第三章 4
帯刀に渡された資料によると、次に落雷が発生しそうなのは五日後とのことだ。
冬に落雷は珍しいな、と三善が言うと、それほど頻度が高いわけではないが全く起こらないことはない、とロンがコメントした。
となると、残された時間はごく僅かだということになる。
三善は携帯のカレンダー機能を立ち上げ、暫し逡巡する。
「……、うん。決めた」
今後の天候変動も考慮し、三日後には作戦を決行すること。その前日に『十二使徒』の任命を行うこと。
これらの内容を三善は簡単に伝えると、一同はようやく呆けた様子から真剣な表情になり、首を縦に動かしてくれた。
それを見た三善は、どうしてだろう。張りつめていたものが一瞬緩んでしまったようで、思わず昔のような気の抜けた笑みを浮かべてしまった。
***
気を抜くつもりなど、決してなかったのだ。
二日後、三善は戴冠式の時にも着ていた正装に着替えながらそんなことをぼんやりと考えていた。
なぜあの時、あんな顔で笑ってしまったのだろう。他の面々も珍しいものを見たと言わんばかりに食いついてくるし、むしろそちらの方が面倒で仕方がなかった。
あとから別件でホセと話をしていたとき、「あちらのほうが私はあなたらしいと思いますけどね」となんとも微妙なコメントをもらうくらいには周りを動揺させたらしい。
――可愛げがなくて悪かったな。もう昔に戻っている場合ではないんだ。
そんなことを考えつつ、三善は自室を後にした。一同が待つ聖堂へ向かうかと思いきや、その足は別の場所へ向かっている。
科学研の作業部屋だった。
三善が顔を覗かせると、それに気づいた他の技術者たちはぱっと表情を明るくさせ、しきりに奥へ来るよう勧めるのだった。
というのも、ここに来ることそれ自体に重要な意味があったからだ。
三善が部屋の最深部に足を踏み入れると、寝台にイヴが横たわっていた。
彼女はいつもの女性用スーツではなく、薄手のネグリジェを身に纏っている。後ろでひとつにまとめている長い髪はほどかれ、眼鏡も外してあった。
こうして見ると、彼女は本当に『姫良真夜』そっくりに造られたのだと実感せざるを得なかった。
横たわる彼女の横には、何やら巨大な黒い箱がずんぐりと立ち並んでいる。三善の身長をゆうに超える大きさのそれには既にいくつもの配線が繋げられ、いつでも起動できる状態にあった。真横に立つとファンがうるさく、吐き出される排気で髪がなびいてゆく。
「量子コンピュータとイヴは上手くシンクロできそう?」
尋ねると、技術者の一人が「ええ」と頷いた。
「今のところ、イヴの中身を移植した状態の稼働率に支障はありません。まだ実際に移植した訳ではないので、あくまで予想ですが」
「まぁ……本体よりこっちの方が容量でかいし、彼女も自由に動き回れるとは思うよ。それほど心配しなくても、彼女はマリアのように複雑な造りをしていない」
さて、と三善は横たわるイヴの寝台に腰かけ、そっと髪を梳いてやった。その優しい感触に彼女の睫毛がピクリと動く。
「無理をさせてしまってごめん。君には本当に頭が上がらない」
三善の言葉に反応してか、そっと彼女は瞳を開けた。薄氷色の瞳が、三善の姿を探して微かに震える。
「主人」
「どう、あちらの居心地は」
その問いに、イヴは微かに困惑した表情を浮かべる。おや、と思うが、それを敢えて三善は指摘しなかった。
「この身体より、幾分、動きやすいです」
「そりゃあそうだろうね。容量がケタ違いだからね、あちらさんは」
イヴが再び三善を呼んだ。彼女の細い手が、ひたりと三善の頬に触れる。人工皮膚の滑らかな感触が指先を介して伝わってくる。
その行動に、三善は思わず目を瞠った。
「イヴ?」
「主人は、この身体でない私でも、『私』だと思ってくれますか」
何事にも動揺せず、ただ職務を遂行するように。ただ、それに『愛情』なる心を付与しただけの人工預言者。その心の部分を作ったのは紛れもなく三善本人だが、まさかそんな風な質問を投げかけてくるとは思っていなかった。
どういうこと? なんて野暮な問いかけはしなかった。三善はただ、微かに触れてきたイブの細い掌を強く握り返す。それが、一番の答えだと彼は思っていた。
「うん。イヴはイヴだ。それ以外の何者でもない」
「よかった」
そして彼女は笑う。どこか安心した風に、力の抜けた微笑みだった。
