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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
5.暴食の承和の楔 [version:α]
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第二章 5

 その瞬間、橘の身体が白くまばゆい光に包まれた。鮮烈な光に思わず目を細めると、スラリと長く伸びた棒状の何かが彼の目の前に姿を現す。橘がためらいがちにそれに触れると、独特のプラズマが指先にまとわりつくようだった。しかし、決して嫌な感じではない。むしろ優しさを孕んでいる。

 徐々に光が薄れ、肉眼でも状態が確認できるようになる。

 橘の手には白い色をした翼のモチーフの杖が握られていた。その正体はこの場にいる誰もが知っているものだった。

 見間違うはずがない。それは紛れもなく『十二使徒』が保持するアトリビュートだ。

 その奇蹟を間近で見たジェイは思わず目をきらきらと輝かせ、感嘆の声を上げている。

「きれい……」

 それとは対照的に、アンデレはその横で数値を取り、黙々と集計している。そしてジョンに記録内容を見せ検算を要求した。ジョンはそれをじっくりと眺め、三回ほど検算を繰り返すと、「合っている」と突き返す。今度はそれをうっとりとしているジェイに突きつけ、

「室長、仕事してくれ」

 とアンデレらしからぬきつい一言をつきつけた。

 彼は普段ちゃらんぽらんとしていることが多いのだが、こういうときだけはちゃんと働く。もちろんそれは『釈義』に関わることだから、というのもあるが、単純に科学研のトップに君臨する者としてのけじめでもあった。

 そんな訳で「お前に言われたくないランキング」上位にランクインするアンデレに叱られたジェイは、ぶつぶつと文句を言いながら記録表に目を落とす。

「仕事しろだなんて、アンディにだけは言われたくないな……。うん、これはちゃんと『釈義』だね」

 しかし、とジェイは唸り声を上げる。「ブランク一種と『イスカリオテのユダ』、ねぇ。実に珍しいタイプだ」

 出力された『釈義』の数値だけを見れば他のプロフェットとさほど変わりない。しかし、保有する『釈義』が一種類だけというのはプロフェットとしては致命的である。あくまで『十二使徒』の釈義は称号だ。となると、それを立証できる能力を持っているはずなのだが――。

 ジェイはふむ、と考え、三善に声をかけた。

「猊下、ちょっと相談!」

「ああ、はいはい」

 三善がジェイの元まで駆け寄ると、彼女は三善に先ほどの数値表を開示する。三善もその内容に思わず顔をしかめてしまった。

 頭をよぎるは、昨日ジョンが三善へ見せた文献の内容である。

 ――まさかとは思うが、このブランクに当てはまる能力は『塩化』ではないだろうか。

 そう思わざるを得なかった。三善はジェイに何かを耳打ちすると、彼女はゆっくりと首を縦に動かした。そして、未だぼんやりとしている橘へ声をかける。

「タチバナ君、それを使ってなにかできないかなぁ」

「え、なにかって?」

 いきなりの無茶振りだ。どうすればいいですか、とおろおろしながら三善に意見を求めると、当の三善はあまりもののペットボトルを壁際に立てて並べているところであった。

「タチバナ、これが的だ。ちょっと狙って振ってみてよ」

「振る……?」

「よく子供向けのアニメにあるだろ。魔法少女っぽい感じに、何卒何卒」

 三善が半分笑いながら言うものだから、橘は思わず周知のあまり顔が赤くなった。はっとして周囲へ目を向けると、実の姉が微笑ましいと言わんばかりにうんうんと頷いている。

「そういえば橘の将来の夢は魔法使いだったわね……。ようやく夢が叶って、お姉ちゃん嬉しい」

「それは子供(ガキ)の頃の話だろ! ツッコミ不在とかやめてくれよ!」

 そう、全てはこの杖が悪いのだ。アトリビュートだか何だか知らないが、その辺のメルヘン世界に出てきそうな翼モチーフの杖なんか出るから悪い。

 顔を真っ赤にしながら、橘は怒号を飛ばす。

「姉ちゃんのっ、」

 橘は杖を大きく振りかぶる。刹那、釈義独特のプラズマが走ったが、当の本人は全く気が付いていなかった。

「センセのっ、」

 周囲の空気が変わる。妙に聖気が濃くなったのだ。今回三善は特になにもしていないし、三善の聖気に比べたらまだ生易しい感覚がある。

「バカぁっ!」

 橘らしくない発言と同時に勢いよく振りかざした杖から、何か出た。

 白い光の柱だった。それは猛スピードで並べたペットボトルめがけて飛んで行き、ついには倉庫の壁すらもぶち抜いていく。

 ずん、と地響きがした。

 砕け散ったコンクリートの壁の向こうには、しんしんと雪が降り積もっている。外は恐ろしいほどに静かだ。だが、その轟音に目を覚ましたのだろう。近くに見える宿舎の明かりがぽつぽつと点灯し始めた。これ以上派手な音を立てれば、間違いなくご近所から苦情が殺到する。

