第三話 学習指導本格始動! 怠けたら体罰もあるわよ
午前八時二五分頃、豊中丘高校一年三組の教室。
智史が自分の席に座ってくつろいでいると、
「ぃよう、さとし。浮かない顔してリアル妹から相当酷く折檻されたみたいやな」
彼の中学時代からの数少ない親友、寺浦朋哉がほぼいつも通りの時刻に登校して来て近寄って来た。丸顔で目は細め、背丈は一六九センチと普通だが、ぽっちゃり体格な子だ。
「おはよう朋哉、朋哉の推測通りだ」
智史は苦笑いを浮かべつつも、明るい声で挨拶を返してあげた。中学入学当時、朋哉の出席番号は今学年同様、智史のすぐ前だった。そのことと互いにアニメ好きだったことがきっかけで入学式の日から自然に話し合う機会が出来、お互い仲良くなったわけだ。
「朋哉、智実は俺とUSJでデートしたがってくるんだけど、朋哉が代わりにしてやってくれないか?」
「ノーサンキュー。リアル妹は勘弁だ。さとしのリアル妹、アイドル声優としても通用するくらい顔はかわいいんだが」
そんな会話を弾ませている時、
「おはよう朋哉くん」
「……おっ、おはよう」
伸英に明るい声で挨拶された朋哉は思わず目を逸らしてしまった。彼は伸英に限らず、三次元の女の子がよほど年上でもない限り苦手なのだ。かわいい女の子に話しかけられると緊張してしまうのは物心ついた頃かららしい。その性格が、彼が二次元美少女の世界にのめり込むようになった原因ではないかと智史は推測している。
「やぁ、おはよう」
ほどなく智史のすぐ後ろの席の男子生徒も登校してくる。智史にとっての親友は朋哉と彼くらいなものだ。
「おい、てつひで、またも学年トップ記念に母ちゃんに何ご褒美もらった?」
朋哉はにこやかな表情で問いかけた。
「特にご褒美はなかったですよん。いつものことですしぃ」
哲秀はほんわか顔で質問に答える。
「哲秀は相変わらずの天才振りだよな」
智史は深く感心する。同じ幼小中出身のため哲秀のことは昔からよく知っている。つまり伸英にとっても古い顔馴染みというわけだ。
「おれもてつひでみたいな天才的頭脳が欲しいわ~。吸収っ!」
朋哉は哲秀の頭を両サイドから強く押さえ付けた。
「あべべべ、寺浦君、痛いので止めてくれたまえええぇぇ~。僕は天才ではないですよぉん。僕でも北野とか星光とか灘とかの最上位校に進んでいたら、並以下の成績になっていたことでしょうしぃ~」
哲秀は首をブンブン振り動かし抵抗する。
「てつひで、明らかにトップ維持のためにこの高校進みやがったな。卑怯なやつめ。期末では、どれか一科目だけでも勝ってみせるぜ」
そう宣言し、朋哉は手を離してあげた。哲秀のフルネームは北之防哲秀。公立中学入学当時から今に至るまで校内テストの総合得点で学年トップを取り続け、現時点でも東大に確実に受かりそうな学力を有する秀才君である。智実も彼のことを越えられない壁と評しているようだ。坊っちゃん刈り、四角い眼鏡、丸顔。まさに絵に描いたようながり勉くんな風貌な彼は、背丈は一五六センチと高一男子にしては低く、学年ワーストクラスだ。体育実技の成績も同様。
「てっちゃん、期末も学年トップ取れるように頑張ってね」
伸英はほんわか顔でエールを送る。
「はっ、はいぃ。頑張りますぅ」
哲秀は俯き加減で緊張気味に反応した。彼も朋哉ほど重症ではないが、物心ついた頃から三次元の女の子を苦手としていて、小四の頃にはすでに二次元美少女の世界にどっぷり嵌っていた。しかしながら、哲秀がそういった趣味を持っていることは、智史は中一で哲秀と小三以来の同じクラスになるまで気付かなかったのだ。
どうしようかな?
智史は昨日の出来事をこの二人には話そうかな、と思った。けれど、やはり信じてもらえるわけは無いだろうと感じ、黙っておくことに決めた。
八時半の、朝のSHR開始を告げるチャイムが鳴ってほどなく、
「皆さん、おはようございます」
クラス担任で英語科の播野先生がやって来た。背丈は一五〇センチちょっと。面長ぱっちり瞳。ほんのり栗色なサラサラヘアーはミディアムボブにしている。二八歳の実年齢よりも若く見え、女子大生っぽさもまだ感じられるそんな彼女はいつも通り出席を取り、諸連絡を伝えて一時限目の授業が組まれてあるクラスへ移動していった。
このクラスの今日の一時限目は家庭科。一年生が今学習しているのは保育の分野だ。
「このページを捲ると可愛らしい厚紙工作が迫り出してくる飛び出す絵本、皆さんも幼い頃に楽しんだと思います。遊び心があって懐かしいでしょ?」
小顔でぱっちり瞳、ほんのり茶色な髪をフリルボブにし、お淑やかそうな感じの四十代女性教科担任はそれを教卓から、クラスメート達に向けて見せた。
あの教材、厚紙工作どころか、生身の人間が、飛び出して来たんだけど……。
「利川君、どうかしましたか?」
「……あっ、いっ、いえ、なんでも」
智史はロダンの『考える人』のような格好をしていたため、教科担任に心配されてしまった。智史の席は教卓に近いため目立ちやすいのだ。
二時限目は体育。今日は男女とも体育館で行われることになっていて男子は跳び箱、女子はバドミントンだ。体操服は今日から完全夏用。男女とも同じ柄で、学年色黄色のラインと校章の付いた白地半袖クルーネックシャツと、青色ハーフパンツだ。
「なあ、さとし、てつひで。おれ、今日買いたいCDあるから帰りに梅田のメイト寄ろうぜ」
「いいですねえ」
「智実も学校帰りに友達や中高の先輩とよく梅田とかポンバシ寄ってるみたいだけど、今日は部活があるみたいだしたぶん遭わないだろうから俺も付き合うよ」
朋哉、哲秀、智史。他男子が準備運動の腕立て伏せをしている最中、
「こらおまえらぁっ! おしゃべりせんと真面目にやらんかぁいっ!」
背丈一八〇センチを越え筋骨隆々、強面な生徒指導部長兼男子体育担当教師、鬼追先生の怒号が。
智史達三人はしぶしぶ会話をやめて、彼らなりに真面目に準備運動をこなしていく。
「あいつ、いつの間にあんな近くに。ほんま鬱陶しいわ~」
「そうですねぇ。僕達が準備運動中に注意されたのはこれで三度目ですね」
「鬼追先生はもっと偏差値が低くて問題児の多い高校に赴任した方が似合ってるよな」
鬼追先生が遠くへ離れたのを確認すると、こんな愚痴を呟きながら。
ともあれ、智史達が気怠そうに準備運動を終えた直後、
「先生、延山さんが倒れましたっ!」
女子生徒の一人の叫び声が。
「えっ!」
智史は思わず声を漏らす。そして視線を女子のいる方へと向けた。
本当に、伸英がうつ伏せ状態で倒れこんでしまっていた。
準備運動として体育館内の周囲を走っている最中だったらしい。
「熱中症?」
「ノブっち、大丈夫? 頭打ってない?」
「のぶえちゃん、しっかりして!」
「貧血っぽいね」
伸英のすぐ近くにいたクラスメート達を中心にざわつく。その声が十数メートル離れた智史の耳元にもしっかり届いていた。
「さとし、見に行ってあげた方がいいんじゃねえか?」
「利川君、これは緊急事態ですよん」
朋哉と哲秀からにやけ顔でそう言われると、
「そっ、そうだな」
智史は急いで鬼追先生のもとへ向かい、
「先生、ちょっと、伸英ちゃんの様子、見に行って来ます」
こう伝えて、伸英のもとへ駆け寄った。
「あのっ、伸英ちゃん」
智史は伸英の顔色を心配そうに見つめる。いつもはきれいなピンク色をしている唇が、白っぽく変色していた。頬も青白くなっていた。
「あっ……智史くん」
伸英は幸いすぐに意識を取り戻した。
「大丈夫?」
智史は心配そうに話しかけてあげる。
「うん、平気、平気。ちょっとくらっと来ただけだから」
伸英はこう答えて、ゆっくりと立ち上がった。
「よかった。でも、保健室には行った方がいいよ」
智史は強く勧める。
「保健委員さん、延山さんを保健室へ連れて行ってあげてね」
女子体育教師はこう呼びかけた。
「その子今日欠席です」
すると女子の一人が叫んだ。
「あらまっ」
女子体育教師は苦笑いする。まだ出欠確認をする前だったので気付けなかったのだ。
「そうだっ! 利川くんが連れて行ってあげて」
別の女子から頼まれる。
「おっ、俺が、連れて行くの?」
「もっちろん。きみの彼女でしょ?」
「いや、そうじゃ、ないんだけど」
「いいから、いいから」
その子に背中を押された。
「頑張ってね!」
女子体育教師からもエールを送られる。
「あの、伸英ちゃん、一人で歩ける? おんぶしよっか?」
智史は緊張気味に、伸英に話しかける。
「なんか悪いけど、その方が楽そうだし、そうさせてもらうよ」
伸英は元気なさそうな声で伝えた。
「しっかり掴まってね」
智史は伸英の前側に回ると、背を向ける。そして少しだけ前傾姿勢になった。
「ごめんね、智史くん」
伸英は申し訳なさそうに礼を言い、智史の両肩にしがみ付いた。
「――っしょ」
智史は一呼吸置いてから伸英の体をふわりと浮かせる。
おっ、重いっ!