その表情は、三善の記憶の奥深くにちらついているとある人物のものと非常によく似ている。
――これじゃあ、おれも親父とやっていることは同じじゃないか。
三善は呆れ交じりに溜息をつき、それから自分の頬を一発叩いた。
「さて、そろそろやってしまおうか」
イヴ、と三善が彼女の名前を呼ぶ。薄氷色の瞳がきらりと瞬いて、三善の真紅と交錯する。
「主人。あなたに、最大の幸運が訪れますよう」
「うん。向こうで待っていて。すぐに追いつく」
そして、三善は人差し指と中指をクロスし、自分の頬とイヴの頬に軽く触れた。
「ええ。待っています」
そしてイヴの瞳が完全に閉じるまで、三善はそのままじっと彼女を見つめていた。もう一度髪を梳いてやる。今度は反応を示さなかった。自ずから電源を落としたのだろう。
「――もういいよ。イヴの中身を移してやって」
「承りました」
三善の言葉を合図に、技術者たちが動き出す。イヴの身体から四角い箱のようなものを取り出し、例の量子コンピュータへと移植する。彼女が普段持ち合わせているはずの全神経を、『一部』を除いて全てシャットアウトした。そしてその『一部』を、もうひとつ存在するブラックボックスへと強制接続する準備を整える。
その作業を、三善は敢えて手を出さずにぼんやりと見つめていた。最後まで見届けるつもりでこの場に残っていた。
今回の計画は、全て彼女にかかっている。
そんなことを言ったら、イヴは苦笑して、「またあなたの我儘ですか」と文句を言うに決まっている。今は人間らしい容貌ではないけれど、きっと彼女はそうするはずだ。
ごめん、と、ありがとう、と。
伝えたいことは山ほどあるけれど、それはいずれ自然と彼女へと伝わってしまうことだから、何も言わないでおくことにした。
ただひとつ、
「……頑張れ、イヴ」
これだけは言葉にしておきたかったので、誰にも聞かれぬようそっと小声で囁いた。
***
ようやく会議室に向かうと、約束していた時間から三十分ほど遅れていた。一同が何とも言えない表情を浮かべながら三善へと目を向け、それぞれが長く息をついている。
「ごめん、遅くなった」
謝罪をいれると、なぜ遅れたかを皆ある程度理解しているようで、さほど怒られなかった。とはいえ、遅れたことには違いない。申し訳なさそうなポーズくらいはしておくべきだ。小さく肩を竦めると、三善は気を取り直し改めて顔を上げた。
「準備は整いました。これから『十二使徒』の正式任命に至る訳だけれど――ブラザー・ジョン。例の市街地の件はどうなりました?」
その問いに、ジョンは首を縦に動かす。
「ばっちり」
「ありがとうございます。さすがです」
それでは、と三善は事前に用意していた地図を広げて見せた。「先に『十二使徒』『守護聖女』に任命する人物と、その担当場所についてお知らせしておきます。楔を打ち込む時点であなたたちの居場所は逐一分かりますので、そのあたりだけ気をつけてくださいね」
まず、と三善は赤のマジックで箱館支部に丸印をつける。
「箱館支部に残る者として、ブラザー・カナ、ブラザー・タチバナ」
「異議あり」
すかさずブラザー・カナが手を挙げた。「ブラザー・タチバナは、まだプロフェットの認可を受けたばかりで研修も受けていないとか。そんな人物を敢えて『十二使徒』に任命する理由は?」
「マティアに該当するプロフェットの募集をかけたところ、みんな文句だけ言うくせに行動を起こしてくれなかったからです」
その返答に、カナは露骨に顔をしかめた。しかし、それは事実だと彼も知っているので、なにも言うことができない。悔しそうに唇を噛みしめている。
「……というのは冗談」
三善は言う。「今回の件を対応するにあたり、私はほぼ動けなくなります。だから彼を確実に護衛できる人材が必要だったのです。ブラザー・カナのもとなら確実でしょう。それとも、あのヴァチカン衛兵が子供一人を守れないとでも?」
「そんなはずあるか!」
「じゃあ黙って従ってください」
その返答を待っていた、と言わんばかりに、三善がニヤリと嗤った。
その表情に、カナはさらに機嫌を損ねてしまったらしい。頬がぴくぴくと引きつっている。仕事に関して私情を一切挟まないと言われるあの衛兵が、これほどまでに感情をむき出しにしてくるとは思わなかった。
