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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
5.暴食の承和の楔 [version:α]
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第二章 6

 ロンは教皇庁に送付する書類の送り状を作成しながら、思わず溜息をついてしまった。

 事の始まりは二日前に遡る。

 定例の際、三善がロンに対し「これ、よろしく」となにやら書類の束を渡してきたのである。

 今度は一体何をしでかすつもりなのだろう。呆れながらロンがそれに目を通すと、書類の見出しには『特許使用許諾契約書』と書かれていた。

 ――はあ?

 という声は辛うじて腹の中に押し込められたが、内容を見る限りどうも三善個人と教皇庁の間で何か技術的な契約を締結しようとしている風に読み取れた。ただ、ロンはこの手の話にはとんと疎いので、書かれている技術の内容はさっぱり分からなかった。

 とりあえず教皇庁に問い合わせをしたところ、三善から渡された書類の他に補足資料を添付するよう指示があった。これについても作法がよく分からない。

 困った末にたまたま通りがかったジョンに質問してみたところ、

 ――ああ、あれ(・・)か。

 彼はそう呟くと、すぐに書類管理番号を教えてくれた。これをイヴに伝えればいい、とのことである。

 さて、当のイヴはというと、その管理番号を耳にした瞬間怪訝な顔をして見せた。

 ――資料をお渡しするのは構わないのですが、目的がよく分かりませんね……。

 それはこっちが聞きたいよ、とロンが思わずツッコミを入れてしまったのは記憶にも新しい。

 彼女から資料を受け取り、その内容に不備がないことを確認すると、ロンは送り状を書くべくパソコンに向かい――そして現在に至る。

「つーか、これは一体なんなんだ。うちの猊下は一体何者なんだ……」

 今さらな発言をしつつ、ロンは思わずため息をついた。

 改めてシリキウスの経歴を思い返すと、想像以上に派手である。

 十六歳の時にエクレシア史上最年少で司教になり、件の『A-P』プロジェクトでイヴを製作後、十九歳の時に箱館支部長に就任。そして二十一歳――もうすぐ二十二歳になるが――で大司教就任。さらに付け加えるとすれば、今この手元にある資料を見る限り、彼は何らかの技術の特許権者であるとしか読み取れないのだが。

「このひと、人生の方向性を間違えたんじゃなかろうか」

 どこかの研究所にいた方が幸せなのでは……。

 ひとりごちたところで、ロンの元に一本の電話が入った。携帯電話のディスプレイに浮かび上がる番号に、

「……うげ」

 思わず顔をしかめるロンである。

 教皇庁からだった。もしや申請書類に不備があったのだろうか。恐る恐るロンは電話を取った。

「Hello?」

 念のため声色だけは穏やか且つ真面目そうな雰囲気にしておいた。だが、ロンの表情はみるみるうちに険しくなってゆく。

「主席枢機卿自らかけてくるなんて、よほどですね」

 彼が思わず苦笑してしまうほど、相手は意外な人物だったのだ。

 電話の向こうの彼――ジェームズは、相変わらず威圧感漂う口調でロンに連絡事項を伝えてくる。ロンは携帯を左肩に挟み、散らかった机の上からポストイットを探し出した。ボールペンを手に取り、走り書きでその内容をメモする。

「……ああ、はい。猊下は席を外しております。かけ直させますか?」

 結構、と短く返答された。「まあ……、今のところはなにも。猊下も今のところはいつも通りですし。それ以外にはなにか?」

 ふんふん、とロンは一方的に相槌を打ち、それから唐突にぴたりと動きを止めた。脳の中がもぞりと蠢いたからだ。

「――分かりました。伝えておきます」

 そして切った。この時には、既に頭の中はすっきりとしており、先程の違和感は霧散していた。

 暫しの逡巡ののち、ロンは携帯の電話帳から三善の番号を検索した。そしてためらいがちに通話ボタンを押す。


***


 その頃三善は、何故か作業着姿で技術職員と行動を共にしていた。それも無防備に、変装せずに、である。

 あの日――橘の『釈義』調査。そして件のファイルを目の当たりにしたときから、三善の頭の中でひとつの考えがまとまっていた。

 箱館の『塩化』を抑止する方法。それから、『パンドラの匣』との付き合い方について。

 きちんとした話はまたのちほどするとして、三善はそれが本当に可能かを判断すべく簡単に試験をしようと思った。そのため、二日前の定例でいくつか関係者に作業依頼を行ったのである。