途端にそう感じたが、もちろん黙っておいた。
「智史くん、本当にごめんね、迷惑かけちゃって」
「べつにいいよ、気にしないで」
なっ、なんか、胸が。伸英ちゃん、いつの間に、こんなに大きく……。
むにゅっとして、ふわふわ柔らかった。
伸英のおっぱいの感触が薄い夏用体操服越しに、智史の背中に伝わってくるのだ。
急ごう!
なんとなく罪悪感に駆られた智史は早足で歩こうとする。けれども足がふらついてしまい結局ゆっくりペースに。体育館正面出入口から保健室までは、距離にして百メートルちょっと離れていた。智史は伸英を落とさないように、慎重に歩き進んでいく。
「失礼、します。呉本先生、あの、この子が、体育の授業中に、貧血で、倒れました」
やや息を切らしながら保健室の、グラウンド側の扉をそっと引いて小声で叫び、伸英を背負ったまま中へ入った。
「呉本先生、失礼しまーす」
伸英は元気無さそうに挨拶する。
「いらっしゃい」
養護教諭、呉本先生は二人を笑顔で迎えてくれた。ぱっちり瞳に卵顔。さらさらした黒髪は黄色いりぼんでポニーテールに束ねている、三〇歳くらいの女性だ。
今保健室には、この三人以外には誰もいないようだった。
「じゃ、下ろすよ」
「ありがとう」
智史は、伸英をソファの前にそっと下ろしてあげた。
伸英はソファにぺたりと座り込む。
「延山さん、これをどうぞ」
呉本先生は、保健室内にある冷蔵庫から貧血に効く栄養ドリンクを取り出し、伸英に差し出した。
「ありがとうございます」
伸英はぺこりと一礼してから丁重に受け取る。瓶の蓋を開けると、ちびちびゆっくりとしたペースで飲み干していった。
「延山さん、今日は早退した方がいいわね」
「いえ、私、少し休めば大丈夫ですよ」
伸英は元気そうな声で答えてみるが、
「伸英ちゃんは真面目で頑張り屋さんだから、しんどくても無理しちゃう癖があるけど、それは良くないよ。今日は早退した方がいいと思う」
智史も呉本先生と同意見だ。
「でも、授業休んじゃうと、今日習うところ、ノートが取れないし」
伸英は困惑顔になる。
「俺が取ってあげるから、心配しないで」
「大丈夫かなぁ?」
「大丈夫だって。俺、今日は授業、ちゃんと真面目に聞いてノート取るから」
「本当?」
「うん、本当」
「利川君、心配されてるのね」
呉本先生はにこっと微笑む。
「まあ、俺、普段授業中寝てしまうことが多いですし」
智史は照れ笑いする。
「二人ともとても仲良いわね。延山さんは、貧血になったのは今回が初めてかな?」
「はい。私、テスト期間中は睡眠時間削って勉強してて、水泳の授業も近いからダイエットしようと思って、ここ一週間は朝食もほとんど食べてなかったからかな?」
伸英は照れ気味に打ち明けた。
「原因は非常に良く分かりました。延山さん、朝食を抜くのは絶対ダメよ。保健や家庭科の授業とかでも小中学校の時から再三言われて来たでしょ」
呉本先生は爽やか笑顔で忠告する。
「はい、今後は気を付けます。もうあんなしんどい思いはしたくないので。それに私、食べること好きなので、それを我慢したことでストレス溜まっちゃったのも良くなかったですね」
伸英はてへっと笑った。
「延山さんの身体測定のデータ見ると標準体重よりちょっと少ないから、少々増えたってダイエットはする必要ないからね。敏感になり過ぎて太ってないのにダイエットしようとする子が本当に多くて……」
呉本先生はパソコン画面を見つめながら、ため息まじりに助言した。この学校の生徒達全員の身体測定データが、専用ソフトに保存されてあるのだ。
「すごい! データベース化されてるんだ」
智史は興味を示し、画面に顔を近づけた。
「あんっ、智史くん。私の見ちゃダメェッ!」
伸英はとっさに智史の両目を覆う。
「あっ、ごっ、ごめん伸英ちゃん」
智史が謝罪すると、伸英はすぐに手を放してくれた。
「利川君、女の子はお友達同士でも体重を知られたくないものなのよ」
呉本先生は智史が目を覆われている間にデータ画面を閉じてあげた。
「ごめんね伸英ちゃん、俺、もう戻らなきゃ」
智史は伸英に頭を下げて謝り、保健室から出て行く。
その頃。智史のお部屋では、
「サトシくん、あの女の子ととても仲良さそうだね。きっとガールフレンドだね」
「アタシもそう思うぜ。交尾はもう済ませたのかな?」
「智史お兄ちゃん、三次元にもいたんだ。意外だね。クラス内での階級低そうなのに」
「智史君、異性交遊関係についてはリア充なのね。三次元にもいるのに利用して下さったなんて、とてもありがたいわ」
「わらわは、ただの幼馴染だと思うのですが……クラスに一人くらいいる、どんな冴えない男の子にも、たとえ正直気味悪いタイプであっても嫌がらず温かく接してくれる、心優しい女の子という感じがしますね」
教材キャラ達がテキストから飛び出しベッドの上に座り込んで、テレビを眺めていた。
智史の学校での様子を、モニター越しに観察していたのだ。
「それにしてもこのグッズはベリーワンダフルファンシーアイテムだね。上空からの映像だけじゃなく建物内部の映像まで見れるなんて」
モニカはとある加工品に大いに感心する。
「これさえあれば、地球上の任意の地点のライブ映像を映し出すことが出来るよ。ストリートビューと、衛星カメラの合体版かな? これは智実ちゃんの考えた架空アイテムみたいね」
露古湖は自慢げに語る。学習机の本立てに置かれていた地球儀と、テレビ端子とが一本の水色ケーブルで繋がれていたのだ。
「ド○えもんのひみつ道具みたーい。あたしのテキストには、そんなの組み込まれてないよ。いいなぁー」
「サトミトコンドリア、ロココロナにいい所有アイテム設定付けてくれたね。未来的技術だ。音声が入ってこない欠点はあるけど」
理密図と化能蒸は羨ましがった。露古湖の入っていた社会科のテキストには、智実の考えた空想アイテムもいくつか描かれており、露古湖はそれを取り出せる能力があるようなのだ。
「あっ、あのう、いいんでしょうか? 盗撮なんかして?」
葉月は困惑顔で露古湖に問いかけてみる。
「……法律的に、良くないとはわたくしも思いますけど、その、智史君の学校での様子が気になってしまって」
露古湖は少し俯き加減になり、バツの悪そうに言い訳した直後、
――ドスドスドス。と廊下を歩く足音が五人の耳元に飛び込んで来た。
「サトシくんのマミーが来るようだね。みんな隠れて!」
モニカは注意を促す。彼女がテレビの電源も切った。
モニカを先頭に他の四人も自分のテキストの中に素早く身を引っ込める。
一番動作の遅かった葉月が引っ込んでから約二秒後に、扉がガチャリと開かれ、母が智史のお部屋に足を踏み入れて来た。
「智史ったら、また散らかしちゃって。変なコードまであるし……これ、智史が使っとる智実作の教材ね。これも散らかってるってことは、ちゃんと使ってあげてるみたいね」
母はため息まじりながらもちょっぴり嬉しそうに告げながら、床に散らばっていた教材を学習机の上に積み重ね、掃除機をかけて部屋から出ていった。
「マミー、重ねたら出にくくなっちゃうよ。Are you all right?」
一階へ降りていったことが確認出来ると、モニカは英語のテキストからぴょこっと飛び出す。そして他の教科のテキストをベッドの上に一冊ずつ並べてあげた。
すると他の四人はすぐに飛び出してくる。
「甚だ重たかったです」
葉月はホッとした表情で告げた。彼女が一番下になっていたのだ。
「サトシリカゲルのママ、よりによって一番重たそうなモニカタラーゼを一番上にしていくとはね」
「ワッ、ワタシ、そんなに重たくないよ」
化能蒸に指摘され、モニカはむすっとなった。
「アメリカナイズな食生活送ってるっていう設定になってるくせに」
