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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
5.暴食の承和の楔 [version:α]
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第四章 3

 橘もカナも、科学研エリアに行ったはずだ。

 三善は走りながら『釈義』を展開し、二人に打ち込んだ『楔』の形跡を追おうとした。しかし、結論から言うとそれは叶わなかった。

 なぜか彼ら二人の消息が掴めないのだ。追跡しようとすると、途中で奇妙なノイズが走りその先が掴めないでいる。試しに他のプロフェットに対し干渉してみたところ、こちらは問題なかった。支部を出たメンバのいずれもが予定通り動いていることが分かる。

 だとすると、一体この場所になにが起こっているのだ。

 三善はいくつかの可能性を並べ、――結論が出なかったので、とりあえず一旦それらを捨て置くことに決めた。

 そうしているうちに科学研エリアまで到達した。三善は聖職衣のポケットからカードキーを取り出すと、それをパネルの前にかざす。甲高い電子音とともに、重い扉が左右に動いた。

 室内はしんと静まり返っている。電灯はついているようだが、いつも猛烈な音を立てて回転している機材のファンの音がしない。見ると、それらの機器は全てシャットダウン状態となっており、電源ボタンがアンバー色に光っていた。

 それよりも気になるのは、

「――どうして誰もいないんだ」

 今日・明日は正念場だからと、科学研に配属している職員はほぼ全員稼働日として設定したはずである。それに、いつもなら三善が顔を覗かせれば必ず誰かが気づいて声をかけてくる。それがないということは。

 三善は最悪のケースを想定しつつ、息を殺して居室に足を踏み入れた。

 イヴを泳がせた量子コンピュータはこのエリアの最深部に置かれている。限られた人物のみが入れるように権限を付与しており、カナ・橘の両名ですらその場所には入ることができない。となると、彼らは少なくともその場所よりも手前にいるはずである。

 三善がゆっくりと歩を進めると、履いている革靴の音だけが自分の後をついてくる。

 その時だった。

 三善は突如背中に走った違和感に気づき、慌てて身を翻した。

「『深層(significance)・発動』!」

 祝詞と同時に、三善の左腕が金属状に硬化する。刹那、重たい金属が三善の左腕を直撃した。耳鳴りがするほどの共鳴。変な体勢でそれを受け止めたせいで、三善の左腕は悲鳴を上げている。

「……、ブラザー?」

 そこにいたのはカナだった。彼の腕には何やら頑丈そうな棒が握られており、それが三善の左腕に命中したものと思われる。

 三善は瞠目しつつ、彼が今何をしたのかを問い質した。

縮絨棒(しゅうじゅくぼう)、ですか。いったいどうしたのです」

 彼は鋭い眼光を三善へ向け、それから恐ろしく長く息をつく。金属の反響する音が、まだ遠くの方で鳴り響いているようだった。

 それが聞こえなくなった頃、三善はもうひとつ問いかけをした。

「ブラザー・タチバナはどこへ? 一緒にいたのではなかったのですか」

 その問いに対しても、カナは答えない。

「答えなさい、カナ・アイスラー」

 三善がかなり語調を強めて言った。すると、仕方なしに、彼は口を開く。

「そんなに大事な子供なら、ずっと近くに置いておけばよかったものを」

 は、と三善が呆けた声を洩らした。

 しかし、その言葉の真意を問い質すほどの時間の猶予はなかった。三善の目の前に再度縮絨棒が突きつけられたからだった。

 それを見た三善は、先ほどまで考えていたいくつかの『可能性』のうち、一番まともでないものを選び取った。まともでないが、一番この状況にふさわしい内容である。

「……なるほど、『楔』ね」

 三善はそう呟くと、続いてこのように言った。「やっぱりあんたのことは先に潰しておけばよかったよ。ブラザー・ジェームズ」

 しかしこれではフェアじゃないな、と三善は胸元で十字を切った。白んだ炎が宙を走り、そしてそれは一振りの剣へと変貌する。

 ――聖十字の剣。

 吐き気がするほどの強烈な聖気がそれを中心に溢れ出し、目に見えない粘性の何かが全身を覆い尽くした。それを出現させたのも随分と久しぶりだったため、三善本人も加減ができずにいる。もしもこれが冷静なときだったならばまた違ったかもしれないが、この時の三善は確実に青筋を立てていた。

 三善がその男の名を呼んだことで、ようやくカナが自発的に口を開く。

「あいにくだが、これは『あのひと』の意思だ。『あのひと』の目的がようやく達成しそうなのに、止められるはずがない」

 今の発言はカナ自身のものだな、と三善は思った。

 しかし、それを聞いて確信した。「まさかこのタイミングで」、という表現はまったく正しくなく、正確には「このタイミングだからこそ」、だったのだ。

 まさかジェームズが『楔』の権限を得て以降、自身の部下である『異端審問官』に対し『楔』を打っていただなんて想定外の事態だった。つまり、今の三善が計画していた『塩化現象』に対する対策とほぼ同じ手法を、それよりも前からジェームズは行っていたということ。『楔』を打った本人が動けないなら、『楔』を打たれた者を遠隔で動かせばよい。ただそれだけのことだった。

