつく気分ではないようだった。
今私たちがいるのは、そうした喧騒から離れている場所。学校とは反対側、坂道を上って住宅街を抜けた先の、小高い丘の上。
街が一望できるこの場所は、静かで、落ち着いていて、人気がない。
なんとなく私は思った。ミヨちゃんが生きたひとを見るのは、こんな感じなんだろうか、と。
「話さないといけないことがあるの」
ミヨちゃんが再び話し出す。
「ミヨ―わたしは、死ぬ前は、この辺りの家に住んでたんだ。お父さんもお母さんも一緒に」
唐突だった。私は、ミヨちゃんの生前の話をほとんど聞いたことがない。
「二人とも、たぶん少し厳しい親だったと思う。習い事も多くて、門限も厳しくて。あんまりひとと遊んだ覚えがないの」
「それは、ちょっとひどいね」
私は憐れんだ。それと同時に、ミヨちゃんが最初、私の家に行きたがらなかった理由を理解した。
「突然こんなこと言うから、びっくりした?」
「ううん。ミヨちゃんの話なら聞くよ」
「ありがとう。それで」
ミヨちゃんは続ける。
「わたしは結局、誰の心にも触れないまま死んでしまった。もう何年前なのかは知らないけど、高校一年生の頃に」
「でもわたし、ミヨは、リョーちゃんに出会った。それからは、悲しい思いをしても、もっとたくさん楽しくて嬉しいことがあって、初めてひとと心を通わせて、友達になれた」
「うん。ミヨちゃんは、私の友達だよ」
ミヨちゃんは、そんなことを言いながらもやっぱり悲しそうで、それを慰めようと私はそう言った。
「そうなの。わたしにも友達ができた。でもね」
ミヨちゃんが街を見下ろす。その仕草は遠いものを見つめるようでいて、その中に、隣にいるはずの私でさえもが含まれているように感じた。
「たぶんそれは、もう長くないと思うの」
「長くない?」
私はその意味を考えた。同時にまた、思い出せそうで思い出せないしこりのような感触を覚えた。
友達でいるのが長くない、というのはつまり。
「死んだらひとはどうなっちゃうのかって、きっと誰もわからないよね」
まだ日は暮れていない。遥か遠くの山際に、ほんの少し赤みが差しているだけで、青い空が広がっている。
けれども、風に揺れる木々のささめきも、丘の上の冷たい空気も、暗いものさびしさをたたえていた。
「わたしは死んだら、消えてしまうと思ってたの。だけど、死んだわたしはこうして今、ここにいて。リョーちゃんとお話したりして。まるで生きてるみたいで」
私は直感で、ミヨちゃんが何を言いたいのかがわかった気がした。
「でもやっぱり、わたしは、ひとは最後には消えちゃうみたい」
9
ミヨちゃんはいなくなってしまう。
それがわかったとき、私は驚いたし悲しかった。でも、なぜミヨちゃんが消えてしまうのかがわからなかった。
私の目の前には確かにミヨちゃんがいて、声も聞こえるし、触ることもできるだろう。
「なんでそう思うの、って言いたいんでしょ」
「うん」
「それはね」
ミヨちゃんは寂しさ半分、悲しさ半分といったていで言った。
「わたしとリョーちゃんがほんとに友達になったから」
「え?」
「きっと、わたしは友達が欲しくて、どうしても欲しくて、だから死んでも消えなかった。消えられなかったの」
その答えは、私の中にごく自然に受け入れられた。
そうだ。死んだら消えるのが普通で、そうでない場合には理由があるはず。ミヨちゃんにその理由を求めようとすれば、「友達が欲しい」それ以外は考えつかない。
そしてその願いは叶った。そうなれば、むしろミヨちゃんに消えない理由がない。
私は、あくまで頭の中ではそれが容易に理解できた。
しかし。
「でも、それなら」
私は、どうしても突き放された思いをこらえきれなかった。
「どうして、友達ができたのに消えてしまうの?」
「リョーちゃん・・・」
きっと仕方がないことなのだろう。ミヨちゃんにはどうしようもないことなのだろう。
それでも、私は我慢できなかった。
そう、さびしくなるね、今までありがとうね、そんな風に簡単に別れを告げられるほど、私は強くなかった。
「私は・・・私は、ミヨちゃんがいないと、何にもなくなっちゃうんだよ」
「ごめんね。ほんとに、ごめん」
「私は、ミヨちゃんに消えてほしくない」
わがままだと思う。ミヨちゃんだって絶対につらいのに、勝手なことを言っていると思う。
でも、それが私の本心だった。