 橘は羞恥のあまり肩をぷるぷると震わせながら、ぽっかりと空いた外壁を睨めつけていた。喘鳴交じりに額の汗を拭うと、するりと握りしめていた杖が滑り落ちる。

 その瞬間、橘の腰が抜けた。

「おーおー。初めてにしてはまぁ、上出来じゃないか」

 そんな光景を目の当たりにし、ジョンが遠くで拍手していた。「だが、その能力はちょっとまずいな」

「え?」

 肩を上下させる橘の目の前で、三善はその白い閃光の軌跡を眺めていた。床ごとくりぬいていったその軌跡には、本来使っていた木材の質感など一切残っていない。

 ゆっくりとその場にしゃがんだ三善は、抉られた軌跡を指でなぞる。雪のように白く細やかな粉が指先に付着した。

「塩だ」

 そして三善は呟いた。「ブラザー・ジョン。予想通りです」

 アンデレがペトリ皿を片手にやってきて、その白い粉を採取する。彼はルーペでその結晶の形をじっくりと眺めると、三善の発言を肯定した。

「うん、こりゃあ確かに塩だ。間違いない」

「他のプロフェットに『塩化』の能力を持つ者はいましたか?」

 三善が問うと、ジョンは首を横に振る。

「いいや。『灰化』なら身近にひとりいるが、『塩化』はない」

「ですよね」

 前例通りだ、と三善が呟いたところで、橘が不安そうな様子で尋ねた。

「俺の能力……駄目、なんでしょうか」

「いや、」

 それにはジェイがすぐに否定した。「君の場合前例がないだけだ。能力にいいも悪いもないし、それは君自身の個性だ。でも、これをどう認定させればいいんだろう。普通なら物質転換だから化学系なんだろうけど……」

「系統はホセの第一釈義に似ていますね。特殊系の括りにするのが一番正確ではないですか」

 三善の言葉に、のんびりとやってきたジョンが首を横に振る。

「特殊系の認定はなるべく避けた方がいい」

 そして、橘の頭を鷲掴みにし、乱暴に撫でまわした。単純に安心させようという思いからそうしているのだろうが、その図体でそんなに力一杯頭を撫でるとなると――逆に威圧されているような気がするのは気のせいだろうか。そのあたりについては、三善は敢えて触れないでおくことにした。

「一度特殊系に認定されると、有事の際に真っ先に前線に連れて行かれる。こいつには荷が重いだろ」

「有事?」

 橘が怪訝そうな表情を浮かべたので、ジョンはさらに補足してやった。

「プロフェットの中にも、能力の優劣で階級がある。過去に特殊系に認定されたのはヨハネスとホセの二人だけだが、あいつらは『十字軍遠征』の際に最前線に連れていかれ、強制的に人を殺める役目を担わされていた。つまりは、そういうこと。誰よりも地獄に近い人間兵器。それが特殊系釈義の能力者だ。ゆえに特殊系認定は避けるべき」

 それはプロフェットが能力を喪失するまで永遠に背負ってゆく罪だ。本来聖職者が行うべきではないとされている殺生を、彼らは嫌でもこなさなければならない。

 ふと三善は先日のヨハンの言葉を思い出し、ようやくその意味を理解した。

 ホセが「生きながらにして殉教している」ということ。既にあの身体は地獄行きなのだと本人が皮肉っているのだ。

 彼が『喪神術』を会得しているのにはそういう意味があったのだ。

 彼の中にはそもそも救ってくれる神などいなかった。『釈義』を行使するたびに、神から見放されていく虚無感を彼はひとり噛みしめていくしかない。あのひとはひとりきりで戦うために、神なしでいられるようにあの術を覚えたのかもしれない。

 だから、あんなにも悲しそうな顔を――。

 三善は目を細め、こみ上げてくる『なにか』に打ち勝とうと、そっと息を殺した。


***


 橘が疲労のあまり再起不能となったため、この日は一旦お開きとなった。科学研三人衆は明日のリーナの検査に向け準備をすると言い医務室へ戻っていった。ならば自分も、と言いかけた三善だったが、なぜか全員から「寝ろ」と言われてしまったので、しぶしぶ橘と共に宿舎に戻る羽目となった。

 動けなくなった橘を背におぶり、三善は宿舎へ歩き出す。

 橘はすでにうたた寝を始めていた。さすがに成人間近の少年を背負うのはかなりきつい。こういうとき、帯刀のように剛力となる能力を持っていればよかったのに、と三善は思う。

 橘の部屋は、三善の部屋のすぐ近くにある。

 部屋の戸を開け、橘の身体をベッドに降ろすと布団が汚れないよう履きっぱなしになっていた靴を脱がしてやった。橘は死んだように深い眠りについている。胸のあたりが微かに上下しているのを見て、ようやく生きているのだと判別できるくらいに穏やかな眠りだった。

 三善は彼に布団をかけてやり、橘の部屋を後にした。

 そういえば、三善自身も初めて釈義を使った際は疲労でしばらく動けなかったということを思い出す。あの時は今の自分同様、ケファに背負われて自室まで戻ったのだ。

 懐かしいような、なんとも言えない気持ちになりながら自室に戻ると、今まで着ていた聖職衣をその場に脱ぎ捨てた。楽な恰好に着替えようと部屋を見渡し――

「……なにこれ」

 そしてこの一言である。

 乱れたままのベッドの上になにか置いてあった。布団を直していないのはいつものことだが、この『なにか』は知らない。少なくとも自分のものではないし、朝の段階ではこんなものは存在しなかったはずである。

 一体誰が侵入したんだか、と三善はその『なにか』を持ち上げる。

 手書きの紙が大量に挟まったファイルだった。百科事典並みの厚さに戸惑いながら、三善は表紙をめくってみた。

「……これ、」

 丁寧な字で綴られたラテン語のメッセージが添えられていた。この字は見覚えがある。

『神を喪うにあたり、答えは自分で見つけること』

 三善は思わず泣きそうになった。昨日の今日でまさかここまで用意したとでも言うのだろうか。自分の我儘に付き合ってくれるのか。

 一体どういう表情を浮かべたらいいのか分からない。

ただ三善は、震える声で呟くしかできなかった。

「……ありがとう、親父」

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