八月七日 (7)
「この支部にようやく司教がやってくる」
エクレシア箱館支部では、ここ数日この話題で持ち切りである。
そもそも司教というものは、広義の『十二使徒』に匹敵する非常に高尚な人物であり、そう簡単になれるようなものではない。そのため司教の大半は必然的に本部勤務となり、場合によってはこの箱館支部のように常駐する司教がいない、ということもしばしばである。
“七つの大罪”の状況もここ数年で大幅に変化している。司教がいなければ太刀打ちできないこの状況を打開するべく、ようやくその人物がこの土地にやってくるのだ。話題になるのは至極当然のことだった。
「……で、その司教があの『姫良三善』」
黒の短髪、そして淡い緑の光彩を放つ瞳。一般神父が身に着ける黒い聖職衣を身に纏った男は、思わず小さくため息をついた。そして、自分の真横に立つ栗色の髪の女性を座ったままゆっくりと仰ぎ見る。
女性――箱館支部にて簡易秘書を務める人工預言者(通称A-P)コモン・タイプ、『イヴ』から渡されたとある人物の資料。先程「あなたは知っておいた方がいいでしょう」と彼女からこれを渡されてしまい、神父――ロン・ウォーカーは彼女の前でその内容を確認せざるを得なくなったのである。
彼女がこれを直接渡してきたということは、その反応を知りたいということなのだろう。そう考えている時の彼女は常にそうしてきたし、プログラム上今後もそうしてくるはずだ。だからロンは決して文句を言わず、渋々彼女の前でそれに目を通すことにした。そして納得したと言わんばかりに首を二、三度縦に動かす。
「ご存じで?」
イヴが鉄仮面のような無表情で尋ねた。
透き通るような美しい肌に、凍れる青の瞳。美人という言葉をそのまま体現したような顔立ちは、思わず感嘆の声を洩らしてしまうほどだ。
しかしロンは一切動じず、淡々と彼女の問いに答える。
「ご存じも何も。エクレシアに勤務している聖職者で彼を知らない奴は多分いないだろうね。ジェームズに喧嘩を売った命知らず。そういう嫌な覚え方をされているはずだ」
しかしそれも、彼がエクレシアきっての天才だから許されたことなのかもしれない。皆自分には敵わないと理解している奴に喧嘩を売るほどバカではないし、暇でもない。
ロンはその資料に記載されている経歴をなぞる。
「かつての司教就任最年少記録――ホセ・カークランドの二十六歳を大幅に塗り替え、十六歳で最年少司教になり、それから二年ちょっとでここの支部長に就任。しかも、最難関と謳われる実技試験の悪魔払いはまさかの満点ときた。一体なんだこの化け物は。本当に同じ人間か?」
イヴは困ったように薄い笑みを浮かべた。
ロンは知っている。今自分の横で肩をすくめているこのA-Pの原案を作ったのは、まさしくこの話の中心人物・姫良神父である。これが彼の司教としての最初の仕事だった、とかつてイヴが説明してくれていた。
彼女は言葉に窮した結果、ゆっくりと口を開く。
「あの人は化け物じゃありませんよ」
「じゃあ何?」
「頭の造りがちょっと、普通じゃないだけです。変人という表現ならば合っていると思います」
「それを化け物って言うんじゃないかな……。そもそもこんなにスピード出世するなんて、よほど司教の数は足りないんでしょうね。ところでこの写真はいつのもの?」
彼の皮肉をどう対処すべきか分からず、イヴはさらに困り果てた表情を浮かべる。一瞬眉間に皺が寄った気もするが、すぐに消えてしまったのでロンも見なかったことにした。
「ええと。その写真は司教になる少し前――十六歳の頃のものだと伺っております。私が出会う前のものですね。新しいものは、本人がなかなか撮らせてくれないらしく。それが一番新しい写真ですよ」
「へえ。十六歳でこんなにお子様なのかぁ。東洋人は結構な童顔だけど、これはさすがに極端かなあ……。このお子様があのジェームズ様に喧嘩売ったのかと思うと、うちの教会はなんて平和なんだろうって思うね。若気の至りってやつかな」
「今は十九歳ですから、多少は成長していると思いますよ」
「まあでも、俺の好みにはならんだろう」
