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45歳の恋愛

作者: ゴリラ

香川直美(かがわなおみ)は東京の郊外にある病院に勤める勤続22年になるベテラン看護師だ。彼女は地元熊本にある看護学校を卒業後、引き止める家族を残し上京した。当時はまだ東京に良いイメージもなく、心配する家族を余所に彼女は上京を決めた。

看護師として様々な苦難を乗り越え、時には働く場所を変えようかと思うこともあった。だが、彼女が勤務する病院は人間関係もよく、彼女が住む場所は田舎から上京してきた彼女にとって住みやすい環境であり離れがたい場所となってしまった。

そして気がつけば、勤続22年。同じ病院で22年働く看護師は珍しく、そして重宝された。役職につく話も上がったが、患者と関わることに生きがいを感じていた彼女は余計なしがらみは必要ないと断ってきた。

年下の看護師長の元でも彼女は常に看護師としてどうあるべきかのお手本の様だった。

そんな彼女に結婚の話がでたのは40歳。少々遅い結婚だった。相手は同じ病院に勤める医師 相木巧(あいきたくみ) 34歳。28歳の頃、研修医として香川直美の勤める病院で働いた相木は、香川の看護師としてのひたむきさと常に患者のためを考えるその姿勢に惚れ込んだ。

 最初は歳の差や看護師と医者の結婚があまり良く思われない事を知っていた為に断った香川だが、相木の真っ直ぐな態度に次第に心を許し結婚することになった。


結婚生活は一年間。二年目は別居、三年目でふたりは離婚した。結婚後、相木は職場と実生活での香川を比べ想像していたものと違うと非難し、次第に香川を家政婦扱いするようになった。そして相木が同じ職場の看護師と不倫関係に陥ったことで、二人は離婚した。

香川はその病院では少なからず名の通った人物であり、相木と不倫相手の看護師は職場を辞めた。しかし、長年居続けた香川も職場での皆からの態度が同情や好奇心の目に変わったことで、居辛さを感じ、そして辞めた。


香川は悩み、そして飛行機のチケットを買った。


長い間はなれていた地元へ帰ろうと決めたのだ。上京して数える程しか帰らなかった香川は自分が離れた頃よりも遥かににぎやかになった熊本市内に感傷に浸る。卒業後初めて看護学校を訪れ、見知った教師がまだ働いていた事に感慨深い思いを抱く。

そして、市内の駅から片道一時間。窓から見える景色は立ち並ぶ家々から、長閑な田園の風景へと変わる。

降り立った駅は相変わらず無人で、香川は変わらないものもあるのだと安心して家に帰って行った。


「ただいま」

「お帰り、直美」


温かく迎えてくれる母、仏間には父の顔写真が飾られており、父もまた温かく微笑んでくれているようだった。

直美は暫く看護師であったことは忘れ、ゆっくりしようと決めていた。

だが、その性分から直ぐに働きたくなり再就職したときには母は笑い、そして安心したように見えた。

地元で再就職したため、見知った顔もいくつかあった。44歳で再就職した直美はやはり好機の視線から逃れることはなかったが、次第に打ち解け必要とされる人間になっていた。


「おはようございます。本日入院を担当させていただく看護師の香川です。宜しくお願いします。」

「お願いします。ねえ、香川さんって香川直美?なおちゃん?」


看護師として再び生き生きと働く香川の前に、患者として入院してきたのはかつての同級生 飯田靖(いいだやすし)。昔からあまり身体が丈夫でなかったという飯田は入退院を繰り返していた。勿論、香川は飯田の身体が丈夫でなかったことなど知るよしもなかった。初めて飯田と看護師と患者として再会した時は、表情にこそ出さなかったものの香川は驚きと切なさを感じていた。


「なおちゃん、立派になったよね。上京してたんだって?すごいよ」

「ありがとうございます、飯田さん」

「ははっ前みたいにやすくんって呼んでくれないの?」

「仕事中ですから。」

「なおちゃん、そんなに真面目だったっけ」


飯田は昔、香川の憧れの人だった。太陽の下で運動に励む飯田をいつも眩しく思っていた。太陽の下が似合う人だと思っていた。それが今では闘病生活。太陽のしたではなく、昔、飯田にはとても似合わないと思っていた、考えられなかった、薬品まみれの生活をしている。昔馴染みのそんな姿は香川にとって耐えられない事で、飯田と接する時間はほかの患者よりも少なかった。飯田は気づいていたが、それでも構わず香川に絡み続けた。


「なおちゃん、離婚したんだって?俺もなんだ」


香川は初めて飯田の前で笑顔以外の表情を浮かべた。患者として接してきた相手に彼女がその表情を浮かべたのは初めてだった。飯田は思わず黙り、それに香川は張り付けたような笑顔でいつもの業務をこなした。


飯田の退院が決まり、退院する日、飯田は香川に最後にとばかりに声をかけた。


「ねえ、なおちゃん俺のこと嫌い?」

「いいえ。」

「じゃあ、」

「私は看護師で、貴方は患者さん。好きだとか嫌いだとかはありません。飯田さん、退院おめでとうございます。これからも無理しないで下さいね。」


飯田は香川の言葉に残念そうな顔をした。香川はほかの患者にたいしてもいつも同じ言葉を言うのだ。


―おめでとうございます。これからも無理をしないで下さいね。―


香川は飯田にとって、昔馴染みで特別な看護師だった。だが、香川にとって飯田はその他大勢の患者と一緒だったのだ。

その事実を突き付けられたことで飯田は落胆を隠そうともせず、病院を去っていった。




間もなく飯田の葬儀が行われる。

香川が最後、飯田を見送った退院の日。あの日、飯田が退院したのは、病状が回復したからではない。死期を悟った飯田が医師に無理を言って退院したのだ。残りわずかな自分の人生をどう過ごすか。

香川は人知れず葬儀に参加し、そして仕事に戻る。

自分の居場所はここにあるのだというように。


―なおちゃん、看護師向いてないって言われてたよね。俺、そんなふうに言われても夢を諦めないなおちゃんが好きだったんだ。―


貴方だけはいつも言ってくれてたわね。


―なおちゃん、頑張れよ。どこに行ったって、なおちゃんはきっと良い看護師さんになるからさ。―


貴方は私の原点だった。貴方だけが私を見捨てなかった。

私に愛をささやいてくれた彼も、私を慕ってくれた後輩も、私を見守ってくれた先輩も、もう居ない。


貴方もまた流れゆくときの中に消えてしまったけれど、私は貴方を忘れない。

きっと貴方は知らないでしょう。貴方は私にとって、特別な患者だった。

貴方に気づかれるわけにはいかなかった。けれど、今は少しだけ、それがとても愚かな行為だったのではないかと思ってしまう。


香川はどんよりと曇った空を仰ぎみる。あの日あの頃の飯田はもう居ない。けれどそれは香川とて同じ。


今を生きていけるのは、あの頃の思い出があるから。


香川はこれからも、看護師として沢山の患者と接していく。一人一人に悔いのない関わりができるよう、誰にも恥じることのない看護師として残りの人生を生きていく、それが香川のたった一つの生き方だ。


45歳。恋の甘さも辛さも経験した香川は、また一つ、成長したのだった。


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