「わたし、自分勝手だよね。ほんとにそう思う」
ミヨちゃんは、うつろな目をして言った。
「きっと、バチがあたったんだろね。死んだくせに、未練がましく友達がほしいなんて願ってたから」
「こんなことになるなら、いっそ、死んでそのまま消えてしまえばよかったのかな」
もう夜になっていた。空は光を失い、一粒の星も見えない。それとは対照的にきらきらと明るい街並みは、二度と戻れない場所にすら見えた。
その風景を、ミヨちゃんはただ眺めながら、
「それで、わたしがリョーちゃんに出会わなければ―」
言いかけて声を詰まらせた。そうして、私の方を向く。
ミヨちゃんは、感情を忘れたみたいに無表情だった。それこそ、今すぐ消えてしまってもおかしくないとすら思えた。
ただ、そのまぶたから、わずかにきらめくものが見えた。それは今にもこぼれ落ちそうで、かすかな光を反射している。
それは紛れもなく悲しみそのもので、なによりも大事にしなければならないもの。
怒りよりも、寂しさよりも、尊くて、だからこそ私たちが分かち合わないといけないもの。
私はそう思って、そして、自分の頬を力いっぱい叩きたい気持ちになった。やっぱり私は愚かだ。自分が一番の人間だ。友達が悲しむときに、それを後押しする人間だ。
またもや大事なひとを、泣かせようとしている。
それに気付いた私は、力いっぱいに自分を叩く代わりに、力いっぱい、ミヨちゃんを抱きしめた。
「リョーちゃん・・・」
「ごめんなさい。私、大切なことを忘れそうだった」
「大切なこと?」
「うん。ミヨちゃんが、私の大事な友達だってこと」
首筋にぽたりと水滴が落ちた。その感触は一瞬で消えてしまう。だがそれは、次々と私の身体に触れ、したたり続けた。
気が付けば、私たちは泣いていた。きっと二人とも、人前に出られないぐらいに目を腫らせてしまうだろう。
でもそんなことはどうでも良かった。
ここには二人しかいないのだから。
私たちは、お互いにとってたった一人の友達どうしなのだから。
そしてこの涙は、そのあかしなのだから。
10
ミヨちゃんは消えてしまう。それは変えられないことで、私にはどうしようもない。
だからこそ、この一瞬を大切にしないといけないと思い、私はミヨちゃんの感触を確かめるように抱きしめ続けた。
そして唐突に、しかし当たり前のように言葉が出てきた。
「ミヨちゃん、私の家に来て」
私の不安、心配、気がかり、忘却。全てがないまぜになって生まれたひらめきだった。
私の家へ行くことに何の意味があるのかはわからない。でも、今こそ行かなければいけないと感じた。
「今日は誰も家にいないし、ここから遠くないんだ」
ミヨちゃんは、一瞬困惑した表情を浮かべる。でも、私の確信しきった顔を見て、
「うん。リョーちゃんちに行く」
と答えた。
丘のふもとの住宅街、そこと街を結ぶ道路沿いにマンションがある。
私の生まれ育った家。
でも目の前のそれは、なぜか記憶と違うような気がして、しかし何が違うのかはわからなかった。
「リョーちゃん、大丈夫?」
ミヨちゃんが手を握りながら聞いてくる。
気づけば、私は手も足も震え、早鐘が鳴るような動悸を感じていた。
「ありがとう。ミヨちゃんがいれば大丈夫だよ」
私は答えて、マンションへと歩き、入っていく。
なぜ私は、家に帰るのを怖がっているのだろうか。何も怖いものはないのに。いつも帰っている家なのに。
エレベーターに乗って、ボタンを押す。あっという間に目的の階に着いて、ドアが開く。
降りて、突き当たりの部屋。そこが私の住む部屋だった。
「ミヨちゃん」
「うん?」
私は何か、入りがたい感触を覚える。恐怖だろうか。いや、それとは別だと本能が告げていた。
そして気が付く。
「私、鍵を持ってないかも」
「え?」
そうだ。ドアには鍵がかかっている。鍵がないと入れない。でも、私は今それを持っていない。
「失くしたの?」
ミヨちゃんが慌てて辺りを見回す。
私は、どこに落としてしまったんだろうと思い起こす。でも、思い当たる節はない。
考えても考えても心当たりはなく、鍵のありかを思い出せそうにはない。むしろ、考えるほどに別の違和感が大きくなっていた。
そもそも、私は今まで鍵の存在を忘れていた。明らかにおかしい。久しぶりに、鍵という概念を思い出した気すらする。
「・・・あ」