結果的に、カナは三善の手の内で踊らされていただけなのだった。
「ブラザー・カナ。私はあなたを『そういう意味』で信頼しています。ええと、あとは釈義を総合的に見て、均等にならした結果ですね。まぁ、さっきのも三割くらいは本気ですが」
その一言に、今度は橘が手を挙げた。
「センセ。でも、俺……」
「タチバナの役割は『戦うこと』ではないので、君はそのままでいてください」
では次、と強制的に三善は話を打ち切った。
さすがに乱暴に話をぶった切ったので、事情が見えない一同は露骨に不満そうな表情を浮かべる。ただひとり、カナを除いては。
彼だけは、なぜか三善が橘に向けて言った一言を耳にしたとたん、はっと目を見開いていた。そして三善と橘とを見比べ、納得したように小さく頷いている。口元に小さく笑みを浮かべるほどだ。
――聡い奴は好きだ。
もちろんそれに気が付いている三善は、カナをちらりと一瞥したのち、ほっと息をついた。
「続いて、箱館山エリア。ブラザー・ヨハン。ブラザー・アンデレ」
「異議あり」
すかさずヨハンが声をあげた。「今の私はそれを受け入れられるほどの能力は――」
「あなたもそのままでいい」
三善がぴしゃりとヨハンの声を遮った。「私はそれを求めてなどいない。アンディは?」
「心底どうでもいい」
言葉を失うヨハンを三善は無視し、「次」と声を上げる。
「東山エリア。シスター・リーナ。シスター・アメ」
三善はちらりと土岐野へ目を向ける。「……、リーナの釈義は『色』がないと発動できない。雪山ではどうしても不利になるので、サポートしてくれますか」
そう言うと、土岐野は胸を張り一言、強い語調で答えた。
「任せて!」
三善は胸を撫でおろしながら、次のエリアに印をつける。
「次、城岱高原エリア。マリア。……ああ、それと、ホセ」
わざとカウントしませんでしたね、とホセに毒づかれたので、三善はしれっとした表情でそれを無視した。
「あんたはそもそも“喪失者”だろ。今回は仕方なく再任命という形にするが、落ち着いたら別のプロフェットに継承させるから覚悟しておけ」
ぽつりと呟き、異議を唱える者がいないかを確認する。このチームも比較的楽に話がまとまりそうだ。
「では最後、横津岳エリア。ブラザー・ジョン」
三善は彼へ目を向けると、小声で囁いた。「あなたはひとりで足りるでしょう。……足りますよね?」
「まあ、間違いなく足りるだろうな」
ジョンはいつもの飄々とした調子で答え、ひとつだけ頷いて見せた。「任せろ、シリキウス猊下」
彼が滅多に呼ばないその名を耳にすると、ふっと三善は笑い、地図を畳んだ。
「さて、肝心の『十二使徒』任命といきますか」
その一言に、ぴりっとその場の空気が張り詰める。それだけ、この儀式は重要なものなのである。本来的には大聖堂でやるものなのだろうが、そこまで余裕がないのも事実。任命後は、なるべく早く定位置についてもらいたかった。そしてなにより、自分が倒れていたせいで儀式の準備がまったく終わらなかった。そのあたりは紛れもなく自分のせいなのだが、いまさら後悔しても遅い。
「『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。これより汚れた霊に対する権能を、神と子と聖霊の御名において承継する。これは汝が洗礼者・神の僕の僕、シリキウスとの永遠の契約である』」
その祝詞を唱えた刹那、彼から発せられる強烈とも言える聖気が部屋中に立ち込めた。ある程度この猛烈な濃度に耐えられる人物を集めたつもりだが、それでも新たに召集した土岐野やカナは気分が悪そうに口を手で押さえている。
三善はそっと歩き、まず、ホセの両肩にその手を置いた。
「『汝にはゼベダイの子ヤコブを』」
それに返答すべく、ホセは静かに三善の前へ膝をつく。
「――Ave Maria,gratia plena,Dominus tecum.」
三善の釈義が展開する。白い閃光は小さな楔を模した形へと変わり、それが左胸を突いた。微かに伴う痛みに、ホセは一瞬顔をしかめた。
続いて、ジョンの前に立つ。彼は毅然とした様子で、三善をじっと見下ろしている。
「『汝にはヤコブの兄弟・ヨハネを』」
「Ave Maria,gratia plena,Dominus tecum.」