「そんな設定ないもん!」
モニカはそう主張して、化能蒸の髪の毛を引っ張る。
「いたたたたたっ、やったな、モニカタラーゼ」
化能蒸はモニカのほっぺたをつねる。
「二人とも、しょうもないことでケンカは止めましょうね」
露古湖は優しくなだめてあげた。
「だってゲノムちゃんがぁー」
モニカはつねられながら言い訳する。
「鹸化はしてないぜ、ロココロナ。カルボン酸の塩もアルコールも生成されてねえだろ」
化能蒸は髪の毛を引っ張られながら反論する。
「訳の分からないこと言ってないで、いい加減にしなさい。めっ!」
露古湖は二人の頭をゴチンっと叩いた。
「Ouch!」
「いたぁ~っい。分かったよ、止めるよロココロナ」
「ワタシも大人気なかったな」
すると二人はすぐにケンカをやめてくれた。露古湖のことを恐れているのだ。
「化能蒸お姉ちゃん、モニカお姉ちゃん。智史お兄ちゃんのその後を見た方が面白いよ」
理密図の手によってまたテレビが付けられると、教材キャラ達は再びモニター画面に食い入る。
その頃、智史の通う学校では三時限目現代社会の授業が始まっていた。
眠いけど、なんとか取らなきゃ、伸英ちゃんに迷惑掛けちゃう。
伸英のために、一生懸命シャーペンを走らせノートを取る智史の姿に、
「サトシくん、leave school earlyしたノブエちゃんのために頑張ってるね」
モニカ達はまたも感心させられた。
*
この日の放課後。智史、朋哉、哲秀の帰宅部三人組は体育の授業中に打ち合わせた通り解散後すぐ、午後三時四〇分頃には学校を出て徒歩で最寄りの阪急電鉄駅へやって来た。
切符を買い改札を抜けホームへ上がり、ほどなくしてやって来た阪急宝塚線急行に乗り込んで、揺られること約12分。終点の梅田駅で降りた三人は人ごみを掻き分け改札口を出て、お目当てのアニメグッズ専門店へ立ち寄った。
発売中または近日発売予定のアニメソングBGMなどが流れる、賑やかな店内。
彼らと同い年くらいの子達が他にも大勢いた。
「あっ! これ、M○Sで今放送中のやつだ。ブルーレイのCM流してる」
智史は店内設置の小型テレビに目を留めた。
「おれ、このアニメのブルーレイめっちゃ集めたい。でも三話収録で八〇〇〇とかじゃ手が出んわー」
「ボク達高校生にとっては高過ぎるよね」
「同意。おれ、このフィグマもめっちゃ欲しい。けど四五〇〇円もするんか。やっぱ高いなぁ。これまで買ったら今月分の小遣いすっからかんや」
朋哉は商品の箱を手に取り、全方向からじっくり観察し始める。
「買おう!」
約五秒後、魅力にあっさり負け、購入することに決めた。
「寺浦君、清水の舞台から飛び降りましたねぇ。ボクも欲しいグッズがあるのだよん。あのクリアファイル」
「おれも他にもあるぜ」
「朋哉、哲秀。衝動買いは程ほどにした方がいいぞ」
智史が爽やか笑顔で助言すると、
「さとしんち、こういうグッズ類、リアル妹が買い集めてくれてるからいいよなぁ」
「ボクもあんな感じのリアル妹さんなら欲しいですよん」
羨ましがられてしまう。
「まあ確かに智実のおかげで俺はアニメグッズ購入費ほとんど使わずに済んでるけど。俺が欲しかったこの下敷きも買ってくれてたし」
萌え四コマ漫画原作アニメのキャラ集合下敷きを手に取り、智史は苦笑い。
そんな様子を智史のお部屋から、
「サトシくんったら、あんなテンプレートでmass production typeのアニメ美少女キャラに鼻の下伸ばしちゃって」
「アニメ美少女はプロのキャラクターデザイナーさんの造形。わたくし達をデザインしてくれた智実ちゃんは所詮アマチュアだから、容姿で劣っちゃうのは仕方ないわ。だからわたくし達は内面で魅力を出さなきゃね」
モニカと露古湖はちょっぴり嫉妬心を抱きつつモニター越しに眺めていたのだった。
夕方六時ちょっと過ぎ。
「ただいまー」
「おかえり智史、お部屋はもっときれいにしなさいね」
「分かってるって母さん」
智史は途中、伸英のおウチに寄りノートと今日配布されたプリント類と、近所のスーパーに寄り道して買った抹茶シュークリームといちご大福を届けて自宅に帰って来た。
手洗い、うがいを済ませて二階に上がり、
いない、よな? 今朝は姿を見かけなかったし。
恐る恐る自室の扉を開くと、
「Welcome home! サトシくん」
「おかえりーっ、サトシリカゲル」
「おかえりなさいませ、智史さん」
「おかえり、智史お兄ちゃん」
「おかえりなさい、智史君」
教材キャラ達がみんな揃って爽やかな表情で出迎えてくれた。
「……夢じゃ、無かったのか。昨日の、出来事は……」
智史は顔を強張らせる。
「だから現実だって。サトシリカゲル、もう認めちゃいなよ。アタシ達はキャラデザのサトミトコンドリアの空想と現実の二面性を持っているのだ。光が波と粒子の二面性を持ってるのと同じようにね」
化能蒸が肩をポンポンッと叩いてくる。
「わっ、分かった。認めるよ、もう」
智史はついに観念してしまった。その方が精神的に楽だと感じたからだ。
「あのう、サトシくん、三次元の世界にも素敵なガールフレンドがいるんだね。What‘s her name?」
モニカが問い詰めて来た。
「あっ、あの子は伸英ちゃんっていうんだけど……ていうか、なんで知ってるの?」
智史は当然のように驚く。伸英のことはこの五人に一度も話したことはないからだ。
「これで、サトシくんのハイスクールライフをウォッチングしてたんだよ」
モニカはテレビ画面を指し示す。智史の通う学校校舎の映像が映し出されていた。
「何これ?」
智史はケーブルの方にも目を向けた。
「このケーブルは、地球上のどの地点からでもライブ映像を映し出すことが出来る智実ちゃんの空想アイテムよ」
露古湖はどや顔で得意げに説明する。
「智実の空想アイテムまで物質化出来るって、どういう原理で、こんなことが?」
智史はかなり驚いている様子だった。教材キャラ達がテキストの中から最初に飛び出て来た時と同じくらいに。
「それが、わたくしにもよく分からないの。智実ちゃんの強い空想力と妄想力が成しえた奇跡としか言いようがないわ」
露古湖は照れ笑いする。
「……これ、非常にやばくないか? 盗撮だろ」
「智史さんもそう思いますよね?」
葉月は同意を求めてくる。
「そっ、そりゃそうだろ」
「サトシリカゲル、これでノブエステルって子のおウチ内部も見られるぜ」
化能蒸はそう伝えるとリモコンボタンを操作し、映像を切り替えた。
「こっ、これは――」
智史は思わず顔を画面に近づけた。伸英のお部屋の一角の映像が映し出されたのだ。
ピンク色のカーテンで、水色のカーペット。窓際に観葉植物。学習机の周りにはケーキ、ドーナッツ、アイスクリーム、いちご、みかん、バナナなんかを模ったスイーツ&フルーツアクセサリーやオルゴール、着せ替え人形。ゴマフアザラシ、モモンガ、コアラなどの動物やゆるキャラの可愛らしいぬいぐるみなんかがたくさん飾られてある、じつに女の子らしいお部屋だった。何度か伸英のお部屋を訪れたことのある智史には特に目新しくは映らなかったが、こんな視点で観察したのはもちろん初めてのことだ。
「サトシリカゲル、好きな女の子がおウチでどんな風にして過ごしてるか知りたいでしょ?」
化能蒸はにやっと微笑む。
「ダメダメダメ!」
智史は冷静に判断する。
「あっ、ノブエちゃんっていう子、今からurinationかfecesするみたいだよ」
モニカは画面を食い入るように見つめる。
「どわあああああああっ、ダッ、ダメダメダメッ。法律的に」
「サトシくん、見たくないの? 高校生くらいの男の子って、こういうのにすごく興味があるかと」
「ない、ない、ない、なーっい!」