思わず声が出た。しかしそれは、鍵のことを思い出したからではない。そんなことなどどうでもいいとすら思う。
私は、こうしてミヨちゃんと家に来て、初めて自分の中の矛盾に気付いたのだ。
思わず笑いが出そうだった。涙も出そうだった。でも何よりも、雷に打たれたような驚きと、このことをミヨちゃんが知ったらなんと言うのだろう、という考えで頭の中がいっぱいになった。
「ミヨちゃん。鍵は見つかったよ」
「よかった。でも、どこにあったの?」
「そうじゃないの。鍵なんて、最初からあってないようなものだったんだ」
私はそう言って、ドアの前に立ち、深呼吸した。
そして、不思議そうな顔をしたミヨちゃんの手を引き、家の中へ入っていった。
11
家の中は広かった。私が記憶しているよりも。だがそれは、単純に部屋が大きいという意味ではない。
「これが、リョーちゃんの家・・・?」
私は、戸惑うミヨちゃんを連れ歩き、家の中を一周した。リビング。両親の部屋。私の部屋。
「これが、私の家」
戻ったリビングで座り込んで、私はそう言った。
「でも、リョーちゃん。ここには」
ミヨちゃんは、まさか、という表情で答える。
「・・・ここには、どうして何もないの?」
そう。この家には何もない。壁に飾られた額縁もないし、お花や造花が置いてあるわけでもない。ぬいぐるみや本棚もなく、テレビやパソコンもない。それどころか、洗濯機もなければ布団もなく、冷蔵庫すら存在しない。見てはいないが、きっと押入れの中もからっぽだろう。
この家は、文字通り、もぬけの殻だった。
我が家を見て、よもや人が住んでいようとは誰も思うまい。
当然だ。
「それはね」
私は、驚愕しているミヨちゃんの目を見つめて言った。
「ここにはもう長いこと、誰も住んでいなかったから」
「リョーちゃんの家なのに?」
ミヨちゃんはもう知っているだろう。でも、私は自分の口で伝えようと思った。
そしてこう言った。
「そう。ここは私が昔住んでいた家。そして―」
「もう死んでしまった私が、それを忘れて暮らしているつもりの場所」
12
「見間違いだと思ってた」
ミヨちゃんは言う。
「だって、玄関のドアを通るとき、リョーちゃんが―私と同じように―すり抜けたように見えたから」
無理もなかった。ミヨちゃんは私が幽霊だなんて思いもしなかっただろう。
「信じられないよね。私も、さっきまで信じられなかった。それどころか、気付きもしなかった。自分のことなのにね」
そうだ。私は全てを忘れていた。いや、気付かないふりをしていた。
考えてみれば、おかしいことばかりだった。
どうして私は、ミヨちゃんを家に連れていきたくなかったのか。言うまでもない。私を見ることができるのはミヨちゃんだけだからだ。自分一人なら無意識になって騙せても、ミヨちゃんといる間に自分を忘れることはできないからだ。私が見える人の前で、ドアをすり抜けたり、何もない家を見せたりすれば、私は自分が幽霊だと気づかされてしまう。
私の高校のクラスには、一人長期欠席の生徒がいる。それなのに、どうして席が全て埋まっていたのだろう。考えるまでもない。私がその席に座っていたからだ。呆れることに、私は行く必要のない学校にずっと通っていたのだ。
「でも、それなら」
ミヨちゃんが、私を気づかうように言う。
「どうしてリョーちゃんは、ここにわたしと来ようと思ったの?」
「それはね」
答えは決まっていた。
「一緒に家に行こうって約束したから。そして、ミヨちゃんに私のことを知ってほしいって、どこかで思っていたから」
「リョーちゃん・・・」
ミヨちゃんが、私の手を取った。
幽霊が二人でこんなことをしている様子は、きっと奇妙に違いない。
でもその手は、やっぱり温かいミヨちゃんの手で、すり抜けることもなく、生きているひととなんの違いもなかった。
「すごく怖かったよね。自分が死んでるなんて、知りたくなかったよね。ごめんね」
「違うの。今、なんだか幸せなんだ。死んでるって知ったのに幸せって、意味わかんないけど・・・」
私は、急に思いっきり笑顔になりたくなって、ミヨちゃんに笑いかける。
ミヨちゃんも、安堵したように私に微笑む。
電灯のない、月明かりが照らすだけの暗く寂しい部屋。そこには確かに、昨日まで空虚な私が住んでいた。
しかし今は、温かいぬくもりがそばにあって、私の中を満たしてくれている。