ロンはほんの少し、いやかなり、嗜好が他者とずれていた。
それはともかく、こんなに遠く離れた土地にまでその名前を知らしめる彼は一体どんな人物なのだろうか。資料からは決してはかることのできない未知の領域に、ロンは正直ひどく困惑していた。
思わず資料を握る手に力が加わる。ぐしゃり、と潰れる音がするまで、彼は自分がそれを握りつぶしていることに気づいていなかった。
もしも、自分の『本職』を発動しなければならないような男だったならば、どうするべきか――
そこでふと、先程から姿の見えない“彼女”のことを思い出した。
「あれ、そういえばリーナは? どこ行ったの」
「シスター・リーナには主人を迎えに行ってもらっています」
***
その頃、修道女・羽丘リーナは胸を高鳴らせつつ空港へと向かっていた。
「待ちに待った司教がやってくる」という話を聞かされた時からこの緊張は続いており、当分の間はその状態が続くものと思われた。
というのも、司教就任の話と同時にその司教がプロフェットも兼ねていると聞かされたからだった。
この支部、実はプロフェットとして勤務する聖職者は彼女しかいない。プロフェットが複数必要な事態に陥った場合は、遠く離れた札幌から司教ごと呼び出すこともしばしばである。何度本部に直訴してもプロフェットの数を増やしてもらえず、今日に至るという訳だ。
これは嬉しい。嬉しすぎて、告知を受けた日は眠れなかった。今まで一人で“七つの大罪”と戦っていた彼女にとって、その告知は福音と等しいものであったのだ。
しかし実は彼女、この司教がどんな人物なのかという情報は何も聞かされていなかった。ただ小耳にはさんだのは、最年少で司教になったエクレシア史上の天才ということ。その他には、出掛けにイヴが教えてくれた「彼の瞳は炎のように真っ赤な色をしている」ということのみである。
そんなエリートを迎えに行くのだ。きっと人間性も優れていて爽やかで、好青年もいいところなのだろう。恐ろしくかっこいい人物が現れたらどうしよう、自分はおそらく卒倒してしまう。一応修道女とはいえ年頃の少女である、かっこいい男性は好きだ。
その時、風が彼女の頬を撫でるように吹きつけ、独特の灰色の髪をふんわりとなびかせた。聖職衣が揺れる。
ふ、と息を吐き出すと、なぜか唐突に煮え立っていた頭が冷えた。ほんの少し冷静になった頭で、「ちょっと待てよ」と先程まで考えていたことに突っ込みを入れる。
――あまりかっこいいと、ロンの奴が喜ぶからそれはそれで困る……。
同僚のロン・ウォーカーはここだけの話、老若男女問わず、美しいものが好きだ。
それでよく神父になったものだ。本人曰く、俗世から離れて煩悩を断ち切ろうとした結果がこれらしいので、こればっかりは、どうしようもないというか、なんと言うか……。幸い、彼のお眼鏡に適うような人物はなかなかいないので心配はしていないが。
そこでふと、妙な気配に気がついた。
リーナがゆっくりと振り返ると、大分遠くの方で、ひとりの女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。長い黒髪を垂らし、うつむいているため表情はよく見えない。しかし、どことなくぞくりと背筋が震えるような感覚がある。
ものすごく嫌な予感がした。
リーナはその彼女をもっとよく観察してみることにした。女性は今も尚ゆっくりとこちらに近づいてくる。彼女がまとう空気が、他とは違う淀み方をしている。
間違いない。
あれは、“七つの大罪”、第二階層。
「『釈義展開・装填開始』」
彼女の灰色の瞳が祝詞を唱えた刹那、赤銅へと変色し始める。揺らめいた光彩が捉えたのは女性の髪の色である“黒”。
そう、彼女の対価は「色」だった。
その時である。
突如前から歩いてきた女性がリーナめがけて飛びかかってきた。異常ともとれる女性の長い爪はまるで鉤爪のように鋭く、その切っ先を左胸に突きたてようとする。
咄嗟に受け身をとり、リーナはすぐに祝詞をあげた。
「『深層(significance)発動』!」