智史は慌ててテレビの電源を切った。また映像が切り替わり、トイレで下着を脱ぎ下ろしている伸英の姿が映し出されていたのだ。伸英の穿いていた水玉模様のショーツを、智史はほんの一瞬見てしまった。
「あーん、もっとウォッチングしたかったのにぃ」
「アタシもーっ。腎臓で血液からろ過され、膀胱に溜められた老廃物が排泄される重要な人体現象だもん」
モニカと化能蒸はふくれっ面で駄々をこねる。
「これは、プライバシーの侵害だよ」
「ごめんね智史君、つい〝知る権利〟の方に意識を片寄せ過ぎちゃって。これからは必要最低限の生活面だけを見るようにするね」
智史に困惑顔で注意され、露古湖は申し訳なさそうに謝る。
「いやぁ、全く見なくていいんだけど」
智史は対応に困ってしまう。
「ロココちゃんが、サトシくんのことを知る権利があるって言ってたから、サトシくんのお部屋、勝手にinvestigateさせてもらったよ。面白いコミックやラノベ、けっこう持ってるね。ワタシもコミックやラノベ大好きだよ」
「サトシリカゲルって、三次元のヒトのメスの裸が載ってるエッチな本は一冊も持ってないんだな。ベッドの下も綿密に調べたんだけど、収納ケースが置いてあって、中に服とアニソンCDと、アタシと同じ名前のゲノムならぬゲームが入ってただけだし。男子中高生必須のアレする時に使うビジュアルは二次元の女の子のみってわけだな」
「サトシくんはサトミちゃんと同じくwholesomeだね。いい子いい子」
化能蒸とモニカは機嫌良さそうに話しかけてくる。
「あのう、あんまり俺の部屋、荒らさないでね」
智史は悲しげな表情で注意しておく。
「智史お兄ちゃん、このテレビ、テレビ番組は見れなかったよ。どのチャンネルに変えても受信出来ませんって出た。これじゃあド○えもんもクレ○ンしんちゃんもちび○る子ちゃんもサ○エさんも妖怪○ッチも見れないよう」
理密図は智史の袖をぐいぐい引っ張りながら不満そうに伝えた。
「そりゃあ放送用のアンテナ繋いでないからね。このテレビはDVD・ブルーレイ視聴とテレビゲーム専用なんだ。繋ぐのは大学合格してからって母さんと約束してる」
智史は素の表情で伝える。
「それじゃ智史お兄ちゃん、お勉強ますます頑張らなきゃいけないね」
「うっ、うん」
理密図ににっこり笑顔上目遣いで言われ、智史はちょっぴり照れくさがる。
まあ、テレビ番組見れない現状でも特に不満はないんだけど……リビングで見ても母さん特に何も言わないし。
「サトシリカゲル、ノブエステル今からお風呂に入るみたいだぜ」
化能蒸は智史が他の事に意識が移っていたのをいいことにまたテレビをつけ、伸英のおウチ内部を観察していた。
「うわっ、こらこらっ、ダメだろ」
今度は伸英が脱衣場で服を脱いでいる様子が映し出されていた。伸英のブラジャー姿を一瞬見てしまった智史は慌てて主電源を消し、化能蒸の頭をパシンッと叩く。
「いたたたっ、ひどいよサトシリカゲル」
化能蒸が頭を押さえながらそう言ったその時、
「智史ぃー、ご飯よぉー。今日利川先生、職員会議で遅くなるからいらないって。智実も七時半頃になるって」
一階から母の叫ぶ声が聞こえてくる。
「分かったーっ。すぐ行くよ」
智史は大声で返事をしたのち、
「伸英ちゃんがお風呂入ってるとこ、絶対覗いちゃダメだよ」
モニカの方を向いてこう念を押し、部屋から出ていった。
「男の子からそんなこと注意されるって、strange feelingだよね」
モニカはにこっと微笑む。
「これはチャーンス! ノブエステルの入浴シーン、思う存分覗くぞーっ」
化能蒸は嬉しそうに叫んでテレビをつけ、伸英のおウチの浴室を映し出した。
ちょうど伸英が風呂イスに腰掛け、長い髪の毛をシャンプーでこすっている最中だった。
「おう、ノブエステルはシャンプーハットを使ってるのかぁ。シャンプーハットの材質はEVA樹脂、シャンプーは弱酸性のものかな? 下の毛もけっこうもっさり生えてるじゃん。陽樹林から陰樹林への遷移段階だな。サトシリカゲルはまだ草原から低木林だったぜ。アタシは裸地だけどな」
「伸英お姉ちゃん、おっぱい大きいね。体積量りたぁーい」
「ナイスバディだね、ノブエちゃん」
「羨ましいわぁ~」
理密図とモニカと露古湖も画面に食い入る。伸英は自分の体をバスタオルで隠すことなく全裸姿だったのだ。
「皆さん、鬼の居ぬ間に洗濯はダメですよ」
葉月は困惑顔で注意した。
「まあいいじゃんハヅキアズマ」
「出た! 日本のことわざ。ちなみに英語では、When the cat‘s away,the mice will play.だよ。でもサトシくんは鬼って感じが全くしないよ」
「そうだな。サトシリカゲル、怒っても怖く無さそうだし」
「智史君は、草食系男子っぽいわね」
「あたし、智史お兄ちゃんの優しそうなところが大好きぃーっ!」
葉月以外の四人は伸英の入浴シーンを眺めながら、楽しそうに会話を弾ませる。
「皆さん、止めた方がいいですよ」
葉月は再度注意するも、
「大丈夫だってハヅキアズマ。ハヅキアズマもいっしょに見ようぜ」
「葉月ちゃん、同性なのだからよろしいでしょ。ヒンドゥー教徒のガンジス川での沐浴に通じるものもあるし」
「今ちょうどボディーをゴシゴシrubbingしてるいいところなのに。このあとは湯船に浸かってくつろぐという日本ならではのシーンが楽しめるんだよ」
「葉月お姉ちゃん、眺めてると伸英お姉ちゃんといっしょにお風呂入ってる気分になれるよ」
四人はこう言い訳して尚も画面に集中する。
「ねえ、皆さん……今すぐ、そういうをこなことはやめなさい!」
葉月は眉をへの字に曲げて、古語も交えて少し強めに言った。
すると次の瞬間、
「ごっ、ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい葉月お姉ちゃん」
「ひいいいいいいい、すっ、すまねえハヅキアズマ」
「申し訳ありませんでした、葉月ちゃん」
「アッ、アイムベリーソーリー。I‘m very afraid of you.Your face was much more fearful than a portrait of Beethoven.It equals namahage.」
四人はびくびく震えながら慌てて謝った。化能蒸はとっさにテレビの電源を消す。理密図は泣き出してしまった。葉月の顔が今しがた、般若面に急変化したのだ。しかも元の顔の大きさの五倍くらいまでふくれ上がっていた。葉月の顔はそれから瞬く間に何事も無かったかのように元の可愛らしいお顔へと戻った。
「わらわは、怒りがある程度上昇すると、こんな風になっちゃう設定になってるんです。きっと国語の学習内容に《能と狂言》があるせいだよぅ。智史さんには絶対こんな醜い姿見られたくないです。穴があったら入りたいよぅ」
葉月はとても照れくさそうに、顔を真っ赤に火照らせながら呟いた。
「「「「…………」」」」
葉月の恐ろしい風貌を見てしまった四人は、すっかり反省したようである。
それから四〇分ほどのち、
「覗かなかった?」
夕食を取り、風呂にも入り終えた智史が再び自室へ戻って来た。
「あの、智史さん。この人達、みんなで伸英さんのお風呂、覗いてましたよ」
葉月は困惑顔で、四人を指し示しながら告げ口する。
「やっぱり……」
智史はムスッとなった。
「サトシリカゲル、すまんね。もう金輪際やらねえから。たとえウラン238の半減期くらい長い時間が経とうとも」
「アイムベリーソーリー、サトシくん。ノブエちゃんが湯船に浸かるシーン、どうしても見たくって」
「智史君、もう二度とやらないから。わたくし、次こういうことしたら大石内蔵助のように切腹するか、ソクラテスのように毒杯を仰ぐわ」