微笑みを湛えた彼の両手からは、普段使う杖とは異なる容貌の代物が現れた。竜の巻き付いた杯だ。さすがのジョンも、このアトリビュートが現れるとは思っておらず、瞠目したままその杯に見入ってしまった。
そして、楔を打ち込む。三善は微かに額に汗を浮かべながら、淡々と作業をこなしてゆく。一瞬彼が纏う聖気が揺らいだ。
「大丈夫か?」
ジョンが尋ねるも、三善は頷いたままそれをやめようとしない。
次はアンデレだ。彼の前に立つと、いつも通りの飄々とした仕草で三善に対し手を広げて見せた。
「『汝にはアンデレを』」
「了解。Ave Maria,gratia plena,Dominus tecum.」
そして彼の手の中に現れたのは、X字型の十字架だ。予想通り、とでも言いたげにアンデレはそっと微笑む。
「悪わんこ。痛くしてもいいよ」
だからここで無駄な体力を使うな、と彼ははっきりとした口調で言い放つ。さすがの三善もこれには困惑した表情を浮かべたが、そう言うのなら、と覚悟を決めたらしい。
もうひとつ放つ、楔。アンデレは一瞬息が詰まったような不穏な息を洩らしたが、すぐにいつもどおりの表情へと戻る。心配ないとでも言いたかったのだろうか。
儀式は着々と進んでゆく。
「『汝には、トマスを』」
そうしてやってきたヨハンの眼前。それでいいのか、という無言の問いかけに、三善は小さく頷いた。そして、何かを暗示するかのように己とヨハンとの胸を叩く。
「OK. Ave Maria,gratia plena,Dominus tecum.」
そうして彼の手に現れた腰帯。今までのものとは大分異なるものが現れてしまったことに、やはり彼も戸惑いを隠せないようだ。今までのような武器らしいものではなくなってしまったのだから、当然と言ったらそれまでなのだが。
「『汝にはアルファイの子ヤコブを』」
カナに対し宣言すると、彼は一つ三善に尋ねた。
「あの人選は、そういうことだな?」
三善は答えなかった。その赤い目線は、「解釈はお好きなように」とでも言っているかのようである。カナもそれに気付かない訳ではなく、
「そう解釈させてもらう」
とだけ言い放った。
彼のアトリビュートは――これも想定外だったが――まさかの司教服だった。ただ、エクレシア指定のものと比べると随分地味というか、一体これはどうすればいいのかとでも言いたげにしているカナの様子はなかなかに面白かった。
そして楔を打ち込んだ。この時にはすでに三善は疲弊し切っており、完全にふらついていた。なんとか気合いで立っているけれど、それも時間の問題ではなかろうか。
そして、最後だ。
「センセ……」
不安そうに立ち尽くす橘の前に、三善はようやく立つことが出来た。
「『汝には、イスカリオテのユダを』」
そうして、彼の両肩に手を置いた。橘はしばらく口を閉ざしたままなにかを思案している風だったが、そっと囁かれた三善の、
「返事」
という一言に、慌てて橘は口を動かした。
「アヴェ、マ……ま?」
一同に、露骨に溜息をつかれた。こいつ本当に大丈夫か? とでも言わんばかりの眼差しである。一応想定内だった三善は、「復唱」と前置きした上で、耳元にそっと日本語訳を教えてやる。それなら理解できる。答えた橘の頭を、三善は「よし」と言わんばかりに撫でてやった。
「『全能の神たる父と子と聖霊の祝福が諸君らに下らんことを、そして常に留まらんことを』」
締めの一文として、三善がそう言い放った。刹那、ぐらりと三善の身体が傾く。
「おっと」
それを一番近くにいたジョンが支えてやると、肩で息をしながら三善は顔をあげた。
「それから、汝らに『守護聖女』の資格を承継する。シスター・アメ、汝に聖アガタを。シスター・リーナ、汝に聖ウルスラを」
そっと手を伸ばすと、二本の釈義の楔が一斉に放たれた。左胸に打ちこまれたそれは、やはり三善の余裕がなかったせいで苦痛を伴うものだった。
「……っ、ごめん、余裕なかった……」
三善が喘鳴混じりに言い、額から零れ落ちた汗を袖口で拭う。
――この『楔』の苦しみが、我々エクレシアが抱えてきた正義の重さだ。
「あとは、皆さんにお任せします。各自、持ち場へ移動してください」
三善がそう言い切ると、右の親指を立てた状態で彼らに見せつけてやる。
「健闘を祈ります」