 ロンには、『とある技術』をエクレシアが使用するための許諾契約を結ぶ準備を。

 科学研所属・宮部には、この半壊したトレーニング・ルームを「再現試験用の環境」へ仕様変更させることを。

 そして人事権を持つホセに、一言。

 ――『十二使徒』を再編する。

 そこまで回想した三善は、微かに痛む下腹部をそっと擦った。

 今日の三善は宮部班の視察兼手伝いである。

「つーか猊下。あんたがやらなくてもいいだろ」

 俺たちの仕事取るな、と科学研一同に怒られるも、三善はまるで聞く耳を持たない。それどころか、恐ろしく元気に資材搬入をしている。

 これに関しては相応の事情がある。三善が「再現試験環境」として定義した要件には色々と特殊なものが多く、専門職である科学研の面々でも見たことがない資材が相当数にのぼる。そのため、資材搬入は三善が立ち会い、一から確認しておく必要があったのだった。

 三善は顔をしかめる宮部にへらへらと笑いかけ、それからわざとらしく時計に目を向ける。

「まぁまぁ。とりあえずお昼休憩に行ってきなよ。休憩は大事だ」

 休憩してくれないとおれがお上に怒られるんですよー、と三善が適当な調子で言うので、一部の職員は渋々昼食を摂りに出かけていった。

 居残り組の職員の一人が、ふと三善に尋ねる。

「ところで、お上って猊下の場合は誰なんです?」

「労働基準監督官」

 即答だった。

 そのとき、ポケットに突っ込んでいた携帯電話が着信を訴えて震え出した。取り出してみると、発信元はロンだった。それも、個人持ちの携帯番号である。

 まったくもって嫌な予感しかしないけれど、無視するわけにもいかないので、三善はのろのろと着信ボタンを押した。

「どうした? なんかあったか」

 尋ねると、電話の向こうでロンがべそべそと嘘泣きしているではないか。

『げーかぁ。俺、枢機卿にいじめられた! 慰めて!』

「……。それで? 申請通らなかったのか」

『あ、意外と冷たい』

 ころっと態度を変え、本題に入るロンである。『申請自体はちゃんと通ったよ。今は補足資料をまとめているところだ。それよりもちょっと面倒なことになっているみたいで』

「なによ」

『猊下、十二使徒を再編するって言ったろう。その件でプロフェット部門に苦情が入っているらしい』

 単純にねたんでいるだけだろ、と三善は冷たく返した。再編するとは言っても、基本的にはヨハネス時代からの『十二使徒』をそのまま流用するつもりでいる。例えばホセのように、既に釈義を喪失した者の処置を含める必要があったため、敢えて再編という言い方をしたのだ。それにも関わらず苦情が出るとは、エクレシアの面々はたるんでいるのではなかろうか。

「ロン、悪いけどジェームズにもう一度連絡を取ってくれないか。プロフェット部門にかけあって、腕に自信のある奴は箱館に来いと伝えてくれ」

『ええ……俺、またいじめられるんですけど』

「あとでホットケーキでも焼いてやる。それじゃあ、よろしく」

 一方的に終話ボタンを押すと、恐ろしく長い溜息をついてしまう三善だった。

 初めから覚悟していたことだけれど、今回の方針に対しての周りの反発はかなり強い。ここで己の師ならば、「文句あるなら自分でやってみろ!」と堂々と中指を立てるのだろうが――それはちょっと、否、かなりまずい。

 そういう理論は間違いではないだろうが、なんの解決にもならない。出来ない人が出来る人に頼るのはいけないことだろうか。そういう思いがあるからこそ、敢えて三善は周りからの苦情はすべて受け入れることとしていたのだ。