「智史お兄ちゃん、ごめんなさーい」
四人は智史の方を向いて深々と頭を下げた。
「智史さん、ご覧の通り皆さんは大いに反省しているので、許してあげて下さい」
葉月は智史の目を見つめながら頼み込む。
「まっ、まあ、いいけど。今後は、絶対やらないでね」
智史はこう忠告して学習机の前に立った。
「そういえば、つい十分くらい前、智実ちゃんが帰って来てこのお部屋に来て何かゴソゴソしてたわよ。わたくし達は直前に隠れて無事姿を見られずに済んだわ。よく見えなかったけど本棚からマンガを何冊か持って行ったような」
露古湖からの伝言に、
「智実に俺の部屋勝手に物色されて、マンガとか持っていかれるのはいつものことだよ。なるべくやめて欲しいと思ってるけど」
智史はやや呆れ顔で反応し、学習机に貼られた時間割表を眺めながら明日行われる授業の教科書・副教材、ノートを通学鞄に詰めていく。
整え終えてほどなく、智史のスマホの着信音が鳴り響いた。今放送中の深夜アニメのED主題歌だった。電話がかかって来たのだ。
「伸英ちゃんからか」
番号を確認すると智史はこう呟いてベッドに腰掛け、通話アイコンをタップする。
「もしもし」
『あっ、智史くん。ノートとプリントと、シュークリームといちご大福も届けてくれてありがとう。すごく嬉しかったよ♪』
「どういたしまして。体は、大丈夫?」
『うん、おウチ帰った後いっぱい休んだからもう平気。すっかり元気になったよ。あのね、智史くん、すごく言い辛いんだけど……全部同じ色で書かれてるから、どこが要点なのか分かりにくいよ。字も、読みにくくて』
「ごめん、伸英ちゃん。俺の、書き方、良くなかったね」
智史は電話越しにぺこぺこ謝る。
『いいの、いいの。智史くんが、一生懸命取ってくれたことが良く分かるから。気にしないでね』
伸英は慰めてくれた。
「本当に、ごめんね。あっ、あと、連絡だけど、時間割変更で、明日も家庭科があるよ。六時限目に。帰りのホームルームで担任が言ってた。友達からのラインで知ってるとは思うけど」
『あの、そのことは家庭科の授業でも連絡してたよ。中間で抜けた分の埋め合わせって』
「えっ! そうなの?」
『智史くん、聞いてなかったの?』
「うっ、うん。考え事してて」
『智史くん、授業中は集中して先生のお話聞かなきゃダメだよ。テストに出る大事なポイントもお話ししてくれるからね』
「分かった。次からは気をつけるよ。じゃっ、じゃあ俺、そろそろ切るね」
『あっ、待って智史くん』
「なっ、何?」
智史はぴくっと反応した。
『あの……今度の土曜、明後日だけど、いっしょにショッピングに行こう』
「えええっ!」
伸英の突然の発言に、智史はどきっとした。
『あの、今日の、お礼がしたくて……』
「あっ、そっ、そう。それじゃ、いっ、いいけど」
デートの誘いなんじゃないのか? これ。
智史はやや躊躇う気持ちがありながらも、一応引き受けた。
『ありがとう。それじゃ、また明日ね、智史くん』
「うっ、うん」
こうして智史は電話を切った。
「サトシくん、今のが、ガールフレンドのノブエちゃんですね? How long have you been dating with her?」
「うわっ!!」
智史はかなり驚く。すぐ横にモニカがいたからだ。現在完了進行形で質問もして来た。
「ガールフレンドじゃなくて、おっ、幼馴染だ」
「幼馴染、つまりChildhood friendなんですか! Wow! ハヅキちゃんの予想通りだね。ねえ、サトシくん、ワタシはノブエと知り合って十二年になります。を英語で言ってみて。ヒント、現在完了形を使うの。中学生の頃にも習った単元でしょ?」
「えっと……アッ、アイハブ、ビーン、ノウン、ノブエ、トウェルヴ、イヤー」
「ノーノー、ダメだよ。You are wrong.I have been known Nobue for twelve years.よ。リピートアフタミー」
「アッ、アイハブビーンノウンノブエ、フォアトウェルヴイヤーズ」
「Good!」
智史が棒読み英語で言ってみると、モニカは指でOKサインをとった。
「あっ、どっ、どうも」
「あのぅ、幼馴染ということは、You have ever taken a bath with her,haven‘t you? いっしょにお風呂に入ったこともありますよね?」
モニカは付加疑問文を用いてさらに質問してくる。
「ないよ」
智史は俯き加減で言う。
「怪しい」
モニカは顔をぐぐっと近づけてくる。
「あっ、あのさ、露古湖ちゃん。昨日、地図帳から民族衣装を取り出してたけど、他の教材からも、写真や図に載ってるやつを取り出せるの?」
智史は無視して露古湖の方に話しかけた。
「もちろん出来るわよ。ちょっと教科書借りるね」
そう自信たっぷりに言うと露古湖は、化学基礎の教科書カラー口絵を開いて手を突っ込んだ。そして中から、金の延べ棒《元素記号Au》を取り出した。
「うわっ、ロココロナすげえ。本物だ」
「露古湖お姉ちゃんすごーい!」
「ロココちゃん、マジシャンみたーい」
化能蒸、理密図、モニカはパチパチ大きく拍手する。
「あれ? でも中の写真はそのままだ」
智史は不思議そうにその教科書を見つめる。
「わたくしが取り出したものは、コピーされたものだからよ。何度でも複製出来るの。続いて英語の教科書から、登場人物のボブ君を取り出してみせましょう」
露古湖は得意げな表情で、今度は英文読解用の教科書に手を突っ込む。
数秒後、
「Ouch!」
中から男性の叫び声がした。
次の瞬間、クリーム色の髪の毛が飛び出て来た。
露古湖がさらに引っ張り上げると顔、首、胴体、足も姿を現す。
露古湖は本当にボブ(Bob)という登場人物を取り出して来たのだ。
「What‘s happen? Where’s here? Why am I here?」
引っ張り出されたボブは周囲をきょろきょろ見渡す。彼はとてもびっくりしている様子で、かなり戸惑ってもいた。
「やっぱ英語か」
智史は冷静に突っ込む。彼はあの光景を先に目にしているので、もはやこんなことが起こってもあまり驚かなかった。
「大丈夫だよ。ボブはprobablyこのテキストの範囲を超える用法は使用してこないから。英語の得意な日本人高校生よりもボキャブラリーは少ないと思うよ」
モニカは推察する。
「Who are you?」
ボブは教材キャラ達と、智史のいる方に目を向ける。
「やっほー、ボブタジエン。アタシ、原子化能蒸というのだ。英語だとI am Genshi Genome.かな?」
「ボブおじちゃん、はじめまして。あたしの名前は四分一理密図です。小学四年生、九歳です。趣味はお絵描き、特に好きな食べ物はトーラス構造になってるドーナッツと、回転楕円体に近いお饅頭とどら焼きです」
化能蒸と理密図は嬉しそうに自己紹介した。
「リミットちゃん、ボブは老けて見えるけど、ワタシやサトシくんと同級生ってことになってるよ。おじちゃんじゃなくて、お兄ちゃんって呼んであげた方がベターかも」
モニカは笑顔で伝える。
「そっか。ごめんね、ボブお兄ちゃん」
「Oh! very cuty girl! I‘m very happy to meet you.」
上背一八〇センチくらいあるボブは中腰姿勢で理密図の顔を眺めながらそう叫び、目を大きく開いた。
「モニカお姉ちゃん、ボブお兄ちゃんさっき何って言ったの?」
理密図は興味津々に尋ねる。
「とてもかわいい女の子だね、キミと会えてボクはとても幸せだよ。だって」
モニカはにこにこしながら教えてあげた。
「わぁーっ、嬉しいなーっ! あたしも幸せーっ♪」
理密図は満面の笑みを浮かべる。