首から下げた十字が銀色の炎と化し、彼女の手の中で変形してゆく。炎が収まったころ、その銀十字だったものはシルバー・パーツの銃器へと変貌を遂げていた。これが彼女の釈義、『金属変換』。化学系釈義の典型である。
しかし武器を手にしたリーナは、すぐに女性を撃とうとはしなかった。否、直接撃つことができずにいた。むやみに撃てばこの女性の身体に傷がついてしまう。それが分かっているからこそ、すぐに攻撃することができなかったのだ。
かつて“七つの大罪”は階層が下の者ほど昆虫のような形をしており、非常に扱いやすかった。しかし今は違う。階級の下の者も、自身の身体を捨て人間に寄生していることの方が圧倒的に多い。それを対処できるのが、神父の中でも特別「悪魔払い」を行うことを許される人物――司教なのである。
どうしてこう、タイミングが悪いのだろう。リーナは小さく舌打ちした。“七つの大罪”と身体を引き離す効果がある札はあるが、うまくいく確率はかなり低い。運が悪ければ、その身体を傷つけるだけで終わってしまうかもしれない。
そう考えている間にも、女性は髪を振り乱しながらこちらに飛びかかってくる。異常に長く伸びた爪が、リーナに向かって突きたてられる。
リーナはすぐに照準を合わせ、その爪を撃ち抜いた。光の弾が流星の如く流れてゆく。数本分の爪が砕け落ち、乾いた音を立てて落下した。しかし、すぐに爪は再生し元の長さに戻ってしまう。
「『……プロフェット……』」
女性が小さく呟いた。
「かわいそうに」
再びリーナの銃が女性の爪を打ち砕く。しかし爪の再生する速度は異常なまでに速い。装填が間に合わない。
女性が猫のように高く飛び上がり、その長い爪をリーナに向けた。
――刹那。
「『深層(significance)発動』」
リーナの耳に突如男性の声が聞こえた。ごう、と火の粉をまとう黄味がかった炎が女性をみるみる覆い、その長く伸びた爪を燃やしてしまった。その炎の勢いに驚き思わずその場にしゃがみこんでしまったリーナだったが、その熱風に吐き気がするほどの聖気を感じ、のろのろと顔を上げる。
彼女の前に立ちはだかるのは、黒いスーツを身に纏った小柄な男性だった。短い灰色の髪は癖毛らしくふわふわとしている。うしろ姿しか見えないので彼の表情は分からないが、そのすらりとした体躯は衣服を身に纏っていてもよく分かる。彼の左耳が炎の光を受け、瞬いているのに気がついた。よくよく見ると、彼の左耳――ちょうど軟骨部分に十字の飾りがついたイヤー・カフが留められており、それが風圧で揺れ動いていた。
「……、“色欲”か、お前」
聖火をその左手に吸収させ、ふ、と息を吐き出した男性はぽつりと呟いた。呆然とするリーナをよそに、炎に打ちのめされひっくり返った女性を彼はゆっくりと抱きあげる。
「貴女の名は?」
女性が苦しそうにうめきながら、小さな声で名を唱えた。ゆっくりと、掠れた声で。その聖なる炎で、“七つの大罪”の力が弱まったのだ。その声を男性は頷きながら聞き、彼女のぼろぼろに傷ついた手をそっと握る。
「神の名を。そうしたら救ってやるよ」
めでたし聖寵、充満てるマリア。
彼女の耳元でその祝詞を唱え、復唱するように囁く。
「『……めでたし、聖寵。充満てる、マリア』」
その瞬間、彼女の身体が温かな光に包まれた。そっと浮き出る丸い光の粒に、臆することなく彼は触れる。一瞬紫色の火花が散ったが、すぐに元の温もりを取り戻す。
「“Fiat eu stita et pirate mundus.Fiat justitia,ruat caelum.”――『秘蹟(
Sacramentum)展開』。天国の門へ、迷わず進まんことを」
その光る粒は、彼の手の中でぱっと紫色の花弁となり、風に流されていった。
リーナは呆けたまま動けなかった。先程まで全く歯が立たなかった“七つの大罪”を、彼はほとんど傷つけることなく浄化してしまった。そして聞いたことのない釈義の祝詞――『秘蹟』と、彼は確かに言った。それを操ることのできる人物はただひとり、今は亡き大司教だけのはず。それなのに、彼はいとも簡単に使いこなして見せた。
このひとは一体何者だろう?