 三善は渋い顔を浮かべたまま、細々とした部品を数え始める。こういう雑用は精神統一に最適だった。

「お悩みですね。猊下」

 ふと、頭上から声が聞こえてきた。自分を覆い隠すようにぬっと突き出す黒い影がある。

 怪訝に思いながら顔を上げると、そこには見慣れた白い聖職衣の男が立っていた。

「神楽?」

 男――神楽(かぐら)七緒(ななお)・札幌支部長は、わざとらしく口角を吊り上げながら三善に言葉を投げかける。

「ああ、そうしていると全く威厳がないな。間違いなくそっちの方が似合っているよ、猊下」

「生まれ変わったら技術職員になるよ、おれ」

 同じ北海道地区の支部長であり、年齢も比較的近い――とはいえ、三善と神楽はちょうど一回り年齢が離れている――ということで、三善と神楽はプライベートでも親交がある。三善が札幌へ出張に行く際はたいてい神楽宅に宿泊しており、朝まで長々と語り明かすことすらあった。

 三善は「それで?」と神楽に尋ねる。

「どうしたの。こっちに来る予定はなかっただろ」

「ちょっとシスター・リーナに用があってね。彼女のお師匠さんから預かり物があって、それを届けに」

「ふうん……?」

 リーナの師匠と神楽が顔見知りだということに対し、三善は少し不思議だと思った。漠然とした思いなので、三善はあまり深く考えないでおくことにした。

 三善は首に巻いていたタオルを解きながら、「そういえば」と神楽に声をかける。

「来年の北海道地区総会ってどうなるか聞いているか? おれ、参加していいの?」

「参加してもらわないと困るよ。ああ、でも、忙しいなら代理でいいんじゃないかな。俺としては参加してほしいところだが」

「代理ねぇ……」

 なんとも便利な地位に就いたものだ。支部長に就任してから二年が経過しているが、使いでいいなんて話は一度たりとも聞いたことがない。今までの不眠不休活動を考えると恐ろしいくらいに楽な待遇だ。こんなぬるま湯のような生活を続けていたら人間駄目になってしまうではないか。

 ふむ、と三善は考え、出られそうなら出てしまおうと考えた。どうせ別の支部長が擁立されるのは大分あとになる。少なくとも、この『塩化』の件が片付くまでは体制の変更はあり得ない。

「姫良」

 突然七緒がその名を呼んだ。大司教就任以降、彼は努めて「猊下」と呼んでいたのに、一体どうしたものだろう。三善が振り返ると、

「無理すんなよ」

 彼は一言、そのように言い放った。

「無理……は、充分しているけど」

「そうじゃなくて。お前はこの件で、今まで以上に悪く言われると思う。お前は変なところで几帳面だから、全部受け止めようとするだろ。それは絶対無理だ。だから、」

 彼の言わんとすることがなんとなく理解でき、三善は納得した様子で二三度首を動かした。まさか彼にまで心配されるとは思っていなかった。半ば苦笑しつつ、

「そのときはまた一緒に遊んでくれると嬉しい。神楽と遊ぶの、好きなんだ」

 と敢えて茶化しておくことにした。

「それにしても、最近胃の調子が悪いんだよな……なんか気持ち悪くて」

 三善はそう言いながら、ゆっくりと立ち上がろうとする。しかし、結論から言うとそれは叶わなかった。突然胃の中が大きく回転したような感覚が襲い、三善は慌ててタオルを口にあてがう。

 その様子に気づかない神楽ではない。

 座っていろ、と七緒が言いかけたその時、三善の様子が急変した。

 突然口元を押さえたかと思うと、背筋がぶるりと震える。ぐらついた身体を左手で支えようとするが、その前に胃の中のものを地面に全てぶちまけてしまった。

「っ……、」

 三善はまだ苦しげに呻いている。肩で息をしながら、まだ嘔吐は続く。地面に水を打つ音だけが響いている。

「姫良、」

 神楽が背中を擦ってやると、ほんの少しだけ落ち着いたらしく、三善の睫毛が静かに震えた。

 神楽は近くにいた職員へ声をかけ、帝都を呼ぶように言った。それから吐瀉物処理用の道具と塩素系漂白剤を用意し、処理が終わるまでは可能な限り人を近づけないように指示を出す。

 職員が慌てて支部へ戻ったのを確認し、それから神楽は自分が今まで首に巻いていたマフラーを外す。それを吐瀉物の上に被せ少しでも乾燥を遅らせるようにすると、少し離れたところにあるベンチに三善を座らせた。

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