「Limit,I fell in love with you at first sight.Shall we dance and s○x?」
ボブはこう告白すると突然、理密図にガバッと抱きついた。
「……いっ、いやあああっ。こっ、怖ぁい、このおじちゃん」
押し込まれ壁際に追い込まれた理密図は途端に怯え出す。
ボブにほっぺたをぐりぐり引っ付けられて、さらには耳元にフゥーッと息を吹きかけられたのだ。
「おい、何してるんだよ」
「ボブ君、理密図ちゃん嫌がってるからやめなさい!」
智史と露古湖は慌ててボブの背後に詰め寄る。
「Get out of the way!」
「きゃぁんっ!」
「いてっ、強いな、こいつ」
瞬間、ボブに蹴り飛ばされてしまった。露古湖はしりもちをついたさい、けっこう可愛らしい悲鳴を上げた。
「Bob,Stop body contact to Limit at once!」
モニカは強い口調で注意した。
「No way!」
けれどもボブは聞き耳持たず。
「In place of Limit,Hug me!」
「I’m not interested in middle age‘s woman like you at all.You are,so to speak,ugly fat pig.」
ボブは腐った生魚でも見るかのような目つきで、命令して来たモニカに向かって言い放つ。
「まあ、なんですってぇぇぇっ! 失礼ね、このロリコン」
モニカはぷくぅっとふくれる。
「今ボブ、何って言ったの? 早口で分かりにくかった」
智史が質問する。
「おまえのような年増には全く興味ないね。おまえはいわば、醜い太った豚だ、だって。I‘m pissed off! I‘m as old as you! My birthday may be later than you! サトシくん、be interested inは~に興味があるっていう重要英熟語だから、しっかり覚えておいてね。否定文にはnotよ。これを覚えたらハ○ヒの名台詞が英語で言えるよ。あともう二つ重要英熟語、not~at allは全く~ない。so to speakはいわば、例えて言うならっていう意味だよ」
モニカはボブを睨み付けながらも、ちゃっかり智史に英熟語を教えてあげる。
「I‘ll marry Limit in the near future.If the sun were to rise in the west,I wouldn’t change my mind.」
ボブはスキンシップをやめようとはしない。
「やめてやめてやめてぇぇぇぇぇぇぇ~」
理密図は大声で泣き叫ぶ。
「ボクは近い将来、リミットと結婚するんだ。仮に太陽が西から昇っても、ボクは決心を変えないよ。ですってぇぇぇーっ。Pervet! Fuck you! Peice of shit! You are scum! サトシくん、marryは前置詞toやwithを付けずに目的語を取るよ。marryだけで~と結婚するっていう意味になるの。あとIf主語were to動詞の原形で、もし仮に~したら……だろうという意味だよ。この表現はIf主語should動詞の原形よりも、さらに実現可能性の低いことについての仮定に使われるの」
モニカの怒りはさらに増した。けれどもボブの会話中に出て来た重要英語イディオムはしっかり解説することを忘れない。
「あっ、あのうボブさん。理密図さんとても怖がっているので……」
葉月も彼の暴挙を止めさせようと説得に加わる。
「Really? Limit,please don‘t be afraid to me.If you marry me,I‘ll buy anything you want to.」
ボブは一応、日本語も理解出来ているようだった。彼は理密図に優しく微笑みかける。
「ボブおじちゃん、早くやめてぇぇぇぇぇぇぇーっ」
しかし逆効果。理密図はますます大泣きしてしまった。
「Why?」
ボブはハハハッと陽気に笑いながら問いかけ、再び理密図に頬を引っ付ける。
「ロリコンのボブタジエン、リミットロコフォアいじめちゃダメだぞ」
化能蒸はこう注意すると直径十センチくらいの鉄球に変身し、ボブの脳天にゴンッと直撃させた。
「Ouch!」
ボブに衝撃が走る。両目が☆になった。
「引っ込め! 引っ込め!」
化能蒸は元の姿に戻ると英語の教科書を素早く拾い上げ彼のいたページを開く。そしてボブの脳天に押し付け、中へと戻してあげた。
これにてボブのZ軸成分が0と化し、二次元座標への変換が完了した。
「あぁん、すごく怖かったよぉぉぉ~。ありがとう、化能蒸お姉ちゃぁぁぁーん」
理密図はえんえん泣きながら礼を言い、化能蒸にぎゅぅっとしがみ付く。
「どういたしまして。ボブタジエンは有害なホモサピエンスだったね。アタシも対象外みたいだったし。ボブタジエンの質量を全てエネルギーに変換した方よかったかな? 質量×光速度二乗で、とんでもないエネルギーになっちゃうから不可能だけどね」
化能蒸はにこにこしながら物理学的に説明する。
「ボブって子、何がBob is the kindest boy in our class.よ。教科書の本文と全然違うじゃない。To tell the truth,Bob is not only Lolita complex,but also crazy.」
モニカは、まだぷっくりふくれていた。
「ボブ君は、肉食系男子ね」
露古湖は自信満々に呟く。
「肉食系男子って、ティラノサウルスみたいだな。犬歯も発達してるのかな?」
化能蒸はすかさず突っ込みを入れた。
「ワタシ、肉食系の男の子は苦手だな。サトシくんみたいな草食系がいい」
モニカはそう告げて、智史の手をぎゅっと握り締めた。
「えっ、あっ、あの」
智史の頬は酸性を示すリトマス試験紙のごとく赤くなる。
「サトシくん、照れてる。かわいい」
モニカはにこっと微笑みかけた。
「そっ、そんなことないって」
智史は必死に否定しようとする。
「智史君、しぐさでバレバレよ。あの、英語の教科書にもう一人出てくるイギリス人男の子キャラ、トム君も引っ張り出してみようかしら? handsome boyって書かれてあるから」
露古湖は微笑みながら問いかける。
「露古湖お姉ちゃん、もう止めて! また変なおじちゃんだったら嫌だよぅ」
理密図はげんなりとした表情で伝えた。
「この教科書に出てくる女の子、メアリーとスージーはきっとボブに悲しい目に遭わされてるわ」
モニカはため息まじりに告げる。
「ボブ君も二次元平面上では本文通りのいい子かもしれないわよ。三次元空間上の女の子はオタクを嫌う酷い子が多いのと同じようにね。さあ智史君、今からは自宅学習の時間よ」
露古湖はそう告げると、智史の後ろ首襟をガシッとつかんだ。
「えっ、いっ、今から?」
「当然よ! 智実ちゃん曰く高校生の本分は学業、大勢の友人同士で海や遊園地やカラオケボックスなんかで遊び回って恋愛なんかもしちゃってるリア充共は爆ぜろだからね」
戸惑う智史に、露古湖はきりっとした表情で言う。
「智史お兄ちゃん、勉強を一日サボったら、元の学力を取り戻すのに一週間かかるよ」
理密図は笑顔で忠告する。
「さあサトシくん、シッダウン!」
「わわわ」
智史はモニカの手によって無理やり学習机の椅子に座らされた。
「まずは学校で出されたホームワークからよ」
「宿題は、今日は出てないよ」
「智史君は、宿題が出てなかったら家庭学習はしなくてもいいと思ってるの?」
「そりゃそうだろ」
露古湖の質問に、智史は笑いながら答えた。
次の瞬間、
パチィィィーンッ!