しばらくして、男性が抱えていた女性は目を覚ました。その状況が全く分からずに混乱していたようだったが、彼が丁寧に説明し、念のため救急車の手配までしていた。
女性が救急車で運ばれていくのを静かに見送ると、その男はようやく呆けたまま動けなかったリーナに手を伸ばした。
「大丈夫か? さすがに痛かったろ」
彼はそのとき、ようやくリーナにその顔を見せた。
ルビーを連想させる澄んだ真っ赤な瞳を持ち合わせた、優しげな表情を浮かべた人物。スーツの左衿を見るとエクレシアのピンが刺してあるのに気がついた。まさか、と思う。
「あなたは……」
そのとき、彼の携帯電話が鳴った。彼は懐から白いボディのそれを取り出し、通話ボタンを押した。
「……ああ、イヴか。もう着いたよ。迎えがなかなか来ないから、支部の近くまで来たんだけど……、うん、そう。道に迷った。ところでその迎えっていうのはどういう奴が来るの?」
彼女の耳に知っている人物名が出てきた。
――今『イヴ』とか言ったか?
そのとき彼女の胸に残る疑惑が確信へと変わった。
「うん? 灰色の髪の修道女?」
そこでようやく、彼は腰が抜けたまま呆けているリーナに目をやった。
「……あー、なんかそれっぽいのが今腰抜かしてるんだけど」
少し受話器から口を離し、男はリーナに尋ねた。
「あんた、もしかして羽丘リーナとかいう名前だったりする?」
リーナはおずおずと首を縦に動かした。彼女の予感はどうやら的中しているらしい。後に電話を切ったその男は、困ったような表情でリーナを見下ろす。……否、困ったというよりは完全にあきれ果てた表情だ。それが嫌でも分かる。
「ああ、唯一のプロフェットがこれかよ。今までどうしていたんだ、ここの支部は……想像以上にやばいな」
「し、失礼な! 一体何なんですかあなた、初対面で!」
自分のことはともかく、支部を中傷するのだけは許せない。リーナは思わず彼に対し強い口調で文句を言ってしまった。言ってしまったあとでその失態に気が付き、はっとしてしまったが、彼はそんなことは全く気にしていないらしい。むしろ一度驚き目を瞠ってから、眉を下げて笑ったのだった。
「確かに初対面で言うことじゃないな、悪かったよ。それで、ええと。シスター・リーナ。おれ、箱館支部に行きたいんだけど、案内してくれないかな。すっかり迷っちゃって」
困ったように肩をすくめた彼は、リーナの腕を引っ張り無理やり立たせてやった。
「あなたが、司教……ですか?」
きょとんとして、彼は赤い瞳を丸くした。
「ああ、そうだ。イヴから聞いてないか?」