気が付けば、夜空に星が出ていた。その一つ一つの光はか細くて、遠くて、とても手が届くとは思えない。でもそれらは、確かにそこにあって、そこで光り瞬いている。
その光景が、とても綺麗に感じられた。
13
私たちは歩いている。ある場所に向かって。
「それにしても」
すっかり明るくなったミヨちゃんが言う。
「まさかわたしたち、友達いないどうしどころか、幽霊どうしだったなんてね」
「ほんとにね。こんな偶然あるの?って思うよ」
二人してけらけらと笑う。他愛もない話をするみたいに、しかし愛おしさがこもっているように。
「キレイだなー」
ミヨちゃんが言う。夜空を見て。星を見て。坂の下の、街の灯を見て。
その一つ一つを私も噛みしめる。
「あ、あれかな」
私は指をさす。
「うん。あの木だね」
ミヨちゃんが答える。
その木は、通学路の道端に生えていた。他にも同じような木がたくさん並んでいるけれども、その木は特別だった。
桜の木。春のわずかな間に咲いて散ってしまう、秋となった今では何の変哲もないような木。
その木の下で、私たちは初めてお互いを見つけたのだ。
「やっぱり、春じゃないとふつうの木だね」
「ね。でも、こうして見てると、いつも横を通ってたのに懐かしい気がするなあ」
ここに来ることには、何の相談もなかった。それどころか、ミヨちゃんも私も、今はここに来るべきだとわかっていたみたいだった。
「ねえ、ミヨちゃん」
「なに、リョーちゃん」
「たぶんわかってると思うけど」
歩道にあるベンチに、二人で座りながら話す。
「やっぱり、最後にはひとは消えちゃうんだね」
何気なく、でもその言葉とは裏腹に、穏やかに私は言う。
「そっか。リョーちゃんもそうなんだね。でも、なんで?」
ミヨちゃんが問う。その理由は、もう私の中で見つかっていた。
「私はね、ミヨちゃんと同じで友達らしい友達がいなかった。でもね、それ以上に、きっとこのまま生きていたって、何にもないんだろうなって思ってたの」
そうだ。私には、平凡だけれども不自由のない毎日があって、それはきっと悲しい思い出ではなかった。
でも私は、悲しさを知らない代わりに、本当の楽しさも嬉しさも知らなかった。ただただ、からっぽだった。
「きっと、私は冷めた子だったんだろうね。生きてても死んでても、変わらないんじゃないかって思うぐらいに」
しかし私は、何の因果か急に事故死してしまった。その瞬間のことは覚えていない。きっと、即死だったのだろう。
ではなぜ、生きていても死んでいるのと同然だった私が、消えずに幽霊になってしまったのだろう。それは。
「だからこそ私は、その何もないからっぽな器を満たしたかったんだ」
きっとそういうことなのだと思う。
そして、生きていても何もないと感じつつも、そのうつろな器を見るのが怖かった。だから、なるべくそれを見ないように、そして自分が命さえも失くしてしまったのだと気づかないように、死んだことすら忘れていたのだ。
「わたしの器は今、リョーちゃんでいっぱいだよ」
ミヨちゃんが言う。
その声は、もうすぐ消えてしまう女の子とは思えないぐらい芯があって、確かに満ち足りていた。
「リョーちゃんの器は?」
聞くまでもないことを聞いてくる。
「そんなの、言わなくてもわかるでしょ」
そう答えて、私は付け加えた。
「こぼれて服が汚れたら弁償してよね」
「もう、素直じゃないなあ」
「あはは」
やっぱり最後まで、私たちはふざけ合っていた。
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とうに真夜中になっていた。空はますます深く暗くなり、木々はとっくに盛りを過ぎている。街は徐々に灯を消して、夜のとばりが広がっていく。
「リョーちゃん」
「なあに」
「眠くなってきた」
「実は、私もそうなの」
「もう寝よっか」
「うん」
「おやすみ、リョーちゃん」
「おやすみ、ミヨちゃん」
二人の女の子は、ベンチに座り、寄り添いあって目を閉じる。その光景は、誰も見ることができないし、日の昇る頃には痕跡すら消えてしまうだろう。
それでも二人は、お互いに満たされ、ぬくもりの中で眠り続ける。
誰にも引き裂かれないように、手をつないだまま。
輝く月と、小さな星々と、桜の木だけがそれを見守っている。
リョーちゃん、ミヨちゃん、おやすみなさい、と。