と乾いた音が鳴り響く。
露古湖が智史のほっぺたを思いっ切り引っ叩いたのだ。
「……なっ、何するの?」
智史は突然のことに動揺していた。徐々に泣き出しそうな表情へと変わっていく。
「愛の鞭よ」
露古湖はきりっとした表情で伝えた。
「サトシくん、高校生はね、ホームワーク無くても授業の予習復習するのが当たり前だよ。ワタシ達、今日からサトシくんの成績をアップさせるために、シビアに学習指導していくからね。怠けたら体罰もあるよ♪」
モニカはにこやかな表情でさらっと告げた。
「えっ……」
智史はびくっとなる。
「学校では体罰は禁止されてるようだけど、わたくし達は容赦なくやるわよ」
「なんてったってワタシ達は非実在だから、サトシくんが再起不能になるまでボコボコにしても、killしても罪に問われないもんね」
モニカはにこりと笑った。
「恐ろしいこと言うなよ」
智史はさらに表情が強張り恐怖心が増した。
「真面目にやれば体罰はしないから。智史君、姿勢を正しなさいっ!」
「ちゃんと真面目にやらないと、坊主頭にしちゃうぞ、サトシくん」
「いっ、いててて」
露古湖に両サイドからほっぺたをつねられ、モニカに髪の毛を引っ張られながらくどくど説教され、智史の恐怖心はさらに高まった。
「サトシくん、まずはデスクの上をちゃんと片付けようね。ワタシがやってあげようとは思ったけど、それじゃあサトシくんのためにならないからね♪」
モニカはにこにこ顔で注意する。
「わっ、分かったよ」
智史はびくびくしながら素早く手を動かし、散らばっていた教科書、プリント類などを集め、隅の方へ寄せてスペースを設けた。
「それじゃ智史お兄ちゃん、数学の特訓からやろう!」
理密図は自身が入っていた数学のテキストを開いて学習机の上にポンッと置く。
「しょうがない。やってるか」
智史はしぶしぶ椅子に腰掛けた。
「智史お兄ちゃん、シャーペン持ってさっさと解いて。標準時間は五分だよ」
理密図はそれを智史に手渡す。
「わっ、分かった」
智史はそこにある演習問題を解き始める。整式の乗法に関するものだった。
「智史お兄ちゃん、答は合ってるけど解くのおそーい! もう一回やり直し」
理密図が開かれているページに手をかざすと、智史がさっき書き写した文字が跡形も無く消えてしまった。さらに、問題文が一新され数値まで変更された。
「こんな能力も使えるのか」
智史はあっと驚く。
「問題文は自在に操れるよ。すごいでしょ? モニカお姉ちゃんも露古湖お姉ちゃんも葉月お姉ちゃんも化能蒸お姉ちゃんもみんな同じ能力が使えるよ」
理密図はてへっと笑う。
「そっ、そうなんだ」
「智史お兄ちゃん、感心してる暇があったら、さっさと問題解き始めて」
「わっ、分かった」
智史は理密図に命令されるがまま、同じ単元に関する問題を解いていく。
「さっきよりは早くなったけどまだ遅いなぁ。もっと頑張ってね、智史お兄ちゃん。次は単元変えるね」
理密図は新たな演習問題が載っているページに捲った。
智史は続いて、一次不等式と因数分解に関する問題を解き始める。
数分後、
「時間オーバー、それに、計算間違いも多いよ。智実お姉ちゃんはこんな頻繁に凡ミスなんてしなかったよ。次はこの単元の問題解いてね」
理密図がまたまた注意してくる。ぷっくりふくれて不機嫌そうだった。
「分かった。今度は順列・組み合わせかぁ。その分野は特に苦手なんだよなぁ」
智史は一問目の黒玉5個と白玉3個を一列に並べる時、白玉が隣り合わないような並べ方は何通りあるかという問題から悩んでしまう。
「智史お兄ちゃん、手を休めちゃダメーッ! 順列と組み合わせは習ったばかりでしょ?」
「あいたぁーっ!」
理密図にコンパスの針でほっぺたをプツッと突かれてしまった。
「智史君は、中学生の頃はテストの成績わりと良かったみたいだけど、どんな勉強方法をしてたのかな? 正直に答えなさい」
「中学の時は、普段はほとんど勉強してなくて、テスト直前だけ、一夜漬けみたいな感じで、やってました。それでも、けっこう良い点取れたから」
露古湖から突如された質問に、智史はびくびく怯えながら答える。
「智史君、高校のテストではそんなやり方じゃ通用しないってことは痛感したでしょ? 一夜漬けで身に付けた知識は、そのほとんどがすぐに忘れちゃうの。本当の実力は身に付いてないってことを肝に銘じておきなさい!」
「わっ、分かりましたぁぁぁーっ」
厳しく注意された智史は体罰されないようにと、必死に思考回路を巡らせシャープペンシルを動かし問題に取り組む。
全部で十題あるうち八題目を解いている途中、
「あのさ、俺、トイレ、行きたくなったんだけど」
智史は椅子に座ったまま足をくねくねさせ始めた。
「露古湖お姉ちゃん、智史お兄ちゃんがおしっこだって」
理密図は露古湖の袖を引っ張りながら伝える。
「ダメ! 認めません。講義中のトイレ行きたいは、逃げるための常套文句ですから」
露古湖は厳しい表情で告げる。
「そっ、そんな……」
智史の表情は強張った。
「これにすれば大丈夫よ」
露古湖はにこっと笑い、現代社会の資料集に手を突っ込む。そして環境問題に関する項目が載っているページからペットボトルを取り出し、智史の眼前にかざした。
「でっ、出来るわけないだろ」
智史は当然のように拒否した。
「サトシリカゲル、ズボンのチャック開けるね。あっ、パジャマだからついてないのか。直接脱がしちゃえーっ」
化能蒸は智史の側により、ズボンを引っ張ろうとする。
「ワタシも手伝うよ」
モニカも加担してくる。
「やっ、やめてくれ」
智史は全身をぶんぶん振り動かし必死に抵抗する。
「サトシくん、このままじゃおもらししちゃうよ」
「ちなみにペットボトルのペットとは、ポリエチレンテレフタレートのことなのだ。エチレングリコールとテレフタル酸との脱水縮合により作られるのだ。有機化学分野で習うぜ」
けれどもモニカと化能蒸の方が優勢だ。
「あっ、あのう、露古湖さん。厠には、行かせてあげた方がいいのではないでしょうか?」
「露古湖お姉ちゃん、智史お兄ちゃんがかわいそうだよ」
葉月と理密図が説得すると、
「……それじゃ、特別に許可するわね」
露古湖は数秒悩んだのち、こう告げた。葉月にあの姿に変身されては困る、と感じての判断だった。
「よっ、よかったぁ~」
智史はモニカと化能蒸から解放されるとすぐさまガバッと立ち上がり、一階にあるトイレへ向かって走っていった。
(規制対策のため削除)
とっさについた嘘が功を奏し、ホッと一安心した智史が自室の扉を開くと、残る三人は智史の所有するマンガを読み漁ったり、携帯ゲーム機で遊んだりしていた。
「あっ、あのう、もう一度言うけど、あんまり俺の部屋を荒らさないでね」
智史が優しく注意すると、
「ごめんなさい智史さん。すぐに元の位置へ戻します」
「了解、サトシリカゲル」
「智史お兄ちゃん、すぐお片づけするね」
三人とも快く応じてくれた。
「さてと、問題の続きやらないと」
智史が椅子に座り、シャープペンシルを手に持った。その時、
「サトシくぅーん」
「もう、智史君ったら。シャイな男の子ね」
モニカと露古湖の声がするのとほぼ同時に、部屋の扉がガチャっと開かれた。
「ごっ、ごめんなさーっい」
智史は反射的に謝る。