 そしてこうも思う。

 己は、初めから(・・・・)、あの男に踊らされていたに過ぎないのだ、と。

 三善は奥歯を噛みしめ、それから聖十字の剣を正面に構えた。

「……そうだな。そもそも『終末の日』を一番に望んでいたのは誰なのか、『契約の箱』を最も欲していたのは誰なのかをきちんと考えるべきだった」

 それがおれの過ちだ、と三善は呟いた。「よく考えたらブラザー・ジェームズしかいないじゃないか、そんな滅茶苦茶なことを考えられるのは」

 六年前ならば、まだ“七つの大罪”が関係しているのかも、だなんてぬるいことを言えたかもしれない。しかし今は違う。

 なぜ彼は幼少時の三善を地下に閉じ込めたのか。――三善が『契約の箱』の正当な所有者であるがゆえ、余計な知識をつけさせたくなかったため。

 なぜ彼は三善に『喪神術』を用いたのか。――大司教ヨハネスとの繋がりを絶つことで、『終末の日』に対して妨害されることを防ぐため。

 なぜ橘を三善のもとへ送ったか。――彼は『パンドラの匣』がどういうものなのかを『知っていた』ため。

 なぜ三善を教皇位に推薦したか。

 ――それは、三善を守る人物が確実に不在となる『この時』を狙っていたからだ。

 三善は小さく舌打ちする。

「争い事は避けたいところだが、仕方ない」

 ここでもしも自分が倒れてしまえば、その時点で『終末の日』発生が確定する。それだけは避ける必要があった。

 来いよ、と三善は吐き捨てるように言った。

「お前の罪を、清めてやる」


***


 カナが動いたのと三善が一歩踏み出したのはほぼ同時だった。カナの縮絨棒が大きく旋回し、三善の両腕めがけて振り下ろされる。

 三善はそれをバックステップで避け、その辺に転がっていた事務用の椅子を滑らせた。キャスターが固い音を立て回転し、カナの動線を駆け抜ける。そのせいで、カナの動きが一瞬止まった。その一秒にも満たない隙をつき、三善は剣の柄でカナのこめかみを強く突く。

 ぐらりとカナの身体が大きく傾いた。しかし、彼はそれくらいでは倒れない。激しく脳を揺らしたつもりだったのだが、刹那、反撃と言わんばかりに縮絨棒が三善の鳩尾を突いた。

「っ……!」

 一体どんな体力しているんだ、と内心毒づきつつ、三善は空いている左手で己の肩帯を外した。それを輪になるようにしてカナの首に通すと、力の限り引いた(・・・)

 徐々に首が締まりゆく嫌な感触があった。カナがもがき、必死の思いで三善の脳天に拳をぶち当てる。

 手が緩み、肩帯が滑り落ちたのを彼は見逃さない。カナはすかさずよろけた三善を床に突き飛ばすと、喉に手を当て強くせき込んだ。

 頭がちかちかする。

 三善は腹筋に力を入れなんとか起き上がると、ずるずると身体を引きずるようにして眼前のカナを睨めつける。

 そのとき、背後に別の誰かの気配がした。

 はっとして三善が振り返るのと、その方めがけてカナが『釈義』を展開したのはほぼ同時だった。

 カナの能力は物理系三種。特定の範囲内の重力を操作する能力だ。

 三善の目に映ったのは、こちらを見てその身をこわばらせた橘。それから、彼の後ろに寄り添うようにしていたロンだ。

 まずい、と三善は咄嗟に足を踏ん張ると、彼らの前に勢いよく飛び出した。

「『逆解析(リバース)』!」

 刹那、三善の身体から深紅のプラズマが走る。



 ――センセ、と橘の細い声が、三善の下から聞こえてきた。

 のろのろと三善が目を開けると、そこには三善に突き飛ばされ大きく転んだ橘とロンがいる。彼らは三善を呆然とした様子で見上げ、かたかたと唇を震わせていた。

 間に合った、らしい。

 三善はゆっくりと息を吐き、“傲慢”の『鎧』を解除した。

「……大丈夫そうだな」

 よかった、と三善が呟くと、それからロンへと目を向けた。

「それと、ごめん。約束を守れなかった」

 ロンの表情は、今までに見たことがないほど苦痛に歪んでいる。どうして、とまるでうわごとのように呟くと、三善の頬を一発平手打ちにした。

「……っ、」

 彼らの間に何が起こっているのか、橘は分からなかった。ただひとつだけ、三善の身体に走った赤いプラズマを巡り、ロンが怒りを露わにしているということだけは理解できた。

「どうして今『それ』を使ったんだ!」

 ロンが慟哭にも似た声を上げ、今にも三善の胸倉を掴みそうな勢いでにじり寄る。

「――ブラザー・ロン」

 彼らの頭上からカナの声が聞こえた。

 刹那、ロンの脳がずるりと震えるのを感じる。ただ一言、その名を呼ばれただけで次に続く言葉が想像できる。自分ではない誰かが、自分の身体を用いて意図しないことをしようとしている。ロンは今、そんな奇妙な幻覚に憑りつかれていた。

 まるで死刑宣告のようだった。

 ロンは三善へ目を向ける。

 三善は少し困ったような、なんとも言えない表情を浮かべていた。それは一種の諦めとも言えたかもしれない。

「……恨みますよ、猊下」

 そしてロンは懐から何かを取り出した。鈍色の、手錠を連想させる形状の金属(・・)だ。

 ロンは短く詠唱すると、それを三善の両腕に乗せる。刹那、金属の形状が大きく歪み、三善の両腕を固く拘束する。

 そんな異様な光景を目の当たりにした橘は、思わず言葉を失っていた。

「ブラザー、一体何を――」

 制止する間もなく、ロンははっきりとした口調で続ける。

「……、シリキウス猊下。あなたに『異端審問』を行うこととします。窮屈でしょうが、その御身を拘束させていただくことをお許しください」

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