「サトシくん、I don‘t mind at all that I was peeped by you.」
モニカは頬をピンク色に染めながら自分の気持ちを英語で伝える。
「わたくしもモニカちゃんのあとにやったわよ。智史君、なんで逃げたのかな? 男の子なら、こういうシチュエーション大喜びすると思ったのに」
露古湖は不思議そうに尋ねて来た。
「ギャルゲーの世界じゃないんだから」
智史は困惑顔ですかさず突っ込む。
「サトシリカゲル、アタシ以外は普通に排泄行為をするからね。この四名は三次元空間上では現実の女の子と生物学的特徴が同じだから。アタシの場合は、飲食物は体内でエネルギーに変換されるからする必要ないけどな」
化能蒸はにこにこしながら自慢げに語る。
「ド○えもんかよ」
智史はまたもすかさず突っ込んだ。
「まあでもアタシでも月一、数日に渡って血液が子宮から体外に排出されるのだけどね。三次元世界の人間の女の子で言うとアノ日のことだよ。サトシリカゲル、このことを正式名称で何と言うかもちろん知ってるよね? 保健の授業とかで習ったでしょ?」
化能蒸は少し照れくさそうに訊く。
「もうその話はいいよ」
智史は俯き加減に言った。
「智史お兄ちゃん困ってるから、数学のお話に戻るね。あたし、智史お兄ちゃんが学校にいる間、数学の中間テストの問題も拝見したけど、簡単過ぎだよ。問題集から数値もそのまま出されてるのが三分の一くらいあった。こんなので九〇点百点取ったって意味がないよ。問題を作った先生も手を抜き過ぎ。採点で楽をしようと思ったんだね」
「えっ、俺にはかなり難しく感じたんだけど」
理密図の不満そうな指摘を智史は即反論する。
「それは智史お兄ちゃんに基礎学力があまりついてないからだよ。模試では、今まで見たこともないような問題が出るの。数値変えただけで解けなくなるようではダメだよ!」
理密図はむすっとした表情で智史を見上げながら苦言を呈した。
「化学と生物も問題集からのコピーがかなり目立ってたぜ。サトシリカゲルの偏差値は化学基礎が四三.八、生物基礎が四六.一かぁ」
「古典も、ワークからそのまま出されている問題が多く感じました。学年平均も七四点もありますし」
「世界史は本当に酷かったわ。ワークからそっくりそのままので大半を締められてるもの。平均も八一点って。智史君は八六点取ってるけど、学年順位は一二五位だし。得意科目みたいだけど、これじゃダメね」
化能蒸、葉月、露古湖の三人は智史の個人成績表を眺めてため息をついた。
「確かに世界史百点いっぱいいたなぁ。あの、もう十一時過ぎてるし、そろそろ終わりに」
智史は目覚まし時計の針を眺める。かなり眠くなって来ていた。
「ダメだよ! サトシくん。まだ今日の分ほとんどやってないよ。高校一年生は少なくとも三時間はやらなきゃ」
モニカは厳しく注意する。
「サトシリカゲル、ほら見て。ノブエステルも家庭学習頑張ってるぜ」
化能蒸に言われ、智史はテレビモニターに目を向ける。
伸英が学習机に向かって、一生懸命英語の演習問題を解いている姿が映し出されていた。
「ほんとだ」
智史は食い入るように見つめる。普段よく浮かべるのほほんとした表情とは違い、真剣な表情をしていた。
「こちらは哲秀君の様子よ」
露古湖がリモコンを操作すると、哲秀のおウチ内部が映し出された。
彼もまた、机に向かって数学の演習問題を解いていた。
「哲秀も、天才かと思いきや、やっぱ陰で努力してるんだな」
智史は感心しながら呟く。
「その通りです。哲秀さんも、伸英さんも、妹君の智実さんも、長年刻苦勉励し続けて、あれだけの高い学力を身に付けられたんですよ。テスト前だけ勉強すればいい、なんていう智史さんのような浅はかな意識の持ち様とは違うのです。真の学力というのは、一夜漬けで身に付くようなものでは到底ありません。智史さんは、中学生の頃や高校の一学期に一夜漬けで覚えた内容を、今もう一度やって完璧に解けますか?」
「……それは、自信ないな」
葉月からの質問に、智史は俯き加減で答えた。
「そうでしょう智史さん。楽をして成績が上がるなんてそんな甘い考えではいけませんよ」
「学問に王道なしは、ユークリッドの有名な言葉だよ、智史お兄ちゃん」
理密図は得意げに教える。
「さあ、サトシくん。次は英語を頑張ろう。サトシくん一番の苦手科目みたいだから、重点的にやろうね」
「分かった!」
智史は急にやる気がみなぎって来た。
椅子に座ると、さっそくモニカが調節した演習問題を解いていく。
「サトシくん、スペル間違えてる!」
「いったたたぁ、ほっ、ほっぺたそんなに強くつねらないで」
時折、モニカから体罰を受けながら。
☆
まもなく日付が変わる頃、
「智史お兄ちゃん、あたし、もう眠いから、寝るね」
「わらわも眠いので寝ます。子の刻以降に起きているのは辛いです。おやすみなさい」
「アタシも眠くなって来たぜ。夜行性じゃないからな。サトシリカゲル、あとは頑張ってね」
睡魔に負けた理密図、葉月、化能蒸は自分のテキストの中へと飛び込み就寝。
0時二〇分頃。
「智史君、夏にぴったりの夜食よ。元気が出るわよ」
英語の特訓中、露古湖が学習机の上に、あるメニューを置いてくれた。
タイ名物、トムヤムクンだった。
「ありがとう露古湖ちゃん。これも地図帳から取り出したんだね」
「その通りよ。食べ物だって取り出せるの」
「サトシくん、これ食べてLet‘s breathe for a moment.」
「じゃあ、いただきます」
智史は一旦シャーペンを置き、お皿に浸されてあったレンゲを手に取る。そしてお汁と具をいっしょに掬って口に運び入れた。
「かっ、からぁ」
瞬間、舌をぺろりと出す。
「智史君、辛いのは苦手?」
「うん」
「ごめんね。ちょっと待ってて」
露古湖はトムヤムクンを地図帳に戻し、代わりにタイ名物のデザートを取り出した。
「ありがとう」
机の上に置かれると、智史はすぐさまスプーンでお口に運んでいく。
「美味しい?」
モニカがにこやかな表情で尋ねると、
「うん。ココナッツ味がけっこう甘くて」
智史は笑みを浮かべて答えた。彼は美味しそうに全てを平らげた。
「さあサトシくん、もう少しだけ頑張ろう。毎日コツコツ努力すれば、一時凌ぎではない本当の学力が身に付くからね」
モニカはウィンクする。
「分かったよ、モニカちゃん。俺、一生懸命頑張るから」
智史は再びシャーペンを手に取り、英文読解の演習問題を解いていく。
英語の今日の分を学習し終えた頃には午前一時過ぎ、智史はようやく寝させてもらえた。
まさか、体罰されるなんて思いもしなかったよ。叩かれたところがズキズキする。智実のサド気質成分も含まれてるよな。でも、優しくも励ましてもくれたし、それに、顔もしぐさも声もすごく萌えるし、これからもあの子達に教えてもらいたいなって感じたな。
布団の中で、智史はそんなちょっぴりMっ気が芽生えて来た。彼が眠り付いてから数分のち、
「智史さん、傷を治しておきますね」
眼鏡を外した葉月が国語のテキストから飛び出て来て、智史に向かって手をかざした。
すると智史の顔や腕、下腹部、足に出来た痣が瞬く間に消えていったのだ。
「智史さんの寝顔、いとらうたしです。わらわは体罰に加担しないので、ご安心下さいね。おやすみなさい」
葉月は小声で伝えて小さくあくびをし、自分のテキストへと戻っていった。